知的障害児者施設の今後のあり方 1 脱施設・グループホーム化 最近の知的障害者福祉は、施設を全廃しグループホームに全面移行することが目標となっています。現実にどの程度の期間をかけて実現されるのかが不明ですが、時代が流れているのは間違いないようです。 このことがどのような意味を持つのかということなのですが、単にノーマライゼーションとかエンパワメントというような美しい言葉で説明できない過去の経過を考える必要があります。 例えば、多くの知的障害者施設が利用者の親で構成される「保護者会」を組織していますが、この「保護者会」という呼び方が大変不自然だと思うのです。 何故、「保護者会」という呼び方が不自然かというと「保護者」が存在すると言うことは、被保護者がいるということですから、知的障害者施設に保護者会があるということは、施設利用者は被保護者ということで、保護される人たちで、極端に言うと一人の人間として主体性を尊重されていないということになります。 保護者会の趣旨や活動に異論があるというのではありません。単に言葉としての「保護者」と言うところに引っかかっています。更に「保護者会」という言葉に抵抗を感じない施設長や職員、利用者や家族の意識に注目したいのです。30歳でも50歳でも施設を利用している限り、被保護者であり保護者というのが存在するというはヘンなことなのです。 現実の施設で「保護者会」という呼び方を「家族会」に変えたところで利用者の生活が変わるというものではありません。むしろ、こういうことに拘っている私自身の方が、「重箱の隅をつつく」というようなことなのでしょう。 私の意識では、知的障害者福祉にノーマライゼーションとかエンパワメントという理念を適用しようとするのなら、当然のように「保護者会」も適切な表現に変更するべきだと感じるのです。過去には「施設に収容する。」とされていたのが「入所する」に代わり、今では「施設を利用する。」という言葉で表現されています。理想的な理念として、表現を変更するのなら施設現場で「保護者会は、やっぱりヘンだなぁ」と意識しなくちゃならないと思います。 つまり、施設が否定されたのは、「保護者会」という名称に代表される利用者本人に対する姿勢というか理念が原因していると思うのです。 「保護者会」という名称をヘンだと思わないことも施設の異常性の一部なのですが、他にも施設の異常性はたくさんあります。例えば、起床や就寝、食事や入浴の時間が決まっています。普通なら生活に合わせて起床や就寝などの時間が決まりますが、多くの施設では起床や就寝の時間に合わせて生活が決まってしまいます。他にもたくさんの不自然さはありますが、こういう特殊な生活を普通の施設は長年続けてきて、「施設というのはこういうものだ」と半ば強弁を繰り返す如くに引き継いできたのです。これはこれでやむを得ないところがあって、時代の要請といえばそれまでなのですがこれがベストという時代もあったということです。 障害者でなくとも人生の中で児と者のそれぞれの時代は児の時代がたった18年(児童福祉法による)しかないのに者の時代は、40年とか60年とかのもっと長い期間になりますから、人生の中心となる者の時代をどう過ごすかということは、障害の有無に関係なく重要な課題です。そしてそれがグループホームで過ごすということが素晴らしいことなのだという選択がなされたのです。「施設がダメでグループホームがいいんだ」っていうのは、比べたらこっちの方がいいという消去法での選択なので、グループホームがベストということじゃないと思います。生活の仕方については何通りでもありますから、別にグループホームでなくても普通の生活は送れるというのは当然の議論だと思いますが、元々普通の生活というのがどういうものなのかというのが曖昧なまま議論が進んでいるようですから、比べたら施設の方が普通の生活から遠いということなのだと思います。 施設とグループホームを比べたら、どうやっても施設の方が分が悪いというのは否めません。一部の施設職員は、どうしても施設機能が必要だと主張して、ある人は施設の中でグループホームのような生活を理想化したり、グループホームと施設の社会的な役割分担を議論したりしています。 こういう施設対グループホームの議論は、すでにむなしいことであって今後の方針は決定されているのですから、施設全廃は具体的に進められている計画そのものなのだということを認識しなければなりません。 日本の障害者福祉は長年に亘って施設での福祉を中心にしてきたのですが、スタートを切った昭和40年代に日本の厚生省は福祉先進国と言われたスエーデンに視察団を派遣しました。そこでいろいろな施設を見て回って、「これこそが障害者福祉のあり方だ。施設を作らなければ…」と決心して帰国しましたが、すでにその頃のスエーデンは、脱施設グループホーム化に転換し始めていたのです。その後、日本は多くの施設を整備し続けたのですが、時代の読みが甘かったというしかありません。 鳥取県が福祉先進県というのなら、日本の標準をモデルとしていては先んじた福祉は達成できないと思います。先進県と看板をあげたいのなら、率先して施設全廃に参加するのが当然のことだと思います。 知的障害の子ども達の分野ではどうでしょうか。児童福祉法で児童には保護者が規定されていますから、「保護者会」というのは別に不思議なことではありませんが、知的障害児は障害児である前に一人の児童として、「児童の権利に関する条約」の規定を受けます。これは大人でも同じことなのですが、ピープルファースト運動というのがこの動きです。時代の流れの中でノーマライゼーション思想と重なり、大人の分野では、障害者である前に一人の人間だという思想が反映して、異常な施設生活から普通の生活へとの移行が始まったのですが、子どもの分野ではこのノーマライゼーションの思想も含めて、立ち後れていると言わざるを得ません。 知的障害児に限らず、子どもというのは保護の対象であって、守ってあげるということ。指導の対象であり、放っておくととんでもないことになる。子どもの主張を聞いていると指導も教育も成り立たない等と言うことが平然と議論されています。 余分なことですが、子どもの主体性を尊重するというのは、大人が子どもの言いなりになるということではありません。子どもの尊厳を尊重して状況によっては、子どもの言い分をちゃんと受け止めて話し合いをするということです。かといって、保護とか指導・教育するというのがいけないということじゃなくて、それらが子どもを大人の言いなりにするということじゃないということを念頭におかなくてはなりません。 こういうことが施設職員を含む子ども達を育てる専門家の間でさえもなかなか理解してもらえない難しいことなんです。 知的障害者の分野では、やっとその人の主体性の尊重が認められてきたということなんですが、子ども達は知的障害ということと子どもであると言うことで二重にその主体性の尊重が阻害された状況にあると思います。 大人の施設がそうであったように児童の場合も、施設のあり方を人権の問題として考え、児童の権利を守ることこそで児童施設のあり方を考えるスタートになるのではと思います。 2 「地域」対「施設」の議論 近年の福祉を考えるときに「地域で生活する」の反対側に「施設で生活する」を置きます。グループホームは中間的なというよりも「地域」に近いと思います。 施設のあり方としては、「地域」対「施設」の図式では新しい展開は生まれそうにありません。それは「施設」は人権や主体性の尊重、生活の質等などどの側面から眺めても、かなり分が悪い立場にあります。現状では、施設より在宅、施設よりグループホームという定説ができあがってしまっていますから、今更、この図式の中で施設のあり方を考えても、ちょっと目先を変える程度で新しい発想が生まれてくるとは思いません。 大人であれ子どもであれ、施設入所の理由を確かめると施設の立場がもっと明確になります。具体的な統計ではありませんが「親の高齢化」「激しい問題行動」「家庭では生活訓練ができない」等の理由で「家庭での介護が困難」となっているのです。 殆どの場合が親なり、家族の都合であり、知的障害児者本人が選んで施設に入所したという例はありません。 つまりは、「在宅で生活できない」から施設を利用するのですが、その基本は「本来は家庭で生活するべきだ」という考えがあり、本人さん達もそれを望んでいると思います。当然、施設で生活することは、本来の姿ではないということになります。 理想では施設を否定し、現実では肯定せざるを得ないという矛盾の中での「在宅」対「施設」の議論と言うことです。 この矛盾の中にあることで施設は行き場のない障害者を引き受け、何か福祉の恩恵を与えてあげるという優位な気持ちが傲慢さを育み、発展性や閉鎖性を生み出し施設としての向上を目指す必要も失わせてしまったように思います。 実は「地域」対「施設」の議論は、とっくに終わっているのです。先に述べたように「施設はダメだ」という烙印を押されてしまっていますから、これからの施設のあり方を考えるのなら、「地域」対「施設」という図式から脱却しなければ新しい発想は生まれてこないということなのです。 これは「施設が生き延びる」とか「施設を守る」というような狭い範囲ではなく、多様な障害者の人生の中で「施設」がどのような役割を担うかということなのだと思います。もしも、担うべき役割がないのならば、歴史的に施設の役割は終えたということなのです。 3 これからの知的障害児者の施設 「在宅」対「施設」という図式を崩すと、基本は「在宅」又は「グループホーム」ということになります。 ここでは、ひとまとめにして「在宅」としてしまいますが、基本となる「在宅」の延長上に役割のある「施設」が存在しうるのです。「存在しうる」というのは「存在する必要がないかもしれない」ということを含んでいます。 在宅の知的障害児者が施設を利用する方法は、現在もいろいろ考えられています。例えばショートステイによる利用などがそれですが、このような制度も含め親などの介護者の都合によるものが殆どで本人の利得というのは想定されていません。 他の制度も親や家族の利便を優先しています。この利得を親のためではなく、児童自身の利益のために児童が主体となる利用のあり方を工夫する必要があると思います。 理想論だとおっしゃる方もあるかと思いますが、実際に理想論であった在宅中心が実現されようとしている時代なのですから、これを理想論だからと一蹴してしまうということになりません。 4 在宅を基本とした施設利用のあり方 (1)目標のある施設利用 「在宅を基本とする」というのはどういうことかというと、「生活の根拠が家庭にある」ということですから施設を利用してもそれは仮の姿だと言うことです。その仮の姿の中で、「在宅生活の価値を高める」という目標で一時的に施設を利用するということが考えられます。 具体的な目標を持って施設を利用することの例としては、特定の生活技能や習慣の獲得、あるいは特定の問題行動の解消というのがありそうです。 例えば、在宅で生活している子どもが自然にいろいろな技能(例えば入浴や排泄の技能や習慣)を獲得するのを待っているのではなく、施設を利用して積極的に学習し技能を獲得しようとするというものです。これらは、今までのように施設で得た技能や習慣が施設内でだけ通用するというものではなく直接家庭での生活に反映するということが目標になります。 私は、障害があるからということを理由に治療とか訓練の対象とすることに反対しています。ですから、本人にとってその技能を獲得することに価値がなければ、この目標のある施設利用は成立しません。 また、本人にとって価値ある技能でなければ家庭での生活に反映できないということも重要な前提になることを忘れてはいけないと思います。 このプロジェクトは、対象児者の状況をアセスメントし、標的行動の分析と綿密なプログラムを策定する必要があります。更にこのプロジェクトは期間が定められなければなりません。アセスメントの後に定められた期間内で成果をあげる必要があります。もうひとつ、重要な課題は、施設で獲得したことを在宅生活で確実に反映できるという保証と終了後のメンテナンスフォローです。 何か問題行動のある子どもが一定期間を施設で過ごすことで、その問題行動が軽減されたり消失したりする。更に家庭に帰ってからも定期的に生活全般のことについて支援できるということになります。 また、調子に波があるような人なら、調子の悪いときには施設を利用し、調子が戻ったら在宅に復帰するというような利用の仕方も考えられます。 こういう風に考えると、何か病院に入院するような感じで施設を利用するということになりますが、一方で治療とか訓練対象とするのに反対しているのです。一件矛盾しているように思いますが、実際には施設での生活なりトレーニングが充分に社会化されているということが、「目標のある施設利用」を有効なものとするのではないでしょうか。 (2)ショートステイ利用 我々の標的は障害児者自身ですから、親はその背景にあります。ところがショートステイというのは、親の利得を前提とした親のための制度です。これを本人の利得にすり替えるという必要があります。 具体的には、どのような子どもでも24時間態勢で受け入れ、在宅以上の快適さを提供できるということが目標になります。この「在宅以上の快適さを提供する。」ということが本人にとっての価値、利得と言うことになります。 ショートステイの実施施設で散見されるのは、入所利用者を母集団として、それにプラスされる利用者という意識があります。どこの施設も入所利用者で精一杯と言うところがありますから、ショートステイの受け入れは100パーセント以上の余分な仕事と言うことになります。 ショートステイを受け止めることを含めて、尚かつ余裕のある仕事のシステムとそれを行うスタッフの意識がないと「在宅以上の快適さの提供」なんてことはできないことだと考えてください。 (3)地域療育等支援事業 地域療育等支援事業といってもいくつものメニューがありますから、一概にこれはこうと決めつけてしまうわけになりません。 地域の療育の中でどのような役割を担っていくのか、どのような役割を引き受けられるのかというようなこと。あるいは地域に不足している役割はどのようなものかという地域全体を見回して、自分たちのメニューを決めなくてはなりません。 外来での通園療育にしても、コーディネーターの仕事にしてもただ漫然と窓口を開設していても限界が生じてしまうのではないでしょうか。 (4)地域交流 地域交流の行事などは、一見派手に見えますし苦労も多いのですが、これはおまけみたいなもので、施設の中心的課題にはならないと思います。施設が中心になってやっている限りは、どんなに地域の人が集まっても施設のイベントであり、開かれたものではないと思います。 物理的に建物を開くようなことは可能ですが、本当に開かれた施設というのは運営の中に施設外のスタッフが加わると言うことだと思います。交流行事も同じでやはり企画運営に地域の人たちが参加し、協働することでやっと地域交流といえるのではないでしょうか。 こういうイベント的な行事よりも、日常的に地域交流を図る必要があると思います。これは施設が社会化されるということの一つのあり方だと思います。外出支援やクラブ活動の援助、利用者との交流等など項目はいくらでも浮かんできます。 伝統のある施設は、案外こういう面にかたくなで外部からの介入を好まない傾向があるようです。「施設の中で起きたことは施設の中で解決する」ということなのですが、悪いことではないのですが必ず正しいということではありません。最近では施設処遇の外部評価ということもありますから、先の交流行事にしても日常的な外部の方との交流もどんどん押し進めて行く必要があると思います。 (5)入所利用者の生活の質の向上 施設の目標で何よりも優先するのは、やはり入所利用者の生活のことです。これこそが基礎となって、先に述べた施設のあり方が実現されていくということです。 先にのも述べたように以前は、施設が隔離されていたと言うこともあって、施設内で何が行われているかというのが分からないようになっていました。 しかし、近年はその閉鎖性を半ば強引に押し開こうという動きが活発になり、入所利用者の生活に欠くことのできないアイテムとなっています。 苦情解決事業にかかる第三者委員やオンブズマンといわれる外部評価システム、あるいはリスクマネジメントなども実際的に施設生活を向上させてくれるものです。 これらを無視して、今後の施設のあり方を発展させることはできません。 5 施設のあり方を考える 福祉の転換期と言われて20年以上が経過し、そして現在も転換期が続いています。 この状態を福祉の混乱と評する人もいるのでしょうが、実際に福祉の仕事に従事している我々や、対象となっている障害児者にとっては混乱と言うよりも、福祉を創り出す時期でもあると思います。 福祉は保護者とか親とかボランティアとか、ましてや福祉に従事する私たちのものではありません。障害者の福祉は障害者自身のものであって政治の方法であってはならないと思います。 更に福祉という言葉を廃して、「サービスの提供」とか「サービスを売る」という風に考えるのが必要な転換だと思います。 サービスの利用者の個々の状況に応じたサービスの提供の仕方が施設であったり、グループホームであったり、在宅サービスであったりということなのです。 特に施設の側から見ていると「施設サービスはどうあるべきか」などという一辺倒な見方に偏りがちになってしまいます。 サービスがあってその中に施設とかグループホームとかがあるという風に考えてください。その経過の中で施設に限界があれば施設は不要なものになるでしょうし、施設でなければ出来ないサービスがあったらそれが施設のあり方というものなのでしょう。これらの基本は普通の生活であって、施設の普通であってはなりません。 施設というのは施設長のものではなく職員のものでもなく、入所者利用者が主人公でなければどんな美しい言葉で説明しても収容所でしかないと思います。 ここに掲げた知的障害児者の福祉施設のあり方は多少偏った見方があるかもしれませんが、一人一人の名前のある、その人自身にとっての福祉という考え方を基本としているつもりです。 説明の不足で分かりにくいところもあるとは思いますが、ここに記されていることは、数年前から議論されていることで、これといって目新しいことは何もありません。ただ、施設職員は施設を考えるときに施設の中からしか考えることが出来ないという傾向が強くあります。それらの人々が施設のあり方を考えるときの参考のひとつとしていただければと願います。 平成17年2月2日 |