骨                   スイッチが動きだした。取り付けられた爆弾のタイマーが一秒刻みで減りはじめる。  爆発の規模はたいしたものではないが、破壊されたデータープール用のコンピューターから情報を引き出すには二週間はかかるだろう。  その間に特許を出願すれば、証拠のないこの会社が権利を主張するのは不可能だ。  俺の口元には卑しい笑みが浮かんでいる。この顔のもとの持ち主には決して浮かべることの出来ない表情。 「そこにいるのは誰だ。」  不意に視界が真っ白になる。誰かが部屋の明かりを付けた事により、暗視装置のリミッターが過光量により作動したのだ。自動的に通常視界に戻る。部屋の入り口に太った影が立っていた。 「エディか・・まずいところを見つかっちゃったな。」 俺の声に太った警備員〜エディの緊張が解けていく。気のいい白人の警備員は新人であるこの俺に、何かと色々なことで面倒を見てくれている。もっとも最近は俺の行動のごく些細な変化に戸惑っているようだが。 「レナルドさん。あんたこんなに遅くに何をやっているんだ。」  わずかに緊張は解けていない。俺に問い掛ける声は職業柄か、いつもの話し声より威圧的だ。 「実は上司にデータの提出を迫られていてね、帰ってから小さなミスに気付いたんだ。提出は朝一だし・・。」 殊更媚びるような調子を声に混ぜる。家を出ていった息子の姿を、俺に重ね会わせているエディの目に、理解の色が拡がっていく。上司の名前に社内の嫌われ者を入れたのがうまくいったのかもしれない。 「レナルドさん。あんたの気持ちもわかるが、せめて儂に断ってからでも・・」  エディの言葉が不意に途切れる。奴の目は俺の背後のコンピューターに付いている物に注がれている。時を刻んでいる爆弾に。 「まあとにかくここから出よう。他の警備員に見つかって大目玉を食らう前にな。」  砕けた口調と裏腹に、奴の体の発汗量が跳ね上がる。目が殺気を帯びて俺を見る。腰の拳銃を抜くスピードは彼の若い頃のもっとも得意なものだった。  俺は”身体”の戦闘機能をONにした。虫の羽音に似た機械音が耳の奥に響く。俺の体のなかで唯一つ生身の部分、脳を保護するための制動装置の作動音だ。目の前のエディの動きが緩慢になり、奇妙な静寂が俺の体の回りを覆う。  戦闘体勢に入り反応速度の上がった俺の体は、水の中の様なオーバーアクションでエディに近付く。空気の壁が俺の行動を阻もうと全力を挙げて存在を誇示しているのだ。骨格の急激な動きに耐えきれず、爪が、髪が、皮膚がまるで渇いた粘土の様に体から剥がれてゆく。レナルドを形作っていた人工皮膚のなかから俺の骨・本体が現われはじめる。  エディの目は未だ俺がいたはずの空間に固定されている。今の俺の動きは通常の人間が捕らえることは不可能だ。動きを止めている白人の胸に、特殊合金で構成された俺の腕が入ってゆく。肉を裂き、肋骨を押し退け、心壁を突き破る感覚が俺の金属の腕に伝わる。激しい血飛沫がエディの胸から吹き上がる。  時間感覚が通常に戻る。エディはレナルドの残骸を身につけた金属の骸骨を、最後の映像として目に焼き付けて絶命した。  軽い立ちくらみが体を襲う。急激な機動は頭蓋に浮いている脳にはきつい話だ。制動装置を使っても戦闘体勢の機動時間は二秒が限度だ。それ以上の負担をかければ頭蓋の中で脳は液体と化してしまうだろう。  金属が床と触れ合い堅い音をたてる。肉に阻まれない俺の体は動作をするたびに体の各部からモーター音が響く。  窓ガラスを割り、後を振り返る。  たとえ発見されても爆発には間に合わない。俺は夜の外気に体を投げ出した。  カプセルの中に横たわる男の死に顔は、まるで眠っているようだった。 「この男が今度の君の”顔”だ。」  背後のスピーカーから声が流れる。俺の直属の上司、Pの声。名前はおろか、顔も明かさないこの男は、ある時は電話で、ある時はスピーカーで、同じような無表情な声で俺に命令を下す。実際に俺が顔を会わすこの企業の関係者は俺のような下っ端か、白衣をきた医師、機械技師だけだ。  俺は鏡で確認した自分の顔を、視覚映像化して死んでいる男と重ね合わせる。記憶のなかの顔の表情を変化させる。俺の口に満足の微笑が浮かぶ。今の俺の顔は死人と寸分違わない。  変装。既にこんな言葉は、俺の身体には当てはまらない。俺の本体。それはこの人工細胞に包まれた中身の金属の骨だ。機械工学の技術により、人間の何倍もの強度を誇る戦闘用の身体。生身なのは、頭蓋に浮いている脳だけだ。  この身体を調節し、肉を付ければ俺はどんな外見の人間にも化けることが出来る。  そしてこの用意された”顔”になりかわり、情報を雇い主である複合企業・B・グループへ流すのが俺の仕事だ。  骨格などの身体特徴を完璧に再現するため、俺は死体の隣の同じようなカプセルに横たわり、キャノピを閉める。マスクに表情を隠された技師たちが、制御盤を操作しはじめる。 カプセルの中から吐き出された幾つものコードが次々と俺の身体に突き刺さる。隣の死体に同じように刺さっているコードから送られてくる情報に従い俺の身体を変化させてゆく。  側頭部のコードからPの声が伝わる。 「君の”顔”の名前はロイド・カービン。フィリップ社の感応機、ソフトウェア開発部門研究機関の一人だ。」 俺は思わず苦笑する。感応機。現代においてもっとも進んだ娯楽機械だ。擬似記憶体験装置とも呼ばれる機械は、人間の五感に架空の信号をあたえ、いわば起きながらにして夢を見させる。感応機に差し込むソフトを換えることにより、人々は様々な体験をすることが出来るのだ。  もともとは宇宙空間や、コクピットなど様々な状況を再現するための軍事シュミレーションマシンだったのだが、性能を落とし、価格を下げることにより娯楽機械として民間に広まった。それも加速的な速さで。  広まるにつれ需要が増大し、より革新的に、より高性能になっていった。現在では当時の軍事機械の水準を軽く追い越し、優秀な感応プログラマーなどは同じグループ傘下の軍需会社に引抜きをされるほどだ。  俺の身体自体巨大な感応機のようなものだ他人の記憶で完璧にそいつを演じる。現在の感応技術の結晶が、感応技術を盗みにゆく。コミックのような滑稽さではないか。 「どうもフィリップ社のところで新しいハードが開発されたらしいのだ。」  Pの声が俺を現実に引き戻す。 「ハード?このロイドという男はソフトプログラマーだろう。」 「そのハードで動く試作ソフトを作り出すのが、ロイド君の所属しているチームなのだそうだ。」  自分が殺した男に”君”など付けて呼びやがる。 「ロイド君の仕事はソフトプログラムのサポート。配属されてから二週間目だ。依然いたところは今の職場から遠いうえ、そこにいた期間も短い。すり変わっていることに気付かれる可能性は薄い。」  まさにおあつらえ向けの条件というわけだ。特殊な才能や技術を持っているスタッフは、すり変わる対象には選ばれない。その人物を殺してしまうことにより、盗みだす情報そのものがなくなってしまうからだ。プログラムのサポートということは、開発の独創性から離れた基礎の部分を扱う仕事だ。彼の名刺にかかれた肩書きがその命を絶たれる直接の原因になったのだ。 「君は今夜、休日を使ったドライブの帰りということになっている。車も用意しておいた破壊されたのと寸分も変わらぬものだ。ロイドを演じる期間は一ヵ月、ばれる事無く任務を遂行したまえ。」  白衣を着た技師が、八センチ四方のカードをカプセルに入れる。首筋に軽い痛み。人工皮膚を貫いて俺の延髄のスロットに、カードが差しこまれる。  人間の一生など虚しいものだ。思考、行動、感情、全てのパターンとその人間の生涯の記憶がこの小さなカードに納まってしまう。 このカード一つで、ロイドならばどのように考え、行動するのか、俺はすべてを把握できる。身も心もロイドになりきるのだ。  人間の文明は進歩し、腕、足、内蔵、骨格に至まで全てを人工にするのが可能になった。唯一、脳を除いて。厳密に言えば脳も作れる。脳と同じ様に身体の行動を命じ、脳以上の記憶装置を作ることは出来る。しかしそれは自律的に動けないのだ。未だ科学は真の人工たる人間を作ることが出来ない。擬似感情を持つロボットは作れるが、そいつ等は刺激を受けなければ、何の動作もしない。   命を命足らしめる何かが足りないのだ。その何かを探すための実験は今も行なわれている。生身の人間に自我に関するテストをする。腕を機械に換えて、もう一度。脚を換えてもう一度。胃を換えてもう一度。心臓を換えて・・・。そして今のところ自我を持つ限界が脳とされれているのだ。脳のほんの一部をのぞいて全て機械となる日もそう遠い未来ではないだろう。  自律的に動く脳は作れないが、脳が記憶している全ての情報、その人間の感情パターンなどは、より効率的でより小さく出来る。現在ではカード状までになった。こいつを使えばそのデーターを持つ人間の全てがわかる。その人間になりきることが出来るのだ。そして骨格全てを変化できる人工の物にし、表皮や肉を被せれば簡単に他人に変身できる。  心身共にロイドとなった俺はカプセルの蓋を開けた。  高層マンションのエレベーターのドアが、背後で閉じる。ロイドの部屋の番号は708号室、突き当たりだ。ドアのスロットに、ロイドのIDカードを差し込む。確認の音声と共にドアがスライドする。  部屋に踏み込むと共に明かりが点灯する。俺は”身体”の捜索機能をONにする。部屋の情景を一枚の絵として固定し、注目するものを記憶で確認していく。ソファー、テーブル、灰皿、窓、壁に掛かった写真、部屋の細部に至まですべてのものに対して同じ作業を繰り返す。この間約二秒。  大丈夫だ。しばしば事故として存在する、記憶を移し替える際の大きな歪みはない。  この作業により、”顔”の人生のかなりの部分を手に入れることが出来る。物品に対するイメージは、関連する記憶を呼び覚まし、さらに枝分かれしてゆくことにより、さまざまな記憶の泡を生じさせる。その泡を一つづつ取り込んでゆくことにより、よりオリジナルの人格に自分を近付かせるのだ。  この作業には訓練と、天性の精神力が必要だ。もし失敗すれば分裂症が待っている。強烈な記憶をもつ”顔”をコピーしたために、感応中毒者と病院のベットを分け合う元諜報員もいるらしい。  この作業の後は疲労を覚える。俺は棚に近付き、洋酒のビンをとる。煙草に火をつけソファーに腰をおろす。前の”顔”とは趣味が合わなかったが、ロイドはなかなか酒の味を知っている奴だ。琥珀色の液体が喉の奥に流れてゆく。俺の身体は意図的に酩酊状態を作ることも出来るが、本物の酔いにはかなわない。  テーブルの上にリモコンがのっている。留守録になっている映話を巻き戻して再生する。思わず唇から口笛が漏れる。モニターから語りかけてくる声は、その美しさを助長している。記憶による美化から差し引いてそれほど期待していなかったロイドの恋人・シャーリィ・クレイルは掛け値なしの美女であった。 仕事は仕事だが、楽しみは最大限に利用しなければならない。モニターに映る美女の微笑に向かい、俺はグラスを掲げた。  ロイドの出来たはずだったことを引き継いでやろうじゃないか。    車で走る。風景が熱を加えられた油絵のように視界の隅で融け流れてゆく。  ”スクルト”北欧神話の女神の名。”未来”を象徴するその名はなんてこの車にふさわしいんだろう。スクルトは僕の思うまま、風のように木々の間を駆け抜ける。  バックミラーに黒い車が映っている。すごい速さだ。視線を前に戻してぎょっとする。何時の間にか前にも同じ車が走っているじゃないか。前の車の窓から覗いてきたものをみて僕は悲鳴をあげる。拳銃だ!  窓ガラスが一瞬真っ白になって砕け散る。「シャーリィ!」  恋人の名前を叫ぶ。彼女をのせるために転勤してまで手に入れた車なのに!  バックミラーにはどんどん大きくなってくる追跡車と、恐怖に血走った僕の目が映っていた・・・・。  軽い恐怖の名残と現実への安堵に、俺は顔をしかめてベットから起き上がる。  後遺症。こいつは俺達のような”身体”を持つものの宿命だ。死ぬ直前の記憶というものは生涯を通じてもっとも強力なものだ。眠りという無防備な状態にその記憶が出現し、夢として再生されるのだ。これに耐えることの出来る精神力が諜報部員の第一条件だが、朝、ベットの中で発狂したまま処分された同僚も後を絶たないと聞く。防ぐ方法は現在無しだ。起きる度に神に感謝するようじゃこんな仕事をやってられない。   フィリップ社の自分の職場のドアを空ける前に受けた検査は、IDカードの掲示と指紋の確認。レントゲンによる所持品の確認。これだけでOKだ。重要な製品と機密を扱っているとは思えない簡単な検査。急成長の会社にありがちな形ばかりを金にあかせて作った防犯システム。 強盗に入るだけならそこらの中毒者でも十分だ。お釣りがくる。  二週間。ようやく部屋と部屋のつながりを覚えた職場。簡単なイメージ以外、ロイドの記憶は何も語らない。シャーリィの記憶量とえらい違いだ。ロイドの記憶は繰り返し自分のデスクへの道を再生する。  焦るなロイド君。君みたいに仕事ばかりをやっているわけにはいかないんだ。視界を広角モード、ついで精密モードへ動かす。記憶装置への書込は出来ない。作動信号は天井に取り付けられたセンサーに拾われる。後で書き込むため、この一瞬脳細胞にたたき込む。細部漏らさず。諜報員の基礎の基礎。  デスクに辿り着き、自分のコンピュータのスイッチを入れる。先輩が来るのは四十分後だ。それまでに下準備をこなさなければならない。下っ端はつらい。  この部屋に警備センサーはない。コンピュータのスイッチを入れるたびに警備員に銃を突き付けられるわけにはいかない。  仕事をしながら、脳のなかの職場を記憶装置へコンバート。基礎応用編。  怪しい動きを察知されてはならない。何気なく向けた視線。ふと立ち止まった廊下の景色。ドアの隙間から漏れてくる音。すべてに意識を集中し、頭のなかにたたき込む。  ロイドの記憶と照らし合わせ、正確な地図として、記憶装置に転写する。ロイドがシャーリィのことを考えているような間だけの短い時間で作業する。、仕事の能率を落として注意を引くわけには行かない。  もう少し自由に動ける口実を見付けなければならない。気が付くと時計の針は退社時間を示していた。  仕事の時間は終わりだ。ロイド君との共通の愉しみ、シャーリィとの待ち合わせに遅れてはならない。  愛車のドアを閉めて、鍵を掛ける。待ち合わせの短い時間しかいない店に、車を止めるだけでもいちいちロイド君は車に鍵を掛け、二度、点検する。  新車に対する執念は舌を巻くほどだ。心中できてさぞかし満足だったに違いない。  ドアを開ける。この時間の喫茶店は、幸福な奴とそうでない奴の境界線がはっきり分かる。人数をきいてくるボーイを無視して、幸福組に所属しているシャーリィに近付く。 「ごめん。待った?」 「二十五分。」いくぶんむくれて上目遣いに俺を見る。「これでも飛ばしてきたんだぜ。今度から待ち合わせ時間、遅らせなきゃなんないな。」「今日は、広東楼がいいな。」高級中華料理店。あすの昼も貧しい食事になりそうだ。  広東楼まで話題は新車のことだけだ。カタログの台詞の羅列にシャーリィはうまく合いの手を入れてくれる。ご苦労。  シャーリィが、さんざん迷って決断した料理の皿がテーブルに並ぶ。  黒砂糖に暖かい老酒を注いだグラスを軽く触れ合わせる。とりとめのない会話。  桜色に上気したシャーリィの肌。笑うたびに輝くピアス。  テーブルの上を動く白い指をいきなり俺は掴む。手を絡ませる。 シャーリィは戸惑った視線を俺に向ける。いつものロイドは決してしないことだ。俺は意志をこめた目で彼女を見る。彼女の手にこもった緊張が、解けていく。  この行動でロイドの正体に疑問を持つ女はいない。彼女の知らない一面があったという事実を認識するだけだ。そしてこれからはこの女を俺流に楽しめる。いつも通り。  やはりシャーリィには大人の表情が似合う。艶が含まれた彼女の顔は、今までの倍も美しい。ふとその顔がいつもの表情に戻り、微笑した。 「どうしたんだい?」 「右の眉毛が動く癖、何かをしようと構えると、いつもそうなのね。」  握った蟹のはさみが不自然に大きく動いたことを彼女に気付かれただろうか。幸い感情表現回路のおかげで表情はシャーリィに微笑を返していたが、内心は激しく動揺していた。右眉が動くのはロイドの癖だ。しかし、俺の身体は命じなければその行動をすることは決してないのだ。  俺は自分の身体のモニターを働かせる。オールグリーン。正常だ。記憶装置は右眉を動かしたことを記録している。シャーリィの方向にテーブルを回している俺の背中に、氷柱が突きささったように冷たくなる。その行動を命じた記録は皆無だ。俺の身体は命じてもいないのに行動をしたのだろうか。そんな機能は俺にはついていない。不可能の行動を俺の身体は実行している。  身体のどこかが壊れたのか?俺の身体は機械だ。自然に正常に戻ることはない。  シャーリィをにこやかに送る俺の腹には、重い恐怖がいつまでも残っていた。  自室に戻り、部屋のドアをロックする。明かりも付けずに、寝室へ向かう。  ベットに身体を投げ出す。全身を弛緩させてから俺は”身体”の全機能をチェックするプログラムを動かす。  俺の脳が死ぬ危険性がある装置を除き、全ての機能を停止させる。静寂のなかで心音が止まり、光、音がなくなり、次いで全身の感覚が消失する。  全てがなくなるような闇の中に、深海魚の光のように小さく一瞬だけ、身体の何処からか作動信号が送られてくる。手順に従い監視装置が任意の機械を、一瞬だけ作動させているのだ。  一度だけ同業者のこれを見たことがある。不気味な光景だった。不意に腕が持ち上がったかと思うと、爪先を蹴りあげるように突き出す。内蔵が動くたびに、胴体のどこかが大きく痙攣する。プログラムにしたがって身体を動かしている様は、自然には不可能な動きだけに、まるで子供が何も出来ない人形を滅茶苦茶に扱っているようだった。  全てのチェックが終わる。答えは予想したとおり、全て正常だ。ベットから起き上がり、棚の酒のビンをつかむ。  身体の動きがぎこちない。骨格の急激な動きに人工皮膚がずれてしまっているためだ。この時の顔は鏡を見ることが出来ないほどの歪み様だ。しばらくすれば元に戻る。  ブランデーのグラスを揺らしながら、俺は自分の手を見る。毛穴、指紋まで完璧に再現されたこの腕。皮膚には静脈が浮いているのも見える。赤外線、X線さえ誤魔化すことが出来る。完璧だ。  しかし完璧の何処かに狂いが生じた。歯車は一つ狂うと、つぎつぎに他の歯車を狂わすものだ。  俺は三時間前の広東楼の光景を記憶装置から抜き出す。これは緊急事態だ。命令を下さなかったのに身体が動いているという事実は最重要事項として、マークを付けていなければならない。  次の瞬間驚愕が俺の身体をおおっている。 心の激しい動揺を察知し、感情制御機能が る。反射的に許可を下してしまう。俺の心は身体から切り離される。血色が瞬時に治まり、心音が安定する。 ”自律特殊反応パターン6785・実行”  命令が記録されている。俺の記憶のなかでは、あの時はなかったはずの文章が命令記憶メモリーに書き込まれている。  俺の記憶力はBプラスの評価を受けている。トップクラスだ。どういうことだ?狂ったのは機械ではなく、俺の頭なのだろうか。  ともかくこれで証拠を記録することは不可能になった。脳の記憶は、記録装置に移さないかぎり、人に見せることは出来ない。今の時点で、俺の身体に起こったことを事実とする証拠はないということだ。  もう二度と、さっきのような事が無いように祈りながら、任務をこなさなければならないということだ。  ロイドになってから一週間が過ぎた。俺の身体の狂いは止まらなかった。  覚えの無い行動命令は日に日に、その数を増し、俺は自分の行動をチェックする回数を恐怖に比例させ多くしていった。  俺達”身体”を持つサイボーグには無意識の行動は存在しない。癖や仕草、行動パターンさえも、他人になっている時には自分自身を出す訳にはいかないのだ。  訓練には完璧を要求された。通常の機械の身体は無意識の命令も実行され、持ち主は生身と変わらぬ自然な生活が出来る。しかし俺達、企業スパイの身体は意図的にその機能をカットされている。行動全てに意識をむけ、自分を殺し、他人になりきらねばならない。一挙一動一投足、全てが計算された演技でなくてはならない。記憶と身体のフォローでかなり簡略化はされているが、自分を殺すのはまさに超人的な作業だ。  機械が助けてくれなくては他人になりきることは不可能なのだ。  今はまだ良い。命令していない仕草をしているのは事実だが、それはロイドの癖であり、俺自身のものではない。この行動でロイドが別人だと気付かれはしまい。  たとえ俺の癖が出たとしても、ここでの仕事なら本気で疑われることは少ない。  しかし、出てるうちは良い。命令しても身体が動かなくなってしまったら・・・。  たとえば歩いていると、突然足が動かなくなってしまう。注意をひくことは確実だ。  たとえば重要機密を探っているときに、記憶装置に転写出来なくなってしまったら、その現場から動けなくなってしまったら・・。 任務は失敗、俺は地獄行きだ。  俺は俺の身体のエキスパートではない。使い方は知っているが、一体俺の身体がどういう仕組みなのかも完璧には理解していない。 しかもこの悩みを打ち明けることの出来る相手など存在しない。雇い主からの連絡は向こうからの一方通行だ。  全てを解決する方法はただ一つ。任務を迅速にこなしてしまうのだ。  ”新製品、被験者求む”  フィリップ社の開発室付近にはあらゆる所にこの貼り紙がある。  新機種の安全性は確認済みだ。残るは使った人の印象を聴くだけ、という訳だ。より良い製品を作るため、体験者の意見は多い方が良い。  俺はこいつを利用して、機密へ近付くことにした。プロとしては上手いやり方ではない。必要以上に注意を引くことになる行動は、得られる情報と比べ危険の確率が上がるからだ。しかし俺には時間がない。  従来の感応機の原理は、人間の視覚、聴覚など、感覚をつかさどる脳の中枢に疑似感覚をあたえ、プログラムされた疑似体験を楽しむ機械だ。  新製品の凄いところは疑似感覚を与えるのではなく、人間の意識に刺激を与えることが出来るのだそうだ。  つまり、机がある。という情報を従来の感応機では、触感、視覚などで情報を被験者に与えるが、新製品は机があるということを教えるだけで、再生するのは被験者の想像力だというのだ。厳密には想像力だけではない。情報によって引き出されたイメージを補う記憶を固定させるのだ。  これにより信じられないくらいリアルな(当然だ。被験者の知り得る全ての記憶がその中に盛り込まれているのだから。)情景を創造出来るのだそうだ。  いささか眉唾物だが、本当のことだったら革新的なものだ。この技術を独占することが出来れば、業界の順位に干渉することも可能だ。宣伝さえうまく出来れば、多 大な利益を得ることが出来る。  久しぶりの本物の獲物だ。 「いいですか?気分が悪くなったり、何かあったらすぐにボタンを押してください。」  不安げな視線をさまよわせながら、俺は小さくうなずく。  体験室と貼り紙のしてある部屋。部屋の真ん中の歯医者を思わせる椅子に俺は座っている。床には、コードが散乱し、壁ぎわの機械に接続されている。コードの何本かは、頭についているヘッドセットに接続されている。 妙に古くさいヘッドセットのデザインといい、大げさな椅子といい、古い映画の電気椅子を連想させる。死刑囚と違うところは、装置を停止させるスイッチを俺が握っていることだけだ。 「あの・・・すいません」」 「なんですか?」俺の問いに、不満げな声で壁のスピーカーから技師が答える。機械を作動させたくてイライラしているんだろうが、聴けるときに情報は出来るだけ得なければならない。 「感応機につきものの、目を覆うスコープや、耳のヘッドホンは必要ないんですか?」 「今までの機械とは違うんですよ。人間の思考に干渉するために、そういった感覚器に干渉するものは必要ないんだ。夢を見ている時には目も耳も何の刺激も必要ないでしょう?」 「夢を見るんですか?」 「人為的に、ある程度自由に夢を見せることが出来る機械なんだ。暗示により、指向性を強化させるから夢のように不安定なものではなく、確かな記憶も残る。」 「見ている時間は一晩もかかるんですか?」 「夢を見ている時間は一晩の内のほんの数分だよ。機械の作動時間は十分。今はまだこんな大きさの機械だから設置場所が限られるけど、アトラクションに使うなら理想的な時間だ。」 「家庭用ではないんですか?」こいつは新情報だ。フィリップ社、業務用に進出か。 「今は、まだね。ロイドさん。そろそろいきますよ。目を閉じてください。」  一瞬宙に浮いたような感覚。視界が白熱し、不意に俺の周りに世界が出現する。  俺は二本の脚で立っている。目の前に広がっているのは砂漠と太陽だ。靴の下の砂の温度が感じられる。砂のつぶまで確認できる。見上げる空は抜けるような青さ。頬にあたる風は乾ききって、熱い。  座っていた椅子の感覚など欠片もない。重力をたしかに感じながら立っている。現実の名残を止めているのは握っていた停止スイッチだけだ。 「気分はどうです?」突然頭の上から声が降ってくる。研究員が問い掛けてくる声だと気付くのにしばらくかかってしまった。 「凄いですね。これはとても感応機による映像だとは思えない」 「映像なのではなく、あなたの記憶がその景色を形作っているんです。あなたが砂漠と太陽を知っていることだけ、そこに再現されるんです。」  聴かされていた理論と、現実に体験するのは別のものだ。すくった砂が指の間からこぼれる感覚を感じながら俺は驚きを隠せない。 「前に人影が出現します。それを追い越してみてください。」  声とともに前方に人が出現する。距離が離れているため、顔も確認できないが、どうやら俺から遠ざかる方向に歩いているようだ。歩く速度を早め、距離を縮める。「走ってみてください。」  声とともに、俺は砂を蹴る。ロイドは妙に負けず嫌いな所があって、走り始めるとむきになる。すぐに息が荒くなって、顎が出る。 驚愕すべき状況だ。蹴りあげた砂がズボンにあたる。砂に足がとられる。もし部屋で走っていたらすぐに壁にぶつかる距離だ。頭のコードの距離はさらに短いだろう。つまり、現実には全く身体を動かしていないのだ。  人影はどんどん大きくなる。近付いてくるのは男のようだ。 「追い抜きますよーっ」荒い息で、虚空に叫ぶ。 「あっ!」追いぬいた男の顔をみて、俺は思わず驚きの声を上げてしまう。  俺の顔だ。ロイドではない。俺自身の顔を持った男が歩いている。  気付かれたか。俺の正体を確認するための罠だったのか?  自己暗示と、自律神経に干渉して無理矢理気分を落ち着かせ、もう一度歩き続ける俺の幻影を見る。  大丈夫だ。人物に関しての新感応機の解像度はまだまだだ。輪郭の細部がぼやけている。人種、髪の色、ロイドと俺の外見が似ているのは幸運だった。誤魔化すのもなんとか可能だ。この映像を元に俺の正体をスパイと証すのには無理がある。  問答無用で射殺するには証拠不十分だ。おそらく仕掛けてくるのはこの感応世界から出た後、俺の動揺を誘って尻尾を掴もうという腹だ。  つまり尻尾を出さなければこの状況だけは切り抜けられる。チャンスさえ掴めば、ばれたとしても逃げることも可能だ。俺は身体の戦闘機能を準備しながら余裕を持って停止スイッチを押した。    視界と共に、身体の感覚が戻る。 部屋の隅のドアが開き、所員がやってくる。センサーによる武器反応は感知できない。部屋にも武器はないのは調査済みだ。捜索域を広げても、対スパイ用の武装は感じられない。なめているのか?本当に俺の正体はまだばれていないのか? 「どうでした?自分自身が歩いている姿を見るのは?」微妙な言い回しだ。 「さぞ面白い顔で驚いていたでしょうね。」 のんきな台詞と裏腹に俺は身体を緊張させる。この探りによる反応で相手の出方が掴める。  結果は意外であった。所員は肩を落とし、ため息をついたのだ。 「それを見ることが出来ればいいんですが・・。」問い掛けようとする俺を制して、所員は俺を別室に導いた。  そこは制御室だった。隣の部屋の感応機は全てこの部屋からの情報にしたがっているのだ。モニターにはさまざまな情報が明滅し、文字列がつぎつぎと流れている。いちばん大きなモニターに、「砂漠、自分、歩く」という文字があった。 「先程の映像は、たった三つの言葉で構成されたものです。」モニターを指差しながら所員はこちらをふりかえった。 「新感応機は、人為的に望んだ夢を見させる機械です。人間の夢を見れるという能力に、望んだ情景を投影できるのがこの機械なのです。催眠術のスマートなものと理解してもらってもかまいません。人間がどのように夢を見、それは何に影響されるかを解析してこの機械は出来ました。しかし・・」  ここで所員は言葉を切った。俺はこの部屋を見て感じていた疑問が氷解した。俺の正体はまだばれていない。 「ひょっとして僕がどういう情景を見ていたのかをモニターできないんじゃないですか?」所員は残念そうに頷いた。 「そうなんです・・・未だ人間の夢を覗いてみることは出来ない。夢を見させる機械を作ったはいいが、どれだけ凄いかは体験しなければわからない。どんな夢を見ているかは分かるが、それを視覚化できる機械はまだ出来ない。脳波からある程度は情報を得、それを映像化してみても、体験した映像には未だ遠く及ばないんです。」  所員の答えは俺を歓喜させた。危機脱出という訳だ。 しかもこの新感応機は、宣伝力においてまだ大きなハンデがある。新感応機は本物だが、それを認めさせることが出来る機械が出来上がるまでフィリップ社は世に出せない。スポンサーである企業グループが首を縦に振らないだろう。その前にこの情報を流してしまえば、フィリップ社の属するA・グループは新感応機による業界独走は不可能になる。  俺は多少、有頂天になっていた。思わず口が軽くなった。 「新感応機、情景の再現は完璧だけど、人物はもう少しですね。少し輪郭がぼやけ気味でしたよ。」  気楽な口調で所員は応じた。 「男性は多いみたいですね。女性と違って自分の顔の細部まで気にならないと、そういうふうになるみたいなんですよ。」  所員の何気ない台詞が数日前のシャーリィと同じように俺の背中を凍り付かせた。  簡単な検査と、簡単な質問の後、俺は社を出た。  部屋の鍵をロックして所員の最後の言葉を反芻する。『自分の顔の細部まで気にならないと・・』 そんなはずはない。俺は女以上に自分の顔を気にしている。愛している。紛れもない自分の顔というものは、俺にとって命と同じ位大切なものだ。だからこそ、他人の顔も平気でかぶれる。他人のふりも出来る。自分という人間に絶対の自信を持っているからだ。  俺は紙と鉛筆を持って机に座る。これからする行動はロイドは絶対しない行動だ。しかし、内心の不安が、スパイの鉄則にひびを生じさせていた。行動をやめることが出来ない。 自分の顔。ロイドではなく俺自身の顔を思い出し、記憶装置に転写する。自分の顔を一枚の絵として固定させ、記憶装置から直接腕の駆動系に情報を与え、再現する。  短時間で写真のように、無機質な絵が出来上がる。輪郭、皮膚感、全てを鉛筆が再現していく。音による外部伝達や、記憶装置を消さなければならない場合に使用する、情報記録最後の手段だ。  腕が止まるのを俺は恐怖をこめて見つめていた。絵は不十分だった。俺の記憶はそれだけの情報しか供給出来なかった。念のため記憶装置の情報を、視覚映像化して確認した。感応空間で見た男の顔が精密に再現されていた。突然数日前のシャーリィの言葉が身体の中に木霊した。 『右眉が動く癖、いつもそうなのね。』  愕然と、俺は顔の絵を見る。どことなくロイドに似た顔。俺はロイドに似ていたか?これがおまえの顔だという声がする。絶対に否定する声がする。  俺は頭を抱えて、装置ではない記憶を探る。親の事、がきだった頃の事、初めてこの身体で仕事をした事・・・。   ・・・・華やかな音楽。宙に舞う色とりどりの風船。聞こえる音でいちばん大きいのは俺の笑い声だ。ぬいぐるみの後を追い掛けていた俺は不意に立ち止まる。  後を振り返る。さっきまで握っていた母親の袖が何時の間にか無い。  急に不安になる。俺の側にいるのはさっき貰った風船だけ。周りは見知らぬ人ばかり。「かあさーん。」叫ぶ声はもう涙声だ。  人垣が割れて母親が出てくる。安堵は涙を誘い、ぼろぼろ泣きながら母親の膝にかじりつく。  母親が頭を撫でる手が暖かい。 「夢中になったら他の事が見えないんだから・・・気をつけなさい、ロイド。」  違う!  記憶を探る。思い出す。俺とロイドの記憶を区別することが出来ない。自分の名前を頭のなかで叫んでも、まるで他人のそれのようだ。  身体の無意味な動き。記憶の混乱。間違いはない。狂いかけているのは機械の身体の方ではない。俺の頭だ。 身体が勝手に動いたのではない。命令したのを俺の頭が認識しなかったのだ。意識には出ていないが、俺の脳は徐々にロイドになり始めている。無意識にロイドの意識が干渉し、身体にロイドの癖を出させているのだ。  今までの”顔”をコピーしたときはこんなことは一度もなかった。しかし噂は聴いていた。噂の主は必ず精神病院のベットだ。  もはや自分を押さえることが出来ない。部屋を出て、公衆電話に駆け込む。  ダイヤルを押す。今まで知っていても一度もかけなかった番号。雇い主への非常回線。盗聴されている可能性は高い。馬鹿なこととはわかっている。録音テープに想いを叩きつける。  ロイドの名前、仕事の内容には一切触れない。ただ自分の登録番号と、状況を伝える。このままでは狂うと。  部屋に戻る。興奮の波は去っている。後悔が激しい。ドアに自然と目が行ってしまう。この町はまるごとフィリップ社の所属する企業グループのものだ。証拠はなくしていたはずだ。しかしあの時は冷静ではなかった。いつドアを蹴破って、企業の犬の武装集団が来るか分からない。  電話の音に大きく身体が動く。両手で受話器を握ってしまう。 「録音は聴いたよ。」無表情な聴き慣れた、声。 「Pか?Pなんだな。」 「わがグループのなかのクメン社が検閲を受けた。」 「何?」  フィリップ社に対抗できるわがグループの娯楽感応ソフトの販売元だ。  感応ソフト業界は、現在衰退の域へ徐々にむかっている。消費者の要求にソフトが追い付けず時間に追われ、表現の限界が見え始めたのだ。  消費者の求めるもの。それは刺激だ。感応機は人間の中枢に直接情報を与える機械だ。強すぎる刺激は廃人への入り口だ。しかしリミッターのついている低刺激の感応機では与える情報にも限りがある。消費者が飽きるのも早い。  裏のルートを使ってそれは出現した。オフ・リミッター。感応業界が、ソフトの向上を図ってだした苦肉の策だ。裏のルートを使うのも企業に吸収された会社ならば可能だ。人間はどこまで刺激に耐えられるのか?正確なデーターは業界の復活をささえた。  大会社ならどこでもやっている手だ。しかしそれを公表されるような証拠を握られたら、その社は破滅だ。 「クメンは切り捨てねばなるまい。わがグループは感応業界において他のグループに大きく遅れをとることになる。・・新感応機の技術は今や非常に重要な意味を持ってきたのだ。速やかに情報を奪取し、フィリップ社にある試作機を破壊しなければならない。」 「破壊工作をやれっていうのか?」用意した装備ははそんな大げさなものではない。現状では武器を手に入れるのも不可能に近い。 「早くロイドから離れるにはそうすることが良策だ。武器は連絡員を通じて供給される。」 「連絡員?」 「シャーリィ・クレイル。彼女も内の諜報員とすり替わっている。」  シャーリィの経歴を思い出す。食品会社の事務員。両親はロイドと同じくすでにこの世の人ではない。なるほど、おあつらえ向きだったわけだ。  ひどく醒めた自分の声とは別のところで激しく怒りがこみあげる。シャーリイが殺された。僕の恋人が殺されてしまった。一瞬目の前が真っ暗になる。怒りの叫びを受話器に叩きつけそうになって不意に自制する。俺は何を怒っているんだ?ロイドの恋人が死んでいたことを怒るのはおかしい。俺はロイドではないのだから。  事務的に用件を告げ続けるPの声を聞きながら俺は決心していた。ロイドはすでに俺の意識までも侵し始めている。危険を覚悟しても仕事を早くこなしてしまわなければならない。  甲高い笑い声が俺の心に突きささる。  シャーリィの顔をした女が、シャーリィの声で、彼女の決してしない笑い方で笑う。嘲りと媚を含む熟女の、声。 「私の前でも演技をやめないの?ロイドもどきさん。」 シャーリィをかぶっている女は、俺がロイドの仕草をするたびにおかしそうに笑う。  俺は既に自分の仕草に注意を向けるのをやめている。気が狂わないためには自覚しないのが一番だ。  Pの電話から一週間。ロイドの精神圧は日に日にその強さを増している。今やロイドは俺の意識までも侵しはじめている。  情報を記憶装置に書き込んでいると、突然自分が何をしているか分からなくなる。カレンダーの数字を不自然に感じ、辺りを見回してしまう。ロイドの記憶は三週間前に止まったままだ。広がってゆく自分の不安を押さえられない。一時的に自分の身体の制御機構の作動方法を忘れてしまうのだ。  一時的。今はまだ。完全に乗っ取られてしまうのもそう遠い未来ではない。自分のことを僕と意識している時間が長くなっている。病原菌に侵されてゆく自分の身体を想像し、頭を振る。  女の笑いは含み笑いに変わり、今だつづいている。しつこい女だ。シャーリィの顔をした女の仕草はロイドの記憶と摩擦し、悲しみと怒りを刺激する。感じるはずのない幻の感情に俺の心は動揺する。 「物は何処なんだ?」内心の葛藤を隠すように無表情に女に問う。 「ここよ。」  ベットから起き上がらずに女がバッグを持ち上げる。乱れた寝具から裸の肩を出したまま、バッグを胸を隠すように引き寄せる。大きな皮製品のバックは女の腕の中で抱えられるくらいに丸く盛り上がっている。  何処となく淫らな動きでバックの中身を取り出す。黒い球形の物があらわれる。 「こいつはね、特別製なのよ。」  十分前に共に味わった興奮は今だ彼女の目元に紅く名残を止めている。妖しい魅力を帯びた女の瞳が俺を上目遣いに見つめる。 「ただの爆弾じゃないの。こいつが発する電磁波は、およそ半径五百メートルのコンピューターおよびデーターを完全に破壊するわ。従来のセンサーでは危険物と察知するのは不可能。しかも火薬よりはるかに効率的」  声に陶酔感があった。エンジニア出身なのかもしれない。  愛おし気に爆弾の上を這う腕が、ゆるく開いた唇が、潤んだ瞳がロイドの記憶を今までにないほど刺激した。この女はシャーリィじゃない。僕のシャーリィを殺したのはこの女だ。目の前が暗くなるような怒りに駆られロイドの意識が女の喉に俺の手を延ばす。怒りが身体の主導権をロイドに握らせていた。  彼女の驚きの顔は一瞬だった。紫色に変わりはじめた顔で、苦しい吐息で、彼女は邪悪な笑みを浮かべながら、言った。 「今度はそういう趣向でやるつもり?」  その台詞が俺自身を取り戻させるきっかけになった。あわてて手を放すと彼女の方からしがみついてきた。俺は激しく彼女を抱き返す。自分を失った恐怖が欲望を助長する。紅潮するシャーリィの顔を見ながら俺の唇に卑しい笑みが浮かぶ。  少なくともこの点だけは俺はロイドに勝ったというわけだ。    シャーリィとの一件で俺は自分の症状をほぼ正確に理解することが出来た。  ロイドに乗っ取られるわけではない。俺が自分をロイドと認識してしまうのだ。線路のポイントが切り替わるように、俺としての記憶は消え、ロイドの記憶をおさめたこのカードが俺の脳の代わりをして、今までの人生を出力してしまう。  自分自身という認識は変わらずに、俺から僕になってしまう。俺としての記憶が帰ってくるのは、今はまだ俺の脳の出力が強いためだ。しかし俺の脳は生身だ。現に機械のカードの力は刻々と俺の脳の記憶を書き替えている。俺はもう自分の生まれた環境を思い出せない。ロイドと区別が出来ない。カードを引き抜くことも内容を書き替える機能も俺にはない。  ロイドのカードに対抗するにはこちらも機械に自分の記憶をすり込み、動かせない確固な物にしてしまえば良い。その部品はある。仕事用の記憶装置だ。  記憶を入力しようとした俺は、その作業が不可能なことに気が付いた。俺には記憶の取捨選択が出来ない。大きな事件に対する俺の心は無個性極まりないし、小さな事柄全てが俺の人生を構成する重大な要素だ。それらを入力していくにはメモリが少なすぎる。  第一その記憶を抱えたまま仕事を放棄してどうする?B・グループから逃げ切れるのか?ロイドの姿のまま。俺の身体は機械だ、永久機関で動いているわけではない。企業から離れては生きていけない。  ロイドのカードを引き抜く以外、ハッピーエンドはありえない。  焦る気持ちを必死に隠し続け、俺は任務に没頭した。そしてついに昨日、任務は完了した。記憶装置には重要情報がメモリ一杯につまっている。  感応機のハードに関しては俺は専門家ではない。しかしロイドの記憶と、技術者たちの仕草で何が重要なのかは分かる。盗みとり、集めるのが俺の仕事だ。この情報はB・グループの技術者が吟味してくれるだろう  危ない場面がなかったわけではない。ロイドに乗っ取られそうになることも日数に比例して増えていった。幸い、今はまだ激しい感情に後押しされないかぎり症状はでてこないようだ。最近は乗り切るコツも覚えてきた。 もう心配は無用だ。今日はロイドの休日。スクルトのバックミラーに映る街はもう小さい。フィリップ社のビルも見えなくなった。休日のドライブを装った。呑気な逃走だ。  俺はハンドルを離して腕時計を見る。爆破装置のセット時間から二十分がすぎていた。 センサーに反応しない特殊爆弾は、隠し場所であるロイドのロッカーを中心に、半径五百メートルのコンピューターデーター及びコンピューターチップを破壊する。試作一号機は作動不能になっているだろうし、設計図を含め全ての重要データーは飛んでしまっている。保険用にと、プリントアウトして、金庫に納めておいた唯一の完全原本は、スクルトの助手席の上、俺の横だ。フィリップ社は、警備装置の見直しの必要性を、手痛い代償により知り得たというわけだ。    バックミラーに映る車が、感傷の時間に終止符を打った。俺の額に冷たい汗が吹き出す。防弾と対衝撃用に強化された黒いガラス。塗料も塗っていない、地肌が剥出しの装甲を兼ねたフレーム。フィリップ社の所属するA・グループのA・P(アームド・ポリス)が使う特殊車両だ。  犯人が割れたというわけだ。爆弾の爆心地はロイドのロッカーだ。社員の車に発信機を付けていない会社はいない。入念に検査をしたつもりだが、漏れがあったようだ。それとも社員食堂の食事に発信物質が含まれているという噂は本当だったのだろうか。  追っ手がつくことは、予想していたことだ。問題は、それを俺のレーダーが拾えなかったということだ。俺のレーダーは動いていたのか・・・何てこった。レーダーの使い方が分からない。忘れてしまっている。  前方にも似たような車があらわれる。俺は急いで身体への命令を変更する。身体に隠された武器を全て作動状態にしなければならない。隠密性を重要視するスパイの戦い方では決してない方法。口頭での命令に作動するようにする。身体への命令がうまくいかない。忘れ始めているからだ。ロイドは生身の人間だ。機械の身体を使う記憶は、ロイドの記憶と反発し、体外に弾きだされ始めている。  奇妙な既視感が俺を襲う。いつか見た夢、ロイドの死の直前の状況にそっくりだ。前方の男が窓から身を乗り出し、銃を向ける。それを見て、俺はハンドルを離し、頭を抱えてしまう。僕は殺されてしまうんだ、また。 「シャーリィ!」ロイドの意識が激しく俺に干渉する。自分の悲鳴に俺は自分の状況を再認識する。感情制御回路を強制作動。震えの治まった腕で、ハンドルを握る。弾丸が打ち込まれ、真っ白になったガラスをこぶしで打ち砕く。  激しい風に髪がなびく。涙腺をカットし、無理矢理目を見開く。近付いてくる車に向けアクセルを踏み込む。 叫ぶ声も風でかき消される。俺の命令に左前椀内側の部分、尺骨を模して作られたニードル・ガンが、表皮を突き破って銃口を露出する。左目に現われたマーカーを銃を構える男の頭にポイントし、人差し指に連動した引き金を引く。  長さ六・七センチ、直径一ミリ。高圧縮空気に撃ちだされる死の使いは、十一メートル先の頭のなかで炸裂した。針に仕込まれた炸薬は、頭を熟柿のように飛び散らせた。  派手な音をたてて、サイドミラーが弾けとぶ。リアウインドーが砕け散り、車体のあちこちから火花が走る。力一杯ブレーキを踏み込む。横滑りを必死に押さえ、銃撃を続ける後部の車に、車体を叩きつける。  僕のスクルトが傷つくたびに感情制御装置が悲鳴をあげている。俺はそんなロイドの心をあざけるように何度も車体をぶつけ続ける。隠密用の武器の装弾数や破壊力などたかが知れている。敵の装甲車並みの車と、俺の乗用車では勝負を挑むほうが無謀だ。俺の希望はただ一つ待合場所までの距離だ。後三キロ。微妙な距離だ。有利な点はもうひとつある。さっきからの攻撃方法から考えると、奴らは俺を生け捕ろうと考えている。しかも、俺の身体に気付いていない。俺が機械の身体だと気付いていたら、車ごと破壊し、破片から情報を収拾できるからだ。  二台の車に左右から挟まれ、スクルトのフレームが悲鳴をあげる。火花が上がり、ガラスの破片が身体に刺さる。  スクルトの屋根に貫手で穴を空ける。感応機のデーター用紙を掴んで車外に飛び降りると、森に向かって時速四十キロで走る。未だ人間のふりをやめてはいない。生身の人間が薬物強化して、一時的に出せる最大速度がこの速さだ。ダミーの注射器は、奴らに分かりやすいように投げ捨ててある。  感情表現装置で怯えを浮かべて振り返る俺に、余裕を持ってA・Pたちが迫ってくる。後一キロ。レーダー妨害装置の作動方法も忘れた俺は意を決して敵に近付く。勝負をかけねば、振り切れない。  歩を遅めた俺に、警戒もせずに敵が近付く。薬の切れた人間は十分は行動不能だ。振り返った俺の顔を見て、A・Pの口元の笑いが凍り付く。  人間には不可能な速度で腰を回転させる。足首を百八十度回し、爪先に隠された単分子ナイフが、靴を突き破って男の腕を切断する。茫然とする男の顔に、拳を叩きつける。頭蓋骨が俺の人工皮膚を引き裂いて、男の後頭部に金属の腕を出現させる。  速度を殺さずもう一人のこめかみに足を叩きつける。硬い金属音とともに弾かれ、俺はその男と対峙する。 「まさか俺と同じ、金属野郎だったとはな。ロイドは既に殺されていたのか。」  顔半分金属を露出させたA・Pの骸骨の顔には笑みが浮かんでいる。諜報用と戦闘用、身体に内包する戦闘能力の絶対的優位が浮かべさせる余裕だ。俺の武器は奴の身体に大きなダメージを与えられない。反対に、奴は左腕のブラスターを使う迄もなく、俺を作動不能に出来るのだ。  その認識が奴の命を絶った。  戦闘加速状態で動く俺を彼の旧式のセンサーでは認識できなかった。機械の限界作動速度で起動するこの戦闘方法は、限界継続二秒間。奴の背後にまわりこみ、装甲の隙間から右肘のレーザーメスを差し込むには十分な時間だ。  フィリップ社が警備にうといのではなかった。A・グループ全体の性格なのだ。今時こんな旧式のサイボーグを使っているところはアジアの一地域ぐらいだ。高機動戦闘は、俺の身体の2タイプ前から使用されているというのに、それに対応するプログラムも組んでないとは、これこそ重要情報だ。  高機動により、俺の身体からはロイドを表していたものは全て地面に剥がれ落ちた。内蔵さえ削除した身体に一キロという距離は隣も同然だ。  銃声が響いた。  大腿骨が砕け散る。激しい衝撃に俺は地面に引き倒される。まだ残っていたようだ。追っ手の人数さえ俺はもう覚えていなかったようだ。ちぎれた足が、蒸発する。なぶるつもりだ。  僕をどうして殺そうというんだ。あの男たちは何者なのだろう?ロイドの死の前の記憶が、俺に激しく干渉している。ロイドの最後に酷似しているこの情景と死への恐怖が、再び症状を進行させ、意識さえ乗っ取ろうとしているらしい。  ロイドになっても今まではすぐに俺に戻ることが出来た。それはロイドの三週間前に止まった記憶と、ロイドに乗っ取られている状態が異なっていたため、完全にロイドになりきるには矛盾した状況だったからだ。しかし今、ロイドの死の瞬間と、俺の置かれた現状はジクソーパズルの様に組み合わさろうとしていた。今すぐに日にちの違いなど俺自身に改めて認識させる手段はない。  左腕が弾けとぶ、転がった腕を見て、僕は悲鳴を上げる。骨になっている!近付いてくる男の銃口が不気味に光る。あの銃に撃たれると骨にされてしまうんだ。  俺の口から悲鳴が漏れ続ける。もはや主導権はロイドの方に移ってしまったようだ。自分を僕として認識している回数がそれを証明している。まあいい。これで俺は終わりだ。この身体をロイドにやらずに最期を迎えたということだ。  にやにや笑っている男が不意に僕から視線を外した。男の視線の先をたどった僕の視界一杯に巨大な影が浮かび上がった。  ヘリだ!雑誌で見たことがある。戦闘ヘリコプター。黒い機体の横に書かれた白いマークはB・グループのものだ。  銃を突き付けていた男が悲鳴をあげて背を向けた。ヘリの腹に取り付けられている銃が回転し物凄い量の薬きょうが地に落ちる。林の中、男がいたであろう所から小さな爆発音が聞こえた。  助かった。安堵に落とした視線が止まる。骨だ。僕の身体は、金属の骨になっている。右手を目の前にもってくる。節くれだった、昆虫を思わせる骨の手のひら。抱えた頭に伝わる指の感触は硬い。顔をなぞる。歯の感触が指に伝わる。僕の頭は骸骨だ。口から悲鳴がとまらない。僕の身体はどうなってしまったんだ。誰か助けてくれ!  肩をたたかれて僕は後を振り返る。白い服をきた医師を思わせる人物が立っている。首筋に軽い痛み。目の前が暗くなっていく。  気が付いたとき、僕が初めてした事は手をかざして見ることだった。安堵のため息が口から漏れる。見慣れたいつもの手。顔の感触もいつもの感触。ロイド・カービン、僕自身のものだ。  あの記憶は悪夢だったのだろうか?病院にあるようなベットに僕は寝かせられていた。着ている服も病人用を思わせる貫頭衣だ。  部屋を見回し、病院でないことに気付く。左側に大きな窓があり、そこから二人の男が話をしていた。病室にのぞき窓はないし、立っている二人はとても医師には見えない。  かすかに話し声が聞こえる。注意を向けると二人の声が大きくなることに驚く。声は、わずかに空いたドアの隙間から漏れてくるだけの、ごく小さい音量のはずなのに、こんなにはっきり聞こえるなんて、僕の耳はどうなってしまったんだろう。 「初めての成功例ですな。完全に以前の人格、記憶は失われています。彼は既にロイド・カービンとして、自分を認識しています。」  男達の顔の輪郭もはっきりする。ガラス越しにこちらを見ている男の一人に見覚えがある。僕の上司、フィリップ社感応機開発主任だ。どうしてこんなところにいるんだろう。隣の男は、誰だ? 「見事に実験は成功ですな。フィリップ社の開発したカードを使えば、脳という有機ハードウエアの内容を完全に書き替えることが出来る。機械の身体を使っていれば文字通り、不老不死が実現する。未だ科学は人造の脳を作れない。しかし記憶を含め、人格そのものを脳に転写することが出来れば、他人の身体を使うことにより人は無限の寿命を得る。人類の永遠の夢がついに実現したということです。」  興奮して喋っている声が僕の意識を刺激する。こいつがPだったのか、顔を見るのは初めてだ。心の中でつぶやいてから自問する。Pって誰だ? 「まだデーターをとる必要があるが、問題はないでしょう。彼は見事に新製品の情報を我々に提供してくれたというわけだ。」  主任が抱えているカルテのような書類が目に入る。その名前の欄に、聞いたことのない名前がかかれていた。 その名前を心の中で反芻する。突然頭に鋭い痛みが走る。僕は思わず頭を抱えてしまう。これは、何だ?  意味不明の激しい怒りが、僕の腹から突き上がってくる。喉を圧迫し、それは怒りの絶叫へと変わった。  ベットから跳ね起き、叫び声の激しさに乗って拳をガラスに叩きつける。僕の身体が勝手に動いている。自分の身体が、自分の物ではない気がする。  そうとも、この身体は俺の物だ。  ガラスに蜘蛛の巣のようなひびが入る。次の瞬間、怯える二人の前で分厚いガラスは粉々に砕け散った。  僕は自分の右腕を見て悲鳴をあげようとする。硬質ガラスを砕いた代償に、僕の拳の皮膚はズタズタになっている。その皮膚の下で血まみれになって顔をだしている骨は、明らかに金属だった。悪夢が再びよみがえる。口からは悲鳴がでているはずなのに、耳に聞こえる自分の声はまったく違う言葉を叫んでいた。 「殺してやる殺してやる殺す殺す殺す」  僕は何もしなかった。何も出来なかった。 耳元に蜂の羽音のようなものが聞こえてくると、突然世界の動きが緩慢になった。僕に背を向けて、逃げ出そうとしている男たちの悲鳴が、水のなかのように遅く響く。  男の背に自分の腕が突き出されてゆく。爪が皮膚が肉が血が、ゆっくりと腕から剥がれていく。金属の腕が男の背に突きささる。金属の手の平が男の頭を包み込む。僕は腕から伝わる死の感触に、出すことの出来ない悲鳴をあげ続けていた・・・・・。   ・・・・顔にあたる草の感触に、僕は意識を取り戻した。目の前に投げ出された金属の腕が、悪夢が未だ終わっていないことを告げていた。  体中から機械の作動音が響く。左腕は、なくなっていた。左足の脛の骨が歪んでいて、うまく歩けない。  僕はまわりを見回した。公園のようだ。辺りに人気はない。  遠くに見える看板に、僕は見覚えがあった。ここはシャーリィのマンションの近くだ。僕は迷うことも出来なかった。足を引きずり物陰に隠れて、シャーリィのところへ歩いていった。もう僕が頼ることが出来るのはシャーリィだけだった。  祈るような気持ちでエレベーターに乗った。誰にもあわなかったのは幸運だった。  ドアの前で、初めて僕は躊躇した。インターホンを押す骨の指は震えていた。 「シャーリイ。僕だよ。ロイドだ。」 「ロイド?どうしたの、こんな時間に。今開けるわ。」「待ってくれ、驚かないでくれよ。鍵を開けてくれるだけでいい。僕から入る。」 「何?また悪戯を考えたのね。」  入ってきた僕の姿を見て、悲鳴をあげようとした口を押さえた。もがく彼女に必死に僕は二人だけの秘密を話し続けた。 「本当に、ロイド・・なの?」うなずく僕を見て、彼女は泣き崩れた。  落ち着いた彼女に、僕は今までのことを話した。といっても当事者の僕にも記憶のない三週間の間に、何が起きたのかはうまく説明できなかった。  明日、警察を呼ぼう。とにかく公の機関に身を預けよう。ということで僕達は意見を落ち着かせた。 「とにかくお茶でも入れるわ」シャーリィはそういって立ち上がった。  目で追った僕は、受話器が外れたままの電話を見た。 「誰かと電話していたのかい?」 「うん、ちょっと社の人とね。」  そういって部屋にきて初めて彼女は僕に笑いかけた。  その笑顔は僕の記憶にはない笑顔だった。 完