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500hit記念文章。『私と500』
彼を思い出すことができた。幸運だった。
私は、少しやっかいな仕事があって、なかなか500に時間を割くことができな
かった。K氏にはすいぶん迷惑もかけていたので、500は重要な問題だった。時間
は思いつくままに過ぎる。大脳は生あたたかいスポンジのようになって久しい。仕方
がない。少しのあいだなら彼に任せてもかまわないだろうと決心する。なにしろ彼に
は経験がある。私は三年ぶりに、彼に連絡をとった。
「出来るかもしれんが、わからんな。資料を送って、お前の意見も聞かせてくれ。
お前の独りごとや、半分ネボけてしゃべる空談を勘案して500をするのは危険だか
らな。第一次資料を見てから、ゆっくりとお前の考えを聞こう。出来上がりを見て、
気に入らなければ捨ててしまえ。俺はかまわん。さあ、言ってみろ」
ありがたい、感謝している。今回の文章は特殊でね。知人友人に話しても、なかな
かうまく伝えられない。題材が題材だ。なにしろこれから始める500とは、種あか
しをしてしまえば、君のことなんだ。君じしんのことなんだ。君が見聞きしたことが
500になるんだ。私は君のことをよく知っているけど、それに憶測や誇張が含まれ
やしないかと不安なんだよ。君のことを知っている人は、とても少ない。嘘を書い
たってばれやしない。私だって君の全部を理解しているとは言いがたい。だけど、も
し君が書いてくれるのであれば、こんなに正確で、楽なことはない。
実は以前、私が書いてきた文章は、嘘だ、虚構だと割り切って、君にほとんど知ら
せないでやっていたんだよ。だけど、失敗だった。私はまだ、自分の立場をなにもの
かに委託して論ずるということに不得手だ。それが自分という一番近しい人間であっ
てもね。記者という仕事をして、よくわかった。私には修業が必要なんだ。それにい
ま私には500に割ける時間がない。仕事が忙しくてね。
そこで思いついたんだ。君がいるではないか、と。初めから終わりまで君に任せて
みようとね。なにしろ君の500だ。私より君のほうが適任だよ。これは君じしんに
とっても有意義なものになるだろうからね。
「お前が何を言っているのか俺にはわからんよ。だけど、そんなことは問題ではな
い。これは俺の500なんだな。それだけで十分だ。ゴタクは結構。作文にはタッチ
しなかったが、お前の文章は何度か見せられたな。俺はいろいろ文句を言ったが、お
前はあまり聞こうとしなかった。そのツケがまわってきたんだ。お前は少し疲れてい
る。休んでおけ。あとは俺がやる。500が出来たら、よく見るんだぞ。俺ではなく
お前がよく見るんだ。ケチをつけるのはいいが、修正はするなよ。それだけ守れば、
できあがった俺の500をお前にやってもいい。もし失敗作だと思ったら破棄しても
いい。ただ、あのKさんには、お前は世話になっているんだろ。その人に送るんだか
ら、俺も少し考えて書こう。まあ、期待しないで待っててくれ」
ありがとう。恩にきるよ。君の遅筆と難字は心得ているから、安心して書いてく
れ。私は仕事で、しばらく家を空けるけど、出来たら郵便かなにかで送っておいてほ
しい。よろしく頼むよ。
一週間後、私は彼から500を受け取った。約束通り、私はそれに何も手を加えて
いない。だからそれは、受け取ったときそのままの500としてここにある。誤字程
度は直したが、そのまま打ち直した。以下の文章はそうして手に入ったものだ。
不思議なのは、まぎれもなくこれは彼の書いた文章なのだが、あとで聞いてみる
と、彼にしてみればまったく心当たりがないのだという。「おまえはまた、勝手に俺
の名前を使って文章を書きやがったな」というのである。当然、私が書くはずもな
い。そのころ私は、締め切りにおわれてさんざんだったのだ。
結局、これは誰が書いたのか判らない文章になってしまった。これは、本当に彼が
書いてくれた文章なのだろうか。私にとって、彼がどのように文章を書くのかは想像
できるところではない。そうだ。きっと彼は、私に頼まれた文章を、500じしんに
書かせようとしたのだ。私とまったく同じ方法を、彼もおこなったのだ。私に文章を
送り付けてきたのは、おそらく500だろう。いや、もしかしたら、500も、誰か
に連絡をとって文章を書かせたのかもしれない。それは誰だ−−、考えはじめると、
きりがない。でも私はその文章を、私の書いた文章だとしてK氏に渡すだろう。そし
てそれは、本当のところ、誰が書いたか判らない文章なのだ。まあ、少なくとも、嘘
だらけの私より真実に近い文章ではあるが。
電車に乗り、いつものように、責任回避の手段としての病気や事故を空想してい
る。最近は肺病である。「肺水」というやつで、祖母の叔父さんが若い頃これにかか
り、四年ほど床上にあったという。肺胞に水がたまり、呼吸が苦しい。死に至るもの
ではないが、つねに安静を強いられる。水が完全に抜けるまで数年を要する。文学的
な病気だ。私は咳をする。痰がつまる。苦しい息の下で、つめたい灰色の冬空を見上
げる。不安だ。私はこんな体で、これからどうやって生きていけばよいのだろう。こ
の空想はひどく楽しい。むふ。(という、予想を裏切る表現は、作品をたくましくす
る)。
「男女の交際が社会から締め出しをくっている現状では、健全な恋愛なんて育たな
い」と、六助は言った。六助が突然、出てきたのだ。浜田光夫だった。会話の相手で
ある新子こと吉永小百合はどこにもいない。「青い山脈」である。この作品は、小説
で読み、そのあとビデオで映画を見た。新しいほうのだ。要するに、公衆の面前で恋
人が手をつないで歩くことは自然なことであると主張するがための作品だった。そう
いうことを主張するために、映画まで作られてしまう時代もあったのだ。ね、となり
のおばちゃん。あなたは人生の上半期をそんな時代に投げ入れていたんですね。そう
いうまっすぐ健全な意思は、決してはずかしいものではないでしょう。でも、今は
ね、はずかしい時代なんですよ。うらやましいですねえ。
えーと、さて、連想をそのまま書き連ねるのは、ひどく難しい。電車のなかで青い
山脈を空想していたときには、浜田光夫の漢字が思いつかなかった。あとで調べてか
ら書いたのである。肺の話はどこに行ったのだろう。突然話題の焦点を変えて、読者
や話し相手をとまどわせてしまうことが私には多々ある。私は違和感がないからいい
んだけど。そこで、だ。いったい私はなぜ、この文章を書き始めたのだろうか。なん
の脈絡もなく始めてしまったのだが、それを突き止めるためのキイワードが、どうや
ら500らしい。なんだか訳わかんないですねえ。始まりはいつも散文的、と洒落て
みたりする。書いていくうちに、おいおいあきらかになるだろう、と書いてもわかん
ない。(俺はもう収拾のつけようがないから、ここから先の文書は500に書かせる
ことにした=筆者が受けた神託)。
よいかね。ここまでの文章は精緻に計算しつくされたものである。とまどいや、不
快感をあたえるタイミング、「わからなくなる」段階、筆者に対する不信感などは、
非常に細かいフラグ立てによって設計されていたものだ。あなたは、気がつかないう
ちに、少なくとも二つのトラウマを植えつけられている。種明かしはしない。絶望の
淵で気がついてくれ。これも経験だ。精神汚染の効力をもった文章は、彼の得意とす
るところだ。
さて、紹介が遅れた。私は、彼が書こうとしていたそのもの、つまり500だ。
「存在に接触されるもの」という言い方もある。説明が必要だろう。彼は、ひいては
彼の上位存在である武雄は、500というものをキイワードとして、ひとつ文章を書
こうとしていた。しかし困ったことに、500という数字の意味そのものからでは、
物語、体験としてのエピソードを引き出すことができなかったのだ。武雄は悩んだ。
悩んだ末に、ある、悪魔的な方法を思いついたのだ。それは、500という言葉を、
主語述語の体系から解き放ち、500という抽象概念(概念という言葉もおこがまし
い、それは500というそれそのものである)の意義を解こうとしたのだ。500と
いうのは、それそのものだけでは、「500」という性質以外になにものも持たな
い。「0の概念」という言葉を聞いたことがあるだろうか。認識の地平に「0」とい
う数字が登場させるには、とても深い知恵が必要なのだ。武雄はそれと同じように、
500についても、それ存在そのものに含まれている知恵をあきらかにしようと試み
たのだ。そしてそれは、意味に注視するものとしての、「嘘だらけの」武雄にはなし
えない作業だった。そこで武雄は、「彼」というそれ、武雄という存在そのものを顕
現せしめている知恵の象徴としての「彼」を、便宜的にではあるが作り上げ、500
について、(存在のそのものをおしはかるという作業においては、同列の)実験的な
文章を書かせようとしたのだ。結果は成功したのだろう。先の文章を読んで「なんだ
か心にもやもやが残った」のではないだろうか。例えば、「むふ」という言葉。なに
かを言いたそうなのだが、よくわからない。そして、話題を変えてしまっても変えた
本人はたいして気にしないという謂い。そこには、日常に使われている認識を突き抜
けて、存在そのものの琴線にふれる、「彼」得意のことばのトリックが使われてい
る。説明する言葉で、いまわかってきたことを、具体的に書く自信がない。そう説明
している私は500だ。それが一つの答えでもあるし(これではよくわかりません
ね、機会があれば詳しく説明しましょう=武雄)、もう一つには、本当に収拾がつか
なくなってしまった文章を、なんだかよくわからない抽象言語を書き連ねて、さも重
要な文章であるかのように仮装している−−、と正直に自分の感情を表わそうとする
武雄の態度は、必ずや500の意義に到達することが出来る強さをもっている、とい
うことである。武雄ひとりであれば、ここまでは書けなかっただろう。「彼」そして
「500」の協力あってこそ、結論こそ出なかったが、500への一歩を踏み出すこ
とが出来た。唐突にして最後に、この文章の書き手を、500からもう一度、武雄に
戻して、終わらせることにしよう。
武雄さん、ありがとうございました?