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21世紀のワタシ
トホホ文が届いた。
作者、私。
製作年月日は、1985年である。
20世紀の私から、21世紀の私への、手紙である。
そんな企画なんて、忘れていた。
茶ばんだ封筒に、きったない私の字。しかも辛気くさいせりふ。
夢はかなったのか?
結婚は出来たのか(たぶん無理だろうとか書いてやがる)?
最後の審判来たかとか。
中学生にしては、頭の悪い、才能を感じられない文で、
やっぱりこう、ブルーになってしまった正月であった。
で、21世紀である。
そして30歳。
思えば遠くへ来たものであり、結構愉快な人生であった。
出会えた人の中で、
共に生活を約束できるパートナーはみつけられんかったけどな。
何とか・・・・ホントしないとな・・・・やばすぎだわ、トホホホ。
夢ですかぁ・・・・・。
今の僕は、わりと夢にとあこがれたのと
近い仕事をしている・・・・・・・だろう。
20の自分より、努力を傾けられる仕事をしている。
幸運だといってもいい。いつまで続けさせてくれるか、わからんけどねぇ。
夢は、小説家になることである。
あのころと、全く変わらず、やっぱりそう思っている。
具体的にすら、なった。
面白い、自分が面白いと思える物語を生み出すこと。
もう少し充電してから、始めようと思っている。
たぶん、あの手紙を書いた僕は、
未来にほとんど希望がなかったのだろうな。
絶望もなかったけどね。
大人としての将来というのは、本当に、手探りしながら探しだし、
その時その時、いい方向へと思ってすごしてきた。
気がついたとき、大人であった。
生物学的には、子を残すという遺伝子の命令に従ってないし、
モラトリアムだなんだと、社会不適合の道へへ突き進んでいるかもだが、
人として、社会に参加している実感と、自由さがある。
老人になっていく課程での不安は大きくつのるが、
まあ、何とかやっていけるかな、と、
自分の力で、社会にどう干渉できるのか、どういうところへ、行くのか、
それを探しながら生きていけるようになったのは、わりと最近のことかもしれない。
ある意味、折り返し地点に、僕はさしかかったのだと思う。
何らかのゴールがあって、一応歩く方法を見つけた気がする。
それが、才能がないことに気がついて、
歩くのやめるのの同義語なのかもしれないが、
あの文章書いた頃の、子供ではない。
熱意は逆に今の方があるし、少しはしたたかになった。
具体的に進める。
これが大人としての自覚なんだろうと、思う。
不安いっぱいで、なんとかひねり出した、照れ隠しの文章。
それは結局、この雑文にもいえるだろう。
だけど、なんかね。
幸運な人生を歩けてますよ、なんとか。
もっとがんばらんといけないけどね。
あのころの僕に、この文を見せることは不可能だけど、
やっぱり言いたくなるね。
人生ってのは、君が考えているものより、ずっと面白いものだと、
20世紀の私に伝えたいね。