では「賢者の石」がすべてを解決してくれるかというと、どうもそういうこともなさそうだ。先に述べたように「賢者の石」はそれを使う人によって価値や意味が変わってくるのだから「役に立つかもしれないし、そうでないかもしれない」ということなのだが、そのようなものが究極のスーパーアイテムといえるのだろうか。 「賢者の石」を越える「賢者の石」。ほんとうのスーパーアイテムを想定すれば、富をもたらさない「賢者の石」の役割はなんだろうか。兵士にとっては疲労回復や不死ということになるのだろうが、そこには阿修羅のような永遠の戦闘があるのみで勝利が約束されている訳ではない。芸術家にとってはどうだろうか。溢れるような才能を求めれば満足は訪れない。スポーツ選手にとっては記録の更新であろうが、やはりこれも安らぎはない。 どうも、自己を操作できる「賢者の石」は、疲れるばかりのようだ。 では、相手を操作できる「賢者の石」はどうだろうか。これは使いごたえがありそうだ。病気のものを快癒させたり、死んだ人を生き返らせたり、ライバルを蹴落とすことも可能となる。 児童福祉の分野で「賢者の石」を使うとすれば、死んだ親を生き返らせるのだろうか。虐待をしない親に変身させる。どのような障害でも回復させるというのだろうか。 ここで焦点を変えてみるのであるが、児童福祉施設の役割である「育つ」「育てる」ということに限って「賢者の石」を想像してみよう。相手を操作することのできる「賢者の石」を使って子供を育てるのである。「賢者の石」を使うのは私であるから、今持っている施設で子どもを育てるという課題の多くが解決できるのある。我々が日頃、処遇の目標にするような事柄を解決する。親の虐待でひどい心の傷を負った子どもを癒すことも可能である。努力してくれない子の努力を、興味を示してくれない子の興味を引き出すことが可能となる。 我々が給料を受け取っている訳が解決できるのであるから、甚だ便利なアイテムといえよう。しかも、相手は子どもであるからある程度育ったということが確認できるか、または年齢がくればお別れするのである。永遠に戦うようなむなしいことはない。 話が難しくなるが、ここで相手を操作することのできる「賢者の石」にどのような意味があるのだろうか。操作されて私の期待通りに育った子どもは、果たして誰なんだろうかという疑問が湧いてくる。私の思い通りになっているのだから決してその子自身ではないのだろう。ところが、「賢者の石」を使うか使わないかの違いで我々は日常的にそういうことをしているのではないだろうか。 このように考えれば、児童福祉施設でのスーパーアイテム「賢者の石」は、その機能は抜群ではないがすでに手元にあるということなのだ。探し求めたアイテムが実は身近にあったというのは「青い鳥」の物語でおなじみだが、「賢者の石」などどこにでも転がっている「近所の石」程度なのかもしれない。 まして、児童福祉施設に限らず、施設というは、何が起こるか解らないところ。つまり、千やハリーポッターの世界よりも、アリスの世界のように無秩序で年中、ラリっているようなのが普通であって、だからこそ子どもが育つことができるのであろう。 |