『???サイドの終わりに』
薄暗い路地に力なく横たわり男は脇腹を押さえ震える唇を持ち上げ、哂った。
朝靄にけぶる街は目覚める直前で、夜の素っ気無い空気が徐々に太陽を浴びた柔らかな空気に追払われていく。
全身を襲う倦怠感と血が抜けていく感触。
「はっ……自らお出迎えか? ご大層な身分だな、俺も」
土気色の肌を持った男は唇を持ち上げた顔で言った。
靄向こうから伸びる一本の長い影。何対もの羽と髪が微風に揺れる。
「死にいく汝を見届けるのも我の務め。我の干渉によって生き延びた汝の生の終わりを見届ける、神としての我の役目だ」
空気が蒼に染め上げられる。
硝子がぶつかり合って奏であう不可思議な音と影が石畳を歩く音が同時に聞えた。
いよいよ、年貢の納め時。
還る時がきたのか。
男は自嘲気味に考え影に意識を集中させる。
そうでもしなければ身体の中の何かが自分から離れ、何処かへ行ってしまいそうだった。
「ご苦労なこった」
紫色の唇を動かし男が応じる。
『これは一体どういうことなんだ?
?』
影の後ろから現れる物体xの姿が驚愕に目を見開いて思わず口を挟む。
「!?」
男は目を見開き身体を戦慄かせた。
在りえない……というよりどうしてそうなったのか。
彼女の事だ、途中下車した自分には内緒で何かをしたのだろう。
その後の島なんて男には興味のない場所であったし、元上司の活躍にもまったく興味がなかった。
寧ろあの島での経験を思い出したくなくて男は極力それらの噂とは無縁でいたのだ。
「彼は我の護衛召喚獣だ。彼女は知らない」
誰が、何を。
なんて今更ながらの単語は使わない。
影は端的に自分と物体の関係を男へ説明する。
「……怖いな、その護衛召喚獣」
ゆっくり息を吐き出して男は間をおいてからコメントを寄越した。
『そりゃどうも』
物体は嫌な顔一つせずに肩を竦めて男の皮肉に応える。
「正義の味方なんて嫌いだぜ。軍もあの後辞めたしな。長生きできないが、俺は俺らしく生きていくんだと……決めたのに。この様だ」
蒼い力が自分に注がれて痛みが消えていく。
男は影の小憎たらしい最後の手助けに、心の中だけで感謝しながら口ではぼやいた。
男の視界の隅には気絶した街の少女が居て、反対側には絶命したはぐれ召喚獣が打ち捨てられている。
メイトルパの獣らしき風貌と牙を持った灰色の毛皮を持ったはぐれ召喚獣。
悲鳴をあげた少女を見かけた男の攻撃によって命を絶たれた。
尤も……男も辞めて久しい短剣片手に奮闘してしまい。
そして治療不可能な深手を負った。
「真夜中に暴れていたはぐれからその子を助けたのか。らしくもない」
ドクドク波打つ心音が徐々に弱まっていく。
流石の影も人の寿命にまでは干渉できない。
せめてかつて世話になった者の最後を見取るべく国を超え時間を越え。
この薄汚い裏路地にやって来たのだ。
最後にも関わらず率直な物言いは変わらないらしい。
男は喉奥で哂いながら自分の運のなさに白旗をあげる。
影の言う通りだ、本当にらしくない。
男自身も内心だけで認めるまったくらしくない最後、である。
『
、言いすぎだよ。今は仕事中だろ?』
男が知るよりも遥かに落ち着いた態度で影に態度を改めるよう促す物体は。
あの後自分が生きていた分だけこの影と行動を共にしたのだろうか?
あの時感じていた不気味さが物体からは綺麗サッパリ消え失せていた。
「幸せだったか?」
物体に咎められ影は男へ問い直す。
「美味いものも食べた。酒も飲んだ。それなりに女とも、な。……俺にとっての楽園は何処にもなかったが、まぁ、こんなもんだろう」
軍と縁を切ってからの十数年。
楽しかったとは思う。
心残りがないといえば嘘になるが、男は望んだ平穏と享楽を楽しんだ。
身の毛もよだつ島での経験を振り切るように。
『……』
多くを望まない。
否、望めないと悟った者が発する総評に、物体も神妙な顔つきになって男の瞳へ初めて目線を向けた。
「アンタが見つけちまった事の方が驚きだぜ」
物体の視線を受け止め男も初めて自分の意思で物体へ語りかける。
『僕が?』
男の言葉の意図をきちんと理解した物体は秀麗な眉を顰めた。
「見つけちまった、だろうが。『楽園』を。アンタがそんな顔をしてみせるなんざ……正にあの世への土産だぜ」
空虚さを纏った物体の顔しか知らなかった。
空虚さも演技だったかもしれない。
男にとってはどうでも良い事であったが、兎に角、男の記憶にある物体は虚ろな笑いと瞳で道化を演じていたのだ。
誰に対しても。
それが今はない。
普通のどこにでもいる人間の顔をしているのだ。
きっと物体が物体なりの『楽園』に巡り合えたからだろうと、男は推察する。
『楽園』がある事が幸せだとは限らないが。
「汝という存在が居った事を忘れぬ。魂が何度生まれ変わろうとも汝という存在は唯一無二。だからこそ我は見送ろう、汝の時の終わりを」
難しい顔をして腕組みした物体を無視して影は仕事を淡々と進める。
羽を広げ魔力を高め空高く道を作り始めた。
未だ影の精神構造がどうなっているのか男には理解不能であるが、きっとモノの見方も何もかもが異なっているに違いない。
幾つもの死に遭遇するたび取り乱す人とは違う。
静かに告げられた影の手向けの台詞に男は瞼を閉じた。
「俺という存在が消える。こんなに怖い事はねぇ。
なのに……先生も、隊長も、あの島の頭のイカれた連中も。命なんざ惜しくねぇ、なんて言いやがる。
やっぱり分からねぇな。あいつ等の脳みその中身は」
死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。
正常な思考の持ち主なら誰だって自分が傷つき痛い思いをするのは嫌がるだろう。
影の厳かな別れの単語を無視して男は島で言いそびれた言葉を影と物体へぶつける。
『君のその考えには賛同するよ、僕にも理解しがたいからね。友愛や信頼? まったく、口先だけの友情ならウンザリする程転がってるさ。世の中にはね』
瞼を閉じた男の耳に当時を髣髴とさせる物体の皮肉気な声音が飛び込んできた。
根本的な気質の改善までには至ってないらしい物体の口振りに、男は力なく哂う。
「物事を素直に見たままを捉えても良いではないか。汝等は捻って見すぎだぞ」
小さく息を吐き出し苦言を呈するのが影。
「性分でな」
『後天的に備え付けられた処世術だからかな?』
だがしかし、男→物体の順にあっさりと言い切られ影は苦笑いを深める。
湿っぽさを嫌う男なりの精一杯の虚勢にしんみりしそうな己の心を叱咤した。
「せいぜい、長生きしろよ? 俺の事を覚えてるなんて言うな、気味が悪くて仕方がねぇ。
そうだな……もし俺を少しでも仲間だと思ってくれてたなら。悪い事は言わねぇ、俺を早く忘れろ。忘れちまえ」
冷え切っていた体の奥底が温まる感覚に『いよいよ』なのだと悟る。
男は取ってつけたように二人へ付け加えた。
死に対する己の恐怖心に負けてしまわないように。
なけなしの気力を振り絞って瞼を開くと光が見える。
「ああ………死にたく…………ねぇな」
霞む視界にぼんやり光るのは昇り始めた太陽なのか。
最後まで心憎い舞台を作り上げるお節介焼きの影の輝きなのか。
焦点の定まらない瞳で懸命に目を凝らし、光へ手を伸ばす。
男は最後に愚痴のように本音を吐露しながら逝った。
『……変わらない不変なモノなんて何一つないんだ。神である君も日々変わり、僕自身も変化している。永遠はあるけれど永遠じゃない、ってところかな』
影の導きの光に伴われ頼りなく天へ上がっていく男の魂。
空を見上げその様を見送りながら物体はボソリと呟く。
「言い当て妙だな」
魔力の道をエルゴの元へ届けながら影は短く相槌を打った。
『楽しくないね、こういう仕事は。でも義務でもある』
完全に男が事切れる。
魂は天へ帰っていく。
所謂転生、が行われて四つの世界かリィンバウムで生まれ変わって何回目かの生を歩み出すであろう男の来世。
救いでもあり、自己が光で洗い流され消える恐ろしさ。
両方理解した上で物体は感想を声に出した。
「仕方あるまい。我の捲いた種だ。見届け見送る義務があったのだ」
確かに楽しくはない。
影は暗に認めて羽をそっとしまう。
『さあ、帰ろう。そして家長には正確に報告しないと……僕の命が危ない』
「死んでおるではないか、汝」
気を取り直した物体が言い、影が物体の発言に呆れてツッコむものの。
『家長の事だから取り込みそうで怖いんだよ、僕の能力を』
あの男ならやりかねない。
逆に物体は身震いしてみせて口をへの字に曲げる。
「考えすぎであろう?」
男の遺体と絶命しているはぐれの死体、気絶している少女の顔。
それ等を一瞥し影と物体は姿を消した。
静寂だけが路地に残った。
Created by
DreamEditor 終わり