この世の者ではない異界の住人『妖』
人々の負の感情に寄生し、精神・生命を脅かす……。
『妖』から人々を守り、妖自体を封印・消滅する『妖撃者』(ようげきしゃ)
彼らは今日も闇に蠢く異界の住人と対峙するのだった。


第三話『節穴』

地球は日本。
首都東京のお隣神奈川県。
県庁所在地・横浜市。場所は関内。

桜の花も散り葉桜が目立つようになる。
五月連休の名残も消え、若木が一斉に緑に染まる。
正に風薫る五月晴れ。
見事な晴天である。

最新鋭のセキュリティーが売りだった、中古マンション。
六階建てのマンション。
エントランスからエレベーターホールに少年が姿を見せた。
「ここの六階なんだ」
上ボタンを押して傍らの女性に説明する。
「楽しみね」
当たり障りのない相槌を女性が打った。
淡いクリーム色のスーツに身を包んだ女性。
抱える大きな黒い革鞄がやや不釣合いだ。

やがてエレベーターが一階に到着。
少年と女性が中に乗り込んだ。
少年が六階のボタンを押し、エレベーターのドアが閉まる。

「星鏡君の親戚の方が、同居しているのよね?」
女性が目線を少年に下げる。
少年、(いわずもがなの見習い妖撃者)星鏡 和也(ほしかがみ かずや)は表情を緩め女性を見上げた。
「うん。遠縁なんだけど、ね。大丈夫! 胡蝶先生のほうが美人だから」
にこり。
狙っているのかいないのか。
己のお坊ちゃんオーラを最大に利用した、和也得意の、のほほん笑顔が炸裂。
目上の女性の母性本能をくすぐる顔らしい。(和也ズ師匠談)

「まあ。おだてても成績は上がらないわよ?」
苦笑しながらも照れて頬を染める和也の担任教師。
のほほん笑顔の効果は絶大のようだ。
上機嫌の和也と、顔を赤くした胡蝶を乗せ、エレベーターが六階に到着。
「ここです」
扉の前の呼び鈴を鳴らして、和也は胡蝶を振り返った。
胡蝶はやや緊張し軽く咳払いをする。
「はーい」
扉の向こう。間延びしたコマの声が聞こえる。
玄関の鍵を外すカチャリという音の後に、玄関が開かれた。
「ようこそ、胡蝶先生。星鏡 小春です」
入口に立つは、エプロン姿の優しい雰囲気を持つ女性。

年齢は二十四歳前後。百七十近くあるモデル並の長身。
肩までの黒髪をゴムで一つに結んでいる。切れ長の黒い瞳。短めの睫毛。
顔立ちは純日本人。

和也の遠縁。
兼・優秀なハウスキーパー。兼・見習い妖撃者の相方。
である彼女は、霊犬のコマである。

「始めまして。担任の、明石 胡蝶(あかいし こちょう)です」
胡蝶がお辞儀をした。
目の前のコマの目線が、品定めするように、自分の頭のてっぺんからつま先まで移動する。

肩まで伸ばした髪。短めの前髪。釣り目の大きな瞳。幼い印象を与える、小さめの鼻・ふっくらした唇。
胡蝶をじっくり観察する。

「……勝った!」
小さくガッツポーズを決めるコマ。
和也が乾いた笑いを浮かべた。
「勝ったって、なんだよ」
「私のほうが美人です」
コマの耳元で囁く和也にコマが小さな声で答える。
その間、胡蝶は二人の内緒話を不思議そうに眺めていた。
「をいをい。先生は先生だろ? なに闘争心燃やしてるのさ」
和也が呆れ果てる。
コマは無言で胡蝶へ、挑むような目線を送っていた。

和也があんまりにも褒めるから。
担任の先生は美人で和也好みだと。ついつい必要もないのに、嫉妬を感じる保護者なコマ。
和也お仕え歴七年。

自分の目の黒いうちは和也に集る害虫を排除するべし!

固く心に誓っていたりする、コマなのだ。

「気にしないで、道場へいってらっしゃい? 和也」
脅迫じみた笑顔で和也の排除にかかるコマ。
和也の学校鞄をひったくると、ナイロンリュックを代わりに渡す。

「道場?」
胡蝶が驚いたように目を見開いた。
「ええ。星鏡の本家は、かなりの資産家ですから。跡取りではないけれど、和也も星鏡の人間。護身術を習っているんです」
コマは、慣れた様子で和也の立場を説明する。
「学校でも星鏡家は有名ですものね」
敵も然る者。
胡蝶も『さもありなん』といった態で、首を縦に振った。
コマの眉間に皺がよる。
「じゃ、じゃあ、時間だから道場に行ってくるね」
かろうじて愛想笑いを顔に貼り付け。
和也は後ずさる。

「いってらっしゃい」
にこやかに手を振るコマ。

「案内ありがとう、星鏡君」
玄関先で自分を見送る胡蝶。

個別に見れば和也に優しい二人の女性も。
なんだか今日は迫力があって怖い。
コマと胡蝶の間に、見えない火花が散っているような気がする。

 バタン。

コマと胡蝶が屋内に消えた。

「君子危うきに近寄らず。だよね〜」
生来能天気なボンボン、それが和也。
彼はうじうじ悩むことはしない主義だ。
あっさり気持ちを切り替えて、和也はお隣さん家の呼び鈴を押した。

音もなく玄関が開く。

中から出て来た中学生くらいの少年が、和也の姿を認めると手招きして奥へ消えた。
和也も口を閉ざし靴を脱いで中へ上がる。

「まったく。コマも大人気ないよね」
自宅と作りはまったく同じ。
勝手知ったる我が家状態で、和也が居間に上がりこむ。
ナイロンリュックを居間のテーブル上に置いた。
「和也よりは大人だろーけどなぁ。どーも、和也絡みだと、燃えるんだよ。あいつはさ」
台所奥の冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出す少年。

最近、不肖すぎる弟子の為に引っ越してきた師匠。
水流 氷(みずながる こお)だ。
外見こそは子供だが実年齢は二十八歳。
前世が初代妖撃者の長。
という、胡散臭い肩書きを持つ。

「師匠の忠告どおり、家庭訪問は最後して貰ったんだけど。効果なかったかな?」
和也は二つ分のガラスのグラスを戸棚から出す。
「夕飯の支度があるとか言って、コマが適当に追い払うだろ?最後の方が都合がいい」
氷が和也の出したグラスに麦茶を注いだ。
「家庭訪問なんて、あったか? あの学園に」
小学校卒業まで、和也と同じ『私立海央学園』に通っていた氷が考え込む。
和也は麦茶を一気に飲み干した。
「最近だよ。海央って、小学校から大学まで一貫っしょ? 世間の多様化とかで、他校に進学する子もいてさ。小学五年・六年。中学三年・高校三年が対象で家庭訪問」
二杯目のお代わりを自分で注ぎ、和也がクラスメイトの話をそっくり氷にしてみせた。
「ふーん」
氷は気のない返事を返す。
まったく興味がない証拠だ。
「帰国子女とかも受け入れてるから、そういう人も対象だって」
「ま、あんま迷惑かけるな。コマに」
話の腰を折って、氷が無理矢理会話を終了させる。
「迷惑? 心配はかけてると思うけど、迷惑は……??」
グラス片手に和也が立ち止まった。
「共学だろ? 海央は。今年のバレンタイン、えらい騒ぎだったじゃねーか」
麦茶を冷蔵庫に片付け、氷が居間に戻る。
「あれは……僕のせいじゃないよ」

父親譲りの温和な性格。
母親譲りの整った顔立ち。
無意識に放つ、殺し文句的なクサイ台詞の数々。
多少の自覚はあるだろうが、和也はモテモテ。

学園でのアダ名が『海央の王子』だ。

その『王子』が貰ったチョコレートは数え切れず。

紙袋でチョコを持ち帰った和也に、コマが嬉しい半分・切ない半分で悶えていた。

始末が悪いことに。和也は誰からチョコを貰ったか、正確に覚えていない無責任ぶりを発揮。

ホワイトデーに、どうやってお返しをするか。

コマの頭を悩ませた。

「好意は有難く貰って、チョコは遠慮しとけばいいんじゃねーの?」
食べきれず、お裾分けしまくった和也のチョコレート。
氷としては二度と被害を受けたくない。
来年に向け釘を刺す。

「あはははっ。師匠は甘いものが苦手だからね」
うんざりした氷を笑いとばす命知らず。
氷の頬がヒクリと痙攣した。
「手作りチョコを気楽に食えるか〜! 半人前のお前ならいざ知らず、俺には作った子の怨念に近い執念が見えちまうんだよっ!!」
氷が怒鳴る。
勢いで和也の持っていたグラス内の麦茶が蒸発した。
氷の怒りが炎属性の術となり和也を襲ったからだ。
「あー、あちちちっ」
グラスを手の中で持ち倦ね、和也が絶叫。
人体は燃えない(妖だけにしか聞かない特殊な炎)が、熱は感じる。

和也は少し早い初夏の熱気を堪能した。

「今日も張り切って訓練に励め」
ナイロンリュックを和也に投げ氷が棒読み口調で言った。
「着替えてきます……」

師匠に逆らったらすぐ死ねる。
ソッコー死ねる。
いや、瞬殺される。

心の中でしっかり恐怖して。
和也はぎこちない足取りのまま、着替え用の部屋に逃げ込んだ。

「怖すぎだって」
深呼吸してから和也は小さな声で悪態をつく。
面と向かってはとても言えないが。
リュックから、コマが詰めてくれた私服に着替える。

「Tシャツ、デニムジーンズ……長袖のトレーナ生地のパーカー???」
シャツとジーンズに着替え、最後に取り出したパーカー。
和也はそれに? マークを飛ばす。
「う〜ん。いいや、持っていこーっと」
深く考えず。
和也は制服をリュックに押し込み(皺になった制服の、皺を取るのはコマなので)パーカーを羽織って部屋から出た。





「!!!!!」
一歩部屋を出ると。
空間はイリュージョン(和也談)な感じで、和也は度肝を抜かれた。
「なっ、なっ、ナニコレ??」

目の前に広がる山。
山道の入口。手前までが舗装された道路で、山道は砂利道である。
右手には、切り立った山から流れる滝が見えた。
初秋の雰囲気で紅葉もちらほら。肌寒い。

「幻覚だ。だから安心しろ」
氷が半そで半ズボン姿で登場。
「寒さを感じるけど? これも幻覚?」
和也は自分の頬を抓って半信半疑。
「訓練を受けるのは和也。術は和也にかかってる。俺はただの見物人」
「今日はシールじゃないんだ」
和也がキョロキョロ周囲を見渡した。
氷の話を聞いているようで、聞いていない。懲りない弟子である。
「疑似体験戦闘。バーチャルだ、バーチャル。この空間に妖が出る。それを倒せ。今回から、この訓練だ」
「実践的〜!」
これまでは基礎訓練ばかりだった。

今日からはステップアップした訓練が始まるようだ。

感動して和也は拍手する。
氷は無言で肩をすくめた。

「じゃ、開始」
パチンと指を鳴らし、氷の姿が掻き消える。
和也は惚けて立ち尽くす。
「気配探るの、全然駄目だったっけ……」
訓練内容に気をとられ、和也は大事な欠点を忘れていた。
コマが気配を探ってくれなければ和也は妖を認知できない。

 《ギョギョェェェェェ》

右真横から耳に飛び込むキイキイ音。
驚いて和也は身構える。

「くっ……『影』か」
山道めがけ走り、飛び出してきた『影』と間合いを取った。
「くらえ、氷月斬(ひょうげつざん)!」
和也は前フリなしに、高等な氷の術が使えるまでになっていた。
シール訓練の賜物である。
間髪いれずに放った攻撃を受け影は消滅した。
「あああ〜。何で今日は家庭訪問なんだよ〜」

なんだよ〜。

和也の叫びは虚しく木霊した。
和也は木霊を聞いてさらに惨めな気分に浸る。

 《エサ……エサァァァァァァァ》

今度は真正面。
アスファルトの上に、影よりかは上位の妖『無音』(むおん)が出現。
中型犬ほどの大きさを模る小鬼だ。

「うりゃっ」
瞬殺の勢いで和也が術を繰り出す。無音はヒラリと氷の刃を避けた。

「でりゃっ」
再度放つ。無音に、再度かわされる氷の刃。

「……」
ああああ! も〜っ! なんでなんで避けるんだよ!
素直に当たれよ! ……世の中そんなに甘くないか〜?
バーチャルだけど、相手も動くよね。
はぁ〜。
当たり前かぁ。擬似戦闘だし。

沈黙した間、和也は心うちに文句を沢山詰め込む。

 《エサッ》

和也を獲物と認識した無音が和也めがけ飛び掛る。
和也は上体を逸らし、スレスレで無音の鉤爪を避けた。

「うんわっ」
無音の三つ指。
和也のパーカー、左胸上が三つに割けて切れている。
直接攻撃はかわしたが、風圧のような感じでパーカーに爪跡が残ったようだ。

 《ガァァァ》

無音が節くれ立った腕を持ち上げる。
無音の合図に呼応して、数匹の影が出現。
和也を取り囲むように円陣を組む。

「まずっ」
両手で印を組み自分を護る防御結界を展開。
一番扱いなれたドーム型氷結界だ。
結界が出来上がるか、上がらないうちに、数匹の影がドーム外に張り付く。

「ふぇぇぇ〜。間一髪セーフ」
結界維持のため印を解かず、和也はその場に座り込んだ。
影が結界を破ろうと体当たりしている。
ドンドンという音が聞こえた。
結界をとかない限りは無事だが、反撃しなければずっとこのまま。
和也の力が尽きれば外の連中に再び襲われる。

「こういう時は、上手に反撃。これは氷の結界だから……」
去年から使い始めた炎の術。
それを使って水蒸気の煙幕を使って、目くらましをして、云々。
頭の中で数パターン、反撃方法をシュミレート。

ダンダン。

結界外側に影がびっしり張り付く。
体当たりを止め、和也にプレッシャーを与える行動を選んだようだ。

「ったく、いい気になるなよ〜」
和也は片膝をつき姿勢を低く保つ。
自分の術に自分を巻き込まないように。
影の張り付きで真っ暗になった、結界の中。

「……古よりの盟約に従い、和也が望む! 穢れを祓う紅よ、邪を絶つ我が身体に宿れ……焔乱舞! (ほむららんぶ)」
片手で先程よりは弱い結界を張り、残りの片手で術を繰り出す。
和也の足元。
地面から赤い光球が湧き上がる。
「いっけー!!」
赤い光球を腕に纏い力を込め。
和也は焔を振るった。

 《ギョギャェェ》

結界を割るように赤き輝きが噴出した。
影が数匹、術に耐え切れず消失。
人体に影響はない。
全身へ焔をつける。
スタントマンよろしく、和也の全身が赤い炎に包まれた。
「っしゃ〜! 反撃開始」
文字通り、熱き拳を振り上げた。
気合をいれ和也はダッシュ。和也は走りざま残りの影を蹴散らす。

 《エサ……エサッ》

無音は三匹に増えていた。
三方から互い違いに、爪を繰り出す。
和也は腕を滅茶苦茶に振り回し、無音を威嚇。
無音は怯まず和也に襲いかかる。

「おっかしいな〜。師匠がこの術で、無音を撃退してたのに……」
氷が新人妖撃者のフォローを行う。
その現場見学をした和也が得た知識。
多彩な術を操る師匠は和也の戦いの見本でもある。

以前の記憶を引っ張り出し、和也が口を『へ』の字に曲げた。
術の威力は均等で唱えられれば威力を発揮する。
氷が唱えても和也が唱えても。

なのに、無音は全然平気だ。

妖しか視野に入れない和也は、周囲の変化に気が付かなかった。

「うわぁぁぁあっ」
地面が隆起。
和也は足元を掬われ、派手にひっくり返る。
無音がそんな和也を見逃すわけもなく。爪が、迫る。

和也は咄嗟に両腕で顔を庇った。
目を攻撃されないように。

「出でよっ! 疾風」
テノール。響く声。
風が滝の水を攫い、炎に降り注ぐ。
風に切り裂かれ妖は消滅。
和也の炎は風が運んだ滝の水で鎮火した。
男は印を解き和也を振り返る。
「無事か?」
水に濡れた感触はある。
実際には濡れていない。

やっぱり幻覚を見ているんだ……。和也は服を触り実感した。

ぼんやりする和也の顔を、男は心配そうに覗きこむ。

目の前の青年。この共鳴する感覚は、同業者(妖撃者)に感じるもの。

身長が百七十以上はある、大人の男だ。
切れ長の目に、長い睫毛。太すぎない眉に、すっと伸びた鼻筋。
全体的に凛々しい印象を受ける、雅な感じの顔立ち。
細すぎず、太すぎずない体の線。

「まったく。意外に無茶苦茶だな?」
男は困ったように笑い和也の髪をグシャグシャにした。
「ありがとうございました」
彼の持つオーラが、幻覚でないことを和也に伝える。
助けてもらったのだ。
和也は素直に頭を下げた。
「術は場の地脈にも左右される。こんな場所には、地・風の術を使う妖撃者が派遣される」
男がアスファルトに落ちた紅葉を拾い上げる。
和也の目の前で、紅葉をクルクル回した。
「逆に、炎は難しいな。地脈の反発が起きる」
「実際には燃えないけど、火の気配を皆が嫌がるから……」
目前でクルクル回る紅葉の葉。
「ご名答。周囲の状況も考えて術を使うんだな」
紅葉を和也に渡し顎に手をあて男はニヤリと笑った。
師匠にされたらムカツクが、なぜかこの男はサマになっている。
「お帰りはあちら。さっさと帰れ」
山道の端にひっそり佇む、古びた木製の案内板。
男が案内板を指差した。
「失礼します」
和也はお辞儀をし案内板へ向かう。
案内板から漂う、師匠の家の気配。
手を押し当て意識を師匠の家へ。
「お疲れさん」
見慣れた師匠の家の居間。

角に置いたテレビが画像を映している。
氷がテレビの電源を落とした。
和也を待つ間、テレビで時間を潰していたらしい。

「師匠! あのさ、今日、すっげーカッコイイ……」
和也は訓練の評価そっちのけ。
先ほど出会った、妖撃者の話を怒涛の勢いで語りだす。
氷は目を丸くしたものの、和也の話に耳を傾けてくれた。
「・・・でさ〜。僕も大きくなったら、あんな風に!」
目を輝かせ和也が熱っぽく語る。
氷は壁にかけた時計の時刻を確認し、和也の背中を叩いた。
「ホレ、もうすぐ夕飯時だ。さっき担任は帰ったみたいだから。お前も帰れ」

訓練に対するお小言はなし。

不適切な対処を教えたところで、弟子は聞いちゃいないだろう。

師匠の経験からいって、妥当な判断。

氷は早々に和也を部屋から追い出すことにした。

「あ、本当だ。日が暮れてる」
開けっ放しのカーテンから覗く夕焼け色に染まった雲。
「僕、帰りまーす」
和也はリュックを取りに戻り、それから氷に挨拶して家へ帰っていった。
恐ろしく切り替えが早いお子様である。
「ほーんと、節穴だな。あいつは」
氷が頭をかく。

コマあたりが一緒なら簡単に見破っていただろうに。
あの感知能力の鈍さが、後々響かないといいのだが。

窓のそばに立ち氷は複雑な気分で夕焼けを眺める。

カァー。

電線に止まったカラスが鳴いていた。





楽しい、楽しい夕飯時。
居間のテーブルで向かい合い。
和也はコマの愚痴につき合わされている。
「もぉぉぉ、許せませんよ。あの女っ! 和也様の親代わりを勤める私に、チクチクチクチク嫌味を連発して〜!!」
コマの箸が、勢い余ってハンバーグに突き刺さる。
「帰国子女の先生だから、微妙な日本人のニュアンスが分からないんじゃない?」
和也はお味噌汁をすすった。
「わざとですよ、わ ざ と! 家族構成とか、和也様に問題があるのかとか。もう、根掘り葉掘りですよっ! プライバシーの侵害です」
鼻息も荒くコマがハンバーグを箸で崩す。
力強く崩したせいか、見た目はグチャグチャ。

コマは和也に対する誹謗中傷に過剰に反応する。

何時ものことなので、和也は自分の食事に専念した。

「聞いてるんですか〜??」
元が犬だけに、見捨てられた子犬のような瞳で、コマが和也を見つめる。
「ふぉん、ひにひぃなふぃへ」
口を動かし和也がモゴモゴ答える。
「口に物を入れたまま、喋ってはいけません」
和也の手をギュウと抓り、コマが眉間に皺を寄せた。
「はーい」
和也は口の中身を慌てて飲み込む。
整ったコマの爪が皮膚に食い込み、結構痛い。
不満そうだったがコマは和也の手から指を引っ込めた。
「大丈夫だよ、コマ」
和也は自信たっぷりに告げる。
「美人に悪い人はいないから。胡蝶先生、美人だし」
ご満悦な和也。
「私の方が美人です〜っ」
緑の匂い混じる風。
湿度が上昇し、天気予報で梅雨の話題が取り沙汰される五月下旬。
コマの悲痛な悲鳴が、室内に響き渡るのだった。

節穴な和也とコマ。おまけ文もひとつに纏めてみました。毎度の事ながら長い話を読んでくださってお疲れ様&感謝。ブラウザバックプリーズ。