新しいお仕事を始めるにあたって スタッフの皆さんに心構えを説明しました。
中部療育園は「もこもこ塾」で何をするのか |
平成16年8月27日 |
1 はじめに 「もこもこ塾」というのは、県立中部療育園が地域の障害児(主に肢体不自由児)のために実施するグループでの訓練会のことです。なぜ「もこもこ塾」を実施するのかというと中部療育園が肢体不自由児通園施設で未就学のお子さんだけが通園するところだからです。 未就学の間は中部療育園に通うのですが、小学校に就学すると通園しなくなって、学校教育だけになってしまい我々と疎遠になってしまうので学齢になっても、中部療育園が継続的に見守って行こうということなのです。 小学校に就学するだけではなく、状況によっては地域の保育所に通うことになり、退所するお子さんもいます。 この他に元々、中部療育園に通っていないお子さんもいらっしゃるので、こういういろいろな立場のお子さんを「塾」形式で学校や保育所に通いながら中部療育園が継続して見守っていこうというものなのです。 我々は行政機関、つまりお役所ですから「もこもこ塾」に「県立中部療育園地域障害児小集団訓練会」という子難しい名称を付けましたが、子ども達にこんな漢字ばっかりの中国語みたいな名前を伝えても、興味を持ってくれそうにないので「もこもこ塾」という愛称にしました。 2 「もこもこ塾」が求めること (1)地域の肢体不自由児(重症心身障害児者)の関節の拘縮や変形を予防します。 関節の拘縮や変形を予防することは、とても大事なことですが、実際に主体となる子ども達は、関節の拘縮や変形の予防を望んでいるのでしょうか。 もしも、子ども達自身が関節の拘縮は嫌だ、変形も嫌だと強く望んでいるのであれば、取り組みは簡単なことです。 しかし、ほとんどの子ども達は、それほど明確に意思表示してくれません。むしろ、関節の拘縮や変形を予防する理学療法に積極的に取り組んではくれないし、逆に泣き出したり、逃げだそうとするものなので、子ども達のやる気が引き出せないまま、理学療法に取り組んでも効果が半減します。 では、何故子ども達は理学療法に非協力的なのでしょう。こういうときには、子ども達の気持ちを推し量ってみなければなりません。 「理学療法を受けている幼児の気持ちなんて分からない」とか「本人が望んでいなくても、必要なことはしなければならない」等と結論づけてしまうと身も蓋もありません。 こういう結論では、理学療法は子ども自身が受けているのではなく、別の誰か(例えば親御さんであったり、理学療法士自身であったり)ということになります。 我々は、子どもの療育のプロですから、理学療法を受ける子どもにきちんと何故、理学療法が必要かということを説明しなければなりません。少なくとも、対象となる子どもは、説明を受ける権利を持っているはずです。 ところが現実にはどうでしょうか。ほとんど場合、子ども達はこういう説明を受けて納得して、理学療法に向かうということはありません。療育者も同じように親御さんに説明しても、子ども本人に説明するという手続きは省略しています。 「小さな子どもに関節の拘縮のことや変形のこと、理学療法を受けないと将来どうなるかということを説明しても分かるはずがない」と反論する方もあるでしょうが、本当に分からないのでしょうか。説明もしないうちに分からないとあきらめてしまったり、説明の仕方が悪いのではないでしょうか。 インフォームドコンセントという言葉がありますが、理学療法を受けるのが大人で一見して、小うるさそうなオジさんならきっと説明から入ると思います。こういう場合でも、相手が本当に分かっているか確かめたりはしませんから、儀式的といったら言い過ぎかもしれませんが、それほど確実なものでもなさそうです。 確かに小さな子どもに関節の拘縮のことを説明して分かってもらうのは難しいことだと思います。かといって、本人の主体を無視して療育は成り立ちません。 こういうことを考える療育関係者は少ないと思います。考えてもなかなか結論のでることではないのでこういうことは避けて通っているというのが現実だと思います。 (2)関節の拘縮や変形の予防や姿勢保持、介助方法などを親御さんに習得していただきます。 これも多くの療育者が長年にわたって取り組んできていることです。関節の拘縮や変形を予防するのは週に1回の理学療法よりも毎日数分のストレッチの方が効果的であることは誰もが認めていることです。毎日、少しずつ取り組むことで拘縮や変形が予防できるのですからこれは素敵なことで誰が考えても否定するべきことではありません。 ところが現実の親御さんはそれほど積極的ではありません。習得される方もありますし習得しようとしない方もあります。たとえ習得しても毎日少しずつ取り組むということをされない方もたくさんいらっしゃるようです。 親御さん自身が十分に信頼している担当のリハビリテーション医師がどんなに上手に説明しても、取り組まれる方は取り組まれるし、取り組まない方は取り組まないまま時間が過ぎて行っているようです。 「そんなことはない。きちんと取り組んで成果を上げている肢体不自由児の親御さんもいらっしゃる」と反論される方もあるかもしれませんが、それは努力や頑張りが出来た人だけを取り上げているのであって、頑張った人の背景にはもっとたくさんの頑張れない親御さんがいらっしゃるということを忘れてはなりません。 余談になりますが毎年夏になると障害児者のことを取り上げて美しい物語を美しい言葉でドラマティックに放送する長時間のテレビ番組がありますが、頑張れる障害者はいいのですが、頑張れない障害者には出番がありません。逆に言えば障害があるというだけで、頑張る人だというステレオタイプを売り物にしているのですね。これと同じでうまくいったケースばかりを取り上げて、最善の方法であると考えるのは間違っています。 それで何を言いたいのかというと「親御さんにいろいろなことを求めるのは難しい」ということなのです。 親御さんは障害のある子どもの世話というか付き合っているだけで精一杯頑張っているのです。「もっと、頑張って拘縮の予防方法を習得しましょう」というのは、たとえ必要なことであっても親御さんにとっては、非常に苦しいことで、「これをしなければこうなります。」などと半ば脅迫されるように求められることは出来ないことを「やりなさい。なんでできないのよ」と責められているような気分になるのでしょう。 障害児の親御さんは自ら進んで障害児の親になった訳ではありませんから、普通の人なのです。普通の人が普通に出来る程度の求め方をしなければ、療育者は親御さんを責めてしまいます。結局、親を悪者にして親の悪口を言っておしまいということになります。 障害児の親は、特別な人ではありません。普通の人であるということを決して忘れてはいけないということです。 (3)通ってこられる子ども達から笑顔 を引き出します。 これが非常に重要なことであるというのはいうまでもありません。(1)に関連しますが、有効なコミュニケーションを獲得する以前の子ども達にとってというより、我々にとって子ども達の笑顔というのは子どもの気持ちを推し量るための数少ない手段のひとつです。 子ども達から笑顔を引き出すことを当たり前のことと理解しながら、我々は時々こういうことを否定します。それは「ちょっと苦しいことだけど、これは大事なことだから」といって笑顔を失うことを無視してしまいます。 あるいは、笑顔を失っているから意味があるのだと「頑張り」を肯定します。 ここで我々が考えなければならないのは、障害のある幼児が苦痛に耐えながら、頑張れるものだろうかということです。子どもに頑張る気持ちがあってもなくても、大人は求めますから結果的には「よく頑張りました。」という誉め言葉をもらいます。 以前、先天性の奇形で手の指がくっついて生まれた子どもが中学生になったときに話を聞いたことがあります。どういう状況であったかわかりませんが、指の分離手術をするときに麻酔がなかったそうです。幼児の頃の手術を中学生になっても鮮明に覚えているのは、よほど切なかったのに違いありません。 本人の意志と関係なしに大人は、麻酔なしの手術をして泣きわめく子どもを抱きしめて、終わったら「よく頑張ったね」と誉め言葉を投げかけます。 これは子どもが頑張らされたのであって、決して子どもが主体的に頑張ったというのではありません。手術も麻酔なしも、その子どもにとって必要なことだったのですから、どうこう言うものではありません。むしろ、こういうことを大人の役割として判断し、実行することが必要だと思います。 考えていただきたいのは、大人は子どもに頑張らせるのが好きだということです。そして、頑張らせていることを子ども自身が頑張ったことにすり替えているのではないでしょうか。 こういう頑張りからは、なかなか笑顔が生まれてこないものです。子どもはもっとシンプルに楽しければ笑顔に、切なければ泣き顔になるものです。 こういうことに関係なく笑顔も泣き顔も表さないのももっと問題です。 3 中部療育園の反省 (1)バラバラの取り組み 中部療育園は「ぐんぐんぱあく」として1年と数ヶ月が経ちます。この間、通園児にも、個別の外来児童にも先の(1)〜(3)を取り組んできました。 取り組んでおきながらことごとく否定するのはおかしな話ですが、どうも、今までのやり方は間違いではなかったかと反省しています。 通園児には、グループでのストレッチや保育を実施していますが、外来通園児(就学児)には個別の理学療法と時々、保育士が加わる程度でした。 先に述べたように、(1)〜(3)まではテーマとしては非常に重要なことだし、同時に美しい言葉でもあります。しかし、思ったほど効果が現れているように思いません。 なかなか効果が上がらないのは、やり方が悪いのであって(どうも、我々は効果が上がらないのを家族や本人の責任にしてしまいがちですが)どういう問題点があって、どういう点を反省しなくちゃならないのかを考えなければなりません。 こうやって考えてみると(1)〜(3)に取り組みながらも、それぞれをバラバラに取り組んでいたのじゃないか、あるいは、きちんと考えずに取り組んでいたのではないかと言うことです。 「もこもこ塾」は小グループでの訓練会ですから、○○グループとか△△組とか集団で扱います。しかし、子ども達それぞれの側から見たら、グループの一員ではありますが、アイデンティティは別々です。一人一人の子どもといいますが、子ども達の側からみると自分は一人なのです。そして先の(1)〜(3)は、一人の子どもを中心として、考えなければならないのです。 「子どもに理学療法を施す」、「家庭でも出来る方法を親御さんに伝える」、そして療育に際しては「子どもの笑顔を引き出す」というのに何の嘘もありません。まったく正しいことなのですが、これを別々の出来事としてではなく、ひとつの出来事として考えなければなりません。 ひとつのこととして考えるなら、ちょっと単純かもしれませんが、まず第一に「子どもの笑顔を引き出す」ことが最優先されます。子どもが笑顔を持って理学療法に向かえることが「関節の拘縮や変形を予防する」ことになるのです。子どもが笑顔を持って理学療法に向かい拘縮や変形が予防されることによって「親御さんに方法を習得していただく」ということが成立するのではないでしょうか。 こんなことは当たり前のことなのですが、これが案外できないで、それをなかなか成果が現れないというのが実証しています。 (2)子どもが第1という間違い 我々が子どものための施設であることから、子どもが第一というのは当然のことです。ところが「子どもが第1」という時に「じゃあ第2は?」とか「第3は?」と聞かれたらどうなんでしょうね。 2番目に親御さんとか家族とかを持ってくる人もいるでしょうし、「施設」と答える人もいるでしょう。でも、なかなか「自分」という人はいないと思います。 「子どもが第1」というのは間違いではないのですが、別の側面から見ると勘違いの原因になっているように思います。 それが先ほど述べた「自分」つまり療育者としての自分の存在です。我々は、子どもをなるべく客観的に捉えようとします。子どもと親御さんの関係も客観的に評価しようとするのです。このことも間違ってはいないのですが、そこに「自分」を設定するのを忘れると子どもとの関係が崩れてしまいます。 私は以前から子どもの療育は、子どもと療育者の相互関係の中で協力しあって成果のあるものだと主張しております。子どもが第1なのはよいことなのですが、「自分」が子どもとの関係の中からはずれてしまう、あるいは親子関係の中から外れてしまうと療育は、訓練に成り下がります。 療育と訓練がどう違うかというと議論が分かれてしまします。「理学療法の訓練」という表現もあるのですから、一方的に訓練が間違いで療育が正しいというものではありませんし、そう言葉に拘るものでもありません。 私が言いたいのは、子どもの療育とか訓練というのが関係の中で成立するということです。身近な例をあげれば、「療育者(訓練者でもいいのですが)の態度によって子どもの態度が変わる」という事実がこのことを物語っています。 これはラポールとかラポート、信頼関係というのと関係があります。常識で考えて信頼関係などというものがそう簡単に成立するものではないということを前提においてください。さらに、信頼関係は子どもを操作するための関係ではないということも考えてください。だのに我々は、子どもを操作できることで信頼関係が成立したと勘違いしてしまっているところがあると思います。 こんな風に「子どもが第一」とはいっても、子どもと自分の関係を忘れて、つい自分を関係の中からはずしてしまうと子どもにとって療育者は「指示や命令をする面倒な人」になり、療育者にとって子どもは「言うことをきかない面倒な子ども」になってしまうのです。 (3)子どもの代弁者としての親御さん 我々は親御さんに拘りすぎているように思います。親御さんに拘ることは別に問題のないことですし、重要なことだと思いますが、拘りすぎると子どもがいなくなっちゃうような気がします。 先に述べたように何か都合の悪い傾向があると親御さんの責任にしてしまうのが典型です。常日頃から「親の悪口を言ってはいけない」とスタッフに言ってきましたが、実のところ、私自身も一緒になって親の責任を問うていたような気がします。 療育に携わる上で重要なことは、通園なら通園している時間(例えば9時から15時までとか)を最も大切にしなくてはなりません。我々がその子どもと対面している時間が勝負であって、家庭とか親御さんとかはその背景でしかありません。 家庭での対応が不十分であっても、それを補うくらいのつもりで対面している時間を大切にしなければならないのです。 ひとつはこれを忘れていたのかもしれません。 何故、こういう大事なことを忘れてしまうのかというと、我々の対象となっている子ども達があまりにも依存的で非常に多くの援助を必要としているからだと思います。 児童福祉法では保護という言葉を使いますがこれが介助でも援助でもいいのですが、介助の割合が高いと介助している側はなんとなく、その子を支配しているような気になってしまいます。「そんなことはありません」と反論される方もあると思いますが、重度の肢体不自由と知的障害で身体的にも脆弱で動くこともままならない小さな子どもは、生きているというより生かされているのに近い場合があり、知らないうちに我々は、その子どもの生命さえも支配してしまっているのです。そういう子どもこそが頑張らされることが多いのです。 このような子ども達の代弁者として親御さんは機能しなくてはいけないのでしょうが、実際に代弁者となっているのかというと、なっている時もあるし、なっていない時もあるってことです。必ず代弁者になっているということじゃないのと同じように必ず支配者になっているということでもありません。 子どもがもっといろいろと語ってくれれば、こういうことは起こらないのですが、子ども達の多くはあんまり語ってくれません。ですから、代弁者でありながら支配者であり、同時に最愛の人である親御さんが間違いを犯してしまうのではないでしょうか。ところが我々は、親御さんを常に代弁者であったり、常に支配者であったりと勘違いしてしまって、肝心の子どものことが二の次になってしまったのじゃないかと思うのです。 4 中部療育園は「もこもこ塾」で何を するか (1)集団の中の個別的配慮 「もこもこ塾」は小グループでの訓練会ですから、○○グループとか△△組とか集団で扱います。しかし、子ども達それぞれの側から見たら、グループの一員ではありますが、アイデンティティは別々です。かといって個別に付き合うのなら集団で個別の理学療法をしているのと同じです。集団を編成したことにはそれなりの意味があって、「一人じゃつまんないけど、みんなとだと楽しい」ということがあります。 こういうときに重要なのが「集団の中の個別的配慮」です。たとえ、「集団の中にあっても自分はちゃんと見守られているのだ。」という意識を呼び起こすことが重要です。一番、簡単な方法は、ちゃんと名前を呼んであげることです。そして、誉めたり共感をしたりすることが基本的な個別的配慮のスタートです。 そして、「よく頑張ったね」という評価も大事ですが、「楽しかったね」「面白かったね」という共感の方が意味を持ってきます。療育者にとって「頑張ったね」は評価する自分です。「楽しかったね」は共感する自分であることを忘れないでください。 (2)関係の中の自分 次の親御さんとの関係ですが、先に述べたように子どもと親御さんの関係を考えるときに自分がその関係の中に入っていることを忘れないようにしなくてはなりません。親御さんとお付き合いする時にこれを忘れてしまうと「先生」などと呼ばれて「先生」になったような気分に陥ってしまいます。ただし、ここでもっと重要なことは、我々は親子関係の中に入ると言っても、あくまでも療育者、中部療育園の職員として関係しているのですから、「わきまえ」というか「心構え」がないと親御さんや子ども達との関係で相手の気持ちに土足で踏み込んでしまうようなことになりかねない危険が潜んでいることを忘れてはなりません。 (3)笑顔の重要さ 子どもの笑顔を引き出すのは、設定や配慮が重要ですが、それだけではありません。何よりも療育者の笑顔だと思います。我々は子どもが笑顔を見せていると自然と笑顔になります。同じように療育者が笑顔であれば、子ども達も笑顔を見せてくれるのではないでしょうか。 このあたりがプロと優秀なアマチュアの違いです。アマチュアは楽しいときに笑顔を見せますが、プロというからにはどんなときでも笑顔を見せられる練習をしておかなければなりません。演技でも作り笑いでも相手が笑顔だと認めてくれればよいのですから、技術としての笑顔で十分です。決して心からの笑顔が必要だとは思いません。 (4)頑張らない、頑張らせない 頑張れる子どもや親御さんには頑張ってもらってよいのですが、頑張れない子どもや親御さんには頑張ってもらう必要はありません。 出来ることを出来るところまで普通に取り組んで、そして更にその上を目指すために必要な子どもや親御さんの意欲を育てるのは療育者の役割です。そしてイザという時に頑張れるようにするのも療育者の重要な役割です。 (5)話し合いの重要性 子どもの主体性の尊重を主張すると「子どもの言いなりになることは出来ない」という反論が帰ってきますが、「言いなりになる」ことと主体性の尊重は違います。 「言いなりになる」のは支配されることですから、子どもと療育者とは平等の関係ではありません。同じように療育者が子どもを命令・支配しようとすることは、主体性を無視したことになります。先に述べたように子どもと療育者は協力し合って成果を上げるのですから、関係は平等でなくてはなりません。 ですから、主体性を尊重しようとすると子どもと意見が一致しないときに「話し合い」が必要になります。 子どもと話し合ってきちんと結論が出せる場合はいいのですが、ちゃんと意思表示できない子どももいますから、そういう時に子どもの代弁者としての療育者の役割があります。従って、療育者は自分の中にある代弁者としての療育者と話し合うということになります。たいへん、難しいことですがこれが重要なことです。 そして主体性を育てることが子どものやる気を引き出す一番の近道です。 5 おわりに 何故、中部療育園が「もこもこ塾」を開始するに至ったかというと、ここで述べたことが閉鎖された個別の理学療法では困難だと判断したからです。子どもは子どもの中で育つのですから、子どもの療育も子どもの中で行われるべきだと考えたのです。 中でも親御さんへの期待は、どんなに心を込めて説明しても親御さんを苦しめることにしかならないという気付きもありました。親御さんに対しても子ども達と同じように主体性を尊重することで「やる気」が育ってきます。 現在まで、我々は親御さんに拘りすぎ、「親が変われば、子どもが変わる」という迷信に惑わされていたようです。これを「子どもが変われば、親が変わる」という真実に気付き、その方法こそが我々の方法だと思います。 「もこもこ塾」を通じて我々の療育のあり方を見いだしていくことこそが、他の療育機関と中部療育園の違いを明確にしてくれることだと思います。 ここで述べたことは、言われて見れば当たり前のことばかりだと思います。この当たり前のことをなかなか普通に出来るもんじゃない、出来なかったというのが「もこもこ塾」のスタートとなるのです。 そのような反省を込めて、思い付きを並べ立てた冗長な文章ですが、「もこもこ塾」の開始に当たって我々の心構えとしたいと思います。 「必要なのは対話です。恐れることは何もありません。我々の中にこそ未来があります。」 ミッシェル・バレ |