|
― side:S ―

オレはオレが嫌い。
だってオレはこんなにも弱いから。
だからオレは、オレが嫌い。
カツン、カツン、カツン。
真夜中の甲板を、少し高めの足音が横切る。
あれは、靴底に打ち付けられた鉄板が立てる音。
相手の刃を受け止めるのに都合が良いと、少し重いぐらいなのも却って鍛錬になると、
そんなことを言ってあの男は、前の島で靴屋にそれを命じた。
靴屋のオヤジも、さぞ驚いたんじゃないだろうか?
そんな阿呆みたいなことを言うヤツ、初めてだったんじゃねぇ?
そう思えば、腹の底から笑いが込み上げてきても良いはずなのに、
どんどん近くなる足音にオレはただ、粟立つほどに背筋を震わせるだけだった。
カツン、カツン、カツン。
少しの怯みもなく階段を上り、僅かな躊躇いもなくドアの手前まで来たそれは、
やはり一瞬の間も空けることなくラウンジへと侵入する。
ガチャ、ギイ、バタン。
立て付けのよくないドアが立てる音は普段とても耳障りであったはずなのに、
今のオレにはそれすらもよく聞こえない。
背中の向こうに全ての意識を奪い取られたように、洗いかけの鍋を持つ手元さえもが、
極めておざなりな動きしか取ることができないでいた。
「遅ぇ。」
一度離れかけた足音が、リカーケースを経由してまた近付いてくる。
勝手に取るなって、振り向いて睨みつけてそう怒鳴ってやりたいのに、
口を開けば違うことを口走りそうで、酒を盗られたことには気付かないふりをする。
「早くしろよ。」
コルクを抜いて、一気に半分近くを飲み干して、口元を拭いながら、
オレの背中のすぐ後ろにまで歩み寄り、もう一息で全て飲み切って、空いた壜を床へ放った。
ゴトン、ゴロゴロ、ゴロン・・・。
せめて壜ぐらいちゃんと捨てろと、さすがにそう言ってやらねばならないと振り向きかけたオレの顎を、
男の、無骨な、太い指が掴む。
良いように、思い切り男のほうに向けさせられたせいで、首が少し痛むから、
それへの文句も言ってやりたいのに、開きかけた口は男に塞がれてしまい、
吐き掛けようとした言葉は全て飲み下され、その逞しい喉元を通って、跡形もなく消されてしまった。
突然の息苦しさに、胸を叩いて抗議しようと手首を振り上げれば、
簡単に捕らえられた泡まみれのそれごと、男の胸に強く抱きこまれてしまう。
脚でもって抗議しようとしても、膝下にはもう一片の力も残ってはいなくて、
崩れ落ちる自分を支えるだけで精一杯で必死なオレに、
男は低く、けれど恐ろしく甘いような声で、一言だけオレに囁いた。
「無駄だ。」
(「ここはイヤだ。」)
背中に床板の、硬質な感触を受けながら、オレは声に出さずに抗議する。
(「こんなところで、するのはイヤだ。」)
神聖なキッチンで、こんな風にオレを抱くなと、そう、心の中でだけ抗議する。
料理に全てを捧げたつもりだったこのオレに、
それ以外のものを求めさせるような、こんな。
オールブルー以外に目指すものはないと心を決めたこのオレに、
それ以上のものを欲しがらせるような、そんな。
オレの全てを奪いつくすような、何もかもをどうでも良いと思わせるような、
限りなく非情で、果てしなく絶望的な抱き方を、もうこれ以上しないで欲しいのに―――。
霧がかったように霞む視界の中、オレは、
諦めたようにため息のように、ごく浅く息を吐いた。
ちゅく、ちゅっ、ちゅくん。
何度も深く口付けられて、耳を噛まれ、
再び舌を絡め取られて、首筋をキツく吸われる。
見えるような高い位置にわざと痕を付けるのは、
男がオレを所有していることを、何よりオレ自身に知らせるため。
自分の姿を映すたびに、オレが男を思い出し、男に抱かれたことを思い出し、
それで深く羞恥して、頬を紅く染めるように。
男は、何よりも手痛い現実を、鮮やかな痕跡でオレに思い知らせるのだった。
「てめぇ、そうしてっと、まるで女、だな。」
有られもないはしたない姿を晒して、男自身を深く咥え込んで、狂ったように乱れるオレを、
男はそういっていつも揶揄う。
酷い言葉なのに、その言い方はすごく甘くて。
優しげなトーンなのに、口端には笑みが浮かんでいて。
女の子みたいに喘いで、身を捩って背中震わせて、
強請るように腰まで振って、首筋にしがみ付いているオレを、
男は憐れむ様に見下ろして、本当に楽しげに愉快そうに笑うのだった。
体温の高い男の手は、とても暖かく、ひどく優しい。
好きなように扱われ、思う様揺さぶられながら、それでもその手で額を撫でられれば、
オレは男を責めるような目線さえも送れなくなる。
キスだけで感じて、手で触れられるだけで気持ちよく、
強く抱きしめられれば脳みそが溶けそうにシアワセのなっちまうオレは、
男にとって都合のいいオンナでしかないのだろうと、そう思えばすごく哀しい気分になってしまう。
でも、それだけは口にしてはならないと、
口にしてしまえば余計惨めになるだろうからと、
せめてそんな女々しいセリフを吐いてしまわないように、吐いてしまいそうな口を塞いで欲しくて、
オレは軽く口を開けて、男のキスが降るのを待った。
― side:Z ―
コックを犯すとき、俺は自らに二つの鉄則を課す。
一つは、コックを揶揄するスタイルを崩さないこと。
思ってもいないほどに酷い言葉を投げ続けて、言い分など聞かずに弱い箇所だけを責め続け、
あいつのプライドが粉々になるくらいにまで喘がせておいて、その様を女のようだと言い放つ。
悔しさに顔を歪め、大きな瞳に涙をためてコックは、それでもそんな言葉では少しも弱ることはなくて、
目を閉じてそれを零すことがあっても、決してそれ以上の涙は見せない。
もう一つは、コックが口を開きかけるごとにそれを奪うこと。
嬌声以外の全てを飲み込んで、呼吸さえもが息苦しくなるくらいに奪い尽くし、
あいつの思考を全部絡め取って、最早何の言葉も発せないくらいに追い詰める。
むしろそれを望むかのように安心したような表情で、俺は首を深く抱き返されて、
内心少し戸惑いながらも、何事もなかったような顔でそれを受け止める。
コックは用意している。
確実に俺を捕らえる言葉を、俺自身を失わせるくらいに深く捕らえる言葉を。
自分の弱さを突きつける言葉を、聞きたくなくて、今はまだ聞けなくて、
だから俺はコックの口を、他に為す術もなく、塞ぎ続ける。
― END ―
|