霊はあるか


「霊はあるか」(※1)という本を読んだ。ことさら心霊現象への興味が強いという訳ではないが、こういう類の話題は面白い。イギリスの作家でコリン・ウィルソンという人がある。犯罪と心霊現象や不思議現象のコレクターとして当代一流であろう。
 犯罪関連の彼のレポートは大変興味深いがそれはさておいて、彼の不思議現象のコレクション(※2・※3)は、幽霊譚からネッシーやUFOにいたるまで幅広くオカルティックなレポートが並んでいる。
 こういう類のレポートのほとんどが、霊が存在するとかUFOやネッシーが実在するのだという前提や予測された結論を持っているのに対して、コリンウィルソンは、多くの言葉を並べて、「解らない」という結論を出している。しかも、先に出版した本で解らないとレポートした現象で新たな事実があれば二冊目にはその内容をレポートしている(「トリノの聖骸布」事件)。コリンウィルソンの超常現象に対する姿勢は、超常現象と言われる現象が事実としてあったのかという調査とインチキではないだろうかという懐疑に満ちている。
 話は変わるが、イギリスでの超常現象というとミステリーサークルが超有名である。ミステリーサークルは、イギリスの麦畑で一夜のうちに、サークル状に麦がなぎ倒されており、誰の仕業か解らないというものだ。1980年夏に突然発生し始め、その後、ミステリーサークルは進化し、最初はシンプルな円形であったものが、1990年代には、複雑な幾何学模様を描くようになってきている。90年代の最初に「私がやりました。」と何組かの犯人が名乗り出ている。ところが彼らがやってみせたミステリーサークル制作の実演がお粗末だったということで、売名を狙った偽物ということになってしまったようだ。その後もミステリーサークルは発生し続けたようだが、最近、同じことが起こっている。科学雑誌「日経サイエンス」(2002年10月号)のコラム記事によると、再び犯人が名乗り出たというのだ。手元に記事がないため詳細は不明だが、科学の殿堂であるサイエンス誌は「これで論議に終止符が打たれた。」としている。
 妖精と並んで写真を撮影した少女が長じて、姉妹二人ででっち上げたと告白した話も有名である。こっちの方はホームズの作家コナンドイルが肩入れをしたというおまけがついている。霊能者を装った女性が高齢になってやはり「でっちあげ」を告白したという話もある。
 こういう話は、特別なことではなくて案外身近にある。宗教家が詐欺師であったという例はたくさんある。現代ではキリストでさえ疑われているのである(※4)。
 偉大な宗教指導者麻原某の実体は近代まれな犯罪者だったというようなことなのだが、オウム真理教(アレフ)の解散後の経過を見ても解るように実体が明確になった後も、彼を信じ続ける人々がある。ミステリーサークルの騒ぎも同様で犯人が名乗り出ても、「いや違っている。奴にあのような精密な幾何学模様ができるわけがない」と今度は犯人の方を疑っている人々があるとサイエンス誌はレポートしている。

 これは甚だ面白い現象で、21世紀を迎えた現代で天動説を唱えるがごとき勇気のある行為だ。名乗り出た方も、それが真実ならば「おれがやったっていっているだろう!!」と怒鳴ってしまいそうなことである。つまり、手品師に、種を証されてからも不思議がっているということなのだ。
 ユングの集合的無意識というのは、手品の種を証される以前と証されている最中に現れる人々の微妙な変化を言っているのだろうか。手品は見せ物であるから、種が解らないという不思議が売り物だ。人々は不思議を体験したいのだが、同じくらい不思議の種を知りたい。しかし、知ってしまうと不思議ではなくなり見せ物としての手品の価値はまったくなくなってしまう。見せ物である手品とミステリーサークルの種明かしは、種明かしをする以前の人々の姿勢が違っているのだ。科学的に証明できないことに渇望し、何か科学を超えた「超自然的な現象」を望んでいるのだ。それがユングのいう集合的無意識となって具体的な人々の行為として見えてくるのだろう。

 それで「霊はあるか」ということなのだが、副題に「科学の視点から」とある。私は知らないが著者はテレビ番組でも宇宙人と遭遇したとか霊魂がどうのというような番組に出演して「科学的な視点から」批判的に論評しているらしい。
 この本を書店の棚から選んだのは、目次に岡部金治郎博士という文字を発見したからだ。岡部金治郎博士というのは工学博士でちゃんとした研究者である。その人が1971年に「人間は死んだらどうなるか」という本を書いていてる。当時、私は大学生だったが、なかなかおもしろい内容だった。その後、その本自体が行方不明になり、詳しい引用は難しいが、「自然科学者である自分(岡部博士)は、自然科学の立場から人間は死んだらどうなるかということを考えてみる」ということだった。内容はいくつかの章ごとに「分子生物学」や「物理学」、「化学」という分野からの考察と臨死体験や心霊現象を引用している。彼の理屈では、外見で人間に限らず生きている状態と死んでいる状態で物理的にはなんら変わりがない。その違い、つまり生死を決定する物質を例えば「霊魂」としよう。ただし、「霊魂」は現代の自然科学では定量ができず、その組成も解らない。自然界の不生不滅の法則(何にもないところから何かがうまれたり、あったものがまったく跡形もなく消えてしまうということはない。形が変わるだけだ)から霊魂は、もともとあったものでなくなることはない。つまり輪廻するのだというのが大筋だ。
 30年も前に読んだ本だが、よく覚えているものだと自分でも感心するが、それくらい面白かったのだろう。感動というのとは違っていたように思う。その上、岡部金治郎博士の「霊魂」説を信じていた訳でもない。つまり、霊魂があっても不思議じゃないという程度の認識を持つに至った。
 この本のもうひとつの面白い点は仮説の立て方である。岡部金治郎博士は「生死を決定する何か解らないものがあるようだ。」という「何か解らないもの」。自然科学では定量できない何かを仮説として「霊魂」としたのだ。
 今回の「霊はあるか」では、「人間は死んだらどうなるか」という本を引用し、岡部金治郎博士の「霊魂不滅」説を否定している。
 岡部金治郎博士は、この本を書いたころで90歳に近かったと記憶しているから、とっくに霊魂になって自分の仮説が正しかったかどうかを確かめているのだろうが、その仮説が立証されたかどうかは我々には解らない。
 オカルトという自然科学の分野からはずれる事柄を取り扱った真面目な議論としては、先の岡部金治郎博士と今回の「霊はあるか」というのは確かに両者とも科学の視点に立っている。この分野の研究者が不真面目とは言わないがデニケンやユリ・ゲラーのようにインチキが暴露されてしまう例があれば疑ってしまうということも仕方ないだろう。
 まして、90歳に近い老人が退屈しのぎに自分は死んだらどこにいくのかということを考え、消えて無くなるのではなく霊魂は不滅で何か天国のようなところに行くのだと自分を納得させるために書いたような薄い本に対して特別な議論は生じないだろう。「人間は死んだらどうなるか」というのは「岡部金治郎は死んだらどうなるか」ということであって、とっくに死んでしまっているのだし、別に誰かに迷惑をかけているということもない。

 それで「霊はあるか」ということであるが、先に述べたように「霊はない」と結論している。ところが「霊はない」と言われてもどうしようもない。著者が怪しいということではなく、確かめようがないのだ。これは「霊はある」と結論しても同じことで「科学の視点から」ということでは確かに科学的な議論はなされている。科学的な議論で岡部博士の霊魂という仮説は否定されている。「霊はない」というのではなく、正しくは「霊という仮説はありえない」ということなのだろう。昔はお月様にはウサギや天女が住んでいたらしいが最近は引っ越ししてしまったようなものだ。今なら火星には「生物はありそうにない」というのが例になる。やがて、火星での生物の存否が明らかになるときがあるだろう。
 人間の世界では、「霊がなくても不思議じゃない」という時代に入ってきているのだろう。
 2002年11月10日

 関連した面白い話
 CNNニュースで大脳の特定の部位に電気刺激を加えると意識が身体から離れ、天井から自分を見下ろしているという感覚になったというレポートが掲載されていた。てんかん患者の治療で大脳のいろいろな部分に電気刺激を与えていた途中に患者が体験したというのものだ。体験された現象はまさに「幽体離脱」というものである。相手が人間だけに追試ができないこともあるが、神秘主義者に挫折を与えかねないニュースとして、これはこれで面白い

※1「霊はあるか」安斎育郎著 講談社ブルーバックス
※2「世界不思議百科」コリン・ウィルソン 青土社
※3「世界不思議百科総集編」コリン・ウィルソン 青土社
※4「レンヌ・ル・シャトーの謎」 マイケルペイジェント他著 柏書房
その他
  「超常現象の事典」 リン・ビクネット著 青土社
  「超常現象の謎を解く」 アーサーCクラーク リム出版
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