
| 2003年施設廃止と施設開設の旅 |
| 天声人語なら2003年を振り返って、イラク戦争から イランの大地震まで世界の話題を論評するのだろうけど、私の方はもっと狭い世界で生きているから、それほど大した事件はなかったように思います。 2003年が長かったのか、短かったのかと言えば、月並みな表現ですが、長くもあり短くもあったということかなぁ。 何より、2003年の当初と今の職場が違っていることで、去年の今頃は前の職場、つまり私の言う「私の楽しい職場」にいたのですよね。 余命わずかの児童福祉施設が何故に廃止になったのか、どのように廃止になったのかという最期を見届けたということなのです。 1月の頃は、廃止が決定的でありながらも結論のない段階でした。私も含めた殆どの人が「時間の問題」と考えていたころです。 というよりもむしろ「廃止に向かって準備を進めていた」という方が正しい表現になりますね。児童福祉施設の廃止なんてのに立ち会う、遭遇するということ自体がこの業界で仕事をしている私にとっては、希望してもう一度経験できることじゃないのだと思います。 そう思えば大変、幸運でしかも、その仕事を任されることは名誉なことだと思っていました。 2月になって、県議会で大きな波乱もなく私の施設が廃止になることが決定されたのですが、一部の保育士の中には、その時点まで「廃止になるとは夢にも思っていなかった。」と述懐する人もあり、この認識の甘さが廃止を導いたのだと改めて思うようなこともありました。 3月31日までは廃止に向けての整理に明け暮れて、何よりも最期まで残った入所児童3人の行き先が心配でした。小学校4年生の女の子は私が連れて今の施設に行くと宣言していたので、どうあっても私も今の施設に異動しなくてはならないという状況にありました。他の二人は学校の寄宿舎に移籍することになったのです。 ここだけの話ですが学校というのは、とんでもないところで、とりあえず限界を設定してことを運ぶという印象ですね。偏差値なんてのが解りやすいですが、「あなたの偏差値ではこの学校は大丈夫ですが、この学校は無理ですね。」なんて感じで一貫しているのは「まず限界を設定する。」ってところですから、「これはできません。あれもできません。」なんて、最初に言うもんだから親御さん達も怒るのが当たり前ですよ。 それでも、なんとか移籍はしているのですが、どうも「こわい先生方」に毎日泣かされているという後日談もありますが、これは未確認情報ですから あまり信用しないで下さい。 「私の楽しい職場」には3年間おりましたが、実は最初から廃止が決まっていた訳ではないのですよ。最初は、継続する方法を考えて、私自身もそのようなプランを建てていたのですが、とにかくも評判が悪くて今更なにを言っているのかというような感じでしたね。 この評判の悪さを職員が知らなかったことも廃止に至った重要な要素です。常に課題を内部的な課題として処理してしまっていたのが一因だと考えています。福祉全般の中での施設とか社会の中の施設という視点が欠けていたことから、20数年前から入所児童が減ってしまい、ずるずると限りなくゼロに近づいていってしまったのですよ。 そういう意味では「私の楽しい職場」は、現在の福祉施設の最先端を進んでいたのですよね。 さて、面白かったのは3月31日ですね。子ども達はとっくにどこかにいってしまって、空っぽになった児童福祉施設の中で片づけをしていたら、勤務しているはずの保育士の姿がみえないのですよ。いまさら、頼りにしているということもないので園長と児童指導員と私とで片づけをしていたのです。 普通なら、酒飲み大会でもやらなくちゃならないのですが、園長がそんなことをすると「嘘でもねぎらいの言葉をかけなくちゃならない。」「お礼のひとつも言わなくちゃならない」っていうのが嫌だから、誰がいうこともなく酒飲み大会もなくひっそりとしていましたね。 最期の日の話ですが、夕方になって、正面玄関の「○○学園」と刻まれた黒御影石の碑をせーので突き倒した時は気分がすっきりしましたね。「ああこれでこの施設もおしまいか」ってな感じです。 その後、それでも解散式をしようってことで空っぽになった会議室に集合をかけたのですが、今までどこにいたのか解らない職員達が、ぞろぞろと現れてくるのには驚きましたね。だって、誰も何も手伝ってくれなかったのに突然のように現れるのですからね。 5分ほどの園長の挨拶が終わって、これでおしまいって言う感じでしたね。 「私の楽しい職場」での3年間のうち2年間は朝8時前に出勤して、夜8時過ぎに帰るという日々を過ごしていました。私がいないと何をしでかすか解らない職員がいたということなんですが、「おっちゃんが帰ると職員の声の調子が変わる。」と話していた子ども達の言葉が思い出されます。ですから、職場をでるときはいつも、後ろ髪を引かれるような思いをしたのですが、3月31日ばかりはほんとにすっきりと帰宅することが出来ましたよ。 廃止ですから全員が異動になるのですが送別会もなかったわけですから、なかなか淋しいものがありましたね。私にとっては「淋しい」というよりも「ザマミロ」っていう感じでしたがね。 異動の時に花束を貰ったりするのですが、このときは花束なんかなくて、備品を提供した農業試験場がお礼にってネギをたくさんくださったので、私と栄養士が異動の花束ではなくて異動のネギ束を受け取ったのを覚えています。 2003年3月31日は、月曜日でしたから明けて4月1日は火曜日でした。 その日に私は今の職場に赴任したのですが、辞令を受け取ってから初めて知ったのですが、通園施設の次長も兼務することになっていたのです。しかも、その通園施設はこれから開業するってことでした。 案内されたのは、空っぽの会議室に会議用の長机がいくつかと椅子が5〜6脚。電話の回線はあるけど電話機がない。 「さあ、ここで肢体不自由児通園施設を始めてください」とのことでした。 3月31日までは施設の廃止で苦労して苦労して、やっと施設を空っぽにしたのに、今度は空っぽの会議室をあてがわれて、ここで新しい施設を始めてくださいっていうのだから、弄ばれているようにしか思えませんよね。 最初は5月連休明けに通園開始との話だったのですが、よく聞いてみたら6月でも大丈夫ってことで、結局は6月までの2ヶ月間を新しい施設の準備に費やしました。 幸いにも熱意のあるスタッフがそろったので、私がアイディアを出すまでもなく、自然にスタッフの方からアイディアがでてなんとか通園開始の日を迎えることが出来ました。 まあ、全国に福祉関係の現場職員というのが何万人もいて、一年間にひとつ廃止して、ひとつ作り上げたなんてのは私くらいだと自負しています。 勿論、私が1人でやってのけたのではありませんから、それほど自慢することではないのですが、そういうチャンスをもったという意味では、2003年は、よく働いたということなのでしょうね。 (この項 続く…かもしれない 2004年1月1日) |