2004年11月8日 |
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壇ノ浦合戦で平家を滅ぼした功もむなしく兄頼朝に憎まれた九郎義経は、兄との決戦を避けるため京の都をあとにします。文治元年(1185年)11月のことです。西国目指して船出した九郎一行は不運にも嵐に遭い、わずかな手勢とともにひとまず吉野へ逃げ込むことに。しかしすでにこの地も鎌倉の息がかかっており、義経主従を受け入れてはくれません。愛する静御前とも別れ、大事な郎党・佐藤忠信を失い、九郎は孤独と悲しみにさいなまれながらさらなる逃亡の旅を続けるのです。 古来より日本有数の桜の名所として知られる吉野山は、われらが源義経や南北朝の楠木一族など苦境に立たされ流れてきた者たちの数々の悲話が伝わるシビアな歴史の舞台でもあります。また吉野・金峯山寺は役行者によって創建された修験道の聖地で、ここから大峯山を越え紀州へと抜ける「熊野古道」は2004年にめでたく世界遺産に登録されました。 |
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奥千本・金峯神社(きんぷじんじゃ) 近鉄吉野駅からロープウェイ・マイクロバスを乗り継ぎ、まずは一気に奥千本まで乗りつけます。そうすれば歩きはすべて下りになるのでラクチン。逆に吉野駅から奥千本をめざす場合は全行程が上り坂(しかもけっこう急勾配)になるので、健脚自慢の方以外にはとてもおすすめできません。ラクすることばっかり考えている私はこの地でさんざん苦労した静御前や義経主従に顔向けできませんな…。 バスは20分ほどで終点・奥千本口は金峯神社前に到着します。金峯神社は吉野の地主神である金山毘古命(かなやまひこのみこと)を祀っています。 |
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奥千本・義経隠れ塔(蹴抜けの塔) |
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上千本・花矢倉(はなやぐら)展望台 落ち延びてゆく義経主従をひとり見送る男がいます。追手をまくため主の身代わりを志願した佐藤忠信その人です。主の鎧をわが身にまとい男忠信、命惜しまぬ大奮戦。豪腕・横川覚範はじめ次々現れる難敵を倒し、何とか吉野を脱出して京へと向かいます。が、そののちかつて主従で暮らした堀川館跡にて追手に囲まれ凄絶な自害をとげることに。屋島で九郎をかばって死んだ兄の継信同様、忠信もまた奥州の地をふたたび踏むことなく主のために若い命を散らすのでした…。 写真は、忠信が追いすがる衆徒らに矢を放ったという吉野が見渡せる絶景スポット、その名も芳しい「花矢倉」展望台。忠信はしかし当然その眺望を愛でる余裕のあるはずもなく(しかも季節は真冬)、迫り来る敵をここからきびしいまなざしで見据えていたことでしょう。 |
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佐藤忠信花矢倉の石碑 花矢倉展望台からすぐ下の道路わきには忠信の戦いを標す石碑があります。藪の中にひっそりたたずむひかえめなその姿は、忠臣・佐藤忠信の謙虚にして実直な姿にも重なります。少し降りた場所には花見用の小屋と忠信の戦いをくわしく解説した案内板も立てられています。 |
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横川覚範(よかわのかくはん)供養塔と首塚 上千本から中千本にかけて、ものすごい九十九折の坂道をくだります。きちんと舗装されて車も通れるきれいな道ですが、これを登るのはあまりにもキビシイ!奥千本からくだるルートを選んだのは正解だったとつくづく思いました… その九十九折の一角にあるのが佐藤忠信と戦った吉野衆徒・横川覚範の供養塔(手前)と首塚(奥)。身の丈六尺(180センチ)の巨体に黒ずくめの装束で忠信の前に立ちふさがったこの男は、乱暴者のため生まれ故郷の紀州を追われ東大寺や比叡山の横川(よかわ)を転々としたあげく吉野に流れ着いた剛の者。どこか弁慶に似ているプロフィールです。この男、サシの勝負にこだわる体育会系熱血野郎で、弓で太刀で忠信と死闘を繰り広げます。やがて谷に逃げ込んだ忠信のあとを追って飛び降りたところを待ち構えていた忠信に討って取られるのでした。このくだりは『義経記』でも特に手に汗握るハードボイルドな名シーンのひとつ。 ちなみに首塚と供養塔の間にある岩は「山伏匿岩(やまぶしかくれのいわ)」といい、追われる義経がこの岩陰に身を隠したそう。 |
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中千本・勝手神社(かってじんじゃ) 中千本までおりてくると、ようやくおみやげ物屋さんや宿泊施設がずらり軒を連ねるにぎやかな通りに入ります。その一角に「勝手神社」があります。ここは義経と別れてさまよっていた静御前が衆徒らにつかまった折、乞われるままに悲しみをこらえつつ舞を奉納した神社です。謡曲「二人静」の舞台でもあります。さらに歴史をさかのぼれば、吉野に逃れていた大海人皇子(天武天皇)がここで琴を奏でたところ天女が山からおりてきて楽に合わせて舞ったというロマンチックな伝説もあります。 |
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勝手神社・舞塚 |
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吉水神社 |
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吉水神社・弁慶力釘 義経あるところ弁慶あり!トンデモ史跡ももちろんあり…境内の隅に弁慶力釘なる岩が置かれてます。よくよく見ると太い釘の頭がめりこんでいるのがわかります。いったい何がやりたかったんですか弁慶さん。主の不遇を嘆くあまり頼朝のワラ人形でも打ち込んでたか?いや弁慶はそんな陰湿なことしない、男らしく直接暴力に訴えるハズ。どっちにしろダメだろ。 |
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吉水神社・義経潜居の間 吉水神社の書院は初期書院造の特徴がよく残された重要文化財で、室内にもたくさんの宝物・古美術を蔵しています。 写真は「義経潜居の間」といわれる室町初期の改築です。ここですごした数日の間に九郎は郎党たちと今後の身のふり方を考えたり静といちゃついたり弁慶に「ええかげんにしなさい」と怒られたり、いろいろ忙しかったことと思われます。 書院見学\400/営業時間9〜17時/冬季不定休 |
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吉水神社・弁慶思案の間 潜居の間の隣にある一畳敷きは「弁慶思案の間」と名づけられています。弁慶はわざわざこんな小さな空間に巨体をつめこみひとり何を思案していたというのでしょう。やはり今後の苦難を思い、主義経を何があっても守り抜くべく決意を固めていたのでしょうね。案外「ハラへった〜」「メシ食わせ〜」とか煩悩まみれなこと考えてたりして。 |
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吉水神社・伝義経の鎧(重要文化財) 潜居の間に飾られている伝・義経着用の鎧「色々威腹巻(いろいろおどしのはらまき)」。時代を経ても見劣りしない見事な細工にうっとり…したいのはやまやまなのですが、あのうコレ…幼児用ですか?五月人形でよく見かける「お子様もお召しいただけます」という鎧みたい。いくら義経が小さいからってあんまりだ!私は義経はチビでも全然かまわない派なのですがこれはさすがにフォローできない。どうみても成人男子が着用できるもんじゃありません。 |
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吉水神社・弁慶七つ道具 潜居の間から奥へ進むとさまざまな宝物が展示されています。まずは弁慶の七つ道具のうちから槍をいくつかセレクト。長くて写真に納まりきらない…こんなものを弁慶ら僧兵たちは自在にふりまわしていたんですね。 |
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吉水神社・弁慶の籠手 お次は弁慶の籠手です。さすが大きい!その奥は義経の鐙。右横にちら〜っと見えているのは静御前の鎧(腹巻)です。 |
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吉水神社・佐藤忠信の兜 佐藤忠信のものと伝わる兜。義経逃避行最初のビッグステージ・吉野山における一番のヒーローはまちがいなくこの佐藤忠信でしょう。 |
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吉水神社・義経の書 義経自筆のものと伝わる書。何と書いてあるのかはよくわかりませんが、義経らしい流れるような勢いのある筆致です。別の間には弁慶の手によるという掛け軸も残されています。こちらは案外お行儀よく整った字でした。 |
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吉水神社・義経と静の別れ 書院の庭には義経と静の別れを標す碑が立っています。吉野山は女人禁制の修験の地、それでなくても女の足には余りに過酷な道のりです。そのうえ弁慶とかが「女をつれていくなんて…!」とやたらブーブー言ってます。悩んだ末義経は静を帰すことを決断、静は泣く泣く吉野をあとにするのでした。日本史上に燦然と輝くベストカップルの、ここが今生の別れの場でありました。再会を誓い合いつつもお互いもう二度と合えないことを察していたであろうふたりの悲しみを思うと胸がふさぎます。 |
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吉水神社・義経の馬蹄跡 義経にまつわる史跡は境内周辺にもいくつか残されています。特に表示はありませんが受付の方が親切に教えてくれます。境内を出たところには「義経馬つなぎの松」の跡が。そしてこの写真の岩は「義経の馬蹄跡」といわれるものです。よく見れば岩の表面になるほど馬の足跡のようなくぼみが点々とついています。追われる義経がこの垂直の岩を馬で駆けのぼって逃げたとか。逆落としならぬ逆のぼり…?ルパン三世ですかあなたは。蹴抜け塔の人間ビックリ箱といい、「絶対ありえん!でも…ひょっとして」とついマンガチックな期待を抱かせてくれる九郎さんはやはりタダモノではありません。 |
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金峯山寺(きんぷせんじ)・蔵王堂(国宝) 吉水神社から門前町をしばらく歩くと吉野のランドマーク「蔵王堂」にたどりつきます。 東大寺の大仏殿に次ぐという巨大木造建築は高さ34メートルの重層入母屋造。その威容を秋のすがすがしい青空に伸びやかに誇っておりました。 『義経記』によると義経と別れた静御前は供の男らにも見捨てられ、ただひとり雪の吉野をさまよい歩き疲労困憊の末、蔵王権現の灯りを見つけてようやくひと心地つきます。文治元年11月17日のことです。静はここでいったん捕まるものの、執行(お寺のえらい人)の宿に泊めてもらい、翌日母親の住む京都の北白川まで送り届けられるなど、終始大事に扱われました。静御前のいたましくも凛とした姿に荒くれ者の僧兵たちも心を動かされたのでしょう。 |
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金峯山寺・仁王門(国宝) 蔵王堂と対をなすようにひときわ巨大な姿(約20メートル)を見せているのが仁王門です。蔵王堂が南向きに建てられているのに対し、この仁王門は北向きの構え。和歌山方面(大峯山)からの修行者、京都方面からの修行者どちらもを受け入れるため、あえて正反対の向きに建てられているのだそうです。 |
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藤尾坂 仁王門から続くゆるい坂道は「藤尾坂」といいます。昔はここに女人結界があり、地名の「藤尾」は「不浄」から転訛したものだそう。静は義経と別れ雪道を一晩さまよったのち、蔵王権現の灯りを頼りにこの藤尾坂を上っていったといわれています。 |
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黒門 藤尾坂から銅(かね)の鳥居をすぎるとまもなく吉野の総門である黒門です。ここをくぐればすぐロープウェイ乗り場、吉野の旅も終わりです。来た道を振り返り振り返りゆるやかな下り坂を歩いていると、義経の行く末を恋いつつひとり立ち去る静御前のせつない胸中がしのばれる気がしました。 |
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自作マップ(かなり略図です) 周辺マップ (地図サイズ「大きい」にすると見やすいです) |
吉野町役場 金峯山寺 近畿日本鉄道株式会社 |