「K」 1 「鈴本博士、来ましたよ。」  若い男性所員、鳴海の台詞は、私が朝から、いや、五年間待ちわびていたものだった。 「そう、鳴海君、先に行って下さい、私もすぐにいくわ。」  心とは裏腹の言葉。私は平静を装い、言葉にわざと冷たい調子を混ぜて、机の上の書類を整理する。  視界の隅で鳴海が肩をすくめる仕草をしている。私を冷めた女だと評価を下した仕草。私は気が付かないふりをする。  鳴海の足音が遠ざかっていく。立ち上がり、鳴海の後を追い掛け、走っていきたい。私が一番最初にあれを目にしたい。私はその衝動を必死に押さえ、椅子に座ったままの姿勢を維持する。  衝動は鳴海の足音と共に去る。私の口から安堵のため息が漏れ、その時初めて自分の胸が高鳴っていることを自覚した。  私は机の引き出しから鏡を取り出す。化粧の少ない、冷たく取り澄ました顔が眼鏡ごしに鏡の向こうから私を見ている。  疲れて肉の落ちたきつい私の顔は、今はかすかに上気している。私の目の中に期待と興奮がある。いくら平静を装っていても、自分の顔が正直に心の本音を告白している。私が五年間待ち望んだものが今、この研究所の入口にある。  しかし、私は冷静でいなくてはいけない。私は自分に言聞かせ、心を落ち着かせようとする。そうでなければ私は仕事を続けられないのだから。  私は長く机の奥にしまったままの化粧道具を取り出し、鏡に向かった。自分の願望を他の所員に悟らせないための、顔を作り出すために・・・・・・・・。  私の名は鈴本静子。年齢は三十一。都内にある岸田人工知能研究所の所員だ。私がここに所属してから五年、研究所は、ついに大きなプロジェクトを開始させる。  西暦2028年4月6日、今日、この日をもって世界に類を見ないプロジェクトが、本格的に実施されるのだ。  この研究所の主題は、真の人工たる人間≠作り出すことにある。  世界の科学は進歩し、今や人工の「完璧な」人間の肉体というものを造ることが出来る。世の中に正式には発表されていないが、脳以外全て人工の体を持つ人もいるらしい。しかし未だ、「脳」だけは人間は造れない。  厳密にいえば脳も造ることが出来る。脳と同じかそれ以上の働きを持つ機械を造ることは出来る。しかしその機械は意識を持っていない。自我を持っていないのだ。その機械は刺激を受けなければ何もせず、問いかければデーターを吐き出す機械にすぎない。  生命を生命と足らしめるなにかが足りないのだ。一個の生命体として独立した意識を持つものがない。人間はまだこの生命の秘密を説き明かしていない。  自我に関するテストは現在も繰り返されている。たとえば、人間の腕を機械に代えて自我に関するテストをする。脚を代えて、もう一度。心臓を代えてもう一度・・・・・・・・。もちろん噂だ。しかしこれに類似した研究は実際に続けられていて、現在、我々の自我を保つ限界が脳とされている。この秘密を説き明かせれば、全ての体を機械に、幾つでも、何時でも造ることが出来る部品に代えることが出来る。その時、人間は不老不死を得ることが出来るのだ。  これら機械による人間の脳の人工化の他に、独自の脳を造る研究もすすめられている。独立した自我を持つ、人間の手による、新しい「完全な」人造人間の創造だ。  その実験の先端を行くのが私の所属する、岸田人工知能研究所なのだ。  機械そのものに自我をもたせるという方面の研究は、他のロボット研究に比べて遅れている。  必要ない。という見解が多いのだ。機械の人間に自我をもたせる。それは十九世紀の女流作家が作り上げたモンスター・フランケンシュタインを現代に蘇らせるということなのだ。人間はロボットの原型を考えた頃から、自らの作り上げたものに盲目的な恐怖心を持っている。  単純作業しか出来ない、ロボットと呼ぶにも値しない機械が人間の仕事を奪い、社会問題に発展したことが過去にはあった。ロボットに自我をもたせれば、人間が世界の支配者である現在の地位を脅かされ、取って代られるのではないかという恐怖は偽りではない。  最も人間らしい機械を作る。岸田研究所は、世間の関心を得ながらも、宗教関係者や倫理団体など一部の人々からは猛烈な反対を受けている。存続しているのは、日本で最も有力な倉門財団という後ろ盾があり、倉門財団に所属する倉門重工の一部門とされているからである。  有力な後ろ盾を持っていても、絶対的に「機械による自我」というテーマを突き詰める人々は少なく、仮定に基づく実験用ロボットを作るのに長い歳月がかかった。そして今日、世界発の人間的な℃タ験体ロボット三体がこの研究所に来るのだ。  わざと足を早めないように注意しながら、私は実験体が運ばれている部屋へ向かった。  私が部屋に入った時には、すでに他の所員たちが三体の実験体の収められているカプセルを中心に、がやがやと話をしていた。 「鈴本博士、こっちです。」  鳴海がドアの前の私を見付けて手を振る。   岸田人工知能研究所には現在、所長を含め四十人の所員と、数人の保安要員がいる。その中のうちの半分以上の人間がこの部屋にいるようだった。鳴海の方へ歩こうとする私の肩を誰かがたたく。振り向いた私の後に、同僚の笠森香が立っている。 「いよいよね、静子。」  香と私は大学から一緒の同期生だ。彼女の言葉には、私達の研究、五年間の感慨がこもっている。 「でも意外ね。」 「何が?」 「男に全然興味がなそうな静子が男性型の実験体を受け持つなんてね。おかげで私は女性型を受け持つことになっちゃった。私よりずっと美人に作られているんだもの、ちょっと面白くないわね。」  軽い口調の香の言葉に、私は内心の動揺を必死に押し隠し、言い返す言葉を探す。 「香、人を仙人か何かみたいな言い方しないでよ。女性型が美形なら男性型も期待できるわね。お互い頑張りましょう。」  無理に笑顔を作って香に向ける。香は私に軽く手を上げて、自分の受け持つ女性型実験体の方へ歩いていった。  私を呼ぶ声が聞こえる、声の方向には、私の担当する実験体を受け持つ他のスタッフが、みんなで私を見ている。 「カプセルをあけるには実験体責任者、鈴本博士のIDカードが必要なんですよ、早く来てください。」  焦れた鳴海の声。私はわざとゆっくりと自分の担当のカプセルへと近付いた。  自分の胸の鼓動が早くなるのがわかる。手が震えないように注意してカードを取り出し、スロットに差し込む。 「IDカード、確認。実験体、固体名を決定します。入力してください。」  無機質な合成音声がスロットの横のスピーカーから流れる。  緊張で私の手の平が汗ばんでいる。実験体の名を決めたのは私だ。音声入力装置を通して、初めて実験体に彼の名前を呼び掛けるのだ。 「ケイよ。アルファベットのK。あなたの名前はこの実験の間、ケイと固定します。」  私の声はかすかに震えていた。しかし、私の興奮を奇妙に思われることはないだろう。今や周りの全てのスタッフたちは、開かれつつあるカプセルに釘づけになっているのだ。 冷気をともなった水蒸気がカプセルの隙間から漏れ、私達の足元を抜けていく。  蓋が完全に開く。銀色のカプセルの中央に青白い肌の男性型実験体が横たわっている。  私達の見守るうちに、ケイと名の付けられた実験体は見る見る血色を取り戻していく。保存状態から活動状態へ、身体のなかの様々な装置が機能を発揮するために動きだしているのだ。  さっぱりした十人並みの顔。標準より多少いい程度のごく平凡な顔。実験体には極端な美形は不要だ。実験体の求めるのは人間臭さであって、造形の芸術ではない。  二十代前半の、優しそうな、整いすぎてはいない暖かい顔、私が求めた姿だ。私は彼を長く見つめすぎて、他の職員に不信感を与えないように苦労しなければならなかった。  カプセルに横たわるケイの姿。それは私が五年間望み、願った情景だった。私の胸の鼓動は自分の耳に聞こえるくらいに高鳴っていた。  ケイの目が、開く。瞳がゆっくりと見守る私達を見つめ、動く。  変化は急激だったった。無表情だった顔の、唇の両端が糸で引かれたように釣り上がるにつれ、他の顔の部品も動き、ケイの顔は明るい笑顔になる。 「こんにちは、私の名前はケイです。私は人間に最も近いロボットになるために、作られました。私の夢は、人間と友達になることです。」  発声器官の標準作動を待たないがさがさ声で、死人の肌そっくりの笑顔で、ケイは希望に満ちた言葉の羅列を口から発した。言葉そのものの発音は正しいが、前後の言葉の調子とは合わない独立したぶつ切りの台詞。  鳴海が胸を押さえたまま舌を出して、みんなの気持ちを代弁した。 「うげ。」  私達の前にいるのは、カプセルに入ったただの人形だった。なまじ人間そっくりの外見をしているだけに、まるで人体模型が不意に動きだしたような不気味さがある。  実験体のハードは完璧だが、この実験体のソフトはまだ赤子に等しいのだ。ケイの頭のなかの膨大なメモリー空間には現在、基本動作が少しだけ収められているにすぎない。私達、岸田人工知能研究所のスタッフが、人間の自然な動きとは何かをこれから学習させていくのだ。  ロボットは、どこまで人間に近くなるのが可能なのか?現在時点で、人間に最も近い最新鋭のハードを持ったロボットの、最も人間に近い「心」、ソフトウェアをを作るのが、この実験の目的なのだ。 「どうか・・・・・・・・しましたか?皆さんはどこか気分が悪そうだ。私の五感は何も不快なものを感じません。私の感覚器、何かとらえられないものがあるんでしょうか?」  問いかける顔、というのはケイの基本プログラムに入っていないらしい。能面のような無表情で、私達の顔に浮かぶかすかな嫌悪と恐怖の表情、鳴海の声から私達の現状に対する疑問を投げる。ケイのコンピューターは私達がケイの行動を不気味がっているという状況を考えられず、何か外的要因で、私達が不快な表情をしていると勘違いしたらしい。  ケイの質問に正確に答えて説明することも出来たが、私はそれをしなかった。ケイにはたくさんの学ぶ時間がある。彼はまだ何も知らない赤子なのだ。  私は自分を見る虚ろなケイの顔に向かって、子供に教えるように一言ずつ区切りながら話しかけた。 「ケイ、あなたの身体の機能はまだ平常レベルに達してないわ。そのカプセルの中で五分間、身体を外の環境に慣らすため、静かにしていなさい。」 「はい、博士。」  ケイはその蓋の開いたカプセルの中で唐突に眠りの体勢をとった。  彼は素直に私に答え、私の望んだとおりの行動をしてくれる。喜びの涙があふれそうになるのを他の所員に気付かれないように、あわてて隠す。  啓悟。と、眠りの姿勢をとった実験体のロボットに、私は心の中で彼の本当の名を呼び掛ける。ケイというのはあの人が自分で気に入っていたニックネームだった。  君塚啓悟。五年たった今でさえ、彼の名前は私の胸に痛みを運ぶ。強い憎しみと不思議な甘さをともなった奇妙な心の痛み。  私がまだ学生だった頃、啓悟と私は恋人だった。彼は、今になって思えばごく普通の人だったのかもしれない。しかし私のなかの彼は特別だったし、私の彼に対する想いは、本気だった。  啓悟は私ほどに、私を想っていてはいなかった。五年たった今、それがわかる。一緒にいても、私と彼の間には奇妙な心のずれがあった。私はその原因が、彼と私の間の愛が足りないせいだと思い、私は彼を強く想うように努力し、彼にも私への努力を求めた。そして彼の心は離れていったのだ。永遠に。私が最後に啓悟を見たのは、私の知らない女と腕を組んで街を歩く彼の後ろ姿だった。今では彼が何処にいて、何をしているのかも、わからない。  学生の時から、私には夢があった。機械に、心を与えること。まったく新しい生物≠この世に存在させること。  命をこの手で作り上げる。女なら、雌にならだれにでも出来る行為。私の研究の意欲は生物としての歪んだ欲求かもしれない。しかし私は命を生むのではなく、創造することを目標にしたのだ。  私の夢が方向性を変わらないまま性格を変えたのは、見知らぬ女と歩いていく啓悟のあの時の後ろ姿だった。  誰よりも信じ、愛していた人が私を裏切った。それは啓悟が人間だったからだ。私を愛したように、他の人間も愛することが可能だったからだ。人の心は私の思い通りには決して操れない。  ならば、私は心を創造しよう。人を愛することではなく、私を愛することを教え、私の理想こそ、自分の理想と考える心を創ろう。それはまさしく私の求める理想の恋人となるだろう。  私の真の目的は、カプセルに横たわる実験体・ケイを、私の理想の啓悟とすることなのだ。       だからこそ、私の本心を他の職員に知られてはいけないのだ。私の目的を知られれば私はこの職から解任されるだろう。ロボットを使う研究は膨大な資金が必要だ。今回の実験体は私に与えられた、最初で最後のチャンスなのだ。   2  ケイが研究所に来てから三日がたっていた。ケイも他の実験体同様、私達の作成した”人間”用のプログラムを基本回路に書き込みを完了し、身体の動きも不自然さが目立たなくなってきていた。  私の心には小さな苛立ちが生まれていた。原因はケイの調整状態にある。プログラムが円滑に作動しはじめた今でも、ケイの仕草は人間とかけ離れていて、感情表現の調整という次の段階に進めないのだ。  私が出社した頃にはケイはトレーニングルームにいる時間だった。  ケイは、トレーニングマシンの上にいた。今、ケイが行なっているのは室内歩行器による、肉体の調整だ。床にベルトコンベアーがあり、決められた速度で回転する。その上を走っているケイの身体にはいくつものセンサーが取り付けられており、ケイの作動状態を歩行器の横のモニターで鳴海がチェックしていた。  鳴海が部屋に入ってくる私を見付け、歩行器を止める。私はケイに手を上げ、挨拶をする。 「お早よう、ケイ。」  ケイは汗をかいていない。発汗によるものよりも、直接体温を下げたほうが効率的だし、コストが安くあがるからだ。  ケイの顔の変化はまだ突然だ。調整時の真剣な表情から、急激に、親しげな笑みへと、変わる。 「お早ようございます、鈴本博士。」  実験体の状況による擬似感情表現能力は、かなりの性能だ。彼らは、目、耳、鼻、口、他あらゆるセンサーで状況を収集し、最もふさわしいと思われる行動を選択、実行する。それにより、まるで心が命じているような仕草を行なうのだ。ケイの優しい笑顔は、時間、私のデーター、自分が今までしていたこと、など様々な環境から割り出された計算の結果だ。しかしその笑顔は、私に一瞬ケイが機械であることを忘れさせ、胸の鼓動を早まらせるほど魅力的な笑みだった。 「ずいぶん表情の変化がうまくなったわね。次の表情とのつなぎの表情をもう少し長くやってみた方がいいと思うわ。」 「はい、博士。」  従順にうなずくケイに、私はほほえみかける。ケイの後に鳴海が立ち、ケイの肩に手を置く。 「身体の扱いもずいぶん自然になってきたな。他のチームの実験体より成績がいいぞ。」 「ありがとうございます、鳴海さん。」  ケイが鳴海へ向けた声、表情、調子、全ては私に向けたものと同じだ。私の心に、ケイの性能に対する苛立ちが浮かぶのはこういう時だ。  ケイの表情の変化は、私達の作成したプログラムによるものだ。私達は自然な表情を実験体が表現できるよう、様々な状況を表情の要素とした。  表情のパターンの多様さよりも、表情を浮かべる状況の選択の要素に重点を置いたため、様々な状況に、不自然ではない表情を浮かべることが出来るが、表情そのものの数はそれほど多くない。  私に向けられたケイの笑みと同じものを、鳴海が受けている。私の心に浮かぶ苛立ちは明らかに嫉妬だ。  ケイの笑顔は私が作ったのだ。わずかに顔を右に傾け、緩やかな目を向け、口を強く引く笑顔。あの人の特徴を残した笑顔だ。私の心の中には、あの時の啓悟が私に微笑みかけてくれる。ケイは私の心の中にいる啓悟の鏡像なのだ。  私は自分の顔を無理に笑顔に変える。心に浮かんだ鳴海への嫉妬を隠す為に。ケイには出来ない芸当だ。 「今の笑顔はうまいわ、ケイ。状況と表情が一致していたわよ。自然な人の行動に見えるわ。」  再び同じ表情でケイは私に笑いかける。 「ありがとうございます、博士。」  鳴海が天をあおいで額に手をあてる。鳴海が呆れるのも無理はない、誉め言葉を聴くたびに同じ顔で同じ答えを向けているなんて、ボタンを押すたびに同じ動きをする玩具同然だ。  ケイは神妙な顔をしたまま私と鳴海を見ている。私達の仕草と表情で自分の機能が状況と合わないことを判断したのだ。基本プログラムではこの後、状況の整理のために質問をぶつけるようになっているのだが、実験期間中は私達がその機能を凍結させた。ケイがひとつの仕草をするたびに質問に答えていたら、ケイが人間になる時間など遠い未来になってしまう。  鳴海がケイの肩をたたいて話しかける。 「いいか、ケイ。人間てのはそう長い時間、同じ表情ではいられないんだ。いつまでもハイテンションだったり、まったく同じ笑顔を浮かべていたら不自然なんだよ。表情が同じになるような状況にあっても、しばらくしたらグレードを少し低くした表情を浮かべるようにするんだ。」 「はい、鳴海さん。こうですか。」  ケイの笑顔は唇に名残を止めるくらいになった。”微笑”だ。 「上出来だ。ケイ。」  微笑したままケイはうなずいた。  くだけた感じの鳴海の口調に、真剣に返事をするケイ。二人の会話はどこかユーモラスだ。  私や鳴海が話しかけるケイの反応はまだ高級な人形の域を出ていない。不自然な行動を一つづつ自然に見えるように矯正していく。そうすればケイはより人間に近く、そして私の理想の恋人に近付いてゆくのだ。  私達が設計した実験体の最も根本をささえる基本機能は”反射”だ。  怒り、悲しみ、喜び、そういった名のものは、心から生み出される感情≠セ。そういった様々なものがあるから、心があるのだと説明することも出来る。  私達の科学では未だ心を作ることは出来ない。「自分」という意識をもたない機械が心をもつことはありえない。人間は未だ自然の営み以外では命を生み出すことが出来ないのだ。  人間には心は作れない、しかし、心とはいったい何なのだろうか?  たとえばある人が怒っているとする。これは、状況から人の心が生み出す感情≠セ。  私達はなぜ彼が怒っているとわかるのだろう。それは彼の様々な仕草、表情などから割り出される結果、私達は彼が怒っていると、知るのだ。  感情を生み出すのは心だ。しかし心の存在を知るには、感情という表現が必要なのだ。他人は彼の仕草から、彼には感情が、そして心があることを知る。  私達はそこで一つの仮説を示す。  即ち、   『感情を表現する行動を全て精密に再現し、状況に応じてそれらを使う機械は、心があるように見えるのではないか?』  この仮説により作られた機械は真の意味での人間とは程遠い。私達の最終的な目標である、独立した一個の生命体を作るというものからは明らかに外れたものだ。   しかし、私達の仮説は世の中に受け入れられた。  真の人間を作ろうとする目標は、世の中から様々な反感に合い、摩擦を生んでいた。真の人工たる心を持つ人間というものは、それが人間の持つ夢の一つであるにもかかわらず、神への冒涜など、色々な理由を付けられて反対を受けていた。それはたぶん人間の中の、生命に対する恐れというものなのだろう。   だがそうした様々な社会の反感は、人間のように反応する機械を作ることに関しては、妥協を見せた。その機械は、どんなに人間のように見えても心を持たない機械であり、人間に近ければ近いほど、現代科学の表現能力の高さを証明する事になるからだ。  一見矛盾があるような理屈だが、世の中は肯定的に反応し、いくつもの企業が自らの技術を証明するため、この計画に参加を表明した。  ケイを含めた三体の実験体は、現代科学の結晶なのだ。内蔵は人間とは異なるが、外見は完璧に人間そのものだ。道ですれ違ったり、電車で乗り合わせても、彼らがロボットであることは誰も見破れないだろう。  しかし、一言話しかけられた瞬間に、実験体はその正体をばらしてしまう。反応が非人間的なのだ。表情や、仕草が人間そのものなのに、用いるタイミングや状況がずれている。予想もしなかった失敗だった。機械の選ぶタイミングは、「人間的な」タイミングと違うのだ。  実験体の根本的なプログラムは、反射だ。自らが置かれている環境、状況、他得られるデーターから主なものを取り出して、選択的に表情を選び、実行する。  はっきりしすぎているというのだろうか。実験体の浮かべる表情はストレートすぎるし、唐突すぎる。一つ一つの反応を人間的に近付けることも出来るが、時間がかかりすぎるし、ケイ達のメモリーはすぐにいっぱいになってしまう。矛盾も多くなるだろう。  三日目の午後に私達は感情表現の問題にわずかに光明を見いだした。  けさの鳴海の言葉が引き金になったのだ。 反射による行動に波を持たせるのだ。刺激による反応は、設定されたパターンより段階を落としたものにする。前に浮かべていた感情の名残を残した表情を浮かべさせる。  反応を「曖昧」にさせたのだ。状況により浮かべる表情というのがあまりにはっきりしすぎる実験体の反応を、ある程度弱めることにより人間のような反応になるのではないか。私達チームの提案は、その日のうちに取り入れられ、ロボット達の頭脳に書き込まれることになった。  私はこの日、ケイの調整状態を確認する作業を志願した。通常の勤務が終わった後に、当日の最終チェックとしての確認作業は、最初から予定には入っていた。しかし、ケイの現状は確認作業を本格化する段階ではないというチームの意見を、私の主張で今日からはじめるようにしたのだ。  鳴海が私の仕事を手伝うために残りたいというのを、断る為の口実を見付けだすのに苦労をした。 「確認作業は、私一人で十分です。彼のプログラムの基本を作ったのも、ケイに関する責任者も私です。ケイは私の五年間の仕事の結晶なんです。日々育っていく様子を私はぜひとも観察したいし、正確に状態を知っておきたい。私が残って作業をするのは私の意志だけれども、チームとして二人以上が確認作業をするのは能率的ではないと考えられます。」  かなりヒステリックな理屈だというのは自覚していた。しかし鳴海を初めとしたケイのチームは私に賛成してくれた。私の年令、外見、性別は彼らを同情混じりの納得を呼び起こすのにはうまい要素だった。  そして私は一日のうち数時間、私一人がケイを自由にする時間を得た。   後手に鍵を掛ける。  心臓が耳の奥で鳴っているのが分かる。息を止め、耳を澄まし、ケイと私がいるこの部屋の近くに人がいないのを確認する。  午後八時。確認作業の開始の時刻。今から二時間が私とケイに与えられた時間だ。 「ケイ、今から私のいうことを、よくきいてね。」 「はい、鈴本博士。」  ケイは私の言葉にあくまで従順にうなずく。私の命令を待っている。私の心臓が早くなっている。ケイに発する初めての私的な命令。私はこの命令を皮切りにいよいよケイを私の理想の男性へと変えるのだ。 「今、この部屋には、私とあなたしかいないわ。近くに人がいなくて、私が許可した場合は私のことを静子と呼びなさい。」 「はい、静子さん。」 「違うわ、ケイ。敬称を外しなさい。静子と、私を呼びなさい。」  あの人は私をそう呼んだのだから。 「はい、静子。これでいいですか?」 「いいわ。ケイ、今から私はあなたに定義付けをするわ。これは基本プログラムに組み込んで、私を静子と呼ぶ時に、最優先の命令としなさい。」 「はい、静子。」  私は大きく息を吸い込む。  そして、私は、言った。 「私を好きになりなさい。ケイ、あなたに、私を愛することを命じます。」 「はい、静子。」  即座に、応答は返ってきた。  私は期待をこめて、次のケイの行動を待った。しかし、返事をしたままケイはその姿勢を保ったまま、沈黙を守って私を見ているだけだった。 「ケイ?」 「なんですか?静子。」  私の心臓は興奮の名残を残して今も高鳴り、顔の温度は熱いままだ。五年、五年間この日を待ち続けたのだ。私は理想の恋人を手に入れた。しかし、私の必死の思いを受けとめたこのロボットは、私の命令を受け入れる以前とまったく変わらない状態で私を見ている。私の心に急激に疑惑と恐怖が沸き起こる。「ケイ、今あなたは私を愛しているわ。そうでしょ?」 「はい静子、私はあなた、鈴本静子を愛しています。」  答えは静かで、冷静だった。私は苛立ちと共にさらに質問をぶつけた。 「あなたは私を愛することになった。それがどういうことか、あなたはちゃんと理解しているの?」 「はい、私のスケール回路の順位は、すべて静子が最優先になりました。あなたは私にとって最も重要な対象であり、私はあなたと共にいることが、最も理想的な状態と考える事になります。」  私の心は幸福感であふれた。プログラムは正常だ。  実験体は固有の「価値観」というものをもっている。それぞれのチームが作ったプログラムにより、実験体は物の優劣を決める。  しかし、プログラムに書き込める量にはかぎりがある。”最も好む物”という定義くらいしか出来ない。実験体が好きな物に出会ったときに、最大限の感情表現をする。機械が実行する即物的な人間臭い行動は、見る者に共感と親しみを呼ぶだろう。  私の作ったケイのプログラムには恋や、愛情について通常より量を多めに組んである。チェックをしたものに不信を与えたかもしれないが、私が女性であることは有効なカモフラージュになった。そして断片的にプログラムをばらまいておいたのだ。  好物を作ることにより人間くさくするプログラム、その「好きになる」対象はあくまで物であるのが前提だ。しかし私の作ったプログラムは違うのだ。  『私を愛しなさい』この言葉が鍵となり、カモフラージュしたプログラムの中から入力してあったデーターが有機的に組み合わさり、私を愛するための、私の恋人になるためのプログラムを実行する。  プログラムは成功した。ケイは私という一人の人間を愛した。  ケイは私の物だ。ケイはこれから私の理想の恋人になるのだ。   私が造った啓悟の笑顔、ケイの感情表現プログラムの最大級の笑顔、それは私だけの物だ。 「ケイ、その笑顔は私だけに向けなさい。私に対していつも向ける笑顔はその笑顔、いいわね?」 「はい、静子。」  ケイの全てを独占したい、しかし現在、それはかなわぬ夢だ。彼は重要な研究対象だ。そして名義上はこの研究所の物なのだ。  他の所員に気付かれず、彼を独占するのだ。出来るはずだ。恋人同士は、お互いに人には知られる事のない秘密を共有するものだ。「ケイ、これからは私以外の女の人の肩をつかんではいけないわ。あなたは私にだけ肩を抱き、体を引き寄せることが出来る。いいわね?」 「はい、静子。」  私の心はもう止まらない。つぎつぎと命令が口から出る。うなずくケイの従順さが、愛しい。 「・・・・・・・・いいわね?」 「はい、静子。」 「・・・・・・・・いいわね?」 「はい、静子。」  一体、いくつのやりとりが交わされただろうか。条件を設定すればするほど不安になり、次の条件で補足する。悪循環だ。  私は熱に浮かされたようにケイに条件を与え続けた。  私を正気付かせたのは、腕時計のアラームだった。  今の時刻は午後九時五十分。私が帰らなければいけない時間の十分前だ。私とケイの関係は研究所には知られてはならない。私とケイの間に起きるであろう特別なことを消去するために、私は十分という時間を設定した。  ケイとの間の甘く強い想いは、波のように引いてゆき、後には冷たい恐怖が残った。  今のケイでは明日、研究員がすぐに異常に気付くだろう。笑いもしない、答える時には目をそらし、私の後ろをいつまでも追いかけ続ける実験体。昨日の夜までまともだった実験体が一夜にして変わった。私がケイに何をしたのかはすぐにばれ、私は理想の恋人を永遠に失ってしまうのだ。  与えた命令をなんとかしなければいけない。私は焦っていた。命令を取捨選択している時間はもうない。 「ケイ!」 「なんですか?静子。」 「私はあなたに、たくさんの条件付けをしたわ。その条件のなかの『私を愛しなさい』という命令以外は記憶から削除しなさい。」  口に出してから、猛烈な後悔が私の心を締め付けた。私の、ケイ。せめてもう少しの時間だけ、私だけのケイでいてほしかった。 「待って、ケイ! 今の命令は取り消すわ。もう少しだけ、記憶の削除は待って!」  私の哀願をケイは冷たく受けとめた。 「命令は実行されました。申し訳ありませんが、再度設定を行なってください。」  私はケイの顔を見つめ続けた。喪失感が心に重い。私だけのケイは、この瞬間、削除されてしまったのだ。命ずれば、全ての記憶を削除できてしまう、機械。その記憶は、外部から再入力しないかぎり、永遠にケイの中からは消え去ってしまうのだ。  私が思うままのことを全て受けとめてくれたケイは、もういない。  彼を完全に私の物にするのは、まだ早い。私は胸に開いた穴を埋めるように自分に強く言聞かせる。実験はまだ続く、今の感情で全てを失ってはいけないのだ。 「ケイ、私を愛していることは誰にも教えてはいけないわ。いいわね。」  私はやっとそれだけをケイに命じた。 「はい、静子。」  ケイを待機用のカプセルに入れ、私は研究所を後にする。  疲れていた。家に帰って、眠りたかった。 3  ケイが研究所にきて二週間、計画は第二段階に入った。  私のほか三名の研究員とケイは今、実験室にいる。  椅子とテーブル。この実験室にはそれしかない。壁は白一色。この部屋に装飾的なものは何一つない。  反対に、二人の研究員とケイの服装は派手だ。研究員の二人は身体にぴったりした銀色の服を着ている。昔の漫画に出てくる宇宙人のようなきらきら光る服の各部から小さなアンテナが突き出ている。  ケイは下半身を隠す下着一つに身体の各部に直接アンテナを取りつけている。彼も物語のなかのロボットのような格好だ。  彼らの一見珍妙な格好は、実験のために必要なものだ。  ケイの基本的な感情表現能力は、一定の水準をクリアするにいたった。笑うべき時には笑い、返事も以前のような非人間的な感じが少ない。  私達が話し掛け、ケイが答える。これが円滑になるのに一週間かかった。  これから行なう実験は、状況に合わせ、ケイがよりうまく感情を表現できるように、意図的に状況を作り出し、ケイのプログラムを調整していくのだ。 「感応機の緊急停止スイッチはこれです。何かあったらすぐに押してください。」  感応機担当の研究員が、説明しながら赤いボタンのついた箱を銀色の研究員に手渡している。  感応機。感応受信機と呼ばれる機械を通じて人間に擬似感覚を与え、被験者に色々な体験をさせることが出来る機械だ。いわば起きながらにして望みの夢を見させる機械。最近は娯楽用として目覚ましい普及をしているが、高価で精巧なものは、軍で訓練用に使われたり、特殊な病院で治療に使われたりしている。  今回実験に使われるのは、現在ではトップクラスの性能の高価で精密な感応機の最新型だ。  二人の研究員への説明が終わり、私と感応機担当の研究員はドアを開け、隣の部屋にいく。  隣の部屋の作りはテレビ局の編集室を思わせる部屋だ。薄暗い部屋の正面の壁には何台ものモニターが設置され、おびただしい数のケーブルが薄闇にメーターを光らせた機械につながれている。天井から弱い光に照らされ浮かび上がる操作卓には色とりどりのレバーが見える。  この部屋には現在、私を含め五人の人間がいる。私と鳴海、感応機担当の稲垣は岸田研究所のケイ・チーム。私達は白衣を着ているが、部屋にはもう二人作業服を着た人がいる。感応機のメーカーから送られてきたスタッフだ。彼らは感応機の初期設定と、調整を行ない、私達に感応機の実際の使い方を説明するためにここにいるのだ。  ヘッドセットを付け操作盤の前に座った鳴海が、部屋に入った私に声をかける。  「準備、終わりましたか?」  私はうなずき、研究員の一人が空けてくれた鳴海の横の席に座る。  一番大きな中央のモニターに隣の部屋が写っている。その画面を見たまま私は鳴海に問い掛ける。 「感応機の調子はどう?ずいぶん大がかりな装置ね。」 「こんなすごい感応機、見るのも触るのも初めてですよ。調整に手間取っていましたけど、大丈夫です。」  興奮した鳴海の声。私はヘッドセットに付けられたマイクを口元に持っていき、隣の部屋の二人と一体のロボットに声をかける。 「これから実験を開始します。一分後舞台≠ェ出来上がりますから、シナリオどおりに演じてください。」  隣の部屋の研究員がモニターの中でうなずき、服と同じ材質の頭全部を覆うマスクを被る。私が後に向かって合図をすると、感応機のメーカーから送られてきた技師が機械のスイッチをいれる音が、部屋の暗闇から聞こえはじめる。  低い機械の作動音が響き、隣の部屋が暗くなっていく。 「舞台≠フ映像がゴーグルに入力されます。被験者はいったん目を閉じて、ゆっくり目を開けてください。」  技師の無機質な声が、操作室に響く。  モニターのなかの部屋の照明が消されてゆく。  モニターが一瞬、強く真っ白に輝く。次の瞬間あらわれたモニターの中は、先程の非現実的な景色とはまったく変わった景色を写している。  部屋のなかに、椅子とテーブル、そして三人の人間。部屋の基本的な要素はまったく変わっていない。しかし印象が決定的に違う。  簡素なテーブルクロスが掛けられた木のテーブル。開け放たれた窓からは朝日が穏やかに差し込んでいる。テーブルの上には湯気のたつ簡単な料理。  さっきまで白い壁と机と椅子しかなかった部屋は、一瞬にしてその様相を変えた。銀色の服を着た二人も、ワイシャツに身を包んだ父親役と、地味な格好をした母親役に、ケイはラフな服装の息子役に服装を変えている。服装だけではない、彼らは今、モニターに映っているままの状況を実際に体感しているのだ。  これが感応機の機能だ。銀色の服とセンサーを通じて彼らの身体には実際に朝食の風景にいるという全ての感覚を与えられている。人間に擬似感覚をあたえ、ソフトのみで人間をどんな環境にも存在させ、そこにいると認識させる装置、それが感応機なのだ。  彼らはこの朝食の風景で短いシナリオを演じる。色々な状況で数々のシナリオを演じる実験のこれが最初のものになる。  二十代前半の肉体設定のケイに、両親役の所員は若すぎるが、ケイのセンサーと私達のモニターには、彼らは役に合わせて”加工”される。彼らはモニターの中で既に役になりきっている。  朝食の前で新聞を読むのをやめない父親。椅子を引いて、息子が同じテーブルにつく。テーブルと窓の間には調理台がある。母親は腕まくりをして、まな板の前で包丁を動かしている。  私の隣で鳴海がヘッドセットのマイクを使って、モニターの中の二人と一体のロボットに話し掛ける。  「ではシナリオをはじめよう。ケイも準備はいいな?」  モニターの中の息子役のケイがカメラのほうに笑みを浮かべ、返事をする。 「はい、鳴海さん。」  シナリオが始まった。  父親が新聞を直す。母親がまな板から料理を皿に盛る。 「父さん、朝食の時は新聞読むの、やめてください。」  母親が父親に注意をしながら、皿をテーブルに置く。  不注意のまま置かれた皿は、テーブルの上のコップを倒す。コップのなかの牛乳が息子にかかる。  驚いて息子は立ち上がる。 「母さん、ひどいじゃないか!」  息子が怒って立ち上がる。 「カット!」  鳴海の声で、モニター上の二人と一体は演技をやめる。  私達の後にはケイの身体から送られてきた様々なデーターを分析する機械がある。  プリントアウトされたデーターを読む研究員・稲垣に私は声をかける。 「ケイの調子はどう?」  「良好ですよ。感情反応の速度もまずまずです。」  返事をしながら稲垣はマイクを口元に近付け、隣の部屋のケイに声をかけた。 「ケイ、右のほうの顔の筋肉、もう少し動かしたほうがいい。ちょっともう一度やってみてくれ。」 「こうですか? 稲垣さん。」  部屋のスピーカーからケイの返事が響く。 機械に付けられたモニターの緑色の曲線が微妙に動き、赤い線と重なるのが見えた。 「そうだケイ。それと顔色だがちょっと赤くしすぎだな。四十くらいまで落とそう。」 「はい。稲垣さん。」  用紙とモニターを見ながら稲垣は細かな数値をケイに指定してゆく。それが終わればもう一度同じシナリオを二人と一体に開始させるのだ。  今行なわれているのは、感応機を使った感情表現プログラムの調整だ。  ケイが起動してから二週間。身体の動き、感情表現におけるプログラムの書き替えなど、大まかな基本作業は一段落した。計画はついに実践的なものに移ったのだ。  ケイは感情を表現することにより、人間のように見える事を目的としたロボットだ。  どんな状況にもケイのプログラムは反応し、感情を表現するための原因となる要素を的確に選び出し、その場に最適な感情を表現しなければいけない。  その感情を表現させる様々な状況を作り出し、ケイに学習させるために行なわれる実験が、感応機を使いケイにシナリオを演じさせるものだ。  今回行なったケイに「怒らせる」シナリオは更に五回ほど行なって結果が良好ならば次のものに移る。百五十ほどのシナリオの中には今回のように単純なものから、演劇のようなもの、いくつもの感情が交ざる複雑なものまである。  感応機を使うことにより様々な舞台を完璧に再現し、ケイの反応を一つ一つ分析する。  ケイの感情表現の学習はシナリオに限定されたものではなく、あくまで典型的なものとして受けとめさせなければならない。似たような状況をケイが感知したときその場に求められる行動ををするようにケイに教えこむ。  今日は感応機を使った実験の一日目、スケジュールの内容はケイの本格的な調整よりも、感応機のテストと、メーカーの技師による所員への感応機の使い方の説明に多く費やされる。明日からはこの感応機は私達岸田人工知能研究所のスタッフだけで使いこなさなければならない。  技術者は機械を指差し、ときどき分からない専門用語を混ぜながら私達に説明する。 「基本的には使用者だけで使えるんですよ。あらかじめ設定したソフトにしたがって場面を表現する。本来の娯楽機の使い方と同じです。微調整は完了しているから、余計なスイッチに触らなければ大丈夫です。」  私は鳴海の後から必死に技術者の声と指を追う。私はこの機械を一人で動かさなければならないのだ。  私は決心する。今は、今だから予行演習が出来る。技師のいる前で機械を試す。不自然な行動ではない。私は唾を飲み込み技師に話しかける。 「あの・・・私一人で機械を動かしてみていいですか?」  鳴海が私に驚いた顔を向ける。普段、新しい機械をいじるのは鳴海の役目だ。余計な注意を引くことになるだろうか? 私の心の不安には気付かずに技師が私に笑いかけ、機械の方に手招きする。 「ええ、もちろんですよ。いったん機械を停止状態にしますから、教えたとおり起動して、ソフトを再生してください。」  鳴海が前を退き、私は感応機の操作盤の前に立つ。 「頑張って下さい、博士。」  腕組みをしたまま、好奇心いっぱいの表情で鳴海が私に声をかける。私はそれに答える余裕も持てずに教えられたとおり、感応データーを書き込まれたカードを感応機に差し込み、起動する。 「そこのスイッチは、起動後に入れてください。その目盛りは三に合わせて・・・・。」  技師の声を聞きながら私は必死に覚え込む。私は今日からこの機械を一人で扱えるようにしなければならないのだ。  私とケイの、貴重な二時間をより有意義なものにするために、私は感応機を一人で使えるようになるべく、努力する。  そして待ちに待った午後八時。ケイの動作のチェックという名目の、私とケイだけの二時間がやってきた。  ケイは服を脱がせ、感応受信機を身体の各部にとりつけて、隣の部屋に待たせている。  私も銀色の受信服を着ている。昼にケイの相手役をつとめていた所員と同じ宇宙服を思わせる服だ。  服の各部に付けられたアンテナが機械に触れないように注意しながら、私は昼に学んだ感応機の操作を思い出している。広げられたマニュアルの横には私の作った感応ソフトがある。  実験体ロボットの調整に感応機を使う計画が持ち上がったのは一年も前のことだ。  実験に使用するシナリオを考え、ソフトを作っていくのが必要になった。メーカーから感応機用のソフト作成ツールが届き、素人の私達研究所員にも様々な状況のソフトを容易に作れるようになった。  所員の若い連中たちにの間にははちょっとした遊びが流行った。余暇の時間に自分たちだけのソフトを作りその世界を楽しむというものだった。  私も自分だけのソフトを作っていた。誰にも知られないように、隠れて。  今のためだけに用意したのだ。実験体と、私の理想の恋人と二人だけの世界にいくために。  カードを差し込む。感応機を待機状態にし、私はリモコンを片手に感応機そのものである隣の部屋に入る。  ケイは部屋の中に立っている。私が声をかければ、彼は私に愛の言葉をささやいてくれる。しかし私はまだそれをしない。私は部屋のドアを閉めてから顔全体を覆う銀色のマスクをつけ、感応機のスイッチを、入れる。  私の目の前に白い光があふれる。再び私が視界を取り戻したときには私は自分の理想の世界にいる。  やわらかなライトが部屋を照らしだしている。窓には白いレースのカーテンがかかり、中央の白木のテーブルにはフリルのついたテーブルクロス。  簡素ながら、私の理想の、いや私達の理想が今現実となって目の前にある。  私はケイの腕に自分の腕を絡ませ、驚いた顔をして部屋を見回しているいるケイをよこから見つめる。 「どう、ケイ? 素敵なお部屋でしょう?」  ケイはどこかぽかんとした表情で私をみて、それから徐々に笑顔に変わってゆく。 「すごいですね。こんなきれいな部屋を作ってあったなんて・・・・・。」  ケイの自然な動作に私は感動する。愛しさがこみあげてきて私はケイにしがみつく。ケイはやさしく私を抱き返してくれる。  ケイは私を愛している。ケイの価値観は私に準じている。ケイは今、好きなものに囲まれているのだ。好きなものに囲まれているときのケイの感情表現は比例的に大きくなる。そのケイのはしゃいでるように見える反応が私を有頂天にさせる。 「ケイ、私にキスをして・・・・・・・・。」  ケイとの密会を始めてから十日目。私は初めてケイの唇を要求した。 「はい、静子。」  返事とともに私は強い力でケイに引き寄せられる。それはまるでやわらかいクレーンに体を引かれているようだ。  違う!  ケイの行動が私の感情にささくれを生じさせる。私はケイの胸に手を押しつけて、拒否の言葉を叫び、ケイから離れる。 「ちょっと待ちなさい、ケイ! それはあなたのキスじゃない、私のケイのやり方ではないわ!」  命令実行を拒否されて、不思議そうな顔をしてケイが私を見つめている。恋人の行動を妨げた私の心に罪悪感が起こる。しかし私はそれを押さえ付ける。ケイは私の理想の恋人なのだ。ケイのキスは、私の理想のキスでなければいけない。 「キスの仕方も教えないで、命令をした私が悪かったわ。ケイ、私とキスをするときは特別にプログラムが必要だわ。今から私がやってみせるから、それを記憶しなさい。」 「はい、静子。」 「じゃあケイ、椅子に座って私を見上げなさい。」  私の胸が激しく鳴っている。自分が興奮しているのが分かる。私は、椅子に座って私を見上げるケイの顔を両手で包み込む。二十代前半の若々しい男の顔が私の手のなかにある。倒錯的な痺れが私の背に走る。 「ケイ、これから私がするキスを記憶しなさい。目を開けたまま、私のする方法をしっかり記憶するのよ。」 「はい、静子。」  顔が熱い、私の呼吸が早くなっている。震えそうになる手を押さえて、私はケイの顎を指で上にあげる。ケイのガラスのような目が一心に私をみている。本来なら目を閉じていてほしいが仕方がない、ケイの上に私はかがみこむ。  最初はついばむように軽く唇を触れさせ、そして唇を優しく、強く押しつける。唇を通してケイを感じる。足に力が入れられなくなって、私は滑るようにそのままケイに抱きついてしまう。 「ケイ、お願い・・・・・・・・私を支えて。」  かすれた声で私はやっとそれだけを言う。ケイは私の教えた通りの優しい力で私を抱いてくれる。私の口からは切ない吐息しか出ない。私はケイの背中に腕を回し、力一杯抱き締める。  私はケイを抱き締めたままケイの耳元でささやく。 「ケイ、私が教えたキスをやってみて・・・・・・・・。」 「はい、静子。」  強い力でケイから引き離される。去ってゆくケイの体温が淋しい。顎にケイの指がかかる。ゆっくりとケイは私の顔を上にしてゆく。私の顔の真正面にケイの顔がある。深くゆっくりとしたため息が私の口から漏れる。ケイの顔が近寄ってくる前に私は目を閉じる。 私達は恋人同士だ。  感応機で作られた私の理想の部屋の中で、私は理想の恋人と、理想の口付けを交わしている。  私は幸せだ。ケイの身体を抱き締めながら私は心の底から、そう思う。 4  次の日、私が出社すると、社の掲示板の所に人だかりが出来ていた。 「あっ! 鈴本博士、お早ようございます。」  人込みの中から鳴海の声がした。鳴海は人を押し退けて私の前に出る。 「お早よう、鳴海くん。朝からみんなどうしたの?」 「博士の所にはまだ話が行ってなかったですか? ぼくたちの研究が、今度の企業展で出展されることになったんです。」 「企業展って、あの?」 「そうですよ! 国際企業科学展示会なんです。今日正式に出展が決定したんですよ。ぼくたちの作った三体のロボットが、ようやく国に認められたんです。」  国際企業科学展示会。来年名古屋で行なわれる、世界二十三ヶ国の代表的な企業が参加する、半年にわたるイベントだ。岸田研究所も、数年前から倉門重工における代表候補として選ばれていたのだが、今日、それが決定したのだ。  興奮した鳴海は両腕を広げて、熱のこもった調子で言葉を続ける。 「国からも補助が出るんですよ。資金がかかるという理由で見送られた実験も、全部実行できるようになります。ケイ達三人のロボットは倉門財団の代表、そして日本の代表になるわけですからね。企業展出展まで十ヵ月、すごい事になってきますよ。」  私の心にも喜びがあふれている。ケイをもっともっと完璧に出来るのだ。このことをケイに伝えてあげよう。真っ先に、走っていって・・・・・・・・。  鳴海の視線に気付いて私は自分の想いを止める。鳴海は私を見つめ、微笑んだ。 「博士の研究がやっと認められたんですよ。やりましたね。」  自分の心の中のケイの想いを気付かれないように、私はあいまいに笑う。 「ありがとう、鳴海くん。」  突然、鳴海の顔が真っ赤になった。 「じっ、実験はこれからですもんね。今日の実験の準備をしてきます。」  焦った口調とともに鳴海は私に背を向け、走っていった。  私は自分のロッカーへと向かいながら、ケイのことだけを考えていた。  この日の夜から、数日間私達研究所のスタッフは、予算の増額により行なうことの出来る実験の取捨選択に取り掛かった。  私が最も望んだのは、さらに高度な感応機の導入だった。  現在我々が使用している感応機は、高度で精密にデーターを表現できるが、効果範囲は一つの部屋にとどまってしまう。しかし、感応機の表現空間を球形にしたタイプの感応機が使用できれば、精密さはそのままに、空間を自由に歩き回ることが出来るのだ。これを使えば、実験体のロボットをさらに多くの状況に置くことが出来、感情表現に関するデーターを正確にすることが出来る。  そして私だけの目的があった。球形の感応機を使えば、空間を表現できる。私とケイは肩を並べて歩くことが出来る。  私には希望がある。ケイを外に連れ出すことは出来ない。ならば私が外を作って上げよう。あの頃、啓悟とともに歩いていたあの街並を、私はケイとともに歩くのだ。  本来の目的は話さなくても、球形の感応機の必要性はみなの認めることだった。より複雑で、汎用性に富んだ状況を作り出すことの出来る機械。数日の会議後、最優先で球形感応機と、それに伴うソフトの開発ははじめられることになった。  日を待たずして、球形の感応機は研究所へ届くことになった。感応空間を球形にすることにより、被験者が自由にどんな距離も歩き回ることの出来る機械だ。  幸い感応機の使い方そのものは以前の物と変わらず、データーも共用できる部分が多かった。  そして私は夢を実現するべく、一つのソフトを創ることになった。私とケイの歩く、理想の世界を創るのだ。  休日を待って私は新宿に出た。私のもっているバックの中にはカメラがある。研究所や私の住むマンションのある街から磁電車で一時間。久しぶりに下りた新宿の街は、変わることのない人の流れの中にあった。  休日、大通りは歩行者天国になる。その流れのなかに私はいる。  五年。私の記憶にある街並は、今はない。しかし、変わらないのだ。流れている空気、聞こえてくる雑音、人々の会話。この街の華やかさ、この街の汚さ、何も、変わらない。  五年前は私も流れの一つだったのだ。私は啓悟とともにこの街を歩くのが好きだった。街のなかの凝ったディスプレイを啓悟と見た。冬の空気の中、肩をよせ合って歩いた。酔ったまま、二人で夜を過ごした。ここは、私の街だった。  私はカメラを取り出す。このカメラで街を写せば、街の正確な空間が、そのまま感応機のデーターとして取り込める。五年前のあの頃の街並は、今はもう、ない。しかし、この街に手を加えれば私は私の街を取り戻すことが出来る。あの頃の時間を取り戻すことが出来る。私は、私の啓悟とともに、私の街に帰ることが出来る。  駅から写した反対の風景を撮るために、紀国屋の前から伊勢丹へ向かう。  なつかしさの感情は私の口元に微笑みを運ぶ。変わっていないところがうれしい。変わっている場所を見付けるのが面白い。通り過ぎる華やかな色彩の若者たち、楽しげな男女、私がこの街の一員だった記憶。  啓悟と過ごした日々の思い出が私に淋しさを思い出させる。私はそれを振り切るように、カメラを向け、シャッターをきる。 「!」  ファインダーに写った男の顔が、男を見た衝撃が私の全ての動きを止めた。  私のカメラが、手が、足が、震えている。  啓悟。  五年前から一度も見ていない、しかし私が彼を見間違えるはずはない。  雑踏の中を歩いてゆく男は間違いなく啓悟だった。  私は啓悟に糸で引かれるかのように、人込みに飛び込んでゆく。壁でしかない人々を押し退け、私は啓悟だけを視界に入れて進む。 人込みはもどかしいほどにゆっくり進み、啓悟は人波に飲まれてゆく。彼がいってしまう。私は決心する。彼の名を呼ぼう。五年の歳月を私は一声で取り戻すのだ。  私が息を吸い込んだときだった。  奇跡のように人込みが割れた。一筋の視界の中心に啓悟がいた。  私は、見た。  啓悟の手が、小さな女の子の手を握っていた。女の子は立ち止まり、両手を上げて啓悟に向き直った。啓悟は幸せそうに笑い、女の子を抱き上げた。  肩車をされた女の子が楽しげに笑った。肩車をしている啓悟に一人の女が寄り添っていた。女の子が啓悟のうえから、女に笑いかける。 「ママ、高いでしょ!」  私は立ち止まっていた。後から人が私に当たっていくのも気にならなかった。  私の視界が不意にぼやけた。頬に流れる涙を感じた瞬間、私の目から堰を切ったように涙があふれ出た。  涙が出るのが悔しかった。止められないのが悔しかった。私は泣きながら地下街へ走っていった。  走りながら私は自分に言聞かせていた。啓悟とは五年前に終わっているのだ。さっき歩いていた男は啓悟ではないのだ。私の啓悟ではないのだ。  五年たった今、彼は幸福な家庭を手に入れていた。しかし、私は五年で理想の恋人を手に入れたのだ。  私は両手を握り締めて自分に言聞かせる。私も幸せになるのだ。啓悟に、あの女に負けないくらいの幸せを手に入れてみせる。私の力で。  私には理想の恋人がいる。ケイは私の理想の恋人になってくれる。必ず。  私は、幸せだ。絶対に、幸せになってみせる。  家に戻ってカメラのデーターを自宅の感応機で再生する。  データーは共用できるが、家庭用の感応機は研究所のものとは比べられないほど構造も簡単で、安価なものだ。再現できるものは、映像と音声のみ、情報に干渉できるのは、ヘッドセットに付けられたマイクと、入力装置をはめた両手だけだ。  目と耳をおおう軽いゴーグルと一体型のヘッドセットの出力機械と、マイクと手袋型の入力装置を身体に付けて、コードでつながれている感応機本体のスイッチを入れる。  録画した情景が再生される。新宿の街が、確かな質感を持って私の視界にあらわれる。私は顔をわずかに前へ突きだす。それに合わせ、視界はどんどんズームアップされる。街の中を歩いている人々の顔が一人一人識別できるようになる。  その瞬間、私はヘッドセットを自分の顔からもぎ取っていた。私の視界にあの時の啓悟が飛び込んできたのだ。悔しさが蘇って私は唇を噛み締める。乱暴にとったヘッドセットに巻き込まれた髪の毛が痛い。  ヘッドセットをつけないまま、私はマイクに向かって感応機に削除機能を準備させる。  目をつぶってヘッドセットをつけ、目を開けて情景が視界に入った瞬間に、啓悟の女に向かって右手を振った。  窓の汚れが拭き取られるように、私の手によって女の姿が消されてゆく。残酷な衝動が私に笑みを浮かべさせているのがわかる。  次は子供だった。啓悟が抱え上げているあの人の子供。楽しげな子供の笑顔が、私を一瞬ためらわさせる。それを自覚した私は、激しく手を振るい、一気に子供を消した。啓悟と触れ合っている映像部分は指を使って丹念に消した。誤って啓悟を消さないように注意しながら、一辺も残さずに、消した。  後には啓悟が、啓悟だけが残った。  虚空に手をかかげ幸福な笑顔を浮かべている啓悟。人込みのなか、ただ一人何もない空間に囲まれて立ってる啓悟。  私は何度も手を振り上げ、啓悟の上に振り降ろせずに、啓悟を消すことを出来ずに何度も手を下ろした。  惨めだった。自分の部屋で、陰惨な作業をしている自分が、思い出から逃れられない自分が悲しかった。啓悟の幸せそうな顔が許せずに、それなのに一気に消すことさえ出来ない自分がいる。私の目から涙が流れてきた。私は再びヘッドセットを取ってしばらく泣いた。ようやく嗚咽を止めることが出来、涙を拭った私の心は落ち着いていた。  私が幸せになるには新宿の映像が必要なのだ。啓悟の姿は必要ない。私は彼を消さなくてはいけない。  ヘッドセットをつけ、啓悟の姿に向かって手を振った。手の通り過ぎたところがえぐり取られ、何もない道が残った。私の心に鋭い痛みが走った。私は啓悟の姿とともに自分のなかの何かをえぐり取っている。何もない空間に、私はまだ未練がましく啓悟の痕跡を探している自分に気付き、自分への怒りを画面にこめて、啓悟のいた場所に何度も消去の手を振った。私の目からは、再び涙がこぼれてきていた。  私は次に、感応ソフトに条件を付けて画面を再生させた。誰もいない、無人の街が再生された。  最初から人物を消して再生することは出来た。啓悟たちも含め全ての人間を表示させないことは可能だった。しかし、私には出来なかった。彼らだけ、啓悟たちだけは私の手で消したかったのだ。どうしても。  彼らは録画した映像から完全に消えた。啓悟たちだけはもう二度と再生するのは不可能だ。  私はようやく、望み通りの新宿の映像を手に入れた。  私は感応機をビデオレコーダーにつないだ。ビデオレコーダーの記憶バンクには、私が前もって編集しておいた、過去の映画、テレビドラマ、ニュースに収められていた五年前の新宿の映像が入っている。  私はそれら過去の新宿の映像を使って、感応ソフトの細部をかえていくのだ。情報源は当時のテレビドラマの物が一番役に立った。あの時、啓悟と二人で、仲間たちと数人で、評論しあったドラマたちに収められている新宿の街。ドラマの主役たちが歩き、幸せだった私と啓悟が歩いた街は、今、私の手によって感応機の中に蘇るのだ。  五年前の街で、私はケイと歩くのだ。私が啓悟と別れた街で、私は理想の恋人の手を取って、裏切った啓悟の記憶を消し去るのだ。  ヘッドセットを外し、目をこする。目の奥に鈍痛がある。私は壁にかけた時計をみて驚く。午前四時三十分。窓の外がかすかに明るくなっているのに気がついて私は舌打ちする。  寝なければ。今日の十時には私は研究所に出なければならない。  ガウンを脱いでベットに入る。感応機に座る前にシャワーは浴びているが、作業の疲れが体に不快感を訴えている、しかし私には時間がなかった。  ベットの横にある小瓶の中から錠剤を二粒手の平に出す。睡眠凝縮薬だ。知り合いの医者から手に入れたある医療用の物で、一般の薬局では販売されていない。  この薬は、速やかに眠りをもたらすだけではなく、通常の眠りに要する時間を半分にしてくれる作用がある。およそ三時間で、一晩にあたる十分な睡眠量を与えてくれるものだ。もちろん、常用を目的とはしていない。強い効果を持つこの薬は、体に与える影響も小さくはないと友人の医師はいっていた。  私の瓶にはもう数えるほどにしか、白い錠剤は入っていない。毎日のようにこの薬を使っているのだ。  ケイのためのプログラムの矯正、感応データーの収集、協力者の頼めない私の仕事は、とても日常の生活の時間を割いただけでは片付けられない。発覚するわけにもいかないのだ。きちんとした生活を演じなくてはならない。予想していたことだった。五年間、準備のために費やしてきたのだ。しかし、実行にうつした理想の恋人化の計画は所々に予想を上回るほころびを生じさせ、私の仕事量は制御不可能な状態まで増えていった。私に残された解決法は睡眠を減らし、薬を飲むしかなかった。  瓶の軽さがいつも私の心に不安をもたらす。その不安を眠りで紛らわせるために、私は強く目をつぶり、布団を引き上げる。  5 「おはよう。」  出社途中の鳴海を見付け、私が後から声を掛けると、鳴海はふりかえって挨拶を返し、私と並んで歩き始めた。  鳴海は私の顔を覗き込んでから、遠慮がちに問い掛けてきた。 「どうしたんですか?最近なんか、疲れてるみたいですよ。」 「そうかしら?」 「何となく顔色悪いですよ。まあたしかに最近忙しいですからね。ケイ達が来てからこっち、毎日が戦争ですもんね。」 「ケイが来てようやく本当の仕事になったんじゃないの。五年間の研究の結果を出そうとしているのよ。」 「そりゃまあ・・・・・・・・そうなんですけどね。」  鳴海の言葉に鼻白む調子が交じっている。きっと若い所員の間での私の評価を再認識しているのだろう。「真面目な優等生」私に付けられたレッテルだ。  私は白けてしまった雰囲気をいつもは取り繕う努力などしない。しかし今はそういうわけにはいかないのだ。私の健康状態から、ケイをチェックする仕事から外されるということもありえないことではない。 「でもだめね。女も三十過ぎちゃうと、疲れが顔に出ちゃうのかしらね。まだ若いつもりなんだけどなぁ・・・・・・・・。」 「そんなつもりでいったんじゃないですよ。ただ最近の仕事量がちょっと多いうえに、ケイの最終チェックまでも鈴本博士にお願いしてるじゃないですか。鈴本博士あってのわがチームなんですから、体を壊さないかって心配してるだけですよ。」  「ありがとう。でもね、ただのわがままかもしれないけどね、ケイのことで係われる事は出来るだけ積極的にやっていきたいのよ。私の五年間をケイの性能で証明したいの。」  気が付くと鳴海が私の顔を見つめていた。いつごろからそうやっていたのだろう。私と目が合うと急に照れ臭そうにそっぽをむいた。 「ち、ちょっと下準備を早めにやっておきます。午後から会議ですもんね。午前中に出来るだけのことは、やっておきましょう。」  言葉の最後を待たずに鳴海は走りだしていた。その後ろ姿を見ると自然に笑みが浮かんでくる。鳴海はたしか二十四だったはずだ。 若い、と思う。いつから、私は走るのをやめてしまってのだろう。昔は私も走ることが大好きだった。同年代の娘達が高い踵の靴を履き、化粧をして澄まして歩いているのを横目で見ながら、スニーカーとジーンズで大学を走り回って、あの人の背中を追い掛けていた。いつも。  いつのまにか私も化粧で疲労を隠しながら歩いている。体に澱のように、重い疲れがたまっていることがわかる。しかしこの疲れを私は他の者に決して悟らせてはならない。疲労はケイとの甘い時間を過ごすための仕方のない代償だ。私はあの時間を守るためにはどんな代償も払ってみせる。  鳴海の言っていた会議というのは、十ヵ月後に行なわれる企業展の出展方法の会議のことだ。。  我々岸田研究所が選択した発表方法は、ケイたち三人のロボットを他の人々に人間と思い込ませ、その後に劇的に正体を明かすことであった。  発表するのは企業展が始まってから、二週間後、それまでは出展されていることは観客たちに発表はされているが、企業展で見ることは出来ないということになるのである。  わたしたち岸田研究所の誇るロボットの実物を二週間後に観客の前にはじめてみせる。そんな子供じみたアイデアが、今回の出展方法として採用されたのは所長の岸田博士の発案だったからだ。  今まで出された多くの意見の中から発表方法として残ったのはA案とB案の二つのであった。  Aの案とは、  二週間後にステージを設けて大々的に発表をする。その日まで建設中の幕をかけておいて注目を集め、その中で各分野の著名人を招待し、観客を呼べるだけ呼び、企業展の中でも放送をする。 『発表します、これが我々の作り上げたもっとも人間に近いロボットです!』  司会の声とともにステージの袖から所員に引かれて出てくるのはマネキンの出来損ないのようなロボット。それを横に並べて、自信満々に説明をする所員。 『それでは、彼らの性能を見てもらいましょう。』  所員の声とともに、ライトをあてられたロボットが台詞を話しはじめる。壊れたシンセサイザーのようなひび割れた声と、あやつり人形のようなぎくしゃくとした仕草。必死になって笑いを押さえる司会。  と、突然ロボットの一体が煙を噴いて同じ言葉を繰り返しはじめる。あわてて調整をしようとした所員から逃げ出すようにステージを走り回りはじめる。他のロボットも、一体は火を噴いて燃えだし、その火が司会の服に飛んでしまい、もう一体は観客席の最前列にいた、著名人の一人に抱きついてしまう。  大混乱のステージ、すると突然落ち着いた場内放送が入る。 『皆様、お慌てにならないでください、これよりわが岸田研究所のロボットを発表させていただきます。』  それとともに三体のロボットは動きを止め、いつのまにか抱きつかれた著名人と、司会、所員は仲良く三人でステージの中央に立ち穏やかな笑みを浮かべている。  そして本物の所員と司会が舞台の袖から現われる。  抱きつかれた著名人、服に火のついた司会、ロボットを追い掛ける所員。パニックの主役の三人こそが、実は発表する対象だった。というわけである。   そしてBの案とは、  企業展が行なわれてから二週間の間、毎日全国ネットの中継が入る。その中継フィルムのなかに、目立つようにどじなことをしている人の映像を入れる。  ソフトクリームを持ったカップルの片方が、転んで相手の服にべったり付けてしまい焦りまくる場面や、カメラとマイクを向けられ、どもりながら足早に立ち去ってしまう青年、レポーターの後でしきりにカメラに入ってくる目立ちたがりの男。  そういったほんのちょっとしかテレビ画面には出てこない、しかし強い印象を残す映像の主役をロボットに演じさせるのだ。ちょっと鼻につくくらいの頻度で、各テレビ局の特番のなかに折り込む。状況は様々に変えていくが、演じているのは同じ役者、つまりロボットだ。必然的に、多くの視聴者が気が付くはずだろう。  そしてそれらを編集した映像を紹介に用い、ロボットを発表する。  人間らしく、あるときは狼狽し、あるときはうかれ、恥ずかしがる。人間的な、どこかユーモラスなイメージで三体のロボットを紹介するのだ。  A案とB案、この二つが、有力なものとして、会議で話し合われることになった。  わたしたち、ケイ・チームと、笠森香が主任を務める女性型ロボット、亜美・チームはB案を支持し、私と香よりはるかに年配の男性主任、神崎博士の受け持つもう一体の男性ロボット、ダニール・チームはA案を支持していた。  各チーム、主任他数名のメインスタッフたちが意見を交換し合い、研究所の所長、岸田守博士が結論を下し、我々の発表方法はB案に決定した。  ステージ上の、シナリオのある紹介劇は、より、宣伝臭さを感じさせてしまうのではないかというのが、岸田所長の意見であった。  家につくと、重い疲れが、体にのしかかってくるのを感じる。  玄関からそのままベットに直行し、倒れこむ。ベットのスプリングの弾力が心地よい。体中の空気を吐きだすようなため息が私の口から自然にこぼれる。  会議が長引き、ケイに合えないままの帰宅だった。  B案に決まってからの細かな打ち合せ、それぞれのチームの目標に関する取り決め、議題はつきず、結論はなかなかでなかった。  ケイに逢えなかったのは残念だったが、興味深い会議だった。  現時点でもっとも人間に近いロボットとはどんなものなのか?その表現方法を決定する会議。  香個人や、私のチームのスタッフ数名とはかなり密接な意見交換をしているが、会議という各々の主張を戦わせる場で聞く、他の人々の考えは新鮮だ。何度も行なわれている会議だが、そのたびに思う。  最初に発表した意見にあくまで固執し、何度も繰り返すもの、他人の意見によって180度持論を変えてしまったもの、反感ばかりがつのる意見、自分がうまく表現できないものをうまく言いあててくれる、こころのなかで拍手をあげてしまう意見。実現可能な技術のみから考えだされる計画、理想が走りすぎて地に足がつかない計画。  ロボットというものをどう捉え、そして私たちはロボットを使い、何を社会にもたらすか? あの会議に参加したものすべてが違う意見をもち、違う理想を追っている。しかし、間違いなく共通の目的を持ってそれを実現させているのだ。私は、科学者なのだ。望んだことを望むまま、社会に問いかけることを出来る立場にいる。その感覚は私に心地よい感動を与えてくれる。  しかしその認識とともに、私の心には暗い影が沸き上がってくるのだ。  私はここにいる  すべての人達を欺いている。皆の目的を実現するためのロボットを自分だけの物にするべく行動している。私は会議の中で罪悪感のなかに快感が潜んだ、甘い感触を心の中で味わっていた。  ベットの上で、私は自分の目蓋が閉じはじめているのに気が付いて、強引に自分の意識を現実に向ける。  休息を求める体をベットからひきはがし、熱いシャワーを浴びる。  なんとか疲労を忘れさせ、髪を乾かすのもそこそこに、私は感応機の前に腰をおろす。  感応機の横に、真新しい増設用の外部メモリユニットがある。休日や空いている時間の中でどうにか調べあげたいくつもの資料が、この中に収められている。  当時の新宿、五年前の新宿を題材にした映像ソフトを調べるだけ調べたものをこの中に入れてある。ソフト供給会社に問い合わせた り、当時の雑誌のなかから捜し出した物を掻き集め、感応機で使えるようにデーターを変換したものだ。  私は感応機の映像出力を、ヘルメットから壁のモニターへと切り替える。グローブだけ手にはめて、モニターを見ながら操作する。 おびただしい数の映像データーの題名が画面に表示される。映像会社のリストを調べあげ、回線を通じて送られてきた五年前の新宿のデーターだ。私は機械を操作して映像の取捨選択に取り掛かる。住所を映像にあわせて絞りこみ、季節は・・・・初夏がいい。四月の終わりから六月にかけての映像データーを呼び出していく。  それら当時の映像を見て、この前撮った現代の新宿のデーターを矯正していく。初夏の新宿を私はケイと歩くのだ。あのいちばん幸せだった世界のなかに、もう一度、今度は理想の、本物の私のケイと共に・・・・・・・・帰るのだ。 6 「鈴本博士、用意が出来ましたか?」 「ええ、今いきます。」  更衣室のドアごしの鳴海の問いに私は髪を持ち上げ、感応機の受信服の最後のボタンをはめる。ドアの向こうでは同じように着替えた鳴海が待っている。 「さあ、感応機室へどうぞ。」  おどけた調子で鳴海は格式ばった仕草をしてドアへと私を導く。 「さっきからスタッフのみんなが、秘密にしているけど、何を見せてくれるの?」 「それは見てのお楽しみですよ。」  鳴海の顔には、隠し事をして楽しんでいる子供っぽい笑みが浮かんでいる。出社したとたんにケイチームの所員に強引に感応機室につれてこられた。何を聞いても、『まあ見てください』の一点ばり。そして笑みを浮かべる鳴海と共に、感応受信服を付けて感応機室へ入れられることになった。 「でも、スタッフが私に見せたいっていう映像って何なの?」  私は球形の感応機の中央に立って、何度目かの質問を繰り返した。 「想像もつきませんか?」 「ええ。」  鳴海は私に向かって笑顔を向けた。私を安心させるようにと努力している顔だ。 「そんなに不安な顔をしないでくださいよ、ちょっと博士に感動してもらおうと思っているだけです。」 「はあ・・・・。」  気の抜けた返事を返しながら、私は鳴海が差し出したゴーグルとヘッドセットを装着する。 「映像を出して下さい。」  鳴海の声と共に視界が白く染まり、ついで感応受信服の感覚が消失する。  目を開けた私は広大な空間に立っていた。 「博士、ここがどこかわかりますか?」  私はまわりを見回す。色とりどりのきれいに敷き詰められたタイル状の石の道、整然と並んだ街路樹、道の向こうには奇妙な形の建造物が何個かちらほらと見える。すべてが整然と、独特の調和をもって並んでいる。 「ひょっとして、企業展の会場?」  私の自信のない答えに、鳴海の顔に笑顔が広がった。 「そうなんです! どうです、すごいでしょう。岸田所長のコネを使って所員の一人が、主催者側から手に入れたものなんです。何でも業者の設計図用らしくて、ちょっと愛想がないのが玉に傷ですが、ぴったりだと思いませんか?」 「ぴったりって、何が?」 「いやだなぁ。決まってるじゃないですか、ケイや他のロボットの訓練用にですよ。」  私はようやく理解する。 「そうか、そうよね。」 「もっと資料を取り寄せて、細かくしていきますよ。本物と見分けがつかないというほどではなくても、場の雰囲気というか、そういうものをださないとね。その雰囲気になれてこそ、演技が出来るってものですからね。」 「会議で決まった、ケイたちの相手役のことね。」  B案決定にともなって、私たちは役者を必要としていた。どじなカップル。騒ぐ友達、慌てる親。事情をすべて知っている上で、ロボットを取り巻きハプニングを演出する人間がいなくてはならない。 「どうも役者の卵をバイトで雇うようになるみたいですよ。」 「ケイや亜美の相手には若い女の子もいるじゃない。期待してるんじゃないの?」 「そうですね、出会いってやつのチャンスですもんね。頑張ります。」  わざと神妙な顔をして鳴海が答え、私たちは感応空間で声を上げて笑った。  夜、私は再び感応受信服を身につけている。私の右腕にはケイの体温がある。私とケイはしっかりと手を握り合いながら、歩き慣れた無人の新宿の街を歩く。  球形の感応機が来た次の日から創りはじめた新宿も、日々改良を加え、形になってきている。  建物一つ一つを見ながら私は細部を変更すべく、メモを取る。メモといっても紙製ではなく、コンピューターの端末のメモだ。電子ペンで書き込み、メモリに記憶させていく。書込はそのまま自宅にあるコンピューターに記録される。今は、思いつくままの建物の印象を書き留めていく。  あの頃のビルはもっと壁がくすんでいた。きっと塗り直しをしたのだろう。とか、その店でちょうどバーゲンをやっていて、そこで啓悟を待たせすぎて怒られたことがある。とか、泡のように浮かぶ、軽い記憶を書いては送っている。  端末の入力機は現在は音声入力が主流だ。私のメモはかなりの年月を重ねている。このメモは学生時代から愛用しているものだ。コンピューターは何度か買い替えたが、これだけは手放せなかった。今ではわざわざこのメモのための変換機まで別に購入しても、使っている。  私は心に浮かぶアイデアや、簡単な日記もこれを使って書いている。話すことではなく、書き留めて目で自分の気持ちを確認することが好きなんだと、気付いている。一度だけ他のメモを購入したがどうも気分がのらず駄目だった。この機械は私の心の一部のようなものだ。いまどき指紋感応ロックもついていない、無防備な端末を使っているものなど少ないだろう。このメモを手にしたものから私の情報を守るのは、たった六桁のパスナンバーだけ。961206、その番号さえも簡単なもの、つまり、1996年12月6日、私の生年月日だ。  しかし、私は自分の心を他人にのぞかせたくはない。私は肌身離さずこのメモを持っている。  愛着のあるこのメモに、私は新宿の感想を書き込み続ける。ケイの意見は入れられない。それが私にはさびしい。  ケイの、物を「好き」だと感じる機能には限界がある。ケイがバナナを好きだとすれば、建物を見て、バナナのような色がいい。と判断することは出来る。しかしまったく似ていない物を、初めて見て好きになったり、記憶から呼び覚まされる好感のイメージというものがないのだ。  感応データーの新宿を改編する作業の最初の頃ケイに意見を求めて、ユニークすぎる意見を聴いて呆れてしまったことがあった。ビルの窓全てに白いレースを掛けたり、せんびきやのメニューを全て同じくだものにしてみたり、現実感と美意識が完全にずれている。好き嫌いを判断するスケールプログラムの例題の少なさが原因の悲喜劇だったが、それは仕方のないことだった。  時計のアラームが二人の今日の時間の終焉を報せる。  私はケイの手を引いてあの場所へと向かう。大通りの真ん中で立ち止まり、二人は向き合う。お互いの体をきつく抱き合いながら口付けをかわす。  啓悟とあの女の立っていた場所で、私はいつものとおり、私の理想の啓悟と別れの儀式である熱い口付けを交わす。  私は、幸せだ。  昼食を食堂で食べていると、目の前に鳴海が座ってきた。 「めずらしいわね、いつもの喫茶店、混んでたの?」 「食堂も、たまにはいいなって思うこともあるんですよ。」  鳴海は、言い訳をしながら盆を置き、箸を手に持つ。鳴海の方が後に来たはずなのに、私が箸を止める前に、食事を終え、セルフサービスのお茶を汲んできて私に差し出してくれる。 「実は、博士。ちょっと見ていただきたいものがあるんですけど。」 「何?またなにか面白い物でも作ったの?」 「いや、これなんですけどね・・・・・。」  そういいながら鳴海はテーブルの下から本をひっぱりだす。雑誌だ。いつも鳴海が読んでいる、写真やカラーを多く使い、SFとかミステリーがテーマの小説や映画を扱っている。男性用というより、大人になりきりれない男の子用の、内容のマニアックな雑誌。 「この雑誌のですね、ここを見てもらいたいんですよ。」  イラスト大賞≠ニ題のふられた見開きのページ。『一次選考通過者発表』と書かれた文字の下に何人もの名前がある。 「この雑誌が年に一回募集してるんですけど、今日一次選考の発表があったんですよ。真ん中の段の右端、見てもらえますか?」  指定されたところを見つめ、すぐに見付けた。鳴海 宏、鳴海のフルネームだ。 「鳴海君、すごいじゃないの。」   「ええ、学生の時から送ってるんですけど、初めてなんですよ。」 「知らなかったわ、鳴海君が絵を描くなんて、その大賞って大体何人ぐらいが送ってくるものなの?」 「二千人くらいです。コンピューターを使って描くんで最近、他の絵の賞より比較的送ってくる人が多いんですよ。発表されたのは二百人。十分の一に残ったわけですよ。」 「すごいわ。おめでとう鳴海君。」 「まだまだ祝福されるには程遠いんですけどね・・・・・・・・。」  軽く息をついてから、鳴海は私に顔を向けた。一瞬緊張したような表情がかすめ、それから私に笑いかける。 「それでですね、博士。一応お祝いってやつをしたいんですよ。今日の夜、ご予定は空いてます?」  私は一瞬答えるのをためらった。鳴海達スタッフのみんなに付き合って飲みに行くという事は、今日、ケイとの密会が出来ないということだ。私はあまり付き合いのいいほうではないが、ケイとの密会が始まってからは、断る割合を意識して調整していた。以前とまったく変わりがない程度に、たまには参加していたのだ。断りすぎて不信感を与えるわけにも行かない。鳴海のうれしそうな雰囲気が、私に断る気を薄れさせていた。 「ええ、いいわ。」 「ありがとうございます。じゃあ、今夜。」  私の返事を聞くと鳴海は立ち上がり私の分の盆まで運んでいった。きっと私が参加するという事を皆に伝えにいくのだろう。鳴海は食堂のドアのところで私に軽く手を振って、駆け出していった。 「じゃあ、いきましょうか。」  研究所の駐車場で鳴海にそういわれて、私は後をふりかえった。スタッフのみんなはまだこない。 「みんなは、飲み屋の方で待ち合わせ?」  私の問いに、鳴海は意外そうな顔をした。 「誘ったのは鈴本博士だけですよ。」  私の勘違いに気が付いた鳴海は少し落ち込んでいるように見えた。 「一次選考じゃあ恥ずかしくてみんなにふれて回るわけには行かないでしょう。話したのは、博士だけですよ。世間では二千人のなかの二百人なんてたいしたことなくても、個人的に祝いたいんです。それと、面白い店を見付けたんですよ。東南アジア系の食物を食べさせてくれる店なんで。ちょっと一緒にいってもらいたくて誘ったんですけど、ご迷惑でした?」  断るわけにはいかない。私は一度鳴海の問いに勘違いをしていたとしても了解を出してしまっている。いまさら断るのも、ためらいがある。誘われたことには戸惑いも感じながらも、私は鳴海の車の助手席に乗った。  店の料理は、おいしかった。めずらしい匂い、味、形、素材、料理法。それは気持ちのよい驚きだった。  驚くことはもうひとつあった。鳴海のことだ。鳴海が絵を”創る”ということにこれほど情熱を持った想いを持っているとは意外だった。どこか冷めたところのある皮肉屋だという鳴海の印象は、今夜をもって返上しなくてはならない。  私は絵を描かない。学生の頃、授業による義務以外では個人的に描いたことがない。鳴海の教えてくれる絵を描く際の理屈は私には面白かった。  鳴海の描く絵は幻想的なコンピューターグラフィックだ。風景や、人物など現実の物を絵にするのではなく、この世の物ではない、想像のなかの景色を描きだす。  描かれる絵はたしかにこの世には存在しない、しかし、それが在る≠ニいう現実感を持たせるには、いい加減ではいけない。きちんと普通の絵を描き、その技術をある程度持っていなくては幻想は、描けない。  この世界にない絵を確かな実在感を持って描きだし、それを面白くする。それは自分の才能への挑戦だ。  鳴海には講釈癖がある。熱のこもったオーバーアクションで私に話しかける鳴海の勢いは衰えることを知らない。それはたびたび暴走しかけ、周りの客達の苦笑を感じて私は鳴海を度々、鎮めなくてはならなかった。  多少圧倒されるようなことはあったが、鳴海は話がうまい。自分の目指していることを熱っぽく話すのがうまいのだ。それは研究所でもそうだった。チームのなかの開放された雰囲気を持った会議で、いちばん多く話すのはいつも鳴海だった。理想を持った真摯な熱意。熱烈すぎる意見は、ともすれば周囲から浮いてしまう傾向があるが、鳴海の明るい性格と若さが、いいバランスを保って聞くものの同意を誘うことが出来る。  鳴海の話は勉強になった。私がやっている感応機内の新宿の改正に応用のきく話も多かった。絵を描き、異世界を創る方法を学生の時から模索してきた人の話だ。思わぬ含蓄があって納得してしまう。  楽しい食事だった。鳴海に家に送ってもらった後、私は感応機に座り、さっそく鳴海が言っていた絵を創るコツを気にしながら新宿を変えていく。意識してみると、今まで歯痒く感じていた現実感を少しばかり増すことが出来た気がした。  感応機での作業は神経を使う、私は自分の新宿を直す能力にいらだちを感じていて、不快感を妥協しながらの作業を進めているのが常なのだが、今夜は自分の作業を違った視点から見ることが出来た。肩の力が少し抜けた気持ちで、気が付くと私はかすかに笑みを浮かべていた。  これだけでも、鳴海には感謝しなくてはならない。新宿の街をケイと歩くときにこの話をしてみよう。ケイはどんな顔をしてくれるだろうか。  私は、幸せだ。 7 「ケイと私のところの亜美を会わせてみたいんだけど、どうかしら?」   夜遅くにかかってきた電話で、香は私にこう提案した。  私たちは、現在三つの実験体ロボットをそれぞれのチームで扱っている。私達がケイ、香達が亜美、そして神崎博士達がダニールというロボットを使って実験を進めている。この三体のロボットは、実験を初めてから三ヵ月の間、ほとんどお互いの顔を合わせていない。  スタッフ同士の情報交換はそれなりに盛んだが、ロボット同士の交流はない。  人間のようなロボット同士、どんな会話が行なわれるのか? その問題には私たちは強い関心があるが、実験はなかった。チーム同士が、それぞれのロボットの反応を良くする事に夢中で、ロボット二体、もしくは三体の顔合わせを避けていたのだ。  他のチームより、自分たちの実験体の持つ感情表現能力が、劣っていることを恐れていたのかもしれない。  ともかく、香の提案によって、私達のケイと、香達の亜美は、感応実験室での会合をはたすことになった。  実験が始まってから数分後、ケイと亜美は私達が頭を抱えるような事態になっていた。 会話が進まないのだ。  顔を合わせて、二人はまず、挨拶をした。 その後は何も言わず、お互いじっと相手の次の動きを待っているだけなのだ。 「おい、ケイ、とにかく彼女に何か話しかけろよ。」  焦れた鳴海が、呼び掛けた。  ケイはこちらを向いて、言った。 「何を話し掛ければいいんですか?」 「例えば、彼女は何が好きか?とかさ。」  ケイはうなずき、亜美に向き直る。 「亜美さん、あなたは何が好きですか?」 「色々あるわ。食物の中なら、苺ね。」 「そうですか。」  そして会話はとまる。再び他の所員が話し掛け、その通りの話題を実験体が問い掛け、問い掛けられたほうが答える。そこで会話は打ち切られる。我々が水を向け、実験体が短い会話をする。私達が質問をしているのと何も変わらない。実験体というスピーカーを使ってもう一体の実験体と会話をしているのと同じことだ。 「考えてみれば当たり前・・・・・か。」  香のつぶやきに、私達はモニター画面から目を離す。 「初対面の二人が顔を合わせて、突然流暢な会話をはじめたり、談笑したり、憎しみ合ったりするはずないわ。静子、私達は何を期待して、彼らを会わせたのかしら?」  彼らには場を持たせようという意志がない。初対面のロボット二人の行動は私にそれを教えてくれた。笑うべき時に笑い、悲しむときには悲しめるロボット。私達はそれを目指して研究を続けてきた。たしかにそれは成功した。しかしそれは、ロボットを受け身な存在としてしまったのだ。感情を表現する状況が形づくられないとき、彼らは何も出来ない。プログラムが足りないのだ。  私達は、研究者という立場から、ロボットの反応を引き出すために、ロボットに会話を仕掛けてしまう。そしてロボットは感情を表現させ、私達はその結果をもとに、より望んだ方向へ改善させる。反応は、良くなる。しかしそれは受け身である反射の効率を良くしていただけなのだ。ロボットを人間らしく見せるには、まずこちらから接触しなければならない。  私は香に向き直って、話し掛ける。 「結局私達の実験体には、能動性が足りないということかしら?」  香はうなずく。 「自分から話し掛け、相手に自分の性格をアピールする。自分という個性を相手に印象付けようとする意志、それがこのロボットたちには必要だわ。」 「お偉方にロボットを見せるには特に必要だな・・・・・・。」  香の言葉を受けて研究員の一人が言った言葉は私達の結論だった。  性格づけを怠っていたわけではない。プログラムによって引き起こされるケイの反応は、ある程度統一感が持て、ケイそのものの人格が感じさせるようにはしたのだ。  しかし、そのことによって出来たケイは、うまい答えを出すことは出来るが、「待つ」存在になってしまったのだ。  なれなれしく、軽薄に話しかけるような仕草や、自分を主張するような行動は、実験体にふさわしくないと思っていたのだが、そういったプログラムを全く持っていないために、ケイと亜美の初めての会合は、両者がより非人間的な、ただの人形でしかないという印象を与えてしまっている。 「まあ、仕方がないわね。」  ため息を一つつき、香は二体のロボットに話し掛ける。 「じゃあ亜美、ケイ。顔合わせはそのくらいにして、次に進むわ。シナリオの27番をやってみなさい。」  香の合図で、所員の一人が感応機の操作をする。ケイと亜美のいる部屋を移すモニターが一瞬輝き、シナリオに合わせて変化する。  誰かが感嘆のため息をついた。私達は声もなく、画面に映る二体のロボットを見つめていた。  ケイと亜美は、良く似合っていた。映画のなかの主人公のような美しい男と、女。波瀾万丈の物語の末、結ばれた恋人たちそのものだった。 「はーっ、やっぱりすごいわね、彼らの演技は。」  香の声は、私達の全ての想いだった。 「シナリオを演じるだけならば実験体は最高の役者ですね。彼らは一番うまく出来た演技を、いつでも最高のままで再現できるのだから。」 「問題はこの演技力をうまく現実に対応できるようにさらにプログラムを円滑にさせることと、何といっても最初の実験の時の、どうしようもなく受け身な姿勢を改善させる性格を設定することだな。」  議論をはじめた所員たちの声は、全て私の意識の表面を滑っていくだけだった。彼らの話の内容など、今の私には関係がなかった。私は未だ、画面に映る二体のロボットから目を離すことが、出来なかった。  一枚の絵のような二人の完璧な演技は私の心に不安の楔を突き刺していた。  ケイと、亜美。彼らが恋人なのは、もちろん演技だ。プログラム調整用のシナリオを演じているにすぎない。しかし彼らには本心というものがないのだ。彼らロボットは命じられた役が自分の全てになるのだ。  ケイは私のものだ。ケイは私のものだ。それを皆に知らせられないのが悔しい。世界中に知らしめたい、ケイは私の恋人なのだ。  口には出せない。ケイが私の恋人であることを公表すること、それは出来ない。その認識は、重く私を押さえつける。ケイが私のものだと知っているのはケイだけだ。  それでいい。私にはケイがいる。ケイには私がいる。すぐに確認できる。すぐに実感できる。ケイの口からいつもの言葉を聞けばいい。『私は、あなたを愛しています。』その言葉をケイが言ってくれさえすれば、今の私の不安など、幻にすぎない事に、気付ける。ケイと二人きりの時間になれば、すぐに気付ける。  私はそう自分に言い聞かせ、心を平静に保つ。  苦しい時間がのろのろと過ぎていった。私は皆が帰る時間を、ケイと二人になれる時間だけを待ち続けた。  ケイと二人きりになっても、私の心の不安は静まることがなかった。  ドアを閉めて、感応機のスイッチを入れる。私達の前に現われた新宿の街を、ケイの手を取って歩く。 「ケイ・・・・・・・・。」  私は何度かためらった後、ようやく恋人に呼びかける。優しい微笑をたたえた目が、私を正面に見つめる。 「なんですか、静子?」  私のことを想ってくれる、優しい響き。ケイの仕草の愛しさに、私は甘えてケイに抱きつく。 「ケイ、愛しているわ! ケイ!」  驚きによるかすかなためらいをもってからケイは強く私を抱きしめる。 「私もです、静子。」  幸福感の波にさらわれそうになりながらも、私は何とか正気を保つ。 「ケイ、亜美のことはどう思っているの? 亜美のことは・・・・・・・・あ、愛してるの?」  心臓が恐怖で早鐘のように鳴っている。しかし、これは確かめなければいけないことだった。 「私は、あなたを愛しています。静子。」 「ケイ!」  予想したとおりの、私が望んだとおりの完璧な答え。私の目には歓喜の涙が光る。ぼやけた視界のまま、ケイの顔を引き寄せる。私の意を感じたケイは、私に唇を与えてくれる。私の胸は勝利の快感で躍る。ケイは私のものだ。ケイは私のものだ!本人が認めている、私が知っている。  架空の街の中で、映像にしかすぎない群衆たちに大声で私は叫びたい欲求にかられる。しかし代わりに、物言わぬ観客の前で、新宿の大通りの中心で、通り過ぎる映像の人々に私とケイの口付けを見せつける。  祝福してちょうだい! 私は理想の恋人を手に入れた。  ここが本物の街で、観客たちが本物の人間だったなら、世界は私達二人が恋人であることを認識できるのに!  今は出来ない、しかしいつか、夢をかなえてみせる。きっと。  私は、幸せだ。 8  ケイと亜美を会わせた次の日から、実験によって見つかった反省点、ロボットたちの個性の主張を強化する計画が推し進められることになった。それとともに、亜美チーム、ダニールチームと共同で、ひとつのシナリオを組むことになった。  お偉方への発表用シナリオである。  我が岸田人工知能研究所は、日本でもっとも有力な倉門グループのなかの、倉門重工の一部門に所属している。そのスポンサーである倉門グループの重役たちが、私達の実験の成果を視察にくるのだ。  企業展における倉門重工のイメージ宣伝用として、私達のロボットは倉門ブースのメインになる。一般公開を前に、公式に確認をするというのが、視察の理由だ。 「わざわざそのために余計な仕事がふえるんだから、たまらないよな。」  鳴海達若いスタッフは不平たらたらだが、私達責任者や岸田所長はそうもいかない。説明によりお偉方に与える影響がそのまま来年の予算の増減にかかわるのだ。  専門的なことはお偉方に説明しても分からない。必要なのは重役達に単純明快に、ロボットに対して性能以上の良い印象を持ってもらうこと、払った代価以上の成果を我が研究所があげているということを納得させればいいのだ。  二、三本のシナリオの上演、その後の重役達とロボットのの会話。その後、その場でロボットのメカニズムの説明。これが取り決められた「発表会」の骨格だ。  私達はそれぞれの実験体の発表会用に、調整を行なっていく。  骨格が決まってから一週間、ようやく基本的な台本が出来上がり、リハーサルを岸田所長を前にやることになった。その日私は非常に困った事態に直面していた・・・・・・・・。  電子メモと感応データーディスクを研究所に忘れたまま帰ってしまったのだ。  リハーサルのための追込みの作業に没頭する日が続いていて、私の疲労もピークに達していたのも理由のひとつだ。昨日はリハーサルに備えて、所員の半数が泊込みの作業をしていた。そのために私はケイとの密会が出来なかった。追込みによる作業の延長が決まったのはその日の終業間際、私はケイとの密会の準備をしたことさえ忘れてしまうほど疲れきっていた。  あのメモの内容を見られてるわけにはいかない。致命的なミスだった。あのメモには私の計画の全て、ケイを自分の物にするべき私の計画が細かに記してある。あのメモを所員に見られたら、私は破滅だ。  自宅で気付き、朝早く出勤した。早すぎては疑われる。常識のなかでの早い時間だ。  最近の私の出社時間は遅いほうだった。明け方近くまで修正作業をしているため、睡眠時間がどうしてもずれ込んでしまうのだ。  出社した私を迎えたのは、疲れた様子を見せながらも、作業を続ける鳴海達、若い所員だった。  挨拶もそこそこに私は自分の机に向かう。  ない!  記憶は完全なはずだ。私はメモを自分の机の上に忘れた。忘れたはずだったのだ!  机の上を探す、机の中を探す、机の下を探す、隣の机を探す。  ない! ない! ない!  私は拳を胸の前で握り、必死に心を落ち着ける。深呼吸をする。何とか、表情だけでも平常に戻さなくては。心臓の鼓動は、目には見えないのだから。  ダニールチームの神崎博士と、亜美チームの香と共に、部屋を回り、リハーサルの確認をすると同時に、私はさり気なく、真剣に、メモと、データーディスクを探す。  どこにも見つからない。  時間だけがすぎていく。やがて、所長の岸田博士が来社し、私達はリハーサルを行なう感応機室に入る。  主に所長に説明するのは、ダニールチームの神崎博士だ。私と香はその会話の補足や、相槌を打つくらいだ。この法則と慣習は研究が始まってから変わっていない。 「・・・・・・・・神崎くん、ロボットたちの性格づけは、どうだね。」 「まあ、うるさくならないように気をつけています。機械がしゃべり過ぎて軽く見られるのは避けたいですから。」  二人の会話に、香が割って入る。 「プログラムらしく見せず、応対に幅をもたせるのにも、控えめに喋らせるのは、好都合ですわ。」 「その通りだな、香くん。そういえば、感応機での演出の後、お偉方とロボットが話すことになっているが、神崎くん、その対策はどうかね。」 「今までの実験体の経験の積み重ねでも大丈夫ですが、一応予測できる質問用に調整はしてあります。」 「お偉方といっても、どうせ政治屋達だ。亜美もいるし、下品な質問を向けられる可能性もある。それも大丈夫かね?」 「はい、スポンサーの感情は損ねないように、気を使っています。」  慌ただしく所員が動く中、私達は椅子に座って会話をしている。私は会話に集中出来ない。適当に相槌を打ちながらも、メモが気になって視線をさまよわせてしまう。  ライトが一段暗くなり、私達は会話をやめる。 「そろそろ始めます、こちらにいらしてください。」  所員の声に、私達は隣の部屋が見られる大きな窓の前に立つ。中には、三体のロボットが、体の各所に受信機を付けて立っている。 所員の一人が感応機を作動させるために、カウントダウンを始める。  操作盤に着いた鳴海が、つぎつぎとスイッチを入れていく。私の目は鳴海の手を追い、次の瞬間、凍り付いた。  そこに私のメモがあった!  私はケイとの密会を準備していた時に、操作盤の上に置き忘れていたのだ。  私の心臓の鼓動が跳ね上がった。何とかごまかせるだろうか?昨日から、たくさんの所員がこの部屋を行き来している。誰も私のメモの内容を読んでいないだろうか?  私の位置から操作盤の反対側のメモのある位置まで三メートルある。この部屋にいる人数は全部で八人、何気なく移動し、メモを取るのは不可能だ。  実験が終わってから回収しなければならない、しかしそれ以上の困難な事態が私を待っていた。  新宿のデーターディスク!私はそのデーターを、見つかっても言い訳が出来るように私達で用意した感情プログラム実験用のデーターと、同じ外見の物を用意してあったのだ。見分けるものはただ一つ、ラベルの左端に目立たないように塗られた赤い線だけだ。  そのディスクが、今、リハーサル用のディスクの一つとしておかれている。誰かが間違って置いてしまったのだ。  あれが再生されれば私は身の破滅だ。あのディスクには私とケイの愛の軌跡が全て細分洩らさず書き込まれている。 「では、はじめたまえ。」  驚きとためらいが致命的な結果を呼んだ。メモに気をとられていた私は新宿のデーターディスクを回収する機会を逸してしまったのだ。ディスクは再生され、私の秘密は所長達の前に暴かれてしまう。  私は神に祈ることしか出来なかった。私達の愛をなくさずにすむのならどんな代償を払ってもいい、名も知らぬどこかの神に祈った。助けを願った。  その時奇跡が起きたのだ。  ブツン。  ロープが切れるような音がスピーカーから出たかと思うと、突然全ての電源が落ちてしまったのだ。 「どうした? 停電だと?」  暗闇の中、混乱した神崎博士の叫びが響く。所員の何人かが感応機室のドアを空ける。廊下の非常灯が、操作盤を照らす。  私はその瞬間、データーを感応機から引き抜き、他のディスクと交換した。  白衣のポケットにデーターを押し込むと、冷たい汗が背中に一気にふきだした。  私以外の所員は部屋から出て、停電の原因を探しにいってしまっていた。メモを手に入れてから私も皆の後を追った。  私は祈った神に感謝した。  停電の原因は、他の部屋の実験用の機械が使用者もいないのに作動をしたままだったため、感応機を動かしたことにより過電圧がかかり、ブレーカーが作動したのだ。  事故の要因はふたつあった。前日からの準備作業のための多すぎる仕事量により、所員全体のチェックがおろそかになっていた事と、実験体三体に同時に体験させる感応機の必要電力が高いのに加え、モニターの機能も最大限に必要とするためであった。研究所はこれらかってない程の機器の同時作動状態により、過負荷の悲鳴をあげたのだ。  その後リハーサルは無事に終了した。  夜、私は寝る前に、名も知らぬ神に感謝の祈りを捧げることを忘れはしなかった。 「ケイのチェックなんですが、交替制にしませんか?」  鳴海の口から驚くべき提案があがったのはリハーサルを終えた次の日の午後だった。  私は即答できなかった。あまりにも理不尽な鳴海の提案は、私から完全に思考を奪ってしまった。   しかし、ここで感情を出してはいけない。むきになってはいけない。私は何気ない表情を必死に装い、問いかける。 「鳴海君、どうして?」 「いや、最近何だか鈴本博士の顔色、悪いですよ。連日夜まで仕事させちゃって、所員一同すまない気持ちがあるんですよ。お疲れのようですし、もし良かったら、僕だけでも手伝えればと思いまして・・・・・・・・。」  鳴海にしては迂遠な言い方だ、気を使ってくれているのかもしれない。私は無理に自分に言聞かせる。そうしなければ、善意を装って私の幸福を奪おうとする鳴海に、掴みかかってしまうだろう。  もちろん鳴海は故意に言っているのではない。それは頭では分かっている。しかし、私のなかの暗い部分が、無分別な警戒信号を出すのだ。私はその暗い情念に動かされ全てを吐き出す衝動を押し込んでいる。 「鳴海君、心配してくれるのはうれしいわ。ありがとう。」  私は微笑み、鳴海も私に笑顔を向ける。私は自分が鳴海よりも年上なのを利用して、鳴海の行動をたしなめるべき言い訳を紡ぎだす。「たしかに無理をしているかもしれないわ。健康に気を使ってくれるみんなの気持ちもうれしい。手伝ってくれれば効率的なのかもしれないわ。でも・・・・・・・・でもね、この仕事は私の夢なのよ。今それがかなうかもしれない最初のステップなの、これだけは、この最初の仕事だけは・・・・・・・・。私は実感したいのよ。自分で立てた計画が、毎日少しづつ実現していく感触を感じていたいの。わがままなのは分かっている。女の頑迷さなのかもしれないけど、私にさせて欲しいの。」  私は三十を越した、結婚も考えず、実験のことしかない頭の堅い女だ。その女の最初で、最後の、理不尽ゆえに強い願い。そんな印象を鳴海にもたらせ、同情を誘うべく私は論理を組み立てる。  鳴海の目が心配そうに私を見つめている。その中にあきらめの光が宿るのが見えて、私は勝利を確信する。 「わかりました。でも体だけは、本当に気をつけてくださいよ、鈴本博士。博士あっての、ケイ・チームなんですから。」 「ありがとう。鳴海君。」  笑みを浮かべて私はうなずく。勝利と安堵の、笑み。  私とケイの恋は誰にも邪魔は、させない。  夜、私は感応空間でケイと共に過ごす。私の作る理想の新宿の街の他にも、数は少ないが研究所には規格品のソフトがある。私達は他の国や、海底や、火星を歩く。  私達は今、月面を歩いている。五年前に出来た工業ドームが太陽の光に輝き、その表面は正面の視界をほとんど埋める青い地球を映している。  色々趣向を凝らしているが、見慣れた景色になりつつあるのが少し残念だ。  感応機のソフトは巷に多く溢れている、しかしこの研究所にある感応機の機能を十分に使いこなすものは皆無だ。市販の物は再生できるが、解像度は荒く、感触も物足りない。互換性はあるにはあるが、市販の感応ソフトを再生するには、実験用感応機は役不足なのだ。  私の不満は本来、過ぎた願いなのだろう。映像や感触、つまりムードなど私には二次的なものにしかすぎない。ケイの前では全ての物が色を失い、私はいつしかケイだけを見つめてしまうのだから、景色に気を配る必要などほとんどない。  私は幸せだ。横を歩くケイの腕を抱き、肩に私の頭を乗せる。幸福感が私を満たし、息をはく私の唇はいつのまにか微笑みを浮かべている。 「静子、今日は何だかうれしそうですね、何かいいことがあったんですか?」  ケイの問いに、私は顔をあげる。ケイの目を見つめる。ケイの眼の中に、軽い驚きを浮かべた私の顔が映っている。  私は興奮している。ケイと会っているのだからそれは当然だ。しかしそれだけではないのだ。ケイと二人だけの世界にいる幸福感が、最近にはないほど私の中で、高まっているのがわかる。  自問してみて私は気付く。安心感と緊張感だ。そのスパイスが私の幸福感を増してくれている。  今日の鳴海の提案、私はケイとの時間を奪われることを防いだのだ。その安心が、弛緩し始めていた私とケイとの緊張感を刺激したのだ。私とケイの関係の危うさを、ケイといる時間がどれだけ貴重なものかを私は今、無意識に再確認していたのだ。  私の顔に理解の色が広がるのを見たためだろう、ケイは私の顔を覗き込み、微笑みながら再び私に問い掛ける。 「おかしいですよ静子。一人で思い出し笑いなんかして、今日、そんなにいいことがあったんですか?」  ケイの表情に好奇心がある。私はケイの感情表現に科学者として感動する。恋人が私を知りたいと思ってくれている。小悪魔的な感情が私を動かす。 「知りたい、ケイ?」 「ええ、なんですか?」  私は笑い声をあげて、小走りにケイから離れ、ふりかえる。 「鳴海君がね・・・・・・・・ふふふ・・・・・・・・教えてあげないわ、ケイ。とてもいい事があったのよ。でも秘密。」  ケイの表情が何とも言えない微苦笑のようなものを浮かべている。困ったままのケイに私は力一杯抱きつく。  私は小娘のようなことをしている。ロボットに、嫉妬心を抱かせる演技をしている。ケイは焦れてくれているだろうか、他の男の事を考えて妬いてくれているだろうか?  私はケイに自分の唇を重ねる。私は恋をしている。誰にも真似の出来ない、私だけの恋人と私達だけの恋をしている。  私は幸せだ。  私の恋は、誰にも邪魔はさせない。 9  何のトラブルもなく、お偉方への発表会は、終わった。リハーサルと同じ事をして、予想どおりの無知な反応を得た。それだけだ。 「だからあんな人たちは、分かってないんだ。全然!」  酒に染まった息で、鳴海が突然言い出したのは、発表会が終わって二時間後、駅の近くの飲み屋のことだった。  一応一つの区切りがついたということで、誰とはなしに企画され、私達ケイチームは安酒場の座敷でささやかな飲み会ということになっていた。  鳴海はずっと、不機嫌だった。あおるようにビールを喉に流し込み、すぐに手酌で次をつぐ。他の所員が止めても聞かず、早いペースで酒を飲み続けていた。  その鳴海が大きな声で、独り言を始めたのだ。  「所長も所長だ、あんな奴らにしたり顔で説明しやがって、どうせ聞いちゃいないんだよ。会長のじじいなんて、うたた寝してたのを俺は見ましたよ!」 「ちょっと、鳴海君・・・・・・・・。」  私はテーブルに伏せたまま醜態を見せる鳴海の肩を揺すって声をかける。鳴海の酔った眼が私を見た。 「鈴本博士。」 「はい?」  薮蛇だったと思ったが一応返事はしておこう。彼の気持ちは分からないでもない。 「おれたちは新しい命を造る研究をしているんですよね。真の人工たる、人によって造られる自我を持つ機械。」 「ええ、そうだわ。それが岸田人工知能研究所の目的よ。」 「じゃあ今造っているあれはなんですか? お偉方に絶賛を浴び、岸田所長が満足感たっぷりに見ていた三体のロボットは! あれがおれ達の目標だとでも言うんですか? 笑うべき時に笑い、泣く時に泣く、たしかに人間みたいに動きますよ。しかし奴らは違うんだ。自分で物を考えない、自分で何かを作り出そうとしない、自分の価値観を持っていない。意欲がない、意志がない、自分がない、根本的に何かが足りないんだ。それなのに、おれ達はあたかも人間を造ったように宣伝しなくてはいけない。お偉方をだまし、他の人たちもだまし、自分の心さえもだまして、反応機械を作っている。感情ボタンを押されたらそれを行なう人形を画期的な人造人間だと宣伝して、本当にこれでいいんですか?」 「おい、鳴海、酔って絡むなんてみっともないまね、やめろよ。」  止めに入る所員の声も元気がなくなっていた。鳴海の声は所員たちの心の中そのものだったのだ。  感情を表現することを第一の目的としたロボット。状況から分析をし、与えられたプログラムを組み合わせ、その場所にあった判断をして表情を浮かべ言葉を発する。人間のようにスムーズに、人間のように豊かに反応をする機械。  岸田人工知能研究所が望んだロボットはそういうものでは、なかったのである。  昔のSF小説には、機械が自我を持ち、人間に反抗するものがあった。自分を守るためには他人を傷つけるのさえいとわない。冷酷な機械。たしかに冷酷なのかもしれない、しかし他者に強制されず自分を守ろうとする時点で、その機械自身は自分と他者というものを見分けることが出来る、人間と対等といってもいい存在なのだ。  私達はそのような、新しい生命体を造ることを目的とした研究所の所員なのだ。  しかし、我が研究所が造り得た機械は理想とはかけ離れた存在だった。  実験体たちには意志がない。私達が作り上げた個性に従い、すばらしい感情表現はするが、そこまでなのだ。他者に対して喜ばせようとか、自分から他の者に語りかけることは強制しなければ、出来ない。自分で考え、自分で行動し、自分の考えを発展させ、時には強制された命令をはねのける、そういった強さを彼らは全く待っていないのだ。  現在我々の研究所では自我を持つ機械という研究も日々行なわれている。実験体を使ったプロジェクトに関わらず、機械に自我を持たせる研究を行なっている部署は研究所が作られて五年、まだ有効な実験結果を得ていない。  私達全員の歯痒い思いが、実験を見ているお偉方の行動で内圧を増し、鳴海の口から吹き出したようなものだ。  私達はそれを自覚している。私達は真剣に止めることも、むきになって否定することも出来ず、鳴海は独り言を続ける。 「お偉方は言っていたよ、あいつ等がもし愛玩用に商品化されれば、いくらくらいで量産できるかとか?たしかに奴らはそれにぴったりの能力を持っている。その程度にしかならないんだよ。商品! おれ達は愛玩道具を作るために毎日数式と睨めっこして、実験に一喜一憂してるのか? 誰か違うといってくださいよ! たしかにこの研究所は企業の所有物だけど、そんな悲しい結論を出すために、おれ達は夢にむかって努力しているわけじゃないはずだ!」 「もうやめろよ!」  一人の所員が叫び、鳴海は言葉を止めた。場は完全に白けきり、私達の間に気まずい沈黙が流れた。  みな同じ気持ちなのだ。たっせられない目的、不本意な作業と結果、それでもまずここから始めなくてはならない。完成し、問題点を発見し、そして目的へと近付くために、今の作業は必要なのだ。しかし分かっていても、理性と感情は別なものだ。一足飛びに到達できないいらだちは、私達全員の心の奥にある。  そんな沈黙のなか、私だけが心の内で鳴海に異を唱えていた。  私にとって今の実験こそが必要なものだ。私はこの実験を推し進めるためだけにこの研究所に入り、それだけを願ってあらゆる努力をした。私の言うとおりに、私の思うまま、私を絶対に裏切らない、私だけの恋人。私はケイを手に入れた、理性と感情は別のものだ。私の目的達成のために知らずに協力してくれる所員たちへの罪悪感はある。しかし、それさえもケイとの秘密の恋を演出してくれる要素にしかすぎず、狂おしいまでの甘い快楽を私にくれる。  私は幸せだ。重い沈黙の内で、私はひそかに、それを確認する。  他の店で飲み直しということになった。鳴海は気まずさと、酔いのまわりで辞退をした。私も鳴海とともに帰ることにした。  他の所員たちに手を振って、私と鳴海は駅で磁電車にのった。  磁電車のなかは、帰りの乗客でこんでいた。都内を離れるローカル線は本数が少ない、乗客は帰宅時間を磁電車の時刻表にあわせて行動する。  磁電車に乗っても私も鳴海も無言のままだった。気まずいのだろうが、鳴海の顔色が悪いのが私には心配だった。しゃべらない鳴海というのはめずらしい。  汗と人の体臭がかすかに鼻孔に届いてくる、車内では平均程度の私の身長では、男たちに囲まれて何も見えず、空気も不快だ。  疲れきった乗客たちは車両がゆれるたびに慣性に身を任せ、他人に全体重を押しつける。あちこちで小さく抗議の声が聞こえるが、誰も気にしない、みんな苦しいのだ。  それが今日は何だか少し楽だ。見てみると私のまわりに隙間が出来ている。 「鳴海君?」  驚いた、鳴海が一生懸命私の前で、乗客たちを止めてくれているのだ。私の視線に気付いた鳴海は赤い顔で私に笑いかける。その笑顔は弱々しい。私が見ているうちに鳴海の顔が、急激に赤から青へと変わる。顔に苦痛の表情が浮かんでくる。酔った状態と、電車の中のやせ我慢が、鳴海の体に嘔吐の発作をもたらそうとしているのは火を見るよりもあきらかだ。 「鳴海君!」  口を押さえた鳴海が屈みこむ寸前、電車が駅に止まる。  ドアが開くと同時に私は鳴海の手を取って、走りだしていた。 「我慢しなさい、もう少しだから!」  答える余裕もない鳴海の手のを引いたまま、私は目をあちこちに向け、トイレを探す。  あった!  私はそこへ鳴海を連れていき、背中を押す。 「すいません・・・・・。」  ふさいだ口の間からやっとその言葉だけを絞りだし、鳴海はトイレに駆け込む。 「ふうーっ。」  私はトイレの入り口の壁に寄り掛かり、安堵のため息をつく。たすかった。目の前で吐瀉物を見なくてすんだのは幸運だった。鳴海はよく我慢してくれた。  私が安心感に脱力していると、何人もの人が私の方向へ歩いてきた。トイレの場所はホームから改札への通過点にある。帰宅する大勢の人が私の前を通る。  私達と同じ磁電車に乗っていた人たちだ。私と鳴海の焦りまくった態度をこの中の何人かは見ていただろう。そう思うと、恥ずかしさで私の頬が熱くなってしまう。  私は通行人たちの視線が私に刺さるのを感じながら、うつむいている事しか出来なかった。鳴海のことが心配で、離れるわけにはいかなかったのだ。 「どうもすいませんでした・・・・・・。」  しばらくしてから鳴海がトイレからでてきた。顔も手も水で濡れている。ハンカチ一枚では拭いきれないほど徹底的に洗った結果だろう。 「はい、私のも使って拭きなさい。」 「はぁ・・・。」 「遠慮なんかいいから。」 「すいません。」  洗って返すというので私はハンカチを鳴海に貸したまま次の時刻の電車を調べる。 「三十分後ですね。鈴本博士、つまんない事で迷惑をかけちゃってすいません。」  私が不意にくすくす笑いだしたのをみて、鳴海が私を見る。 「なんかおかしいことおれ、言いました?」 「鳴海君、さっきから、何言ってもすいません≠オか言ってないわよ。」 「はぁ・・・・・・・・どうも・・・・・・・・すいません。」  言ってから鳴海は気付いたらしく二人でしばらく笑った。  誰もいないホームに上がって私達は椅子に腰掛けた。 「そんなに気にしないで、鳴海君。こんな駅に下りることっていつもはないじゃない。通り過ぎるだけの駅の景色をじっくり見るのって私、好きなのよ。」  これは私の本心だ。駅の側に見慣れたファーストフードのチェーン店を見付ける、気付かなかった奇妙な看板や、建物、見覚えのある建物の細部を見る。そんなことが昔から私は何故か好きなのだ。  私の知らないところで、全然知らない人たちが、全く知らない生活をしている。  私の知らない人たちが、私など知らぬまま、おそらく一生交わることもなく生きている。身近にあっても、全然知らなかった景色を見てそこに生きる人の生活環境を想像するのは楽しい。  自分と同じように、悩み、考え、生きている人がいることを認識することは、この世界が、決して目に見えるものだけではなく、たくさんの人や命の力で動いていることを私に教え、抽象的だが、私に世界の広さを認識させるのだ。  私は半ば独り言のように鳴海に自分の考えを披露した。鳴海はときどき相槌を打ちながら私の考えを聞いていた。  どこか遠くで車のクラクションが鳴った。それが久しぶりに聞こえてくる外の音だった。駅の外の店達は光を失ってはいず、未だ夜は長いことを誇示していたが、騒音は駅まで届いてはこなかった。静けさが私達を包んでいた。 「博士、見てください、星がきれいですよ。」  鳴海の声に、私も空を見上げる。夜空に輝く星達が私の視界を染める。  星空をゆっくり見るなど何ヵ月、いや何年ぶりだろう。思わずため息がでる。 「鈴本博士、宇宙人の存在って信じます?」 「え?」  思わず鳴海の方を向いたが、鳴海は空を見上げたまま言葉を続けた。 「いや、UFOとかそういうものじゃなくて、純粋に知的生命体はこの見上げる星のなかにいると思いますか?」 「私達がこうしているんだから、いてもおかしくはないでしょう。」 「ぼくが、子供の頃に読んだ本はそうではなかったんですよ。その本によると、生命体を構成する蛋白質さえ、天文学的な数字の確率ではなくては出来ないというんです、そしてその蛋白質が生物になり、進化して、意識を持つなどというのは全くありえない、この世の何よりもゼロに近い確率の奇跡だそうです。だから他の星に宇宙人がいるなんてありえないというんですよ。まぁ確かにそうかも知れません、頭では分かりますが、気持ちでは納得しませんでした。」 「そうね、私達は当たり前のようにここにいるわ。それが奇跡といわれても、ちょっと納得できないわね。」  鳴海は私に向き直り、言葉を続けた。 「そしてぼくたち人間だけが、自分というものがあると理解できるんです。我想う≠チてのありましたよね、人間だけが、自分と他人と世界を距離を離して考えられるんです。他の世界や、他の国、他の星まで空想することが出来るんです。これはすごいことじゃありませんか?」 「それが自我ってことかしらね。我想う、ゆえに我あり℃ゥ分と他人を別の立場として認識して世界の広がりを自分のなかに取り込むのが人間ということになるのかしら。」 「もしこの全宇宙に自分と世界を認識できる生物が地球人一種類しかいないとすれば、宇宙全てにこの地球という奇跡の世界を広げることこそ、地球を認識できる生物の義務じゃないか、極端ですが、そんなことを考えたこともありました。それは今すぐには出来ない、しかし、ぼくたちはぼくたち自身の手で、人間を作れないのだろうか?それがこの仕事を選んだ理由なんですよ。」 「私達以外の地球人ということね。」 「ぼくたちが作り上げる、自我を持つ生命体です。」  スケールの大きな話だ。しかし、私達はそんなとてつもない話を現実に実現させるべく日々を研究に費やしている。  磁電車が到着し、私達はそれに乗り込んだ。鳴海の意外な一面をまた垣間見てしまった。磁電車のなかではさっきのような話は出来ず、私は別れのあいさつをして、磁電車から降りた。  家に帰ると小包みが届いていた。  一週間前、通信販売で注文した品だ。  スタンガン。  護身用に作られた武器だ。成人なら何の問題もなく手に入れられる武器。  電動髭剃を想わせる外見で、握りのところのスイッチを押すと、電極から瞬間的に大人でも気絶させるほどの高圧電流が、青い火花となってスパークするようになっている。  試しに使用して、青い火花を見たとき、びっくりして落としてしまった。意外に大きな音もする。こんな攻撃的で物騒なものは私とは無縁なはずだった。一週間前のあれを見るまでは。  一週間前、リハーサルの時に起きた事件。あの時の停電で、研究所全体は一時的に全機能を凍結した。全ての非常用電圧は、データー保存用に回されてしまうため、警備機能も止まってしまうことを私は知った。その情報は私に大胆な計画を立てさせることになったのだ。  このスタンガンを使えば、一時的にしろ、研究所の警備機能を殺すことが出来る。私はケイをつれて逃げることが出来るかもしれないのだ。ケイと現実の街を歩くことが出来る。感応機の虚構ではなく、さまざまな場所に二人で行けるのだ。  軽々しくは出来ないことは分かっている。それをしたら私は二度とケイに会えることはなくなってしまうだろう。  しかしいつでもできるという安心感は欲しかったのだ。スタンガンを手にした今、ケイとの駈け落ちはいつでも実現可能になったのだ。  スタンガンの青白い火花のなかに、私とケイの寄り添う幻影が見える気がして、私は笑みを浮かべる。  私は幸せだ。  私は恋をしている。この恋をいつか、私は完璧なものにしてみせる。 10  次の日、出社して、廊下を歩いていると若い女の子と談笑している鳴海に出会った。  鳴海は私に気付くと、女の子を後に従えて近付いてきた。女の子は私に向かって会釈をする。ポニーテールの頭が、元気よく振られる若い仕草に、私は軽く会釈を返す。 「昨日はどうも、みっともない事しちゃってすいませんでした。」 「気にしないで。それより、後の方は?」  私の問い掛ける視線に、女の子は少し胸を張って答えた。 「私、相川久美といいます。オーディションに応募させてもらって、ロボットの相手役に選んでもらえたんです。」  私は理解する。一ヵ月前、私が非番の時に行なわれたオーディションの入選者というわけだ。 「そう、相川さん。私はケイチームの主任の鈴本といいます。頑張りましょうね。」 「はい! 鈴本博士ってすごいですね。人間に近いロボット、たしかアンドロイドって言うんですよね。世界で類を見ないアンドロイドの実験をしている主任さんが女性だなんて憧れちゃいますよ。」 「それは光栄ね。相川さんは、まだ学生?」 「はい、専門学校生で、今年、二十歳になります。」 「将来は役者さんかな?」 「ええ、そうなるために勉強してるんですけど、難しくって。」 「私もあなた位の時、今の地位なんてとても想像できなかったわ。今回の実験があなたの目指す職業の経験に役立ってくれるといいわね。お互い頑張りましょう。」 「はい! よろしくお願いします!」  私の差しだした腕を両手で握り、久美は強く力を入れる。若さと希望にあふれた強い弾力を、私の手に残して久美は鳴海と供に去る。  それが私と彼女の最初の出会いだった。  そして一週間が経ったのだ。苦痛と、屈辱に染まった、悪夢の一週間が。 「今日はケイと残って打ち合せをしたいんです。二人だけで。鈴本博士、どうか許可をお願いします!」  久美は熱の入った仕草で私に頭を下げる。 所員たちが応援をしている久美の熱意に、私が水を差せば私が非難される。  私は心の内で、久美の行動にあらんかぎりの呪いの言葉をはきかけた。しかし口に出したのは、 「二時間だけです。二時間だけ感応機室を使うことを許可します。私は控えていますから、終わったら私の所まで来てくださいね。」 「ありがとうございます! 鈴本博士!」  久美はもう一度、深く深く頭を下げて礼を言う。その声が自分の熱意が通じた感動と誇りに震えているのを感じて、私は目の前が暗くなるような憎しみにかられる。  私の憎しみで彼女の心臓を貫くことが出来るなら!  一週間!  私のケイに初めて触れてから一週間しかたっていないのに、この娘はケイを独占しようとしている。私のケイを!  久美の役割は本番である企業展用のお芝居の相方だ。  半年の間行なわれる企業展は、マスコミの注目度も高い。  日本の誇る大企業、倉門重工における出展のメインをつとめる岸田人工知能研究所の人造人間は、今回の企業展の大きな目玉のひとつだ。  私達研究所が、より大きな宣伝効果として選んだ方法は、「やらせ」番組を作ることだった。  企業展が始まってから一週間は、毎日全国のテレビ各局が企業展の中継を行なう。  その番組の内でその日観光客が起こしたハプニングは、小さく、しかし確実に放送される。  その中にロボットたちの映像を生で収めさせるのだ。どじなカップル。乗り物で悲鳴をあげる男。うるさくカメラのまわりを回る奴。それを違ったシナリオ、状況で、三体のロボットで手をかえ品をかえ、印象付ける演技をさせる。  ロボットたちは企業展が始まってから二週間後、初めて公開される。その時に初めて人々は気付くのだ。ハプニングを起こしていた人の何割かは同じ人間が、意図的に演じていた事を、しかもそれは人ではなく、ロボットだということを。ロボットがどこまで人間臭い仕草が出来るか、視聴者たちは知るのである。  ロボットの演技をサポートするのは事情を知った人間ではなくてはならない。わざとらしくなく、画面に印象を残す存在。  その役者の一人が久美なのだ。彼女の与えられた役割は二つ。亜美の友達と、ケイの彼女役だ。  久美は役者を養成する専門学校の学生だ。年令は二十歳。亜美の友達とケイの恋人を兼ねる、ベストの年令だ。  画面を通じて視聴者に印象付ける役割を持つ彼女の容姿や、仕草は、同性の私から見ても魅力的だ。秘密裏に、しかし広範囲から求めた候補者の中でも久美は一際、抜きん出ていたそうだ。  彼女のなかにも野望はあるのだ。久美のこの仕事に傾ける情熱は、彼女の行動の端々から感じることが出来る。  この計画は彼女の二十年の人生の中での最大のチャンスになるだろう。全国ネットで、何のコネもなかった少女が注目される存在になるのだ。若さと、情熱。久美の存在はあまりに眩しいものだ。  最初の頃ぎこちなかったケイとの掛け合いも、彼女自身の努力と周囲の協力によりどんどん理想的なものになっていった。  私では出来ないケイとの親しい関係を久美が育んでいくのを、微笑みさえ浮かべて見守らなければならないのだ。  彼女は祝福されている。ケイとの関係がうまく行く事をみんなが望んでいる。周囲の協力、若く明るい魅力、健康的な肢体、私がいくら望んでも決して手に入ることのないものを全て久美は自然に持っているのだ。  憎しみ、私は久美に憎しみを感じている。  しかしそれ以上に悔しく感じるのは自分自身の置かれた状況だった。  私は理想の恋人を造るために、この研究所を職場に選んだ。人工知能の研究という名目で、私個人の欲望を満たすため、必死に本心を隠し、私自身のの計画を研究所の命題と組み合わせ、働き掛け、テーマをかかげ、矯正し、ついに実験体という名の恋人の体を手に入れたのだ。  恋人の魂も私は作り上げた。私の望んだ通りに話し、私だけを見て、私の価値観を自分の理想とする彼の性格を作り上げた。  計画は完璧だった。完璧に成功した。  しかし、出来上がった私の恋人は完全には私の恋人にはならなかった。表現には誤りがあるかもしれない。ケイは私のものだ。ケイの体、ケイの魂、ケイの髪の毛一本さえも、私のために存在する。私達は完全に恋人同士だ。ケイ本人と私がその事実を知っている、認めている。  しかし、しかしケイと私は公認の恋人同士では、ないのだ。  研究所の中で誰一人、いや、世界中の誰一人としても、私達の仲を知らない。  そして今日も、ケイと久美は恋人の演技を練習するために私のいない感応機室にいる。二人だけで。  そうはさせない。今の時間は午後七時。所員たちのほとんどは帰っている。私は今、誰もいない会議室で、一人モニターを見ている。モニターには、感応機室から出力された映像が移っている。私は久美とケイから離れた部屋で、モニターを通して久美達を監視している。その事実を彼女は知らない。私は久美に気付かれる事無く、彼女とケイが何をするか、全てを把握するのだ。 「いい? ケイ。」 「はい、久美さん。」  二人はシナリオを一つ終えた後だ。二人で歩いている時に、久美が転んでソフトクリームをケイの服に落とす。焦りまくったケイと、おろおろする久美との裏返った声で奏でる甲高いハーモニー。それがシナリオの骨格だ。それがどうもうまく行かないらしい。久美は不満を持っているようだ。 「私がまだわざとらしいのは分かっているわ。私の演技、大げさかしら?」 「すいません、私はうまく久美さんの演技を評価できません。私のメモリには理想的な相手の演技、というのも入っていますが、あなたの自然な演技というものを、私達は必要としているのですから、あなたの演技に対して口を出せるのはスタッフたちだけです。」 「研究所の人たちも無責任といえば無責任なのよ。」  おやおや。私はモニターの前で苦笑する。私達の言うことに必死に耳を傾けて、一生懸命演技を練習していた久美が愚痴を言い始めた。 「私本来の演技を見せてくれればいい、なんて言っておいて、私がシナリオを終えるときまって残念そうな顔をしている。気を使って笑い掛けてくれても全然駄目、目が笑っていないのがすぐに分かるわ。私、あなたが反応強制を受けているのを見せてもらったことがあるの。  そりゃあもう私の時とは大違い、『ケイ、何をしているんだ!反応速度が0,7遅いぞ』とか、『表現率を1,3落としてみてくれ』とか・・・・・・・・真剣さが違うのよ。たしかにあなたは機械だわ。言われたことを完璧にこなすことが出来る。  でも私は人間なのよ! 表現率を1,3なんて出来ないじゃない、それを勝手に私が機械じゃないからって、言ったことが正確に出来ないからって失望しないでほしいわ!」  久美は自分の言葉に高ぶりはじめた。言いながら目に涙がいっぱいにたまっていく。悔しさで唇を噛み締め、涙が落ちないように努力しながら言葉を続ける。たしかにこの娘には才能がある。言葉の間、感情の表し方、引き出す台詞。彼女の全身が感情を表している。オーディションで選ばれた彼女の才能は偽物ではない、見ているだけで分かる魅力だ。 「そんなことを研究所の人たちは考えてはいませんよ。」  ケイがやさしく声をかけた。自然な様子で、久美の肩にケイの手が置かれる。私は食い入るように画面を見つめることしか出来ない、まだ約束まで一時間ある。あの部屋に私は飛び込めない。  ケイはシナリオを実行している。シナリオナンバー53、感情表現の方法にしたがってケイは行動をはじめている。「悲しむ人を慰める。」私は次の台詞さえ予想が出来る。 「私達はあなたの、人としての演技が必要なのです。久美さんが、私達のようだったら、どこかに歪みが出来てしまうんです。完全に制御されているロボットだけでは視聴者の興味を惹けない、これが私達の出した結論です。だから久美さん、私と違うからといって自分を攻めるのは間違いなんですよ。私達の、ともすれば無機的になってしまう演技を、あなたのやわらかい行動で包んで、視聴者により強く私達を印象付けるんです。私達と同じどころか、あなたはそのまま頑張ってほしいんです。これは所員たちの本心です。」  ここでケイはわずかに首を傾け、久美を見る。浮かべる表情は「微苦笑」だ。 「久美さんの人としての暖かい演技が必要だとしても、所員が苛立ってしまうのは、すいませんが許してくれますか。笠森博士をはじめ、何人かの人は気付いて直すようにしているんですが・・・・・なんせもう何ヵ月も、自分の作った絵を私達ロボットを使って完璧に描きだすという作業をしていたんですから、その癖がまだ抜け切らないんですよ。」  久美がぽかんとケイの顔を見つめている。その頬に徐々に赤みがさしていくのを見て、私は思わず自分の指を噛んでしまう。  鳴海が考えて、久美達アルバイトの保険としてソフトに入れておいた台詞だ。演技を要求されたとおり完璧にこなす機械、それは役者にとって、もっとも驚異的な存在だ。私達は、ロボットに対して人間の役者が敵対心を持たないように、ロボットから役者に本当のことをつげ、人間臭い演技でロボットを助ける気を起こさせるように仕組んでおいたのだ。それが今、私にとって最悪の状況で、私にとって最悪の効果を現している。  久美の表情で分かる。  久美はケイに、好意以上のものを持ってしまったのだ。 「驚いた・・・・・・・・ケイ、私を慰めてくれるのね。・・・・・・・・感動しちゃった。」 「ありがとうございます。」  ケイが笑みを向ける。照れ臭そうに久美は後を向く。  そして消え入りそうな声で、言ったのだ。 「私達、恋人同士の設定よね・・・・・・・・。」 「はい、久美さん。」 「私ね、まだ男の人と付き合ったことなかったのよ。・・・・・・・・こんなふうに優しくしてもらったのだって、てんてん初めてだし。」  久美は自分の言葉に舞い上がってしまっていた。ますます熱くなる頬を両手で押さえ、ケイを見る。  狂おしい衝動が私の体で荒れ狂う。反射的に立ち上がり、ドアノブに手を掛ける。目の前が暗くなるような怒りは、ノブの冷たさで少しだけ私の中に押しこめられる。  冷静さを失ってはいけない。私は必死に自分を鎮める。  今、感応機室に飛び込んで事態が好転するだろうか?答えは、否だ。真実を久美には話せない。久美はケイに好意を持っている。私とケイの関係を知れば久美の好意は嫉妬に変わる。憎しみは、私に向けられるだろう。そうなったら私は、破滅だ。  私は必死に心をなだめる。私は必死に心をなだめる。冷静さを取り戻す努力をする。 「ケイはキスって、したことがある?」 「演技プログラムの中にそういう場面があります。」 「・・・・・・・・私は、一度もないわ。」  ケイの言ってくれた嘘に私の心の中で久美への勝利感が沸き上がる。ケイと私の関係は絶対に口外しないようにケイには厳重にプロテクトをかけている。ケイは私を守ってくれているのだ。  しかし次の久美の台詞は、私の心を大きく揺さぶることになった。 「恋人同士って、どんなキスをするの? プログラムとしては、入っているわよね。」 「はい。」  久美は不意に顔をあげ、ケイを見つめた。言おうとして、舌がもつれ、ケイから目をそらしながら言葉を続けた。 「私は女優を目指しているわ。キスシーンってやってみたかったのよ・・・・・・・・ケイ・・・・・・・・相手して・・・・・・・・くれる?」 「はい。」  私はケイのプログラムを呪った。いくら呪っても、呪い足りなかった。  私はモニターから目が離せなかった。  モニターの向こうでケイと久美の唇が重なった。  私は自分が沈んでいくのを自覚した。足に力が入らずに、座り込んでしまったのが分かったのは、しばらくしてからだった。  ケイの口付けはプログラムのものだ。私の教えた私達だけのキスではない。しかし、そんな慰めでは私の心はどうにもならない。  今まで何度もケイがキスをしている場面は見ている。表現プログラムのひとつなのだ。仕方のないことだった。相手も演技と割り切っていた。  しかし、今はそうではない、モニターの久美の表情が告げている。私以外に、私以外にケイをロボットとみなさない人間があらわれたのをモニターは示していた。  私の中で、なにかが音をたてて切れた。  私は立ち上がった。心は激しく揺れても、涙は不思議と出なかった。  いや、今、私は歓喜していた。  久美の行動が私の心を後押ししたのだ。私はこの時、一つの決心をしていた。私はついに計画を実行する。今までどうしても出来なかった最後の計画を実行するのだ。  ケイと二人、研究所を出る。  きっかけが出来れば私の心を止める障害はなかった。今日は木曜日だ。計画を実行するのは明後日、ちょうどいい。  私は作業室に入り、ロッカーからパッケージに包まれたバッテリーを取り出す。充電が完了しているバッテリーをロッカーにいれ、あいた充電機の穴に新しいバッテリーを詰める。明日朝一に出社して、証拠を隠せば予備のバッテリーに充電がされている事に気付くものはいない。  このバッテリー一個でケイは二十四時間、動くことが出来る。予備を含めて十日分、全てを奪えば私はそれだけケイと一緒にいることが出来る。  すでにもう何度も私は頭のなかで計画をシュミレーションしている。それをただ実行すればいいのだ。  実行するのは土曜日だ。私はそれまでに駅のロッカーに必要なものをいれておく。土曜日は警備員も所員も少なくなる。私は充電してあるバッテリーを持てるだけ持って、スタンガンで研究所の機能を一時的に殺す。そして私はケイと一緒に逃げるのだ。本物の人間のいる、本物の世界に。  無謀? 当たり前だ。逃げきれるわけがない。しかし、時間がいくら短くてもその時世界が認知するのだ! 私とケイが恋人同士だということをたくさんの人が知るのだ!  私の最後の、最大の夢。  今までは実行するのが恐かった。それが行なわれれば最後、私とケイの関係は永遠に終わってしまうのだ。  しかし今、私の心にためらいはない。  久美がそのためらいを消してくれたのだ。久美に感謝の念がわいた。久美が約束の時間に感応機室からでてきて、私に別れを告げても彼女に笑みを向けることさえ、今の私には出来た。  私はケイを抱き締め、別れのキスをした。今日は早く家に帰って準備をしなくてはいけない。今、ケイと長い時間いられないのは淋しいが、もうすぐケイと私は別れのキスの必要はなくなる関係になるのだ。  私は幸せだ。 11  次の日、私は朝早く家を出て、磁電車にのる。  ラッシュ一時間前という磁電車のなかは乗客もまばらにしかいない。朝日の差す窓の外とあいまって、何だか新鮮な景色だ。  私は端の席に座り、自分の横に旅行カバンを置く。キャスターつきの重いカバンは固定しておくのにも一苦労だ。  思わずあくびが出た。眠い。家に帰ってきてからいそいでバックに中身をつめたはずだったのだが、作業が終わったのは深夜になってしまった。  計画を考えたときからもうバックの中身は決まっていた。詰めて、いつでも持ち出せるようにしておいたのだ。  しかし実行の時になってみれば、次から次へと必要なものが頭に浮かび、あまりの重さに取捨選択を繰り返し、睡眠時間はほんの少しになってしまった。  代償はあったが、バックの重みを感じると、私の心は楽しい気分に包まれるのだ。  私とケイの思い出を作る材料がここにある。その認識はバックの手触りを確かめる私の唇に軽い笑みを浮かべさせる。  研究所のある駅にはいつもより一時間早くついた。私は駅のロッカーに荷物を預け、動きやすいようにと選んだ靴から、ヒールへと履き変え、研究所へ行く。  朝は早くても、警備員を含め何人かはもう仕事をはじめている。私は適当な言い訳を言いながらあいさつをかわし、準備に取りかかる。充電済みのバッテリーを隠し、ケイの日常に必要なもの、服やメンテナンス・キット等を自分用のバックにしまっていく。  昼には私の全ての貯金を現金化しておいた。これだけの大金を実際に手にするのは初めてだ。金額の割に以外に軽い。片手で持ててしまう札束、これが私の全財産なのだ。逃げ出せば会社が追跡可能な痕跡の残る、口座のカードは使えない。不安でも、全部、現金で持っていなければならない。  今日と明日の二日間、怪しまれなければいいのだ。行動はずっと前から計画済みだ。なくなって即座にばれ、所員たちが騒ぐもの、それらの中の必要なものは明日奪えばいい。ケイが来てから四ヵ月、何が必要で、何が不必要か、それらについては私はわきまえているつもりだ。  所員たちが出社してからも、私は影に隠れたところで作業を続けた。  やがて退社時間を迎える。私はケイのチェックという名目の二人の時間さえを全て準備に割り当てる。  怪しまれないためにチェックの形だけ整える。今日さえ乗り切ればいつでもケイといられるのだ。ケイへの愛しさを無理矢理押し込めるのに苦労する。  家に帰っても、緊張と明日への興奮が私を離さない。体力をキープするため、私は薬を使って眠る。  私の夢はついに明日、実現するのだ。  私とケイの愛は、ついに完成する。  私は、幸せだ。  そして、土曜。皆の足音がなくなるのを待っていた私は、行動を開始する。  バックのなかにメンテナンス用の部品と、バッテリーを詰める。  私は隣室に待たしているケイに服を着せる。以前に買っておいた服だ。服をかえたケイの手を引いて、電源盤のある機械室に入る。 「鈴本博士。」  突然名前を呼ばれて、私は思わず驚きの叫びを上げてしまう。 「鳴海くん?」  私は思わず出してしまった驚きの声を回収するかのように、口を押さえた。  機械室に鳴海が立っていた。  今日は非番のはずの鳴海が。何故? 「鈴本博士。」  私の名を呼ぶ鳴海の声は、かすかに震えていた。そして、ようやく私は鳴海の様子に気が付いたのだ。鳴海の顔は青ざめ、頬がわずかにこけている。血走ったきつい目が、私を見ている。 「鈴本博士・・・・・・・・。」  低く、鳴海が私の名を繰り返す。 「な、鳴海くん、どうしてここに・・・・・・・・それにあなたは、今日、非番のはずでしょう?」  当惑を誤魔化すために、詰問の調子を混ぜる。しかし鳴海は私の問いにこたえず、私が右手に握っているものを指差して、言った。 「鈴本博士、右手に握っているのは、スタンガンですね。それで何をするつもりなんです? あなたこそ、こんな時間にここで何をするんですか?」  私は急いで、右手を背中に回す。言い訳を言おうとするが、真っ白な頭のなかからは何も出てこない。 「わ、私は・・・・・・・・。」 「あなたは、それでこの電源盤をショートさせ、研究所の機能を殺し、ケイを外に連れ出そうとしている。そうですね、鈴本博士。」  衝撃が私の全身を襲う。震えが足からのぼってくる。私の後でスタンガンが床に落ち、かたい音をたてる。  ばれている。ばれている。何故? 何故? 何故? 疑問符が私の思考を埋める。 「あなたがしていることは、分かっていました。」  ひどく静かな調子で鳴海は言い始めた。私と同じように青ざめ、震えたまま。私は身動きも出来ず、機械室に響く、鳴海の声を聞いていた。 「ぼくには薄々分かっていました。あなたが何をしているか?ケイと何をしているのか?あなたの行動はどこかおかしかった。熱心で、勤勉で、あなたはぼくが知っている鈴本博士だったけれども、どこかが違った。  あんなに疲れた顔をする人だったろうか?あんなに暗い笑い方をする人だったろうか?あんなに物思いにふける人だったろうか?  きっかけは単純な疑問だったんです。」 「・・・・・・・・・・・・・・・・。」 「ぼくはあなたが何か悩みを抱えていることに気が付いたんです。そして、そして・・・・・・・・。許してください。ぼくはあなたのメモを見てしまいました。」 「!」 「所長との予行演習がある前日、感応機室に置いてあったのをぼくが見付けたんです。朝、すぐに返そうと思ったんですが、その前に作動パスワードが数字だと分かって・・・・・・・・。」  私の中で、暴露される恐怖が羞恥の怒りへと変わる。怒りの声を浴びせようとした私を止めたのは、私を見る鳴海の目の真摯な光だった。 「他の誰にも、あなたの計画は話していません。しかし、知ってしまったぼくは、あなたの行動の特徴を見抜き、意図を知ってしまったんです。あの停電の後、原因を調べ、この電源室に一番長く残っていたのは博士でした。そして昨日、大きな荷物を駅に預けているのをぼくは見てしまったんです。研究所のバッテリーも、他の部品や、装置も、持ち出しやすいようにきちんと整理されていました。それでぼくは知りました。博士が今日何をしようとしているかを。」 「それであなたはどうするっていうの!」  私の口からの叫びに、鳴海は驚いて目を見開いた。  私の心を怯えが支配をしようとしていた。私の計画はおしまいだ、ケイとの関係は終わりだ。鳴海が終わらせようとしているのだ。怯えは自暴自棄の怒りに変わった、私は自棄になった心を鳴海に叩きつけることにより、現状から逃避しようとしている。 「あなたは私を監視して、私の行動を邪魔をするの?私のことを告発して、私から全てを奪う心算なの?それとも、脅迫するつもり?いいわ、条件をいいなさい!なんだってのんであげる。あなたは、こんなところで私を脅して、何を私にさせるの?」 「違います!」  鳴海の強い叫びが、私の言葉を遮る。押し黙った私を見つめたまま、鳴海は静かに言葉を続ける。 「違います。博士、お願いします。機械を恋人にするような馬鹿なことは、やめてください。博士のことは、誰にも言っていません。今なら間に合います。引き返してください。」 「引き返せないわ! いまさら引き返せない。機械を恋人にするのが馬鹿なこと? 冗談じゃないわ、ケイは私のものよ。ケイとの愛は私の全てだわ。私はケイとの愛を守るためなら何だってしてみせる。あなたに邪魔はさせない。」  私は床に落ちたスタンガンを拾いあげ、鳴海に向ける。 「そこを退きなさい、鳴海くん! 退かなければこれを押しつけるわ。」  鳴海は首を振り、ゆっくりと両手を広げ私の前を遮る。 「鳴海くん!」 「あなたが好きなんです、鈴本博士っ!」 「!」 「あなたが好きです。鈴本博士。・・・・・・・・静子さん、お願いです、こんなことはもうやめてください。」  血を吐くような鳴海の叫びは、私の心を麻痺させた。鳴海がケイと私の関係に気付いたのは、嫉妬のためだったのだ。恋するものの鋭敏な感覚で、私とケイの関係を本能的に察知し、確証をつかんだ。経験のある私にはそれが分かる。  しかし、私の心は既に決まってしまっていた。後戻りは、出来なかった。  スタンガンが再び目の前に向けられたとき、鳴海は愕然と私を見つめた。 「どうしてなんですか? 鈴本博士。」 「私は、ケイと二人になるの、退かなければ、気絶してもらうことになるわ。」 「どうしてそんなに、ケイがいいんですか! ぼくには分かりません。ケイは、そこに立っている奴は機械なんですよ!」 「やめなさい、黙って。」 「いやです、いいですか、あなたが恋人だなんて言うそこの機械は、ただの部品の寄せ集めなんだ、暖かく感じる体だって見せかけだけ、一皮むけば歯車と、シリンダーの固まりなんですよ。あなたはそれを知っていますよね、鈴本博士?」 「やめて。」 「何も外見だけじゃない、その機械には心だってないんだ。そいつの頭にあるのは感情表現をいかに巧みにしようかという事だけ、状況を分析し、現状にあった表情、仕草を、実行しているだけなんだ。愛しているとあなたの手を取るのも、そう教えられたからしているだけなんです。ケイの心が命じるんじゃない、ケイ本人が命じてるんじゃない、ケイのプログラムを作った人が命じ、ケイが実行しているだけなんです。そんな機械があなたを愛することが出来るんですか?」 「やめてっ!」 「機械とは、心のないものとは、コミニケーションの通じないものとは恋愛は存在しないんですよ。そいつはぼくたちの創ろうという人工生命体からは、程遠い存在なんだ。意外性のない、教えられたことしか出来ない、ボタンを押せばその仕草しかしないような玩具に、あなたを愛する資格があるというんですか?」 「やめてえぇぇっっ!」  憎悪。私は今、心のそこから鳴海を憎んでいた。私のケイを侮辱した男に、私は絶叫とともにスタンガンを押しつけた。  鳴海の体が大きくふるえ、糸の切れた人形のように床にくずおれた。  激情の後には恐怖心だけが残った。震えの止まらない足をなんとか押さえ付け、私は電源盤にスタンガンを向けた。  私は、ケイのためならば、慕ってくれる人を傷つけることさえためらわない。もう後戻りは出来ないのだ。  私は計画を実行した。  混乱の極みにある研究所からなんとか逃げ出した私とケイは、駅で荷物を回収し、買っておいた切符で夜行磁電車にのった。  まばらにしか乗客のいない列車のシートに腰をおろし、遠ざかる街の灯を見ても、私の震えは止まらなかった。私はケイに寄り添った。ケイは優しく肩を抱いてくれた。  ケイの体の暖かさが心地よい。私はケイに頭を預け、目を閉じる。  私は幸せだ。  今、心の底から私はそう感じていた。 12  私がケイとの駈け落ち先に選んだのは信州だった。人口二十五万人の地方都市、松本。  今や季節は夏を終え、秋になろうとしていた。ケイが四月にきてから五ヵ月、今は九月の半ばだ。  九月というのは、避暑、紅葉という山の魅力を持つ信州のちょうど凪にあたる。  八月の終わりで観光客の数は減り、十月の半ばから再び増えはじめる。九月というのは、この観光地のエアポケットになるのだ。  私達は駅の近くのホテルをしばらくの生活空間に選んだ。  私の心の不安は、ホテルに部屋をとった頃、ピークに達していた。  追跡用発信機に対する不安である。ケイの体には仕掛けられてはいないはずだ。設計の段階から立ち合った私はそれを知っている。私はケイの体に何らかの追跡装置が付けられるかは、最大限に注意を払っていた。主任の一人でもある私に秘密で研究所がケイにその手の機械を付けるとは考えがたい。しかし持ち出した機器と部品に対しては注意を払っているかもしれなかった。計画に舞い上がっていた私はそのことに気付かなかったのだ。  私は部屋に入るなり、部品や機器全てをベッドの上に広げ、一つづつチェックしていった。  テレビも付けっ放しにしておいた。新聞を取り寄せ、ニュースをやる時間帯はかならず見るようにした。  研究所が法的機関や、報道関係に私のことを流すとは、私は考えてはいなかった。  私達、岸田人工知能研究所が造った、「人間に最も近いロボット」は、国際企業科学展示会に出展する、日本有数の倉門財団における、メインをつとめるものだ。  そしてロボットのセンセーショナルな演出として、私達の選んだものは、驚きである。発表まではほとんどの情報を隠しておいて、観客の前に、一気に証す。  その時の驚きを深くするために、私達の研究は倉門財団の総力をあげての情報隠蔽が行なわれたのだ。  私がケイを連れ去ったのは大事件ではあるが、まだ公開はしないはずだ。しばらくは自社内のみで処理をするために動きだす。私はそうふんでいた。  その予感はあたっていたと思う。ニュースにはそれらしいものは全くなかった。  それでも不安は止まらなかった。研究所を裏切り、倉門財団を敵に回したことになるのだ。  私はベッドでケイと二人抱き合ったまま時を過ごした。 私がようやく部屋の外に出る元気を取り戻したのは、太陽が日本アルプスの峰へ沈んでからであった。 「食事をしましょう、ケイ。」 「はい、静子。」  このホテルの最上階は夜景を楽しめるレストランになっている。私達は窓際のテーブルに腰を降ろし、頼んだワインで乾杯をした。 窓の外の夜景がきれいだ。眼下に松本の街が浮かび、澄んだ空気のなか輝く星との間には、山々が黒い帯となって美しい影を描いている。  そして目の前にはケイがいる。  私はワインで熱くなった頬に手を当てる。押さえられた照明のなか、ケイの優しい笑顔がある。  私は幸せだ。 「私、幸せだわ。」  小さく口のなかでつぶやいてみる。心の底から感動がこみあげてくる。胸がいっぱいになってしまう。 「ケイ、テーブルのうえに、手を出してくれる?」 「はい。」  私はケイの手を握る。暖かい。私はケイの手の平を私の頬に当てる。この暖かさは私の物だ。私は目を閉じる。  気配を感じて、目を開ける。かすかな含み笑い。少し離れた席の若い女が、からかうような目で私を見ていた。女は私と目が合うとあわてて目を反らした。恋人であろう向かいに座った男がたしなめるような会話が、私の耳に届いた。  私はこのレストランで、今初めて人の目を意識した。私の心には羞恥心は浮かばなかった。  感動が、私の体を包んでいた。  私は、ケイと共にここにいる。他の人にも、その事実が認識できるのだ。  嬉しかった。心の底から、幸福だった。  私達の愛は、もう他人に隠さなくても、いいのだ。  私は幸福感に酔った。  私はその夜、初めてケイと結ばれた。  ケイの体温を肌に感じながら、眠りに落ちた。安心感に包まれて。  五年前のように。  次の日、私達は松本の街での買物を楽しんだ。  感応機のなかの私達の新宿ほどにぎやかでも、華やかでもない。しかし、街を歩く感動と興奮は比べものにならなかった。  ケイの手を取って歩く。ケイに微笑みかける。ケイが笑顔を返してくれる。  周囲のざわめきが違う、光のガラスの反射が違う、空気の流れが違う。汗を浮かべさせるほどに熱い日差しの中を、高原の冷たい風が吹き抜ける。夏はもう終わったのだということが体で分かる。  体中で感じる感覚が違うのだ。感応機で感じる空気とは決定的に違うものが、現実にはある。  収録された絵ではない人々が、いる。夏の名残を残した、カラフルで活動的な服装の人々。その人たちのざわめきが私達二人の周りに泡のように弾けている。  私達は陽光のなか、手を絡めて歩いている。時々、他の人が私達を目で追うのが分かる。少し羞恥に欠けた態度で私はケイとの関係を人々に見せ付けている。喜びと、誇らしさがある。ようやく私はケイと二人で外を歩ける関係になったのだ。この喜びを最大限に味わっても、罰はあたるまい。  買物は、衣料と、食料品が主なものだ。  ホテルに泊まるのは今日が最後だ。私達はここからしばらく離れた、貸別荘へと移る。  通常、貸別荘の賃貸人数は三人からだ。シーズンオフということで二人でも貸してくれたのは、幸運だった。一応、十日間借りることにしている。  旅館やホテルでは、従業員たちといやでも毎日顔をあわすことになる。ケイがロボットだということにはばれない自信はあるが、用心にこしたことはない。  それに他の人には邪魔されたくない。自分とケイの関係の確認には人の目が必要なのに、二人だけの時間には人はいらない。勝手な理屈だが、真実だ。  私達は街での買物を楽しんだ。食料を買い込み、生活に必要なものを思いつくまま、いくつも買った。  ケイの服を選ぶのが、一番時間がかかった。サイズは知っている。試着をするとき、店員にケイの正体を気付かれないようにするのに少し苦労したが、何とかうまくいった。口うるさい女だという目で見られたのがちょっと気に入らなかったが。  感応ソフトでは決して得られない体験というものが、これほどに多かったのか、という驚きが私を満たしていた。  イレギュラーというものだ。店に入るというソフトは確かになかったが、ただ歩いているだけでも、あの新宿の街と、現実の人々は違う。耳に入る会話の断片、走り回る子供、鳩に餌をやる老人。映像ではない。生きた人々。感応世界の新宿が、モノトーンに思えるほどに、この世界は息吹に満ちている。  最も、こう思えるのにはわけがある。今の私の心には常に監視者に対する怯えがある。追跡装置はなかった。目的地は磁電車の中で決め、切符も買い替えた。しかし、不安は消えない。私の目の見えないところから、じわじわと門倉財団の保安機構が私とケイを追ってくる。そんな想像が、必要以上に、周りに対する注意を向けてしまうのだ。  感応世界で満足していた自分がちっぽけに思える。誰もいない、全てが予定どおりに動く世界を二人だけで、延々と歩いているだけ。確かにそれは、私が望んだとおりの世界だった。ケイと二人、五年前の新宿を歩く。理想の恋人と、理想の街を歩く。  一人の想いは、一人の理想は現実の多様さにはかなわないのだ。今の私なら、それが分かる。この解放感、充実感。閉じた世界でないというだけで、こんなにも感覚が違うのだろうか。  私は、恋人と歩いている。他の誰もなしえない。自分が思ったとおりの恋人と。私達は世界で、この広い地球上でさえ、誰にも出来ない、理想の恋を実らせた。  私は、幸せだ。  地方では、今だに磁電車ではなく、電車が走っている。  不規則なゆれも私にはなつかしい。子供の頃に家族で旅行した記憶を思い出させる。  松本からのびるローカル線で、私達は貸別荘のある白馬村にむかっている。  信濃大町を抜けると二つの湖が見えてくる。木崎湖と、青木湖。湖面には北アルプスの山々がうつる。  数多くのペンションやロッジのある白馬村も、九月は人影もまばらだ。  私達は地図を見て、貸別荘へいく。管理人と合い、手続きと料金の支払いをすませる。昨日買って、宅配便で送らせた荷物を受け取り、別荘へ行く。  今や私達は二人きりだ。自然に囲まれたこの建物のなか、誰も邪魔をするものはいない。私は別荘にある調理器具で料理をした。ケイがきてからこの五ヵ月というもの、ほとんど作っていなかったが、久しぶりに腕によりをかけた。  ケイに消化機構はない。食べたものはタンクに収められ、後で処理する。  それでも食べる真似は出来る。ただ悲しいことが一つある。しかし私が幸せであるために、ケイにはどうしても命令をしなくてはいけない。 「ケイ、私が作ったものにはおいしいという演技をしなさい。感情表現のランクを高めに設定するの。いいわね。」  ケイには味覚を感じる機能はない。あらかじめ設定をしておかなければ、基本どおりに食べるだけだ。  ケイへの初めての手料理。喜んでもらうにはこうするしかない。  いくつも皿を並べ、前から考えていた料理の数々をテーブルいっぱいに広げた。  ケイは喜んで食べてくれた。以前見たシナリオのとおりに。  私は無理にそのことを考えず、喜んで料理を食べるケイを見て幸福を感じようと努めた。ケイの食べ方は、私が教えてあるものだ。私の理想の男性の食べ方。若さに溢れた、元気な、五年前の啓悟の仕草。  私は幸せだ。ケイに微笑みかけ、私は自分に言聞かせる。  私達は、高原の自然を楽しんだ。自転車を借り、弁当を作ってどこまでも走った。  ツクツクホウシの声、木々の間からはまだ強い日差しが私達に差し込んでいる。金色に変わりはじめる稲の穂。色の変わりきらないアキアカネ。  沈む夕日を別荘のバルコニーでいつまでも見ていた。アルプス頂上にある万年雪に反射する朝日が見たくて、暗いうちに起きて、ライトを付けて山道を急いだ。  冬はスキー場に変わるハイキングコース。高いところは苦手だが、ケイと一緒なら、リフトも平気だった。もっとも、ケイの袖をつかんだ手は決して離さなかったが。  八方山頂上からの景観は素晴らしかった。360度、眼下に広がるパノラマ。あふれるくらいの緑の洪水。幼い頃の父の言葉が不意に頭をよぎった。 『ご覧、静子。視界の切れ目が丸く円を描いているのが分かるだろう。こういうのを見ると、地球って丸いんだということが、わかったような気になるね。』  楽しい。  私はまるで夏休みになったばかりの子供のようだ。休みが終わることなど想像もつかず、考え得る遊びを全て実行することが出来るなど、考えたこともなかった。  今まで遊びらしい遊びもせず、社会に出て五年間、何とはなしに貯めた蓄えを全て使いきろうとしているのだ。  後のことなど考えられない。今、ケイといることだけが幸せだ。いつか、それは終わる。それまでは最大限に楽しみたい。  ケイは私の傍らにいる。  私は、幸せだ。本当に、幸せだ。私はそれを、心の底から、実感する。  夜。私は不意に目が覚める。私の目の前に、目を閉じたケイがいる。  私はケイと抱き合ったまま眠ってしまっていたのだ。ケイの腕は私の背へと回されて、私達は体をぴったりと密着させている。  ケイへの愛しさがこみあげる。私はケイの背に回した手で、ケイの背を撫で、ケイの頬に口付けをする。  幸福に染まりきったため息が思わず口からこぼれる。  少し体が痛い。無理な姿勢で寝たために、体の節々が痛い。さっきまでの幸福感より今は不自然な姿勢の方が気になってしまう自分に苦笑してしまう。一度目が醒めてしまったら、このままの体勢でもう一度眠るのは、出来そうにない。 「ケイ、私の体を放して。」  耳元にささやく。  ケイからの反応は、なかった。 「ケイ?」  私は今の状態がきわめて不自然なことに気付く。  ケイは眠らない。私が何かした時点で、待機状態から戻り、私に声をかけなければいけないはずだ。それなのに、  ケイの目蓋は開かない。  私は冷気を感じて身震いする。どうして気付かなかったのだろう。ケイの体温が感じられない。私の体の熱がケイの冷たい体に奪われている。  ケイが動いていない。  バッテリーがきれたのだ。  私の背に、恐怖が冷気となってかけのぼる。ケイの骨格は金属で出来ている。この姿勢では、私はケイから逃れられない!  私はケイに抱きすくめられたまま、動くことさえ出来なくなってしまったのだ。  こんな姿勢では力など入らない。ケイの体を手で押そうとしても、冷たい体はびくともしない。  私は悲鳴をあげた。  自分の上げた声に私は目覚める。  夢だったのだ。  夢のなかと同じ、ケイと抱き合ったままの自分の姿に夢のなかの恐怖がよみがえりかかる。 「起きましたか、静子。」  ケイに声をかけられ、私は心から安堵する。少し考えれば理不尽な夢だということは分かった。ケイはあんなに急にバッテリーがきれるわけではない。きれる前にきちんと私にしらせてくれる。 「何でもないわ。放してくれる?」  ケイは従順に抱擁を解く。離れていく体温に未練があったが、上半身だけ起き上がり、こぶしを口に当てる。  考えなければいけないことがあったのだ。夢を見たのはそれが心のなかの不安と呼応したからだろう。  ケイのバッテリーが底をつきかけている。再充電は、ここでは、出来ない。ケイを連れ出してから五日目、予想よりはるかにケイのバッテリー消費が早いのだ。  私はバックの中から、主任専用のIDカードを取り出す。これがあれば、人のいない深夜でも研究所に入れる。バッテリーを奪ってくることが出来る。  しかし、私のカードはは駄目だろう。ケイを持ちだした犯人は明確だ。私がカードを使えばすぐに通報されてしまう。  しかし、行動しなければ、あの夢が現実になってしまう。  脳裏に動かなくなったケイの幻影が浮かんだ。  ケイを失いたくはなかった。  そのためなら、私はどんなことだって、してみせる。 13 「はい、笠森です。」  映像を切った映話機のスピーカーから香の声が流れてくる。私はそのまま映話を切る。 香は在宅中だ。それが確認できた。  私は長野から磁電車にのり、香のマンションのある駅へと来た。  駅から映話を掛けて、香がいることを確認した。  笠森香は、私の同期であり、学生時代からの親友だ。しかも、三体のロボットのうちの、亜美・チームの主任である。  私の、ケイ・チームの主任である私のカードでは研究所には入れない。しかし、香のカードならば・・・・・・・・。  心は決まっていた。  私は見覚えのあるマンションへと急ぐ。雲の濃い空からは、大粒の雨が降りはじめていた。昨日、沖縄に台風が上陸した。関東地方に真っすぐくるらしい。台風で、交通機関がマヒする前にバッテリーを手に入れて、帰らなければならない。  私はマンションのエレベーターにのり、香の部屋の前に立つ。  インターホンを押す。挫けそうになる心、震える体を必死に押さえ付けて、インターホンのカメラの前に立つ。 「はい・・・・・・・・!静子?」  スピーカーから彼女の動揺が伝わってくる。慌ただしい足音がドアの向こうから聞こえる。  罪悪感と、裏切った親友と顔を合わせる恐れに、私は堪える。  ドアが開く。 「香・・・・・・・・私・・・・・・・・。」  香の顔を見たときに、いきなり私の目から涙があふれる。感情が心の中で膨れあがり、言葉が出ない。 「と、ともかく中に入りなさい。」  香はドアを出て、私の後に視線を向ける。誰もいないことを確認すると、私の背中を押し、私を部屋にいれる。香の暖かい手が背中にあたる。  居間に通され、ソファーに座る。 「まずは髪、これで拭きなさい、びしょ濡れじゃないの。」  バスタオルを受け取って、髪をこする。  コーヒーの匂い。湯気の立つカップが差し出される。私はそれを両手で握る。 「シャワー浴びたほうが早いわね、使いなさい。服の替え、持ってないわね。私の服貸してあげるわ。」  香はてきぱきと私に指示する。いつもそうだった。私は一つのことに熱中すると周りが見えなくなってしまう。それを香がもとに戻し、私の目を開かせてくれた。研究に集中して、体を壊してしまった時も、失恋した時も。香の強い優しさが、私を救ってくれたのだ。 「・・・・・・・・シャワー浴びて、着替えて、落ち着いたら・・・・・・・・ケイを戻しにいきましょう。いいわね、静子。」  顔を上げて、テーブルの向こうに座る香を見る。香の顔は青ざめて、唇は堅く引き締められている。 「あなたが、実験体にケイ≠ニいう名前を付けたときから、いつかこんなことになるんじゃないかと、思ってた。恐れていたわ。でもまだ間に合う。警察には報せてはいない。でもこれ以上事が大きくなれば、研究所があなたを解雇するだけでは済まなくなるわ。」  私は香の言葉にかぶりを振る。 「私は犯罪者になってもかまわないわ。私は今、幸せよ。この幸せを守るなら、どんなことだってしてみせるわ。」 「・・・・・・・・鳴海君のためにも、やめなさい。」 「!」 「彼はあなたをかばおうと、必死よ。彼の想いの強さを知っているから、ケイ・チームのみんなも何とか所長を説得している。大事になっていないのも、実験体の秘密を公表させないためじゃない。あなたのためなのよ。」  鳴海が、私を? あの時、私がケイを連れ出すあの時、彼が私に告白した時に、私はそれを拒否し、スタンガンを押しつけた。その私をかばってくれているというのだろうか?   私の心は激しく動揺する。  いけない。私はバックの中のスタンガンを掴む。冷たい感触にすがる。流されてはいけない。ケイのバッテリーを手に入れるのだ。  スタンガンを香に向ける。 「静子!」 「香、あなたのIDカードを頂戴。断るならば、あなたを気絶させて、きっと捜し出す。私は本気よ。」  香との間に築き上げてきたものが、音をたてて崩れていく。香の顔からそれが分かる。もう後にはひけない。  香が差し出したIDカードを奪い取り、私は雨の中を駆けだす。研究所にむかって。  雨はますます激しくなる。  研究所の裏口に回って、IDカードをいれ、香から聞きだした暗証番号を押す。  現在の時刻は、午後十一時三十分。  所員が最終チェックで残れる限界が、十時。警備員が残っている時間が、十時半。  今は、誰もいないはずだ。緊急事態が起きたときに入所できるのは、主任以上のIDカードを持つものだけだ。  それでも油断は出来ない。私はスタンガンを握り締めて、ドアをくぐる。   明かりは付けない。手に持ったライトの明かりだけを頼りに、目的地を探す。  非常灯が、暗く通路を照らしている。機械の低いうなりが小さく聞こえる。  あった。  充電器に差してあるバッテリーが三つ。予備のバッテリーは、ない。五日前、全て奪ってしまったのだ。これだけでも、ケイはしばらくは命をながらえる事が出来る。私と少しでも長くいられる。  私はバッテリーをバックにつめる。  研究所から出ようとした時、門の方向から、強力な光が私に向けられ、光が私の目を射る。 「鈴本博士ですね、警備のものです。ご同行願います。」  かばった手の向こうに、二人の男のシルエットが浮かぶ。ライトを照らす中年の警備員はたしか、黒崎、警棒を持っている若いのは浅田だという名前のはずだ。 「昨日から、もしかしたらって事で夜勤をすることになったんですよ。バッテリーがなくなるのを予想していたんです。所員たちにも伏せてね。鈴本博士、おとなしくしてください。」  心は決まる。  私は近付いてくる黒崎のライトを握った手にむかって、スタンガンを押しつける。  青白い火花が散って、ライトを握ったまま黒崎はくずおれる。ひるんだ警備員の傍らを私は走り抜ける。 「この野郎ぉ!」  激痛。意識がとおくなる。浅田が私の右肩に警棒を降り下ろしたのだ。骨がきしむ音が聞こえたようだ。ひびくらい入っているかもしれない。  頬に泥の冷たい感触がある。口から出るうめき声は私の意志を離れ、まるで他人のもののようだ。倒れたまま起き上がれない。 「きゃぁぁぁぁぁっ!」  右腕に再び激痛が跳ね上がる。浅田がスタンガンを握っていた私の右手を蹴り飛ばしたのだ。スタンガンが私の手を離れる。私は打たれた右肩を押さえ、地面を転げ回ることしか出来ない。痛みで悲鳴が止まらない。  もう起き上がれない。  浅田が黒崎を助け起こしているのが、ぼんやり分かる。  もう、おしまいだ。  雨が全身をうっている。右肩だけが熱い。その熱さが私の意識を暗やみに包む寸前、 「博士っ、逃げて下さいっ!」  鳴海。  鳴海の叫びが私を現実に引き戻した。  闇のなか、もみ合う二つの影。  鳴海と、浅田。 「何をするっ!」 「博士っ、逃げてください。早くっ!」  私は体を引き起こす。無我夢中で、バックを掴む。  後で男のうめき声が聞こえる。鳴海なのか、浅田なのか、確かめることも出来ず、私は体を無理矢理動かして、逃げる。  夜行列車まで、意識がもったのは奇跡のような幸運だった。  体が発熱している。右肩の怪我の熱だけではない。悪寒が止まらない。  長い時間雨に打たれて、体を壊してしまったしまったらしい。体の感覚が頼りない。人事不省に陥らずに、松本でおりることが出来たのは、皮肉にも右肩の激痛のためだった。シートに座ったまま、身動きするたびに、右肩が私をまどろみから引き戻す。熱のために思考がうまくまとまらない。ケイの想いだけにすがって帰路を急ぐ。  体が熱いのは熱の所為だけではなかった。鳴海の叫びが、こめられていた想いが私のなかに小さな熱を生じさせていた。私はケイのためにそれを押さえ付ける。  ケイとの愛のために。 14  別荘に着く。やっと、帰ってきた。帰ってこれた。私は幸せだ。 「ケイ!」  ドアにもたれて、愛しい人の名を叫ぶ。  気を抜けばぼやけてしまう視界の向こうに、私のケイがいる。 「静子、会いたかった。愛しています。」  いつもの台詞、研究所で逢引きをはじめるときのケイの行動。私は幸福感に満たされる。倒れこむようにケイの胸にすがる。  そして私は恐怖と激痛に悲鳴を上げた。 「ああぁっ!」  いつもの、力強いケイの抱擁。気を失う寸前に私が感じたものは、  ケイの唇の感触だった。  外は今、台風の影響で、荒れ狂っている。激しい風、叩きつける雨、ひどく近くで鳴っているような落雷の音。  ケイには病人用のプログラムは、ないのだ。私がどんな状態か、ケイは分からない。意識を取り戻し、傍らに立っているケイの肩を借りてベッドに入り、私はそれを痛感する。  一つ一つ教えることは今は出来ない。ひどくなる熱と右肩の激痛。咳の発作に襲われ、右肩を抱いて、悲鳴を上げる。  ケイは助けてはくれない。そのような行動が出来ない。こんなシナリオは組んでいない。私はケイに命じてただ私の傍らに座らせ、私の手を握らせている。  ケイハワタシヲシンパイシテクレナイ。  熱に浮かされる私の頭のなかに、突然冷たい考えが差し込んだ。  薄目を開けて、ケイを見る。ケイの行動はいつもと変わらない。ケイの行動はいつもと変わらない。私といることを最も望み、私が笑いかければ・・・・・・・・微笑みを返してくれる。今もそれは変わらない。  全く変わらないのだ。  熱にうなされ、痛みにうめく私を見ても、彼の行動には何の違いもない。いつもの「私を愛してくれる」ケイのものだ。  わかっている。原因はプログラムの不備だ。もし彼に病気の恋人を持った場合のプログラムがあれば、私は今、こんな疑惑を抱かずに済むだろう。  疑惑、私は今それを感じている。 「ケイ、愛しているわ。」 「私もです、静子。」  優しい笑み、優しい言葉。私の言葉と表情で誘発される反応。  どうしてそんなにうれしそうな顔をするの? どうしてそんなに幸せそうなの?  激しい風が窓だけではなく、部屋全体を揺らす。あちこちで、木材がきしむ音が聞こえる。不安を押さえるために私はケイの手を握り締める。  手が持ち上げられ、手の甲にケイの唇を感じる。愛の言葉をかわした後、ケイはいつもこうする。私が教えたのだ。  今はそうして欲しくない。 「ケイ、今はただ私の手だけを握っていて。それだけでいいわ。」 「はい、静子。」  熱が上がるのを感じる。吐き気が急にこみあげる。私は上半身を起こす。焦りの生んだものは、右肩の激痛だ。ベッドに倒れて、吐く。朝から何度も吐き続けた私の体は胃液さえも出せずに、嘔吐の発作で私の体は激しい痙攣を起こす。右肩の痛みを止めるために、左手でかばう。私はベッドの上で、もがく。視界が回転している。  私は思わず叫んでいる。 「ケイ、助けて、ケイ、お願い!」  定まらない私の視界の向こうでいつもと変わらないケイの顔、そして声、 「どうかしましたか?静子は気分が悪そうですね。私の五感は何も不快なものを感じません。私の感覚器、何かとらえられないものがあるんでしょうか?」  違う!  私の望んだ反応はそうじゃない。私の恋人はそんな反応をしてはいけない。教えなければ、きちんとケイに教えなければ。  一体いくつ命令し、教えこまなければいけないのだろう。いつまでやらなければならないのだろう。  今さら後戻りは出来ない。不備をなくし、理想の恋人にするのだ。私の価値観を至上のものとし、私だけを愛してくれる、私の、ケイ。  ケイは自分から、何もしないのだ。ケイはただ「待っている」反応する条件を、反応をする理由を、素材を、ただ「待っている」。  人間のように行動する機械。笑うべき時に笑い、悲しむときに泣く、人間のように見える機械。  見られ、他人からその行動を判定させることを最大の目的としている機械。それがケイなのだ。ケイは他者なしでは存在できない。   何度か目覚め、何度も苦しんだ。嵐は未だ衰えを知らず、窓の外の木々たちを激しく揺らしている。熱と痛みにもうろうとした私の意識は、堂々めぐりの思考の迷路から抜け出せないでいる。  他人のために何かしたいというのは、自分が何かをしたいということなのだ。自分が他の人の身になって考え、その人がどう思うかを考え、行動を実行する。  自分があって、初めて他人がある。それが人間だ。ケイには、それがない。  もしケイが人間だったらこんな時は、こうする。これがケイのソフトウェアをささえる基本法則だ。他人の行動指針にしたがって、他人に働きかける。ケイには自分というものがない。  ケイには自分がない。行動し、自ら世に主張する想いを持っていない。  私を心配できない。苦しんでいる私を慰められない。ケイはプログラムを矯正することは出来る。効率的に、効果的に、しかし、自らの行動を自分で決めることは出来ないのだ。全く新しい反応プログラムを自分で作り出すことは、出来ないのだ。  決して出来ない。なぜならば、ケイはそのように作られた機械だからだ。  反応をいくら集めても、価値観をいくら決めても、人間は、生きものは、独立した生命体は、出来ないのだ。  それらを決めることの出来る、自分というものがなければ、個というものは存在できないのだ。自分の意志で世界に働き掛けなければ、それは作られた物でしかない。  ケイは私を愛していない。  私のことを想い、自分の意志で何かをする。私の反応を導きだすために、ケイが思った反応を導きだすために、私を想い、愛する。ケイはそれが出来ない。  私はそれでも満足だった。私はそれでよかったのだ。  自分というものがなくていい。自我はいらない。私の言う事を全て聴き、私の思う通りの、心のなかの私の理想通りの、少しの相違もない理想の恋人。  私はそれを創るために努力してきた。研究を重ね、上層部を説得し、同僚たちに働きかけた。  ケイは完成した。私の理想の姿で。私の言う事を全て聴き、私の理想通りの仕草、反応をする、啓悟。  ケイは私の理想の啓悟だ。決して私の意志には反しない、私だけを見て、私だけを愛してくれる、完璧な啓悟だ。  しかし、私は気付いた。前から分かっていたことだった。絶対に認めたくないことだった。  鳴海の熱い想い。否定され、拒否されても向けてしまう愛情。想い人のために何かをしなくてはいけないという義務感。何かをしたいという情熱。啓悟。私もそうだった。啓悟のために努力し、働きかけ、啓悟の心を獲るために必死だったあの時。  ケイには出来ないことだ。  ケイは私を愛していない。愛することは出来ない。私がケイをそのように作ったのだ。私の理想、私の理想だけを寸分の狂いもなく再生する。それはつまり、再生させた固体自身のの想いを完全に消し去るという事だ。私の理想が、個体の想いの存在する余地を認めなかったのだ。  ケイは恋人ではないのだ。  私と対等の立場に立つことの出来ない機械だ。私の思うまま行動し、それ以外を決して許されない、出来ない機械。  ケイは私だ。  私の想像に歪められた啓悟。それがケイの正体だ。  私がケイに抱いていたもの、それは恋ではない、愛ではないのだ。  私は自分の妄想を、幻影を物質化させたのだ。  人と人、全く異なった個性と個性。意志を持った対等の存在がお互いを認め、共感し、あるいは反発する。そこに人のつながりがあり、結果の一つに恋愛がある。  相手に求めるのだ。あくまでかなえるのは相手自身の意志だ。そこには想い同士の反発と協力がある。  ケイに命じるのと、他人に使う命じるという言葉には決定的な違いがある。ケイには操作するという言葉を代えて使うことが出来る。反応の分かる配線をして、スイッチを入れる。ケイは命令をその通りに実行すること以外選択肢はない。  しかし生物には反応は無限だ。従うことも、反対するのも、全て命じられた対象が決断を下すのだ。命令に従う場合でも、対象がそれを望んだことによって生まれた結果だ。  意志と意志が触れ合って生まれる結果。だからこそ感動がある。共感がある。そして・・・・・・・・愛があるのだ。  ケイと私の間に、愛は生まれないのだ。私はケイを愛している。意志を持つものは無生物を自分と同じ者として、愛することは出来る。しかし・・・・・・・・反対はありえない。  愛しているとケイ自身が何度口にだしても、私が心を動かされても、ケイは私を愛することは出来ないのだ。  私が望んだのは、理想の恋人を手に入れることだ。恋人。恋愛によって結ばれるべき相手。  私は一度それを手に入れている。啓悟。今は違う相手と結ばれている恋人だった男。  もう一度永遠の恋人を手に入れるために、私はケイを作ったのだ。しかし、違うのだ。啓悟との思い出がそういっている。鳴海の叫びが私に告げている。  物に与える愛情も、人に与える愛も、違いはないのかもしれない。しかし私の求めたものは、私の、相手へ向ける想いと、相手からの私へと向けられる想いの間に生まれるものだ。  私は啓悟との想いを完璧にするためにケイを創った。しかし、今の私ならば分かる。一度、自宅の感応機の前で啓悟を切り捨てた今ならば分かる。  私が追うべきは啓悟の後ろ姿ではなかったのだ。私が求めるものは、思い通りになる啓悟の人形ではなく、私を愛してくれる、私と共感し合える人間でなければならなかったのだ。  私は啓悟を追うのではなく、啓悟と育んだ以上の物を創ることが出来る対象を追わなければならなかったのだ。  ケイを前にして私はそれに気付く。  私は今こそ決断しなければいけない。  ベッドから起き上がり、電話をとる。深呼吸をして、ケイを見る。 「さよなら、啓悟。」  涙で霞む視界にケイの、啓悟の笑顔がある。ケイは私の頭を抱え軽く抱きしめた後、私の額に口付けする。 「また明日ですね。静子。」  いつもの、研究所で行なわれていた別れの儀式、そして私とケイの、最後の儀式だ。    私は研究所に映話をした。  映話を終えた。息が荒くなっている。視界がはっきりしない。風邪の症状と、肩の痛みはますます激しくなる。私はケイの手を握ったままベッドに横になる。 目を窓の外に向ける。いつしか外は雨が止み、風に流れる雲の間からは太陽の光がこぼれている。  私は目を閉じる。  少し眠ろう。今は少しだけ、休もう。そして目が覚めたらきっと・・・・・。       *************         その日のうちに、倉門重工の保安部によって私は保護され、松本の病院に入院した。  右肩のひどい打撲傷と、肺炎寸前の症状で、私は二日間意識を失ってしまったそうだ。 目が覚めて、いちばん最初の面会は、岸田所長と副所長だった。  所長は私の解雇をつげ、私は命じられた書類に判を押した。  次の所長の提案は私を驚かせた。ケイとの二人きりの逃避行の間を研究結果の一環として、私に報告してほしいというのだ。私は少し迷ったが、承諾した。岸田所長は私に少しばかりの償いをさせてくれるのだ。そう思うことにした。  香が来てくれた。私は謝り、香は私を受け入れてくれた。そう思えた。  四日目の夕方。鳴海が来た。  病室にノックがあり、私は窓の外の夕日から目をそらした。 「どうぞ。」  次の瞬間私は体を硬直させていた。  鳴海がいる。  固まってしまった私の体の中で心臓だけが激しく動いている。内側から胸を叩いている。顔の温度が熱い。 「体のほうは大丈夫ですか?」  鳴海はぎこちない笑顔を私に向け、怖ず怖ずと簡素な花束を私に渡す。 「ええ。」  言葉の出ない自分がもどかしい。伝えたいことはあるはずだ。出る言葉はあるはずだ。しかし何も出なかった。言葉に想いを乗せてしまえば心が奔る。  私はそれが恐かったのかもしれない。  私は鳴海の顔にあざがあるのを見付けた。 「鳴海くん、その顔。」  言おうとした言葉が不意に途切れた。こみあげてくるものに胸が塞がれたのだ。私のために傷ついた鳴海、私のためにかばってくれた鳴海。涙があふれる。私は両手で顔をおおう。鳴海に何も言って上げられない私。  そうだ。私は鳴海の想いに答えることは出来ない。今は、まだ。その困惑が私に言葉を出させずにいる。卑怯だということは分かっている。しかしケイの次にすぐ鳴海と、想う対象を代える器用さを、私は持ち合わせていない。そのことに対する鳴海への罪悪感。私は何をしなければならないのだろう。分からない。分からない。 「気にしないでください、鈴本博士。」  優しい鳴海の声が、すぐ近くでした。私は顔を上げる。私の顔のほんのわずかの距離に、真剣な鳴海の顔があった。  驚く間もなく、私は鳴海に抱きしめられていた。私の右肩を気にした優しい抱擁。鳴海の手の震えを、ためらいと、決意と、想いを肩に感じたとき、私の手は鳴海の背を抱いていた。  鳴海の緊張した体。鳴海の胸の早い鼓動。私の胸の鼓動。私の吐息、鳴海の吐息。 「鈴本博士、あなたが好きです。」  小さくささやきかける鳴海の声。もう一度私を気遣った優しい強さで私を抱いてから、鳴海は離れた。 「ごめんなさい、私・・・・・・・・今は・・・・・・・・。」  鳴海は私に笑顔を向けた。優しい、寂しげな、笑み。 「待っています、鈴本博士。」  それだけを言って鳴海は出ていった。  気が付いたとき、私の口は心のためらいを突き破った想いを、言葉を、叫んでいた。  私は鳴海の背中にに呼びかけていた。 「鳴海くん、待って!」  こうして私は、啓悟を卒業した。                     完