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巨大なもの
教室の外に広がる山を見て、ふとこう思った。
「山割れていきなり怪獣出てきたら、どーなっかなー」
ちなみに、中学でも、高校でも、こう思っていた。
そして、30がすでに遠い未来でない現在、
東京のビル(池袋あたりが、建物の高低のバランスとれてていい感じ)
が夕闇に染まっているのを見上げて、「ここに怪獣立ってたら、いい光景だなー」
と道ばたで立ち止まって空想している自分がいる。
そして、こんな気持ちをずうっと引きずっている人たちが、今、
まだたくさんいることを、僕は知っている。
巨大なものが、動く。それに畏怖を感じずにはいられない。
一番身近なもので、船なのかな? それ以外は、あんまり近くでみれないものね。
山のような建造物が、ずずっと動く。それはまさに、「力の構図」だよね。
圧倒的な重量感、そして内包している力の象徴。
僕の場合、船を見ていると言うよりも、巨大なものが動くって言う感じで見ているよ。
もちろん頭の中では、怪獣に変換させてますね、ほぼ間違いなく。
巨大なものを動かす。僕達の世代は、それに憧れつつも、
突っ込みを入れずにはいられない世代だ。そして理屈を求める世代なんである。
「平成ガメラ」
「平成ウルトラマン」
「エヴァンゲリオン」
「ジャイアントロボ」
かって、ウルトラマンに、ゴジラに熱狂し、ちょっぴり冷め、
オタクぶった理屈を付けて否定してから、それをあえて押さえ込んで処理して、
「映像」にした作品群だ。
※注:「ゴジラ」が抜けてるのは、「理屈」に目をつぶってるか、気がついてないからね。
「ゴジラは消えました、代わりにキングギドラが現れました」じゃねーってよ。
上に上げた作品は、「愛」に満ちている。「巨大なものに対する偏愛」に。
僕らは、ビルを見上げる。そして感嘆の声を上げる。その後、そのうちの何パーセント
かの者が思うのだ。「これ動いたらどんなふうになるんだろ」とね。
さすがに僕達はもう子供じゃない、怪獣なんてこの世にいないのは知っているし、
重力が、僕達のような形を保ったまま、17メートルの巨人とか、50メートルのロボッ
トとかをこの地上に存在させないことも、そして、この星にそんな生物がいないことも、
知っている。
しかし、しかしですよ。巨人の伝説、モアイ、スフィンクス、山形の草履、弁慶の伝説、
ダロス、テュポーン、僕達は大昔から想像してるんだ。山も一またぎする、巨人の存在を
ね。そして、現代の作家達はその映像を現実の、今僕らが生きているこの空間に、巨人を
立たせてみたいと、熱望するんだ。
「科学空想特撮番組」ウルトラマンは、ゴジラはこの言葉でこの世に出現したんだ。
大自然を、宇宙の広大さを、そして人類の罪を具象化する、巨大な者達。それらの生き物
が、そして未知の存在が、僕達の生活の誇りであり、象徴である、都市を破壊する。そう
いったテーマとは別にね、感じるんだよね。巨大な生き物になって、街をぶっこわしてみ
たい。現実や、日常を、この手で壊してみたい。
その憧れと、暗い欲望。僕達は、大人の作り出すそういう映像を見て、育った。
そして何人かのこだわりの映像作家を産むにいたり、「分かっているファン」を産んだ。
・・・・・うーんなんか前ふりが長いな。ようするに、「現在は巨大な者を巨大と認識さ
せるような映像テクニックをかって番組の視聴者だった者達が、産みだし、更新し、そし
て高度に洗練されつつある」ってことなんだよ。
そして、「オタク」と一括りにされちゃうかもしれないけど、映像作家の情熱とこだわ
りに、拍手を向ける人たちもいっぱいいるんだよね。
そして、このコラムの本編となる、「リモートコントロール・ダンディー」という、
1本のソフトの紹介をするよ。
今までの僕達は、あくまで「受け手」にすぎなかった。
アニメーションであれ、特撮であれ、巨大な者を表現し、この世に現すことが出来るのは、
限られた人間だけだそしてその仕事はものすごい労力のいる仕事だ。そして地味な作業だ。
でも、僕達は頭の中で考えてみたことはないだろうか?
巨大な者がぶつかり合う、自分だけの映像を。
模型やおもちゃを見上げながら、ポーズをつけて、頭の中で、(時には口に出して)擬
音を発し、ロボット達のおこす幻の風を感じたことがないだろうか?
その、外から見ればむなしい、年齢が年齢なだけに、ちとヤバイ、その遊びが、いま、
一段深いところでやることが出来るゲームが発売されたのである。
分類で行けば、「鉄人28号シュミレーター」と言うことになるだろうか?
ロボットを、そとから、下から見上げて操縦する。子供の頃に考えた鉄人の操縦方法と
同じ、右足と左足を交互に動かして歩くという、あのスタイルなんだ。操作は割と複雑な
のに、出来ることと言ったら悲しいほど少ない、ホントに戦うための動作しかできない。
そして、ポリゴンで再現された、箱庭都市のバトルフィールド。
ポリゴンってすごいね。テレビの先に、かなり単純化されてはいても、きちんと空間と、
法則があるんだよ。プログラマーさんと、それをシェイプしてこだわって作り上げた映像
作家さんには惜しみない拍手を送るよ。
特撮の舞台を、僕達は歩くことが出来るんだ。
そして現れる怪ロボット。プレーヤーである僕は、えっちらおっちらロボを動かして、
怪ロボットに自分のロボを近づけさせる。もちろん、ロボに踏まれたり、倒れてくるのに
巻き込まれないように、ちょろちょろ足下を走り回るんだ。
そして、そこから見守るロボット同士の戦い!
すごいよ、ホント。すごい。ビルの谷間にカメラを固定して、あるいは穴を掘ってそこ
にカメラをつけて見上げさせた視点。
それがここにあるんだ。
巨大な者達がぶつかり合う映像を生で見ている興奮が、ここにあるよ。
このゲームをやって気がついたんだけど、ウルトラマンの戦いを見ている僕の心にはさ、
K−1見ている時と違って、「ガード上げろー」とか、「今そこが空いてるー」とか、そ
ういう思考は沸かないんだね。ウルトラマンと怪獣達のダイナミックなどつき合いを、手
に汗握ってみてるだけなんだ。このゲームもそう、格闘ゲームのぎりぎりの戦いという等
身大さは、悲しいほどなくって、クレーンの鉄球がビル壊すような、豪快さと、もどかし
さに満ちている。
怪獣や横山光輝の描いていたロボットって、なんかどこか自分の言うことを聞いてくれ
なさそうな、それだからこその感情移入ってのを、このゲームはうまく再現している。
ポリゴンで描かれたセット、そして近づいてくる相手役、僕は監督権観客、そしてアクターとして、
物語を演じるべく、ロボを動かし、「絵」を作って行くんだよね。
この、偶然と必然のない交ぜとなった、映像がたまらないんだ。
今のところ僕の一番のお気に入りは、二体のロボットに立ち向かうっていう絵。
怪ロボットの狙う発電所を背にして、後退の出来ない戦い。横をすり抜けようとするロ
ボットをフックでなぎ倒したその瞬間!・・・・・・ビデオキャプチャーが欲しいと初め
て思ったよ。
このゲームそう言うところはホントに最高なんだけど、難点があるんだ。
それはね、「バランスがとれてない」んだ。このゲームは、それこそ世代を越えた楽しさ
がある。ウルトラマンショーを親子で見る時代だ。かっての、特撮の視聴者だった、40
代後半の人達だって、充分ターゲットに狙えると思う。それなのに、バランスがちと悪い
んだ。動かしてるだけじゃ駄目、狙ったとおり、勝つために戦わなくちゃならない。それ
なのに敵ロボットのアルゴリズム、攻撃方法とも稚拙で大理不尽なんだ。
有り余るやる気があれば、それは越えられるだろう。でもね、これは「特撮が好きな」すべての
人にやってもらいたいゲームだ。ゲームをゲームとして捉え、クリアーを目的とする遊び方をする
ゲームじゃないはずなんだよ。
バイオハザードを買った人はいっぱいいた。でも、難しくて投げ出した人も多かったと
思う。いまやゲームは、ゲーマーだけの物じゃない。特にこのゲームは「特撮好きで、なおかつ
ゲーム好き」なんていう、非常に厳しめの所にストライクゾーンを絞り込むゲームじゃないはずだ。
敵のアルゴリズムを改良して、なおかつ難易度を下げたゲームを発売するべきだと思う。
このゲームは、今までクリエイター達が憧れ、作り得なかった物に対して一つの答えを
出してくれた。需要が多様化する時代、このゲームという柳の下に、素晴らしいドジョウ
が来てくれるかもしれない。
いい時代になったもんだと、僕はこのゲームをやっていて、思ったよ。