「西遊記」を読み続ける 1977年(昭和52年)というから 今から26年前のことです そのころ私は県庁に勤めていました。夕方5時に仕事が終わって6時過ぎの列車に乗るため駅までの15分ほどの道のりを歩いて帰っていました。途中、数件の書店があり日によっては違った店に立ち寄って 立ち読みを続けていたのです。そのときに目に留まったのが「西遊記」(「小野忍」訳、岩波文庫)でした。全十巻とありましたが店頭には第一巻しかなくて、続きを読みたくて書店に問い合わせたのですが、残りの9巻はこれから順次発行して行くとのことでそれきりになってしまいました。
その後、岩波文庫の「西遊記」は2〜3年に1巻のペースで刊行されて行くのですが、途中訳者の急逝もあって、実に21年という歳月がかかってしまうことになるのです。
三蔵が長安から天竺までの旅に要した歳月が14年とのこと。日数にして5千と40日なのですから、それよりまだ長い歳月が費やされているということです。岩波書店 岩波文庫
西遊記 1 小野 忍 1977年1月17日
西遊記 2 小野 忍 1978年5月16日
西遊記 3 小野 忍 1980年2月18日
西遊記 4 中野 美代子 1986年2月17日
西遊記 5 中野 美代子 1988年2月16日
西遊記 6 中野 美代子 1990年3月16日
西遊記 7 中野 美代子 1993年2月16日
西遊記 8 中野 美代子 1995年5月16日
西遊記 9 中野 美代子 1997年11月17日
西遊記 10 中野 美代子 1998年4月16日
私の方はというと書店で見かける度に手に入れていたのですが、5巻を読んだところでどうしても続きが読みたくなってしまいました。5巻というと全百話のちょうど中間と言うことで平凡社刊の「西遊記」(太田辰夫、鳥居久靖訳)を図書館で借りて続きを読むことにしました。
その後、岩波文庫が全十巻を刊行し終わるまでもなく、岩波版や平凡社版を何度も読み続け すでに20回くらいは読んだと思っています。そして今も時々 読み続けているのです。
中国の古典文学といえば 「三国志」や「水滸伝(すいこでん)」が有名ですが、それと同じく「西遊記」も江戸時代から読み次がれているようです。まさに講談のスタイルをとって、短い逸話を語りつないでゆくという手法が楽しめる理由なのでしょう。中国古典文学にはこのほか、「児女英雄伝」や「三侠五義」、「平妖伝」という面白い読み物もあります。
「児女英雄伝」は、中国の女忍者が現れて縦横無尽の大活躍をするという活劇であるとともに、中国の官吏試験風景などが表現されていてなかなか面白く読みました。「三侠五義」は文字通り3人の侠客と5人の義士の話ですね。これも活劇の部類です。「平妖伝」 は卵から生まれた和尚が狐の妖怪と組んで反乱を起こすという痛快な読み物です。
こんな風に中国古典文学が面白くなって 「聊斎志異(りょうさいしい)」、「唐代伝奇集」「今古奇観」などを読みました。勢いに乗って「金瓶梅(きんぺいばい)」と「紅楼夢(こうろうむ)」に挑戦しましたが、「金瓶梅(きんぺいばい)」はまだしも「紅楼夢(こうろうむ)」 の単調さには根性が続かず途中で断念しております。
何故か、「三国志」には興味が引かれず、いまだに読んでおりませんし読もうとも思いません。きっとポピュラーすぎてあらかたストーリーが分かってしまっているからだとおもいます。
この類で最後に読んだのは「封神演義(ほうしんえんぎ)」ですね。これは少年ジャンプの連載で評判になってやっと中国古典文学として日の目を見たというところがあります。江戸時代の講談で題名は忘れたのですが「だっきのお百」という悪女が登場するのですが、それが上方落語の「地獄八景亡者の戯れ」で三途の川の渡し船の場面で引用されるのです。この「妲己(だっき)」の出典が分からなかったのですが、「封神演義(ほうしんえんぎ)」で皇帝を惑わせる悪女中の悪女として、物語の中心をなす人物です。
閑話休題
西遊記は時代を超えたベストセラーとでもいうのでしょうか、全体の講談調がリズムよく、しかもエピソードが区切られていてどこから読み始めてもどこで読み終わっても そこそこ楽しめるというのが読みやすさになっているようです。
今でこそ活字印刷で読めるので、岩波文庫は全10巻、平凡社でも上下の2巻で終わってしまうのですが、元々は一話一巻で全100巻ということなのでしょう。
子ども向けにはダイジェスト版が多数出版されているようですが、私も子どもの頃には子どもにしては分厚い西遊記を読んだ記憶があります。
それは、花果山水簾洞(かかざんすいれんどう)から天界、釈迦(しゃか)に懲らしめられて五行山(ごぎょうざん)の下敷きになり、やがて玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)に帰依してのち、猪八戒(ちょはっかい)と沙悟浄(さごじょう)を下して、金角銀角(きんかく・ぎんかく)と戦って後に天竺(てんじく→インドのこと)にたどり着くというものでした。
同じダイジェスト版でも牛魔王(ぎゅうまおう)が現れるのもありますが、火焔山(かえんざん)と併せて有名なエピソードです。
西遊記の全編を読んでみると金角・銀角や牛魔王に負けないくらい楽しいキャラクターが現れています。西遊記の中に登場する悪役というのは、どこか間の抜けたキャラクターが多くて強いのか弱いのかよく分からないようです。
物語の中では、孫悟空一行が自力で解決するというエピソードは少なくて、ほとんどが誰か神仙(神様や仏様 観音様)の手助けを得ているのも面白いのところです。
先にでた金角・銀角は大上老君(たいじょうろうくん)の炉の番人で天上界を抜け出して地上におりたとのこと。孫悟空一行にやっつけられたところで大上老君が現れて天上界に連れ帰るということになる。
その他にも観音菩薩(かんのんぼさつ)の乗り物である獅子が檻を抜け出して地上におりて悪さをして、孫悟空一行に出会ってやっつけられ、観音菩薩が出迎えにくるというこのようなエピソードはたくさんある。
どの妖怪もちょいと地上におりていたずらをしただけだよっていう感じで気軽に悪さをしているが、孫悟空と出会ってやがて主人や飼い主が現れて連れ戻されるというパターンとなっていう。
いくつもあるエピソードの中でも私のお気に入りと言うところがある。
ひとつは、金角・銀角と戦う場面で孫悟空が妖怪の手下に化けて、金角・銀角の義理の母(これも妖怪で九尾の狐)に会いにゆく場面です。
彼は妖怪の前にでて、はらりと一筋の涙を流します。「おれは好漢をもって、みずからを任じ、これまでに人を拝した(礼儀として相手を拝むこと)のはお釈迦様と観音様、師匠である三蔵法師の三回だけだ。いまこの妖怪の前に出て、ひざまずいて拝まないときっと感づかれるだろう。これも師匠(三蔵法師)に出会ったからこそ…それもここに至っては。やむを得ぬ」と妖怪を拝むことになるのです。
男一匹、何故 おいらがこんな妖怪を拝まなくちゃならないのかと悔しい涙を流すというわけですね。それも金角・銀角に捕まっている師匠を助け出すためには、やむを得ないというのは孫悟空のあっぱれというものなのでしょう。
物語はこの後、孫悟空は妖怪の義理の母である九尾の狐を誘い出して、直ちに如意棒の餌食にしてしまいます。そして九尾の狐に化けた孫悟空は金角・銀角に拝まれるという逆転で溜飲をさげるということになります。
もうひとつのお気に入りのエピソードは第57回と58回ですから後半の最初に登場します。三蔵法師は、猪八戒にそそのかされて、孫悟空を破門にします。孫悟空が花果山水簾洞(かかざんすいれんどう)に帰ってしまうと、その間にニセ孫悟空が現れて、通行手形を三蔵法師から奪ってゆくのです。あれこれの経過でニセと本物が戦いを始めるのです。
話は飛びますが西遊記は、講談ですから三人称で表現されています。ですから、本物とニセ物の孫悟空は見分けが着かないということになれば、物語の中ではどっちが本物というのは解らなくなります。
お釈迦様の前に呼び出されて本物とニセ物の区別をつけるということになりますが、物語では 六耳{犬彌}猴 (りくにびこう)という猿の種類が孫悟空に化けていたということになり、正体を見破られたニセ物は孫悟空に一撃の下に退治されてしまいます。
物語の前後を考えればこれは孫悟空の中の悪性と善性との戦いなのでしょう。
つまりよい心と悪い心が戦ってよい心が勝つということになります。私としてはこの後の西遊記が痛快ではあっても少し物足りなくなってしまうのは、孫悟空が悪性を殺してしまうことで、本物のスーパーモンキーに変身してしまうことにあります。
西遊記に登場する孫悟空がトリックスターと考えれば悪性のないトリックスターなど興味が半減してしまいます。ただ、物語としてはいつまでも悪性の抜けないまま天竺(てんじく)にたどり着いても 正果を得ることは難しくなりますよ
他にもお気に入りの場面やエピソードはたくさんあるのですが、それはまた次の機会に譲ることとして、読書の秋にご一読をお勧めします。
余計なことかもしれませんが、仏教の入門書として読み解いてみるというのも面白いようです。
また、道教の世界観や中国の風習や文化を知る上でも興味深い物語だと思っています。
2003年9月28日 この項 おわり
この他 西遊記に関しては 訳者 中野美代子さんの著作がたくさん出版されていますが、文献を読む前にやはり西遊記本編を一読されるのが一番面白い。