説教 1コリント7:17−24「主キリストの奴隷」 創世記17:9-14  10.10.31

 

コリントの信徒への手紙一7:17おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。7:18 割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。7:19 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。7:20 おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。7:21 召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。7:22 というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。7:23 あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。7:24 兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい。

 

 かなり前のアンケート調査ですが、今もあまり変わっていないと思いますが、サラリーマンが考える出世の条件は「運」と答えた人が一番多く、二位は体力、そして、やる気、頭脳、人柄と続くのだそうです。仕事の実績が出世の条件とする人は、運と考える人の半数以下だというのです。

 それでは、人生の生き方については、どのように受け止めているでしょうか。私たちはそれぞれの生き方をしていますが、自分がその位置に置かれているものは何によると思っているのでしょうか。努力し、改善して、少しでも希望するようにしたいと願うのですが、それらは叶えられているのでしょうか。

 結局は、何かどうにもならない力で動かされているというような気がして、小さな自分の生活の中で、ようやく生きているということになっていないでしょうか。

 ああするのも一つの道、こうするのもありかなと思って、結婚してもしなくてもいいけれど、離婚はなるべくしないほうが良いなどと常識的なことだけを考えて自分の生き方を定めていくということになっていると思えます。

 

 そのような中にあって、神の御心はどこにあるのかということを信仰者は考えるはずです。

ところでユダヤ人にとって、割礼については、信仰に関することであり、救いにつながることですから結婚などと比較にならないほど重要なことでした。

 神の御心はどこにあるのかというと、それは17節です。おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。

 「救いと召命」は、聖書の中でいつも深い関係にあります。「召命=召される」とは、神のものになるということです。神のものとされないというならば、いったいその人は誰のものなのでしょうか。いいえ、人間は、自分は自分のものであると思う一方で、いかにその自分が頼りなく、どこにいるのか分からないでさえいる状態です。自分は自分のものだと思い続けるのなら、自分は自分の奴隷であるだけでしょう。

 そのような不安定な者が、神に召されて、神のものになるのですから「救い」というしかありません。私たちも、召されて新しい立場を与えられました。ですから、人から見たら何でもないような業が、どんなに貧しくても、神がお求めになられているということを知り、生きることができます。

 

 割礼はあってもなくてもよいことだと言えるのは、私たち異邦人の立場であって、イスラエルの民にとっては大変な問題であったのです。イスラエルというのは、神との契約のしるしとして割礼を受けた民族なのです。

ですから彼らユダヤ人がイスラエルではないということになったのなら、神の民でなくなってしまうのですから大問題なのです。神が召してくださったイスラエルですが、彼らとて、どこで、どうして、どのように、生きて行けばよいのか分からなかったのです。その時、神が彼らに臨まれて生きるべき方向、進むべき道、あり得べき生き方が示されたのです。それゆえに、彼らは本来の人間としての道に立ち帰ったといってよいのです。

 イスラエルの人々のなすべきことは、それなら神の栄光を表すことでなくてなんでしょうか。神の戒めを表すために、神の戒めを守ることです。イスラエルも、心からの喜びをもって、神を讃えるのです。神の戒めを守るということは、義務や不承不承ではなく、喜びとなるのです。

 戒めを心から守る喜びが一番の目的であって、割礼を受けることは手段でしかありません。神の栄光を現すことが求められるのですから、その割礼が形式的になっていたのなら問題です。ちょうど洗礼が形式だけになっているとしたら、問題があるのと同じでしょう。

 

 内容や本質が伴わない形式や儀式ということは、本来矛盾することです。18節以下のパウロの言葉から教えられます。

7:18 割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。7:19 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。7:20 おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。7:21 「召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。」

 このことから知ることは、奴隷であっても自由人であっても何の問題もないということです。当時、ユダヤ人でキリスト教に改宗した人の中に割礼の跡を消そうとしていた人がいたようです。また逆に、異邦人キリスト者が割礼を受けようとしていた状況があったようです。ですから、パウロは21節で、「召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。」と大胆に語っています。

 

 パウロは、使徒言行録16章の3節で次のようにありますが、16:3 パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。

ユダヤ人や地方で広く宣教するために、パウロ自ら弟子のギリシア人テモテに割礼を施したのでした。ここに割礼という儀式に対する自由があります。

同じくパウロの書いたガラテヤの信徒への手紙56節に、5:6 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。という言葉が説明になるでしょう。

この言葉は、イエス・キリストは愛の神ですから、私たちはこの方に結ばれるとき愛の実践を伴う信仰に生きることができるということでもあります。同じようにして、キリストを通して律法を読む時、愛が働いて、律法を形式的にではなく、私たちを生かすものとして考え、用い、それゆえ守ることができるのです。割礼は、この愛の律法を教える教育手段の一つにしかすぎません。

 そこで、召されたままの状態で、分に応じて、組み合わされたままで、自分に与えられた賜物や場所を生かして、他の人にキリストの愛を指し示す愛の行いが根本的に必要なことになるでしょう。

 召された時、救いに入れられた時の状況のままでよいのであって、洗礼を受けて無理に転職など考えたりしなくてよいのです。信仰上からどうしても変えた方がよいと思われるような仕事であっても、信仰が進んで行く上において自らが変えられて行きます。反対に、終末を信じるようになったのだから、もう働かないで他人の世話になればよいなどと考えてはならないのです。

 たとえば、奴隷商人であったジョン・ニュートン、彼は「アメージング・グレース」の作詞者として有名ですが、奴隷売買のために大西洋上で激しい嵐に遭ったとき、イエス・キリストに命を助けてくれと祈って聞き上げられ一命を取り留めました。その後、船を下りて暫くの間、奴隷商人を続けていたという事実です。その後、暫くして奴隷商人から足を洗い、奴隷売買禁止の運動を始め、それから牧師になったのでした。

 信仰生活は、絶対者である神と私との関係によって決まります。自分と他人とを比べて生きる世間の社会生活とは異なります。今日の段落に、「おのおの」とか「それぞれ」という言葉が4回出てきます。17節に2度、20節と24節です。ここでは、一人一人が「各自」「おのおの」のあり方を主の前に一人で立って考えるということが強調されているのです。

 自分の生き様において、仏教ではこれを諦め(諦観)として悟るのだそうです。しかし、キリスト教では、「各自」「おのおの」主から賜った「それぞれの分に応じて」「おのおの神に召されたままの状態」として感謝のうちに受け取るのです。

 

 それは障害や病気、結婚や、他の社会生活においても同じ考え方で前向きに受け止めて行きます。

 水戸兄弟がインターネットで、福島県中通コミュニティ・チャーチの増田牧師の「良いお話し」を毎週取り継いで配信してくださっています。先週の良いお話しでは、レーナ・マリアさんという生まれつき両腕がなく、片足も一方より多少短い体で生まれてきたスウェーデンの女性シンガーのことをお聞きになっている方も多いと思います。彼女の両親は、まったく通常の子どもたちと同じように育てて来ました。水泳が得意で、障害者オリンピックではメダルをたくさん取っています。まだ小中学生の頃、水泳競技で彼女に負けてしまった同級生が悔し紛れに「おめでとうアイン・ヴァイン(一本足)」と彼女に言葉を発すると、彼女はすかさず「ありがとう、二本足」と答えたそうです。それが嫌みであるとレーナさんはその時気がつかなかったという程、両親や回りの人たちから明るく育てられていました。その境遇を主なる神が自分に与えてくださったと、感謝して受け止める姿に教えられる思いです。

 

 また、作家の故三浦綾子さんは多くの人々に信仰の影響を与えられました。彼女の代表作『道ありき』の中で、脊髄カリエスで入院した時、名前を覚えていない同級生が駆けつけます。そして、彼女の信じている宗教を信じないか、信じたらその病気が治るというと、綾子さんは「直らなくていいの」と平然と答えます。驚いて二の句を告げることのできない訪問者が、やっとの思いで「直りたくないの」と尋ねると、綾子さんは「直るなら治りたいわ、でも神さまがそのままでいなさいというのならそのままでいいの」と返します。その訪問者は、とうていその言葉を受け入れがたく、首を傾げながら帰っていったというのです。まさに、徹底的に主に委ねる信仰の強さがにじみ出ている言葉ではないでしょうか。

 各人は、召されたときの状態に留まるべきであるという言葉ですが、そもそも「身分」とは、神ご自身が各人それぞれに分け与えてくださったもので、それ故人は自らそれを破棄してはならないのです。

 自分がユダヤ人か異教人か、自由人か奴隷か、いずれにしろ何かに規定された者として私たちは生かされています。自分が自分で生きているのではなく、神によって生かされているという受け止め方がないと、不満ばかりになるのでしょう。それぞれがいる所こそ、神の置いてくださっている場所なのです。そのように、意味あることとして受け止めないと、社会や環境に対して反抗したり、時には革命を起こそうと思ったりするのです。そのような秩序崩壊を主が禁じられています。

 国家転覆などということは、終末においてだけ起こるのです。「世は過ぎ行くものである」という終末的見方ができる時、現実を穏やかに主に委ねて生きることが許されるようです。

 神が召されるのは、生まれながらにしての境遇から引き離すものではありません。神の召命・呼びかけは、その境遇を変えるのではなく、罪に対して終わりを来たらせるものなのです。パウロはキリストにある集会の一致を求めますが、社会的な平等という考えを全面的に出していません。奴隷すら、君が今あるところに留まりなさいと言います。

 

 私の親しくさせていただいているある長老ご夫妻がおられます。その方は、結婚されてからご夫妻で求道され、ご夫妻で洗礼を受けられました。そして聖書の結婚の意味を知り、驚きました。同時に、自分たちの結婚について、主の御前に制約したいからキリスト教式でもう一度行いたいという申し出がその教会の牧師になされました。いわばこの再結婚式というべき申し出を、この牧師は引き受けたでしょうか。みなさんはどう思われますか。その牧師は、その申し出を受け入れませんでした。

全ての結婚は、神が合わせたもうものであると私も思います。生まれ出る子ども一人一人も神はご存じで愛しておられるからです。

 キリストの御前で誓約が行われなくても、神の救いの計画に何の変更もありません。生まれた子どもも祝福されている命なのです。誰が救われるのか、神の心だけが知っていることであり、私たちは全ての人々に罪の悔い改めの必要なこと、つまりキリスト・イエスだけが、その救いにとって絶対的に必要なことを宣べ伝えるのです。

 

 スイスの精神医学者にポール・トゥルエニという人がいました。この人は生まれて直ぐ、父を亡くし、母を6歳の時に失います。両親がいないため、この少年トゥルエニは内面的な、臆病な子になりました。人を避け、自分に閉じ籠もる、孤独な少年時代を過ごしました。自分は人の数に入らない、この世では無用な存在だと感じるのでした。しかし、16歳の時、ギリシア語の先生が彼の心を解きほぐすのでした。一転して、トゥルニエは、暗い、おどおどした姿を捨てて、一人の生きる意味を持った人間に変わって行きました。「この先生は、私を一人の生徒としてではなく、一個の人間として認めてくれた、とトゥルエニは『苦悩』という著書に記しています。

 例話はたまたま有名になった人だけが取り上げられますが、私たちの救い主イエス・キリストは、愛する者たち一人一人を覚え、私たち一人ひとりを愛してくださる神の下へと共に導き歩んでくださいます。

 どんな状態の人間であろうとも、キリストによって救われるなら神のものとなります。それは神の奴隷、キリストの奴隷となるのです。私たち一人ひとりは主の奴隷なのです。奴隷というと驚く人がいると思います。むしろ驚いていいのです。吐き違いの自由という言葉に惑わされて、自分の本当の立場を忘れていた私たちなのですから。キリストに救われ、神の奴隷となったとき、その人は初めて誰の奴隷でもない、自由人になれるのです。

 キリスト者は自由ではありません。思い出してみてください。619節でも言われていた6:19 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。と言われていました。

 

 私たちはキリストの所有なのだ、という時、人々を買ったとか、彼から買われたとは言われていません。ただ贖われたという事実です。それは束縛されているという意識より、自由に喜びに飛び跳ねているという気持ちなのです。パウロ自身の救いの体験が迫ってきます。

 奴隷は代価を払って買い取られたのです。そうでなければ、私たちは滅びるままに、自分の生き方の中にだけいて、それでよいと思うか、あるいは全く考えないで流されていたからです。そのような自分でしか生きようとしない私たちだからこそ、神にむき直させるためには尊い代価が支払われたのです。その代価こそ、キリスト・イエスの十字架の死と復活です。それにより、私たち一人一人が神の前に立つことのできる一人の人格として扱ってくださったからです。その代価が払われることなしに、罪の奴隷となることを止めることはできなかったのです。ですから神の奴隷となることが、どれほど光栄で完全な平和と命であるということを知らされたのです。

 

<引用聖書は日本聖書協会『新共同訳 旧約聖書』『新共同訳 新約聖書』を使用>