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ドラクエをクリアーしていない自分
おお、メジャータイトル!
そして、ネガティブな表題。
とほほ、である。
発売日から2ヶ月が過ぎ、ドラクエをクリアしていない自分がいる。
おもしろくなかったわけではない、
時間がなかったってのは、いいわけにすぎない。
でも、たぶん今のところはこのゲームにしばらくふれないだろう、と思う。
このゲームの感想。まず第一は、
「本物はやっぱり違う」と、言うことである。
このゲームは、「究極のお使いゲーム」であった。
延々とフラグをといていくことで展開を進めるゲーム。
そして成長。
素晴らしいバランスと、成長への自由度がある。
そして、ストーリー。
RPGの大理不尽は、ドラクエが作ったのではなく、
その模倣作達がドラクエの本質を見ていないことを、まざまざと証明した。
村人が困難を自分たちで解決せず、馬の骨に頼ること。
世界を旅しているのが自分たちだけのこと、
冒険の理由、
これらのことに共感できるゲームは、少ない。
暇をつぶすためにゲームとしての押しつけに耐えること、
思考停止をして受け入れていた「RPGのお約束」が、
やはり間違っていることを、きちんと証明してくれるゲームだ。
村人達の会話一つをとっても、その世界で息づいている感触があり、
決して数あわせではない、いる理由が存在している。
そこに気がついているライターと、違う人の差である。
残酷ではあるが、凡百のゲームとの才能の差を思い知らされる事実であった。
感動した。
王道とは、こういうものだと、ゲームという「樹」の
幹を見せられた思いであった。
そして、それでいいと思ってしまったのだ。
僕の中でドラクエは、終わった。
理由はいくつかある。
まず1つは、UOと仕事で忙しくて、
人の用意された道を探している暇がもったいない、
と、いうことだ。
確かにドラクエはおもしろい、ストーリーもぐっと来る。
だが、小説ならページをめくればストーリーが進むのに、
ドラクエは延々と正解を、作者の提示する正解のみを探さなければならない。
と、言うことなのだ。
昔はこの行動に熱中した。
頭の悪い創世記のアドベンチャーゲームをやってきた自分だ。
一生懸命友達に聞いて、
なすの兵士の前で、「マツ」を3回入力して先に勧めた感動を、忘れはしない。
ただ、今回のドラクエでは、疲れてしまったのだ。
まず第一の理由は、「情報が先にてにはいる」ということだ。
プレイを進めるとどうなるのか、それがわかってしまう。
そしてすでにその自分をシミュレートする。
そして現実の進んでいない自分に戻る。
このとき、問題があるのは、先の長さに嘆息して投げただけではない、
ということを特に言っておこう。
いろいろな特技を覚えて、仲間が増えて、話が進む。
そういう自分を想像したときに、その気持ちにあこがれが強烈に存在しないのだ。
女神転生やウィザードリーのアイテム表にドキドキした自分がいない。
かける時間と爽快感を秤にかけて、爽快感が下回ってしまったのが、結果である。
それは、石版をそろえなくてはいけない労力、モンスターのいる労力、
以外にも、理由がある。
ストーリーが単発すぎるのだ。
次の島、次の島。ストーリーとして、独立した物語が延々と続く。
一つ一つはおもしろい。
しかし、熱狂的にオムニバスを読む人っていないのではないだろうか?
寝ることを惜しんで読みふけった小説、漫画喫茶がはやる理由、
友達に何十巻も漫画を借りる訳。
それは、長編であること、なのではないだろうか。
もちろんドラクエは長編である、しかし、今回に限って言えば、
長編である手応えが少ない、ということだ。
そして、プレイ感覚。
オンラインでないことは、寂しい。
これはなんか、UOヨイショ発言なのかもしれないが、
ドラクエでは、ロールプレイングできないのである。
「ライアン」だったり、「殺人狂のトリガーハッピー」だったり、
「未熟なパイロット」として、他の人から認知されない、のは、寂しい。
役を演じている感触がないのである。
観客がいてこそのロールプレイング。
そして、ドラクエは勇者としての役割が、希薄でありすぎた。
ストーリー自体はそうでなかったかもしれない。
しかし、「こう育てれば、こうなる」「防具はこまめに買いそろえる」
「どこで石版が見つかる」
ゲームとしての制約が激しすぎる気がする。
勇者は人のうちで壺は割らないだろう、
でも、やってしまう。
ゲームとしての寄り道ができすぎるのだ。
オンラインゲームは半分現実の存在で、遊んでいる自分を演じることができる。
しかし、オフラインゲームは、リアルだ。
目的がきちんと提示され、物語の登場人物なのに、そこに完全に入り込めない。
それが、ドラクエを進めない理由であった。
ドラクエは、おもしろいゲームであって、ロールプレイングではなかった。
その認識が、ドラクエをほったらかしにしている理由だ。
千年一日でも、みんなの盾となっているライアンは、そのように自覚し、
仲間にもそう認識されている。
戦士として立ち回り、戦いを、おしゃべりを、寒いギャグを
UOの住人として、やっているのだ。
ドラクエの世界では、生活ができなかった。
一瞬の夢として夢中になるには、必要な時間が長すぎた。
まあ、ドラクエは今後、気がついたときにつまみ食いをしていくだろう。
今、僕は閉じた夢として、「クリムゾンスカイ」に夢中だ。
クールな空賊「ネイサン・ザッカリー」として、彼を演じ、悦に入っている。
ゲームは単純で、戦うことしかできない。
彼はリアルな存在ではなく、そしてだからこそかっこいい。
彼の喜びは自分の喜びである。
オンラインゲームにある、「奉仕の喜び」はここにはない、
しかし、困難をうち破る単純で強烈な喜びがある。
ドラクエにそれはないのだろうか?
ドラクエにはそれ以外のこともたくさんあった、
その結果、中心の喜び、勇者を演じる爽快感が、
弱くなってしまったのではないかと、
僕は思っている。