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卒論こぼれ話
川端康成の「浅草紅団」
これが僕の卒論に選んだ小説である。
毎日毎日川端が浅草に通って、拾い集めたような(実際歩いた)
変な、しかし美しい小説である。
旅行者が「とうてい知りっこない浅草の底」を垣間見る気分になる、
情景と、エピソード
それは、「刃物の匂いのする美しさ」ともいうべきものだったりするのだが、
これはそのうち許可をもらって、ホームページにアップしたいので、またこんど
今回は、卒論に使えなかった、一つのお話を紹介したい。
「出産神聖」という題を付けられた、物語である。
ある小さな記事のこと
子供を出産した女が、ある理由で育てられず、
子供のできなかった夫婦にその子を、あげる。
その子はその事実を知らず、すくすくと育つ。
その子が五歳になったとき、元の女が、「やっぱり返してくれ」ということになる。
生みの親と、育ての親。二人とも、我が子のために、必死だ。
話し合いはつかず、一つの方法で決めることになる。
「子供に目隠しをさせ、部屋の隅に座っている、
左右どちらかの母親にたどりつかせる」
というものだ。
・・・・・子供は、産みの親の元へ歩く。
「やっぱりわかるんやなぁ」
子供は見知らぬ女に抱かれて、泣き出す。
「かあちゃん、かあちゃん」
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この地方新聞の一記事を、主人公は複雑な思いで読む。
主人公もまた、産みの親に会いに行くのであった。
主人公の家は旧家で、望まれぬ結婚で産まれた子供であった。
主人公が生まれて、すぐに父が死に、主人公は母から引き離され、
祖父母の家で育つ。
そして、主人公の祖父が死に、東京の大学にでるとき、
母の住所を初めて知らされたのだ。
母は、小学校の教師という仕事を辞め、下宿屋を経営しているという。
自分の元から離れていった、母。何の記憶もない、母。
理屈ではわかるが、「捨てられた」という感情を拭うことは、できない。
母は下宿屋の女将をしていた。
そこで下宿している学生への母の態度に、主人公は強い嫌悪感を覚える。
母親のような、その接し方。
嫌悪感は、そのまま、
母の愛を資格もないのに受けている学生への、嫉妬だ。
冷たさを装い、主人公は母に会う。
母のあまりの喜びの姿に、主人公はとまどう。
母は、自分のことを片時も忘れていなかった。
主人公が幼稚園の年頃には、保母となり、勉強をして、
教員の免許を取り、ちょうど息子の成長に合わせて、小学校の教師となった。
そして、それ以上の学校は女の身では無理なので、せめてと思い、
下宿屋を始めた。息子と同じくらいの、学生を相手にするために。
主人公の頑なな思いこみは、溶けていく。
主人公は母のところへ下宿をするようになる。
ある日、そこに、糸売りの娘がやってくる。名前は、弓子。
みすぼらしいかっこをして、「親方に無理矢理やらされてる、売らないと、
ぶたれる」
涙も交えての哀れっぽい話を語る。
足も傷だらけだ。浅草から歩いてきたのだ、無理もない。
同情した母は、糸をみんな買ってやる。
それからまたしばらくたって、主人公は浅草で、弓子を見つける。
洋装、断髪、化粧をした顔。
この前とは似ても似つかない、不良少女の姿。
母の思いを裏切られて、主人公は弓子を詰問する。
弓子は白状をする。
親方の話は、本当のこと
自分は孤児で、つらくて親方から逃げてきた。
習い覚えたのは、みすぼらしさの演出で糸を売ること。
主人公は弓子の孤児の心に強く惹かれて、彼女を引き取る。
弓子が主人公の子供を宿す。
そのとき主人公は思うのだ。
「もう私は孤児ではないのだ。父親なのだ。家族を持ったのだ。
私は、みなしごではなくなったのだ」
そして、産声。
という話。
この話は川端の半生の面影を多く残す作品だ。
川端は、父、母とも物心つかないうちに死に別れ、
祖父母の家に引き取られる。
そして祖母も死に、目も見えず耳も遠い祖父と二人で住むという
孤独な少年時代を送る。
祖父と死に別れたのは16の時。
「葬式の名人」といわれる位に、彼の人生には人の死の影が、多かった。
親戚の家から学校を出て、東京の大学へ行くことになる。
川端は、そこで一人のカフェの女給を恋する。
結婚の約束をした川端は、しかし彼女は突然彼の元から消え去り、
行方をくらませてしまう。
再会したのは、数年経った、浅草のカフェ。
彼女は人のものとなり、けばけばしい化粧で、彼を迎える。
孤児と、実らなかった初恋。これが彼の作品の根底には、常にある。
川端の描く女たちは、可愛く、儚げで、もろく、怖い、そしてたどり着けない。
手に入らない。誰のものにも、ならないし、なれない。
ところが、この作品では、弓子と主人公は、結ばれている。
川端は、このころ、結婚をしているのだ。
そしてこの作品を、書いた。
自分ではどうにもならないこと、どうにかしたいことを作品に託して、
作品の中で解決させ、どうにか自分の人生の指標の一つにするというのは、
物書きである人には、良くあることだ。
まがりなりにも物書きである僕にも経験がある。
頭の中の結論にすぎないけど、それでも人生への取り組み方という
漠然としたものに光が射すような、その瞬間がある。
孤児であるというどうにもできない自らの人生を、新たな光と、事実により、
再構築し、希望の人生へシフトさせる。この作品は、
そういう作品であったのではないだろうか。
しかし、川端は結局婦人との間に子をもうけることは、なかった。
そういう厳然とした事実がある。
この作品も、未発表の原稿の中からのものなのである。
僕はやはり、この作品を「悲しい」と感じる。
彼の孤独の影は、彼の願いのようには、この作品の想いのようには、
吹き払われることは、なかった。
幼少の頃とは違い、成人した彼が孤独であったとは思えない。
しかし、彼の魂に食い込んでいた孤独の影は、そして自殺で終わる彼の生涯は
結局、この希望と光をもたらす作品の結末を、非常な悲しさを持たせて、
僕に読まさせることとなった。
川端の作品は、悲しくて、美しい。
この作者と作品に出会えただけでも、僕の四年間は、無駄ではなかった。