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 「千と千尋の神隠し」とは…。

湯婆婆と銭婆

 「千と千尋の神隠し」を二度も観た。観たといっても、映画館ではなくて職場のDVD装置で観た。確かに良くできた映画で、今更に私がこの映画のおもしろさ、すばらしさを論評しても、どうということはない。
 私は、そのストーリーの展開よりも、まず登場人物の設定のおもしろさに興味を引かれた。とりあえず登場人物を揚げてみよう。
 千尋、ハク、湯婆婆、銭婆、父、母、青蛙、坊、リン、番台蛙、河の神、父役、兄役、釜爺というところだ。
 特に湯婆婆と銭婆の関係は微妙でおもしろい。一方が派手で意地悪、もう一方が質素で優しい。一卵性双生児の場合、このように本来一人の人物にあるべき人柄の二面性が両極端に分離して現れるというケースに、私自身もつきあったことがある。別の例を挙げれば「二人のロッテ」は活動的と非活動的という二面に分かれて表現されている。

 二人は、同じ台詞をいう。「千尋っていうのかい」という台詞だが、その後が二人の人柄を表している。湯婆場は「贅沢な名前だね」といい銭婆は「いい名前だねぇ」というのである。

 銭婆は、「私たちは二人で一人前なのに気が合わなくってね」という。まさに対照的な二人の人格は、普通は一人の人物に相対して存在している人柄なのであろう。私がつきあったケースでは、成長にしたがって、人柄が入れ替わるということを経験している。
 湯婆婆と銭婆も、いずれ人柄が入れ替わってしまうことも予想されるが、ありうるべきは、やはり二つの人柄が統合されて、一人一人が葛藤の上で折り合いをつけてゆくということが望まれるのだろう。

八百万の神々が疲れを癒しにくる湯屋
 ともあれ、映画の「八百万の神々が疲れを癒しにくる湯屋」という設定にもどろう。この湯屋が、極めて組織的にしかもスマートに運営されているということに、感心した方も多いだろう。それは千尋がハクに伴われて湯屋にもぐりこもうとする場面の賑やかさにある。「いらっしゃいませ」という陽気な呼び声は、訓練され、かつ湯屋の繁盛を心から願っているように聞こえる。続く場面で湯屋の活気で、従業員たちが生き生きと仕事をしている様子が伺える

 湯婆婆の人柄から推定すれば、従業員は湯婆婆に専制的に支配され奴隷のようにこき使われているのかと思えば、「ここで働かせてください。」という台詞があるのだから、働いて給料をもらうのである。千尋を子豚や石炭に変えてしまう脅かしはあるが それは千尋が人間であるからなのだろう。いずれにせよ彼らは、働いているのであって奴隷ではない。
 リンは「いつかはここを辞めて、海の向こうにいくのだ」と語り退職することも可能なのである。
 同時に彼ら従業員は、湯婆婆のシンパというわけでもないようだ。かとおもえば、番台蛙は、河の神が残した砂金を「会社のものだ!」と叫んでいる。湯屋は会社だったのだ。このページのトップへ

 こうなれば湯婆婆の態度は、決して極悪の魔女ではなく、例えば「クリスマスカロル」のスクルージ、あるいは「ベニスの商人」のシャイロックのような強突張りの経営者ということになろう。まして、「どうして、『働きたい者には仕事をやる』なんて誓いを立てたんだろう」と後悔しているところをみると案外、悪い魔女ではないようだ。
 湯婆婆は、会社の社長であり、しかもかなり優秀な経営者である。湯屋の経営のため養豚場まで、経営しているのである。そこでは、多くの従業員が生き生きと日々の仕事に従事している。
 とはいっても彼らに絶対的な自由があるわけでもない。湯婆婆の眠っている間に、羽振りのいい客を引き込んで、金を手に入れるという程度の自由性はある。

この湯屋の設定で興味深いのは、私の職場である児童福祉施設を重ねてみることにあった。湯婆婆は、名前を奪って相手を支配する能力を持っているのだが、先の「贅沢な名だねぇ」の台詞の次は「今からおまえの名は千だ。いいかい千だよ。解ったら返事をするんだ! 千!」というものである。児童福祉施設でも同じようなことが行われている。「今日からおまえは入所児童だよ。解ったら返事をするんだ」というようなことである。名前に代表されるIDを奪い、そして次にくるのは、機能を求めるということだ。つまり、入所児童として指導に従い、機能を向上させるということなのである。

 その前に「見るからにグズで甘ったれで泣き虫で頭の悪い小娘」という判定と分類も忘れていない。「イヤだとか 帰りたい」といったらここでは子豚に変えられてしまうという条件も付く。施設では、逆らったところで仔豚にされたり、石炭に変えられたりということはないが「出て行きなさい」ということがある。元々、行き場がなくて施設に入所しているのだから、出てゆくところがあるのならとっくに出て行っているのだろう。 この後に、千尋はやがて自分の名前を忘れ入所児童と変化してゆくということになるのである。

 施設は集団生活を基本にしていると信じている人たちはこの映画を観てどのように思うのだろうか。きっと、何も感じないのであろう。湯婆婆のしていることがそのまま児童施設に当てはまるとは思わないが、似たようなもの、五十歩百歩というところなのである。湯婆婆のように異常性に気がつかないだけなのだ。

 特に施設では名前を奪われる。私の施設では、障害分類では二種類の子どもたちが生活してるが、今まで、ごく普通に ○○(障害)の人こっち、△△(障害)の人こっちとなどと誘導されていたのである。これは今も他の施設では行われていると思う。

 たとえ個別に名前を呼んでいたとしても、○○障害の誰それさんなどといっている訳であるから、理不尽な話である。勿論、反論もあろうが施設に入所したというだけで○○障害とか入所児童という看板を持たされてしまうのである

異世界このページのトップへ
 映画の冒頭で、千尋は家族の引っ越し、転校という境遇にある。その引っ越しの当日に、ふとしたことから異世界に引き込まれてしまうのである。しかし、考えてみれば千尋にとっては、湯婆婆たちの世界と千尋がこれから経験するであろう引っ越し後の世界は、同じように異世界なのではあるまいか。引っ越しの当日に異世界に迷い込むことは、何かシンクロしている。いや、作者はシンクロさせているのにちがいない。

 大げさな表現だろうが、千尋が家族の事情とはいえ、引っ越しすることに大きな不安があるのだろう。象徴的に観れば、この後の展開はすべて引っ越し先で起こることを示唆しているのかもしれない。この展開に非日常という言葉を使えば、「千と千尋の…」はカフカあるいは安部公房の世界に通じている。

 千尋が日常から放り出されて異世界、つまり非日常に引き込まれるのと対照的な人物がいる。湯婆婆の息子の「坊」である。彼は、湯婆婆の庇護のもと、「おんもには、悪い病気がいっぱいあるから外にでない」と主張する。つまり、彼にとっては、機械仕掛けで昼夜が現れるクッションと玩具だらけの小さな空間がすべての世界なのだ。異世界の中であっても、千尋の世界にあっても、この状況が異常な世界であることは言うまでもない。
 紛れ込んだ千尋に「お遊びしないと泣いちゃうぞ」と脅迫するのであるが、まさにこの取り引きこそが坊の最大で唯一の武器だというのだ。
 その後、坊は小さな太ったネズミに変身させられ、千尋とともに外の世界を体験する。初めて乗った電車では、窓際に額を寄せて外の世界を眺めていた。「沼の底駅」についてからも、千尋が肩の乗ってもよいというのを断り、文字通り自分の足で歩いている。
 銭婆の家で元に戻ることを勧められて断った後、銭婆の糸車を回し、労働に参加する。その後の展開で、湯婆婆と再会した坊は一挙に大人びて「バーバのケチ。もうやめなよ」と湯婆婆をたしなめる。

 閉じ込められていた坊は、施設に閉じ込められた子どもたち。異世界に紛れ込んだ千尋は、そこに紛れ込んだ侵入者というわけなのだ。

異世界
  閉じられた世界
 千尋が紛れ込んでしまった世界は閉じている。そこから出られないというのだから間違いなく閉じているのである。この閉じているということが施設的である。しかも、「キマリというものがあるんだよ」という湯婆婆の発言のとおり、極めて高秩序の世界である。湯婆婆が誓いを立てたり、キマリを守ったりするところをみれば、この世界の支配者ということではないようだ。まして、鳥に変身して、どこかにお出かけしているのをみると彼女を支配している更に上の存在というも考えられる。元々、自分で作った決まりならば、決まりそのものを自ら変更することが可能なのであろう。ところがそれができず、彼女自身も誓いや決まりに縛られているのである。
 閉じられていること。その世界に秩序があり、約束事はその世界で決められたものではなく、更に別の支配者が存在する。

 閉じられた施設。決まりがあり、そこでは、名前を奪われ機能を求められる。ただ、これは施設内で決まったことではなく別のところ、同じように正体不明の施設の伝統という解からないものに定められているのである。その中で成長し育っている子どもは、坊のように育ち自分の足で立つことさえもできなくなる。このページのトップへ
 これは子どもだけの話ではない。児童施設で20年や30年を過ごすというのは、職員の方である。職員が育たないのに子どもが育つということはありそうにない。
 今日から施設で生活するという子どもの心情を慮ってみよう。その子どもにとって、施設はまさに「八百万の神々が疲れを癒しにくる湯屋」に匹敵するほどの異常な世界なのだろう。それは新任の職員にとっても同じでやがて、その世界の食べ物を食べているうちに同化してしまうのである。

異常の中の異常
 坊と千尋にとって世界は、入れ子状になっている。千尋の住む世界からみれば、湯屋の世界は間違いなく異世界である。そしてその中にまた坊の寝室という異世界が入れ子になって構造している。湯屋の世界が千尋にとって異常であっても、坊にとっては、それこそが普通の世界であり、千尋は彼を異常だけど普通の世界に引き出すのである。
 異常から通常への訪問者と通常から異常への訪問者が同一の世界を共有するという不思議に陥っているのである。勿論、この場合は主観的な世界観の問題であるから、自分の世界の異常性に気がつかず自覚できなければそれは異常でもなんでもない。
 平穏に日々が流れ、昨日の中に今日が生きていて、明日の中に今日が生きているような生活が続くのである。
 これはこれで、特別な問題はない。ただ、坊のようにこれから世に出ようとする子どもたちにとっては、決して喜ばしいことではないだろう。
 まして、施設は閉じられた世界とはいっても、限定された閉じられ方であり、いずれは施設を後にしなくてはならない。その時に、外の世界を知らない子どもがいきなり放り出されるのであるから、障害が生じて当たり前なのだ。
 施設は、自立という目標に従って、子どもを社会から隔絶し、指導という都合で見聞を妨げている。多くの施設がこの矛盾に気がつかないまま美しい理念を遂行しているようだ。

児童施設はなにをするところか
 児童施設は、子どもが育つところである。湯婆婆の湯屋の客は、八百万の神々である。児童施設で入所している子どもたちはお客かというとそうでもない。むしろ、境遇は湯屋の従業員に近いようだ。一方、湯屋はお客様至上主義で経営されている。お客と従業員とでは、随分と立場が違ってしまう。湯婆婆は経営者であるから従業員ではない。
 こういう図式はどうだろうか。

湯婆婆 → 経営者  → 施設長、施設職員(指導員、保育士等)
千  尋 → 従業員  → 入所中の子どもたち 
神  々 → お  客  → 寄付をしてくれる人、ボランティア、子どもたちの親、その他
 我々は施設での仕事をして糊口を賄っている。従業員の立場であるのに、子どもたちの前では湯婆婆のように指図し、怒り、なだめ、下心を見せ、指導という操作をしようとしてしまう。千尋は間違いなく従業員であるが、入所している子どもたちは従業員でなくお客なのである。そのはずであるにも関わらず、ヒエラルキーの一番下に位置してしまっている。あるいは、位置させようとしている職員がいる。

 施設での主人公はいったい誰か。施設で一番、上席に位置するのは誰か。
 その答えを概念として、理解している施設職員がほとんどである。
 しかし、そのことが自らの振る舞いに反映できる人は数少ない。
 この数の少なさが施設を異世界にしているのではないだろうか。
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 「千と千尋の神隠し」と同じように異世界をテーマにしてヒットした映画に「ハリーポッターと賢者の石」というのがあった。これも職場のDVD装置で見た。こっちは一回しか観ていない。
 こっちの異世界は、「千と…」に比べると往来が可能でもうちょっと身近な印象を与えてくれる。異世界への入り口が、煉瓦作りのトンネルと煉瓦の壁という似ているところはあるが、その向こうの世界は大きく違っている。「千と…」が八百万の神々であれば、こっちは魔術の世界である。元々イギリスは、アーサー王伝説の国であり、魔術や魔女というアンチクリストに寛容なのかということもあるが、魔女狩りの時代にイギリスでの裁判の件数がフランスのそれに比べて格段に少ないという歴史もある。

 ここで「賢者の石」なるものが登場するが大ヒットのコンピューターゲーム「ドラゴンクエスト」では疲労回復のスーパーアイテムとして設定されており、「ハリーポッター」においても多少の設定の違いはあっても同様の機能をもっているようだ。
 「賢者の石」は、錬金術の分野で「哲学者の石」と呼ばれ、彼ら錬金術師が求めた究極のアイテムである(錬金術の世界・青土社)。何の役に立つのかというと、疲労回復ではなくて、黄金を作るための触媒として使うのである。ところが「哲学者の石」というのが特別なものであるかというと案外そうではなく、別に「哲学者の水」、「哲学者の金」、「哲学者の塩」、「哲学者の卵」、「哲学者の薔薇」などという関連した表現もある。しかし、これらの「哲学者の○○」群は、「哲学者(賢者)の石」を精錬するための材料であったり、手続きに必要なものであり、やはり最終的に求められるのは「賢者の石」に他ならない。錬金術師たちが詐欺師として活躍する場面を想像されたい。王侯貴族に向かって、「哲学者の石を作ることができれば、得られる黄金は果てしない」、「そのために哲学者の水が必要だ。」と唱え、「哲学者の石」の精錬に失敗し、「やはり、哲学者の金が必要なのです。」とごまかし、欲に目のくらんだパトロンの懐から資金を調達するのである。
 錬金術の時代から、500年も経っているため、今でこそ「賢者の石」、「哲学者の石」などという定義が可能であるが、所詮は、詐欺師が思いつきで口にした言い訳のひとつから所産されたことなのであろう。

 これらを観念論的な象徴と考えればそれはそれで深い趣が感じられる。しかし、近年のオカルトブームにおいて、現実に「賢者の石」の組成と機能などについて議論し、実在するがごとく論評するのはいささか愚かな現象である。この架空の物体が何故、魔術の分野に取り入れられたのかというと、これは最近のことではなく、錬金術そのものが、近代科学以前の文化であること同時に、鉛を金に変えるという常識を越えることを目的としていることから、どうしてもオカルティックな手続きに頼らなければ仮説を説明できなかったのであろう。従って、錬金術は魔術の一分野であると考えてもよいのではないだろうか。そして「賢者の石」は、魔術の分野での究極のアイテムとして具体的な効能を持つスーパーアイテムと変身する。

 いずれにせよ錬金術・魔術はいうに及ばず、近代では象徴的な意味において「賢者の石」が究極のアイテムであることは間違いない。
 しかも、どのような分野においても人類はまだそれを手に入れていないことも事実である。このページのトップへ

「ハリーポッターと賢者の石」の原作者J.K.ローリングは、子供にお話をせがまれて毎夜この物語を語ったとのことは有名な話である。同じように、子供に語って聴かせた物語が出版されてベストセラーになったものにルイスキャロルの「不思議の国のアリス」がある。これもウサギの穴に落ち込んだ少女アリスが経験する異世界への物語である。

 ルイスキャロルは、数学者で19歳の時に家庭教師として、当時4歳のアリスに出会い、お話をせがまれたのである。
 その後のルイスキャロルの振る舞いをみて彼がロリータコンプレックス(少女偏愛症・ロリコン)であったのは、ほぼ間違いないと言われている。彼は数学者としてある程度の成功をしているが、作家としては現実のアリスのためにしか物語を創作していない。もう一面として写真家として写真集を出しているのだが、これがまた少女ばかりを撮影した写真集なのである。しかも、ルイスキャロルは、13歳になったアリスに結婚を申し込んで彼女の両親に拒否され断念している。その他、別のアリスに結婚を申し込んで断られたという記録もあるようだ。
 むしろ「不思議の国アリス」をフロイト的に分析することの方が彼のロリコンを証明できるのであろうが私の専門ではないし、それほど楽しい作業ではない。ただ、トランプの女王に対する描写等は、大人の女性に対する彼の嫌悪感を連想させ、多少この年代の女性に対する意識として共感できるところもある。ともあれ、ルイスキャロルが幼いアリスを膝において興奮を伴って幸福な時間を過ごしていたのが目に浮かぶ。

 「不思議の国のアリス」を映像にしたのは、ウォルトディズニーであるが、これこそアニメでしか表現できない異世界をファンタジックというよりもサイケデリックというかシュールリアリスムとして表現している。詳細な記憶がないがイモムシが水たばこを吸っている場面などは、彼がたばこではなくて阿片を吸っていると説明する方が解りやすい。ルイスキャロルの時代に阿片がどの程度ポピュラーであったかは解らないが、ウォルトディズニーもしくは彼のスタッフが危ない薬を使ってアイディアを絞っていたと連想しても大はずれではないように思う。
 
 千、ハリーポッター、アリスといずれも異世界での旅というか冒険の物語だが、比べてみて何の教訓も生じないのが、アリスの世界だ。秩序も決まりもなければ、向上心も友情もない。どたばた喜劇にもならない子供向けの物語というのがまさに不思議の国のアリスなのである。

 賢者の石に話が戻る。哲学者であれ賢者であれ、このようなアイテムを求めてやまないのは、どのような分野でも同じなのである。そのような象徴的な意味での賢者の石というのは、存在するのだろうか。商売人にとっての究極のスーパーアイテム、つまり賢者の石とはどのようなものなのだろうか。政治家にとって、はたまた軍人にとって、スポーツ選手や芸術家にとって等と考えてみると錬金術師の鉛を金に変えるための「賢者の石」などはたあいのないことのように思える。

 16世紀頃のヨーロッパの貴族が錬金術師と名乗る詐欺師に資本を投下したのは、決して科学的興味として賢者の石を求めたのではなく賢者の石を触媒として得られる金、そしてその金によって得られる経済力、関連する軍事力なのである。先に強突張りの会社経営者とした湯屋の湯婆婆の前に「賢者の石」があれば、直ちに手に入れようとするのであろう。こういう私は、目の前になくても「賢者の石」が欲しいと心から思う。

 一口にいえば「賢者の石」を手に入れることは、金持ちになるということなのだ。世の中にはお金で解決できることがたくさんある。ほとんどのことは解決してしまうのだ。ところが同じくらいお金だけでは解決できないこともある。スポーツ選手や芸術家などがそうである。確かにこのような分野では、お金だけで解決できない課題というのがある。しかし、別の側面から考えれば、個別の問題としてはお金だけで解決してしまうというケースもありそうだ。つまり、資金さえあればスポーツ選手として芸術家として力量を発揮して、世界最高になることが可能ということもありそうだということなのだ。必ずしも才能のある選手や芸術家のすべてがチャンスを得ているとは思えない。「賢者の石」はそれを使う人によって意味が変わってくるというのはこういうことなのかもしれない。

 私の職業の分野である児童福祉であっても、「賢者の石」は極めて有用である。福祉の多くの分野は潤沢な資金が確保されれば、いま抱えている多くの課題を解決することが可能となる。このページのトップへ

 では「賢者の石」がすべてを解決してくれるかというと、どうもそういうこともなさそうだ。先に述べたように「賢者の石」はそれを使う人によって価値や意味が変わってくるのだから「役に立つかもしれないし、そうでないかもしれない」ということなのだが、そのようなものが究極のスーパーアイテムといえるのだろうか。
 「賢者の石」を越える「賢者の石」。ほんとうのスーパーアイテムを想定すれば、富をもたらさない「賢者の石」の役割はなんだろうか。兵士にとっては疲労回復や不死ということになるのだろうが、そこには阿修羅のような永遠の戦闘があるのみで勝利が約束されている訳ではない。芸術家にとってはどうだろうか。溢れるような才能を求めれば満足は訪れない。スポーツ選手にとっては記録の更新であろうが、やはりこれも安らぎはない。 どうも、自己を操作できる「賢者の石」は、疲れるばかりのようだ。
 では、相手を操作できる「賢者の石」はどうだろうか。これは使いごたえがありそうだ。病気のものを快癒させたり、死んだ人を生き返らせたり、ライバルを蹴落とすことも可能となる。
 児童福祉の分野で「賢者の石」を使うとすれば、死んだ親を生き返らせるのだろうか。虐待をしない親に変身させる。どのような障害でも回復させるというのだろうか。

 ここで焦点を変えてみるのであるが、児童福祉施設の役割である「育つ」「育てる」ということに限って「賢者の石」を想像してみよう。相手を操作することのできる「賢者の石」を使って子供を育てるのである。「賢者の石」を使うのは私であるから、今持っている施設で子どもを育てるという課題の多くが解決できるのある。我々が日頃、処遇の目標にするような事柄を解決する。親の虐待でひどい心の傷を負った子どもを癒すことも可能である。努力してくれない子の努力を、興味を示してくれない子の興味を引き出すことが可能となる。
 我々が給料を受け取っている訳が解決できるのであるから、甚だ便利なアイテムといえよう。しかも、相手は子どもであるからある程度育ったということが確認できるか、または年齢がくればお別れするのである。永遠に戦うようなむなしいことはない。

 話が難しくなるが、ここで相手を操作することのできる「賢者の石」にどのような意味があるのだろうか。操作されて私の期待通りに育った子どもは、果たして誰なんだろうかという疑問が湧いてくる。私の思い通りになっているのだから決してその子自身ではないのだろう。ところが、「賢者の石」を使うか使わないかの違いで我々は日常的にそういうことをしているのではないだろうか。
 このように考えれば、児童福祉施設でのスーパーアイテム「賢者の石」は、その機能は抜群ではないがすでに手元にあるということなのだ。探し求めたアイテムが実は身近にあったというのは「青い鳥」の物語でおなじみだが、「賢者の石」などどこにでも転がっている「近所の石」程度なのかもしれない。

 まして、児童福祉施設に限らず、施設というは、何が起こるか解らないところ。つまり、千やハリーポッターの世界よりも、アリスの世界のように無秩序で年中、ラリっているようなのが普通であって、だからこそ子どもが育つことができるのであろう。このページのトップへ