文字ばっかりのホームページは面白くない!!
違うことを書きたかったのだが 文章が冗長になって違う方向にいってしまった (2002年11月17日) |
私が知的障害児施設で職を得ていた頃、県下で障害者がパソコンを使って情報の交換をしようという事業があった。ところが対象になったは盲ろうあ児施設と肢体不自由児施設だけで私のいた知的障害児施設は対象外となってしまった。 別に問いただした訳でもないが、県庁の担当者は、知的障害者はパソコンを使えないだろうとの判断であった。まあまあ納得の行く理由ではある。 その後、同じようなことがあった。盲ろうあ児施設に異動後、園長の代理で全国の施設長会に出席したときのことである。会議は部会に別れて、盲ろうあ児施設長が集まった。いくつかの議題が終わり、時間つぶしになってしまった時、議長の提案で「各施設の近況をお知らせ下さい」とのことになった。 当時、私は盲ろうあ児施設に異動後二年目を迎え、入所児童に一人一台のパソコンをを用意し、LANケーブルを施設内に張り巡らせ、各児童に個別のEメールアドレス、インターネットが自由にできるという環境を設定しおえたときだったので、嬉々として「我が施設は…」という調子で全国の施設長さん方に報告した。 当然、皆が驚いた。ひとつは、たとえ県立県営といえどもそこまで出来ているというのは、驚異だったのだろう。もう一つの驚きは、このような質問であった。「入所児童の皆がパソコンを使いこなせるのですか?」というものだった。 これは面白い反応である。「知的障害者がパソコンを使えるか?」「視覚障害児や聴覚障害児の皆がパソコンを使いこなせるのか?」ということなのだが、 仮説としては「知的障害者はパソコンを使えない」、「盲ろうあ児施設入所児童はすべてはパソコンを使いこなせない」ということことになるのだ。 私のいる盲ろうあ児施設の子どもたちで、パソコンを使いこなしている子どもは一人もいなかった。しかし、実際には使っていることは間違いないのだ。 「使いこなしているのか?」と質問されたら、多くの人々が否と答えるだろう。私自身もパソコンを使い来ないしているとは決して思っていない。しかし、パソコンは仕事を含め必需品になっている。「パソコンを使いこなす」ということと「パソコンを使っている。」というのは言葉のあやとはいえ明らかに違いがあるということなのだ。 先の「知的障害者はパソコンを使えない。」という仮説についても同様である。世界中でなどと大げさなことを考えなくても、我々の周囲の身近な人々の中にパソコンを使えない人はたくさんいる。そしてその人たちが知的障害者であるということはありそうにない。 これら障害者がパソコンを使うことに関してのエピソードは単なる誤解である。障害者であってもパソコンを使っている人もあれば使えない人もある。障害者でなくてもパソコンを使っている人もあれば使えない人もある。 まして、「使いこなしている」などと言う人は一部のパソコンマニアぐらいなものなのである。使いこなさなくても使うことは可能なのだ。 障害者の側から見れば、障害者が特別視されているということなのだろう。 もう一つはパソコンに対する誤解がある。パソコンを使うあるいは使いこなすことは高度に知的な作業で多数の知識と経験が必要だと勘違いしている人々があるということだ。これらが複合して、障害者とパソコンに関する誤解を生んでいるのだろう。 障害がある、児童が使う、ということだけでも確かに課題は多い。入所児童に各1台のパソコンを設定した頃、毎日のように子どもたちのパソコンの修復に追われていたものだ。しかし、やがて子どもたちがパソコンの使い方が解ってくると修復よりも使い方を質問してくることの方が増えている。その後、子どもたちが使いこなせるようになったかというとそんなことはない。ただ、パソコンを使っているだけである。 ここでパソコンを使うというのは、インターネットでホームページを閲覧したり、Eメールを交換すると言うこと。また、CD化された英語や日本語の辞典を検索して日々の学習に反映するという程度である。元々「パソコンを使いこなす」というのがどういう程度のことを言っているのか基準がないこともあるが、どの子も決してパソコンを使いこなしてはいなかった。 子どもたちにパソコンを使いましょうと大人が言うときに必要な前提がある。子どもたちは仕事でパソコンを使うのではない。学習に反映するといっても代替えの方法がある(ただし、点字の英和辞典はA4サイズ暑さ8センチ程度が72巻もある。パソコンならCD一枚でしかも音声対応である。)。 つまり、子どもたちがパソコンを使うことは特に生産性を必要としていない。パソコンを使えるようになっておけば、将来、就職や進学に有利であるというようなことはある。しかし、ホームページを閲覧したり、Eメールを交換したり、あるいはチャットに興じるようなことが就職に有利になるとは思えない。ほとんどの場合、職業についてからパソコンを使うようになるのだから、それからパソコンに向かっても遅くはない。むしろ、世間の多くの人はそうやっている。 パソコンに対する純粋な興味やホームページやEメールへの意欲がパソコンに向かわせるのである。私の先輩で、先の施設情報化事業に関連して自分もパソコン通信のIDを取得したが、自分には「誰からもメールが来ない。あなた、私にメールをくれないか」と頼んでいた人がいた。 先輩の場合は、仕事の一環であるから仕方ないとしても、子どもたちにとっても同じことでパソコンに向かう価値や意義がなければパソコンに向かうことはないのだ。 これこそフレネ教育法の基本原理である。チャットが楽しいからキーボードに向かい、Eメールが来ていないかと期待してパソコンの電源をオンにするのだ。当然、キーボードへの入力が鮮やかに出来なければチャットは面白くない。メールソフトの使い方が解らなければメールの交換もできないということなのだ。 こうやって、子どもたちは自分の価値や意欲に基づいて、仕事とかどうなるか解らない将来の為ではなく、自分の基準に従ってパソコンの操作を覚え、発見していったのである。 もう一つの前提が必要だ。パソコンを使って操作を失敗するということがある。その時にもしも壊れても、大丈夫という大人の態度である。パソコンは高価なものであるから壊しちゃダメというのは当然のことであるが、失敗をして壊れたときに安心して修復や修理が出来るというのが重要な要素である。 もしも、壊れても修復が出来ないのならばパソコンに向かうものは慎重にならなければならない。使ってもよいということは壊してもよいということではないが、そのような可能性を持っているのは間違いない。どうあっても壊れてはならないというのなら、使わせてはならないのだ。これは大人の責任であって子どもの問題ではない。 この文章は障害者とパソコンのことを綴りたかったのかというとそういうことではない。 私が経験した知的障害児者への誤解を通じて、障害者全般への誤解を考えてみようと言うのだ。 もうひとつの私の経験は、もうちょっと解りやすい。 ある知的障害者更生施設が体育館を建設して欲しいと予算要求をした。その施設が開設して10年目のころのことである。県の予算要求というのはちょっとしたゲームというか詐欺師みたいなところがあって、必要性について説得できたらいいのだ。 勿論、説得できても金がないという理由で予算が付かないということもある。しかし、説得できないような要求に予算がつくわけがないのは当たり前だ。 施設の方も施設の予算をとりまとめる県庁の担当課も、各々の立場で説得を試みる。施設は担当課を説得し、担当課は財政担当課を説得するのだ。 その流れの中で体育館を建設しようと言うので、あれこれ説得の方法を考えるのである。担当課が財政担当課を説得するための資料作成に悩んでいた時に私がたまたまその課を別の用事で訪れたのである。親しくして頂いていた課長補佐が「知的障害者更生施設の体育館の必要性。つまり、知的障害者が運動をしないとどうなるのか?という資料を作りたいのだが…。」と訊ねてきた。 私は「うーん、知的障害者に運動の必要な理由ねぇ。運動をしないとどうなるのかってことですね。」 私は「そりゃあ あんなふうになるのですよ」と課長補佐の目の前に座っていた係員を指さした。その係員は、体重100キロ近くはあろうかという肥満体で、見るからに不健康そうな体つきなのだった。 ここでも知的障害者は、特別なのだ。知的障害者でなくても必要なだけ運動をしなければ誰でも肥満になるであろうし、運動をしないということだけでも不健康なことなのだ。 勿論、施設であるとか知的障害者であるという特殊な理由はある。例えば、知的障害者施設では、利用者に対して、どうしても報奨を食べ物で用意してしまう。「頑張ったから、おいしいものを食べよう」、「もうちょっと頑張ったらお昼ご飯ですよ」などというものや、自由がある程度制限されている状況で、自覚して運動に向かう事が乏しいのは否めない。誘導や支援が必要なのはいうまでもないが、基本的には運動不足というのが知的障害者にだけ特別な悪影響を及ぼすということはない。 パソコンの例も運動不足の例も、どちらも悪意があってのことではない。先のは施設長なのだから、こういうことの専門家なのだ。さらに福祉行政に携わる人々でさえちょいとした勘違いをしている。 ただ、もしかしたら施設長や行政にとっては、障害者が特別な人々である方が都合がいいのかも知れない。予算要求についても普通の人と同じですでは説得力に欠ける。特別な手当が必要なのですと言う方が予算の獲得は容易い。施設長にとっても同様で寄付や慰問を受けるとき、この子らが特別な子どもたちでなければ利益の導入が難しくなる。 私自身、、施設で働いていて施設外の人に親切にされたり、寄付を受けたりするときには、可哀相な子どもたち(こんな言葉は使わないが)と共にいる施設職員を演じる。更に、子どもたちが何か悪いことをしでかしたときは、へっちゃらで障害を理由にして謝ることもある。 これも大人の都合なのだが、ある時は普通の人と同じ、ある時は(可哀相な)障害児を演じさせられる子どもたちはどう思っているのだろう。 この項おわり |