砂丘を訪れた

写真:異星、異世界を思わせる砂丘の風景

 元旦にふと思いついて、砂丘に行って来た。今更ながらに「荒涼とした風景」というのはこういうのを言うのだと感動した。
 観光客もそこそこにあったが、場所によっては足跡のない風紋を発見することができた。20分ほど砂丘を歩いて、ふと気がつくと周囲に誰もいないのに気がついた。耳を澄ませば、みやげ物屋が客を引く音楽が聞こえなくもないが、風の音にかき消され静かだった。 見渡す限りが荒涼とした砂の世界だ。決して美しいというものではない。むしろ、多少の恐怖を感じる風景であった。


写真:十数年前のインド ヒンズー教の聖地バラナシ(ベナレス)の沐浴の風景

 この砂丘は、起伏が激しく内陸部の砂漠に似ている。広さだけならもっと広い砂丘が他にもある。かといって、私が砂漠で彷徨っているような気分になったかというとそうではなく、どこか知らない星か異世界に迷い込んだような気分だった。雨上がりということもあって湿った冷たい風が吹いていたことのが砂漠を連想させなかったのだろう。湿った砂丘の砂は重く、崩れる流砂を連想させることもなかった。


写真:荒涼とした砂丘の風景 風は向かって右から左に流れて行く 植物が見受けられる

 何もなく砂ばかりがあるのかというとそうではなく、この荒涼とした砂丘にも植物が所々に見られるが、決して生き生きとはしていない。一見、既に死んだ植物のように見えるのだがどれも生きているのだ。風には通り道があって、砂丘に立つとその通り道が見える。植物たちはその風の通り道を塞いで風に逆らうように根を張っている。
 通り道を塞がれた風は別の出口を探す。風が通らなくなれば、やがてそこに小さなコロニーができあがる。風の流れとともにコロニーは誕生しては消え、消えては誕生する。
 健気な植物と感動する。
 しかし、彼らに何か生きる勇気や哲学はない。ただ、そこにいるだけで風に敗れるとまた別のところに根を張るだけのことだ。根を張らない浮き草とか根無し草と呼ばれる植物があるが、砂丘に根を張る彼らもまた同じように砂の上の浮き草、根無し草なのだろう。

 健気に生きることなど、他の誰かが決めていることで彼らには自覚はない。

2004年1月2日 この項 終わり