星になった奇跡の黒鹿毛

 その日私は千葉の先輩の家にいた。昨夜から遊びがてら皆がその家に集まったのは、
バンド活動の打ち合わせをするため。折からのバンドブームに乗り、その先輩は、いきなり
バンドを組むと言い出した。ところが珍しいことに、ギタリストが見つからないという
事態が起こり、私は突然招集を受けた。アマチュアの端の端にいるこの私が、元々組んで
いるバンドと掛け持ちだなんて、まったく買い被られたものだ。第一、普通バンドのメンバー
で見つからないのはドラムスであり、ベースはジャンケンで負けたギタリストが担当というのが
相場だ。そんな訳で、その先輩の家に夜中に集まったメンバーを前に、私は、これから
取り組もうとしている曲がいかに難しく、いかに無謀であるかを延々と説明していたのだった。

 午後もいい時間になり、私はテレビを見せてもらうことにし、一旦話の輪から抜け出した。
今日はこのミーティングのために中山競馬場へ行けなかった。せめてテレビでメインの
レースを見せろと頼んだ次第。今日は皐月賞トライアルの弥生賞が行われる。
言うまでもなく、本番と同じ中山芝2000Mで行われるこのレースは、トライアルの中でも
最重要視されている。来る皐月賞の参考に是非見ておかなければならない。

 レースは意外な結果だった。勝ったのは”サクラスターオー”、私の頭には入っていない馬
だ。「サクラ○○オーって色々いるけど、スターオーなんてのもいるのかよ」、レース前半は
そんな認識だった。しかし、ゴール前でビューコウを半馬身かわした白覆面の馬に、私は
一目惚れしてしまった。鮮やかな切れ味と、そして力強さ。二つの相反する要素を持つ
馬はそうはいない。6番人気で勝ち上がり、サクラスターオーは皐月賞行きの切符を手に
入れた。

 迎えた第47回皐月賞。私も朝から中山に向った。皐月賞を見るというより、スターオーを
見に行くために。さすがにG1、満員の競馬場は身動きも取れない。だがなんとしても
パドックで間近にスターオーを見たい。直前のレースは前もって買っておき、パドックに
陣取り各馬の登場を待つ。さすがに何千頭から選ばれた精鋭達、どの馬もピカピカに輝いている。
マイネルダビテ、ホクトヘリオス、バナレット、前走スプリングステークスの強烈な追い込みが
支持を受けて1番人気となった岡部騎乗のマティリアル・・・。
その中でもひときわスターオーは馬体を大きく見せて、堂々とパドックを回っている。
弥生賞勝ちが評価され2番人気だ。
「これならいける、大丈夫だ」。漆黒の馬体を見て私はスターオーの勝ちを確信した。

 向こう正面から徐々に進出を始めたスターオーは、4角をまわり外に持ち出すと力強く坂を
駆け上がってきた。あのゼッケン6が坂を駆け上がる姿は、まるでスローモーションでも
見ているかのようだった。そう、とてもその速さが嘘のように、ひとコマひとコマが鮮やかにくっきり
と浮かびあがった。ゴールドシチー、マティリアルの猛追もスターオーには関係なかった。
。坂上からゴールまでの一瞬は、まさにスターオーのためだけに用意された、
栄光のウイニングロードだったのだ。
しかし、それは苦難の始まりでもあった。

 東京優駿。日本ダービーと呼ばれ、全てのホースメンが目指し、そして選ばれし競走馬たち
の一生に一度の晴れ舞台。しかし、スターオーの姿はダービー当日の府中のターフには
なかった。左前繋じん帯炎。脚部不安がスターオーを襲ったのだ。

 スターオーは幼少時から苦難の連続だった。母サクラスマイルはスターオーを生んで2ケ月後に
死亡。母がいない事が分かっていたのか、他の馬が母乳しか飲めない頃から、自分で柔らかい
カイバを食べ、いち早く離乳を済ませたという。その後もスターオーには数奇な運命が待っている。
通常ならサクラの馬は境勝太郎厩舎に入ることが多いが、スターオーは「開業祝いのようなもの」
とのことで、平井雄二厩舎所属となる。気性が激しいスターオーはかなり厩舎関係者を困らせた
そうだが、平井調教師のたゆまぬ地道な調教、そしてハードなトレーニングによって地力を
付けていった。父サクラショウリ譲りの激しい気性は、プラスに向けばこれ以上ない力を発揮した。
そしてなんといっても有名なエピソードはその鞍上である。サクラの主戦小島太は、スターオーから
降ろされてしまう。親子以上に親子とまで言われたオーナーとの、誤解による確執が浮上。
スターオーの背には東信二が起用となる。決してスターではないが、クロウト好みの渋い騎乗、
また彼は乗り代わりの馬をよくもってくる事で知られ、「代打屋 東」の異名を持って知られていた。
他のサクラの馬達とは違った環境で育ったサクラスターオーは、独自の勝負根性を備えた稀有の
存在といってよいだろう。

 秋も深まる11月8日、京都競馬場はクラシック最後の、そして最も過酷な菊花賞を迎えていた。
そしてサクラスターオーが再びターフに戻ってきた。皐月賞制覇を最後に203日。
しかしファンの目には、当然の如くその姿は万全のものとは映っていなかった。
現在とは異なる調教技術、ましてやG1、さらに4歳馬(当時表記)にはあまりに過酷な3000M戦。
順調な馬でさえキッチリ走るのたやすいことではない。
半年振りのスターオーの評価は単勝9番人気である。「最も早い馬が勝つ皐月賞、
最も運のよい馬が勝つダービー、そして最も強い馬が勝つ菊花賞」といわれるように、
それほど菊花賞というレースは馬にとって過酷であり、まただからこそ価値もあるのだ。
私に競馬のノウハウを教えてくれた友人は言った。「ひっくり返ってもスターオーは来ないぞ。
そんなことがあるわけがない」と。確かにセオリーでは買えるわけもない。
あのトウカイテイオーが奇跡の有馬記念優勝を決めたのは、もっと先の話であり、
ましてや完成された古馬とは話が違うのだ。
しかし私は言った。「スターオーは来る。そんな気がする。来なくても、復帰祝いの馬券だ」と。
中段を流れに乗ったスターオーは、2回目の3角から徐々に進出。4角を回った時に、
スターオーの馬券を持っていないファンには「まさか・・・」と戦慄が走り、
私の祈りともいえる”願い”は、「これは確かに来る!」”確信”に変わった。
直線追い込んでくるゴールドシチーを振り切り、サクラスターオーは先頭でゴールを切った。
「菊の季節にサクラが満開!」、との杉本アナの実況を覚えている方も多いだろう。「いったい何が
起こったのか?」異様な興奮が競馬場を包み、ざわめきが広がっていった。しかし、それは確かに
事実であり、全ての競馬ファンはその衝撃を納得しなければならなかった。
私は声も出なかった。いや、出せなかったと言った方が正しいだろう。
私の喉は4角からの絶叫の連続で枯れきってしまっていたのだ。
胸の鼓動はいつまでも収まらず、馬券のチェックもせず、ましてや配当のアナウンスなど耳にも
入らなかった。自分が惚れ込んだ1頭の黒鹿毛が奇跡を起こした。そしてそれを信じた自分は
正しかった。ただ、ただ、それだけで充分だったし、これほどの感動を味わったことはそれまでも、
そしてそれからも一度もない。菊花賞を走り抜けたサクラスターオーは「昭和最後の奇跡」と呼ばれた。

 菊花賞馬が期待されるのは、当然暮れのグランプリ、有馬記念での古馬との対決である。
ダービー馬メリーナイスの落馬から始まり、その年の有馬記念は波乱を予感させるものだったが・・・
1番人気を背負った私のスターオーは・・・永遠にゴールには帰って来なかった。
左前繋じん帯断裂。第一指関節脱臼。競走馬として絶望的な故障を発生したのだ。常に故障の
不安を抱えていたガラスの脚はついに悲鳴をあげた。奇跡の代償はあまりにも大き過ぎた。
もちろん通常ならば、即日安楽死がとられるところだが、スターオーはまだ眠ることを許されなかった。
その貴重な血統がゆえに、せめて種牡馬へと延命処置がとられたのだ。
長い闘病生活、しかも完治しても栄光の競走生活は待っていない。スターオーには辛い日々だった。
手術は一応は成功したかに見えて、私を含めファンを安心させたが、
スターオーはその後馬房で転倒、脱臼した脚を元に戻すのは不可能であったし、人間の
我儘でそれ以上の延命処置を施すのは許されることではなかった。

 故障から約4ケ月後のある日、私はスターオーの安楽死を知った。
なぜか涙は出なかった。悲しくもなかった。スターオーはあれだけの短期間に全ての生命を
余すところなく燃やし尽くし、そして天に駆けたのだ。誰にも出来ない走りをファンに見せ、
衝撃は、そして伝説へと変わったのだ。
私はその見事なスターオーの生き様に黙って拍手を贈った。
スターオーはしかし競走を終えても功績を残した。延命処置を施すための
技術は、その後の獣医学の発展に多大な影響を与えたとの事である。その恩恵を受けている
現在の競走馬達は、そして今日も走り続けている。人間が生み出したサラブレッドは、走ることが
全てである。しかし、それを悲劇と捉えるのは決して正しいことではない。
その生命を受けた瞬間から、サラブレッドにとっては走ることこそが、なによりも尊いことで
あるのだから。
だからこそ、サラブレッドは儚くも美しいのだ。

 また弥生賞の季節がやってきた。皐月賞を目指して、今年も若い優駿達がしのぎを削る。
私の目を釘付けにするような馬が出てきて欲しい。

そして当日、中山競馬場では「サクラスターオーメモリアル」が行われる。
馬券は外れてもいい。すべての馬が無事にゴールまで帰ってきますように・・・。


  サクラスターオー
   父 サクラショウリ(その父 パーソロン)
   母 サクラスマイル(その父 インターメゾ)

   7戦4勝  主な勝ち鞍: 弥生賞(G2)
                   皐月賞(G1)
                   菊花賞(G1)