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2000記念っていうか1999のことかきてぇ


  もう形骸化してしまった慣習だが、踏んでしまったから書こう。
なんてな、ホントは999の時に書こうと思ってたんだけどね、てへへ。
んで、2000である。ここまでくるのに半年かかった。まあ、そのうち
の40%位は俺が踏んでるのは確かだとしても、嬉しい、めでたい。来てく
れた人の何割かが俺の文章を読んでくれている。幸せだよ。感涙。
 なんと、来年は2000年である。後二年では木星に有人探査船がたどり
着くことは、とてもできそうにない。っていうか、火星はよ行けっちゅーの。
 
 僕にとって、1999という年はやはり特別な意味を持つ。まあ、今じゃ
ホント笑い話ではあるが、「恐怖の大王」が落ちてくる年のはず、だからで
ある。
 僕らが子供だった頃、「ノストラダムスの大予言」はまだブームの余波を
残していて、充分「常識」であった。みんなが知っていて、未来に思いをは
せたのだ。
 今考えてみると、高度経済成長の反省を考え始めた時代とぴったり合致し、
お約束の、「我々は間違っていた」であり、非常に単純な意味での反省を分
かりやすく「天の意志(しかも何百年も前に決まっていた)」による裁き。
みたいなもので、時代背景と、説得力、そして、20年後の世紀末という、
近いわりには危機感のない舞台を得て、大いに盛り上がったのである。
 70年代は反省の時代であった。矛盾が噴出し、未来幻想が砕かれる、SF
の世界から、10年を経て、ようやく時代が追いついて、そんな破滅的絵物
語を次々に発表、「鉄腕アトムの未来」は変革していった。
 それから時代は変わった。僕たちのモラル、価値観、常識は、日毎夜毎に書
き換えられ、そして、生きている。

 1999年。こう書かれたカレンダーが、ばんばん書店に並んでるのは、何か
悪い冗談のように感じた。というか「どきどき」したのである。間違いなく僕は、
期待に打ち震えたのだ。
 7月。後1ヶ月ちょいである。ノストラダムスの「あの」予言。ほら、いま一
太郎でも一発変換できた。この名前、そして予言は日本人の心にしっかりと刻み
つけられているのである。
「予言者は予言が当たるまで信用されず、当たったとたんに無価値になる。」
という言葉がありながらも、私たちは明日を気にして、何かにすがる。朝のテレビ
で各局がこぞって星占いをやってるのなんて異常としか思えないが、それが常識なん
である。それが、「現代」なのだ。
 「よく分からないけど当たらない」と僕たちはノストラダムスを片付け始めている。
もちろん今になってみれば彼が本当にそんな予言をしたかどうかさえ、定かじゃない。
終末騒ぎは999年にもあったというし、日本だって、末法思想が世を席巻したことが
ある。
 ただ、そう予言されている時代に居合わせるというのは、並々ならない幸運じゃな
いかと思う。もちろん、戦争に居合わせて「この世の終わり」に直面した人たちから
すれば不謹慎だろうけども、今、僕たちは繁栄のただ中にいる。これを一瞬で破壊す
る物、というのはどんなことなんだろう。
 恐怖の大王って何だろう?
 そう、僕はやっぱり想像しちゃうんである、待っちゃっているんである。
 あなたは笑うかい?
 だってまだおきてないんだよ?わらっちゃっていいのかい?うひひひひ。
 現在、1999年に何かがおきると信じている人は、実は少なくないんじゃないかと
思っている。新興宗教の何割かは、ノストラダムスに便乗して力を増やしてきたからだ。
 人は奇跡と超自然にあこがれる生き物なんだ。自分は何にもしなくても、変化が起き
る、おきてほしいと、望む生き物なんだ。何かでかいことおきてほしい、面白いことお
きねぇかな、と心の中で誰もが囁いている。
「世界が破滅することを警告する掲示板」という物が実在する。
 僕は時たまそこを覗くんだけど、肯定派は夢みたいなことばっかり言ってる。否定派
はそれの揚げ足取りばっかりだ。でもね、面白い意見があったんだよ。ばりばりの否定派
さんの意見だけどね、「おきる可能性はこれっぽっちもないが、全世界が破滅するような
ことがあるとしたら、それはそれで、見てみたい」
 これは非常に正直な言葉だと思うよ。そして僕はそういう破滅なら、巻き込まれて死ん
でみたいと思うんだ。
 こういう話をふっかけると(だからオタクと言われるんだ、俺は)「それでも生き残る!」
って力一杯力説する人がいるんだけど、そういう人たちも、すでに仮定として「破滅する」
という現象を想像できちゃうんだから、終末思想という物は、僕たちの根底に刻み込まれた
物であるといえるよね。
 本当は僕たちの根底に、「世界が終わる」という恐れは常にあるんだ。それは種族の記憶
とか、そういう曖昧な物じゃない。事実なんだよ。「核戦争」だ。
 人類が始まって一万年。こんなことを体験している人たちは、いないぜ。
 昨日までの生活が、一瞬にしてなくなってしまうことを僕たちは知っているんだよ。そん
なことあるわけないじゃないかとは、言えないはずだよね。地球が丸くて、僕らの反対側に
人が生活していることを、僕らは常識として知っている。そういった「体感できない常識」
の一つに、「世界が終わる」というのは間違いなくあるんだ。それは最近はやりの自然環境
による緩慢な死、なんかではなく、ある日突然ふりかかっる可能性が、確実にあるものなんだよ。
 確かにこんなことを現代に話すには、ちとふるい。だけど、なくなったとは、誰もいって
ないんだ。
 あ、いっとくけど、だからノストラダムスは当たるんだとか、そーゆーことを言いたいん
じゃないんですわ。ただね、こーなんちゅーか、聖書の世界みたいに天使が来てビガビガッ!
っていうのの、何倍かは確率のある終末の光景ってのをビジョンとして提出できる時代なの
よね、今は。
 ぶっちゃけた話、世界の終わりってあるのかも?という、非常に淡い期待を抱いてしまって
いるんですわ、僕は。んで、その幻想期日を1999年、七の月に決めているのですよ。
 僕の中に、ひょっとしたらその時には何かが起こる、という期待がある、不安がある。それ
は実はガキの幻想なんだ。大人になったら、核ミサイルが見えなくなるとか、そういうことじ
ゃない。世界の終末を夢見ることに、いったんは区切りをつけようと思っている期日なんだよ。
 今更子供ぶる年じゃないけど、「恐怖の大王」はカリメロの殻みたいに、僕の中の子供の部分
の一つで、心に引っかかっているものなんだ。 8月になったときに、僕は子供の頃からの幻想か
ら一つ解放されるんだ。
 僕のなかで確実に何かが終わり、変化する。まあ、こーゆーことはいっぱいあったけどね、
期日が決まってるっていうのは、あまりない、貴重な体験なのよね。
 だからこそ、期日前に書いておきたかったんだ。
 二ヶ月後、またこのテーマで雑文を書きたい。その時の変化ってのは、面白いと思うな。
どーだろね?


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