名場面の宝庫!源平・屋島古戦場
2004年3月13日

 一ノ谷合戦に勝利したのち、兄・頼朝の不興を買って京都で干されていた九郎義経は、西海にて勢いを盛り返してきた平家を討つべく命ぜられ再度戦場へ。平家の拠点、讃岐(香川県)は屋島をめざします。時は1185年2月、一年ぶりの登板に勇み立つエース九郎義経は、楫取もいやがる暴風雨の中わずか百五十騎で大阪より船出、徳島(現・小松島市)に上陸するや否や陸路を爆走、屋島の背後から平家の陣に一挙に攻め寄ります。そして源平争乱のなかでもとりわけ絵画的、戦と呼ぶにはあまりに雅やかな屋島合戦の火ぶたは切られたのでした…。

徳島・小松島市 源義経像
 大嵐のなか出立した義経一行は暴風雨を味方につけ追手に帆かけてすさまじい高速で(一説には三日かかるところを四時間で)たちまち四国は徳島、現・小松島市あたりに上陸してしまいました。なんという強運!この地には、義経上陸記念ということで日本一大きい源義経像が建てられています。今回の旅では立ち寄ることができなかったのですが「源義経ファンクラブ」の方から写真をいただいたのでここに掲載します。


屋島遠景
 屋島は海にせり出したテーブル型の溶岩台地で、上から見ればきれいな三角形の半島です。今は本土と地続きですが、源平合戦の頃は海を挟んでまがりなりにも一応島でした。この屋島のおもに東側の海岸にて、さまざまな戦絵巻が繰り広げられたのです。

義経鞍掛松
 JR屋島駅からほど近い場所に小さなお堂がひっそりと祀られています。源氏勢が平家との合戦にのぞむべくスタンバイした場所といわれ、その時義経が鞍を掛けたという「義経鞍掛松」がいまもお堂の横に…あるにはありますが、家庭用クリスマスツリーのような華奢な若木。おそらく何代目かの新世代鞍掛松でしょう。

長刀(なぎなた)泉
 JR古高松南駅から少し東に歩くと、「長刀泉」と書かれた案内板が。海に面したこの屋島の地で、源氏軍が炊事のための水を得られず困っていたところ、弁慶が長刀でこの井戸を掘ったといわれています。戦から井戸掘りから何かと役立つ弁慶です。一家に一人はほしい逸材。

菜切地蔵(なきりじぞう)
 水の調達のみならず、おさんどんだってやりますよ万能選手弁慶は。長刀泉からJR踏切を越えて少し南へ行ったところに「菜切地蔵」。ともかく左の写真の案内文をお読みください。
 弁慶が源氏の兵のため炊事をするのにマナ板がなかったのでこの石地蔵の背で野菜を料理して汁を作り義経以下にさしあげたといいます。(中略)お地蔵さんの背には、刀痕があるとまでいわれています。
 ひぇ~弁慶…坊主のくせにバチあたりなっ!細かいことは気にしないワイルドな男の手料理、お味はいかがだったのかしら九郎さん。

佐藤継信の墓
 琴電八栗駅の南側には、屋島合戦で九郎義経の身代わりとなって敵の猛将・平教経の矢を受け命を落とした奥州武者・佐藤継信、およびその継信の供養にと贈られた九郎の馬・太夫黒とが広い敷地内に仲良く葬られています。
 継信を失った九郎は深く歎き悲しみ、戦闘を一時中断して継信の遺体を運び手厚く葬りました。その様子を見た家来衆は「このお方のためなら命もいらぬ」とあらためて心に誓ったそうです。

総門(そうもん)
 琴電八栗駅から細い路地をたどってゆくと、源平史跡に次々と出会えます。まずは路肩の空き地に高々とそびえる「総門」跡。
 寿永二年九月、平氏は安徳天皇を奉じて六万寺を行在所として(屋島壇の浦の行宮ができるまで)ここで門を構えて、海辺の防御に備えました。総門はこの遺跡です。後、壇の浦に行宮をうつしてからも、この門を南部の重鎮として大いに源氏軍を防ごうとしましたがついに源氏の占領するところとなりました。当時この付近は海浜でした。
 のち源平最終決戦の地となった下関の「壇ノ浦」とはまた別に、この屋島における戦場も「壇の浦」と呼ばれる地域だったのです。偶然の一致にしては何とも因縁深い…。

射落畠(いおちばた)
 総門跡から東に少し歩くと、高い石碑がよく目立つ「射落畠」が見つかります。屋島合戦の折、九郎の郎党・佐藤継信が平教経の強弓から楯となって九郎を守り、命を落とした場所です。これより先には、落命した継信の遺体を扉に乗せて運んだといわれる洲崎寺もあります。屋島における佐藤継信は、史跡の多さからみても那須与一に次ぐヒーローではないでしょうか。


弓流しの跡
 さらに路地を進むと空き地が見えてきます。ここが有名な「義経弓流し」の場所。
 義経は勝ちに乗じて海中に打ち入って戦ううち、脇下にはさめていた弓を海中に落として、平家方の越中次郎兵衛盛嗣に熊手をかけられ危うく海中に落ちかかりましたが、義経は太刀で熊手をあしらい左手のムチで弓をかき寄せ引きあげたというところです。平家方に拾われて「源氏の大将ともあろう者がこんな弱い弓を使っているのか」ともの笑いになるのをおそれたものだといわれております。
 数ある屋島の史跡の中で義経の名を冠した史跡は「義経鞍掛松」のほかにはこのひとつのみ。しかも「弓流し」だなんて何だかカッコよくない…?でも私はこのエピソード、九郎らしくて好きなのです。非力な者の非力なりの意地とプライドが感じられて。

祈り岩
 弓流し跡から路地を進むと継信ゆかりの洲崎寺があり、そこからさらに進んだところ、道路の脇に「祈り岩」と書かれた石碑があります。さあここからいよいよ屋島合戦でもとりわけ人気の名シーン!
 那須与一が平家の船に立てた竿の先の扇の的を射る時この岩の所で「南無八幡大菩薩、わけても私の生まれた国の神明日光権現、宇都宮那須大明神、願わくばあの扇の真中を射させ給え」と祈ったと伝えられ祈り岩と呼ばれています。
 この道路向かいには「錣(しころ)引き」の史跡もあります。逃れる源氏武者の錣(兜の一部分)を平家武者・景清がくま手で捕らえて互いに引っ張り合ったあげく錣の糸が切れて源氏武者は逃げた…という、緊迫感があるんだかないんだかわからない、一歩まちがえば吉本新喜劇のような戦のワンシーンです。


駒立岩
 祈り岩からほど近く、道路わきを流れる川の中に「駒立岩」が見えています。
 那須与一がこの岩のあたりまで駒を進め足場を定めて、波にゆれ動く扇の的をねらい射落としたので、駒立岩といわれています。
 この川の先はほどなく海、満ち潮になるとこの岩は水中に没するそう。ここまで史跡をたどりながら通ってきた路地も、800年前は海の中。今は住宅が立ち並ぶこの静かな街中を、かつて源平両氏の人馬が波を蹴立てて激しく戦っていたのだと想像すると、とても不思議な気がします。

佐藤継信の碑
 駒立岩から川を渡って屋島側に渡ると安徳天皇社があり、そこから坂を上がったところに、またもや佐藤継信の墓(碑)があります。
 継信の忠死を世人に広く知らせるために寛永20年(1643)初代高松藩主松平頼重公が、合戦当時に義経が丁重に葬ったあとを受けて、屋島寺へ続くこの遍路路の脇に建立したものです。
 忠義に死した者への敬愛は格別のものがあるのでしょう。この近くには、平家側の忠義者・菊王丸(平教経の従者。佐藤継信の弟・忠信の矢から主を守って討死)をしのぶ菊王丸の墓もありました。

屋島寺
 今度は屋島山上の史跡をめぐります。屋島山上へは車なら屋島ドライブウェイ(往復\610)、また屋島登山口からは屋島ケーブル(往復\1300)が出ています。
 屋島寺は天平勝宝六(754)年鑑真の建立。四国八十八ヶ所の第84番札所であり、この日もお遍路さんの般若心経が静かな境内に響いていました。

蓑山大名神(みのやまだいみょうじん)…屋島太三郎狸
 屋島寺の本堂横にひときわ目を引く朱色の鳥居の列、そして愛嬌たっぷりの夫婦狸の像が。これは屋島に伝わる伝説の狸・太三郎狸を祀ったお社です。
 屋島の太三郎狸は佐渡の団三郎狸、淡路の芝右衛門狸とともに日本三名狸に称されています。太三郎狸は屋島寺本尊十一面千手観音の御申狸又数多くの善行をつんだため、土地の地主の神として本堂の横に大切に祭られ、四国狸の総大将とあがめられ、その化ヶ方の高尚さと変化妙技は日本一であった。
 ちなみに彼はジブリアニメ「平成狸合戦ぽんぽこ」にも登場し、若武者・那須与一の華麗な変化をみせてくれました。また弘法大師が屋島で迷われていた時も蓑笠すがたの老人に化けて無事山上まで導いたそうです。ついでながら、この太三郎夫婦はとても仲良しだったので、家庭円満、縁結び、子授け等のご利益があるそう。

瑠璃宝池(血の池)
 屋島寺伽藍草創のおり弘法大師が「遍照金剛、三密行所、当都率天、内院管門」と書き、宝珠とともにおさめ周囲を池としました。ところが竜神が宝珠を奪いに来ると伝えられ瑠璃宝の池の名があります。又、源平合戦のとき壇の浦で戦った武士たちが血刀を洗ったため、池の水が赤くなり血の池とも呼ばれるようになりました。
 血の池なんておどろおどろしい別名がつけられてはいますが、何のなんの、清々しい水をたたえた静かな池でした。

源平古戦場展望台
 屋島の山上からはふもとに点在する源平史跡が見渡せます(遠すぎて史跡のひとつひとつまでは判別できませんが)。先刻まで地図を見い見いたどってきた路地、平家の総門跡も義経の弓流しも扇の的の舞台もすべて一望のもと。対岸には奇妙な稜線が印象的な五剣(八栗)山、あちらには六万寺(安徳帝の行在所とされた場所)があります。

談古嶺…平家船隠し
 源平古戦場展望台からさらに歩くと、談古嶺とよばれるもうひとつの展望台があります。ここからは瀬戸内海に浮かぶ無数の島々が鮮明に見渡せます。対岸の岬の先端には「平家船隠し」があったそう。
 平家は、この海上から源氏の勢がやってくると思い込んで手ぐすね引いて待ち構えていたのですが…残念無念、くせもの九郎義経は背後の陸上から不意打ちアタックをかけてきやがりました。平家勢は大慌てで海上に避難、九郎軍と戦いますが、そうこうするうち源氏の主力勢が屋島の地に押し寄せてきました。これはやむなしと平家軍は屋島を手放し、もうひとつのホームグラウンド、下関・彦島に向け敗走してゆくのでした…。

高松平家物語歴史館
 屋島を後にして、つぎは高松市内にある「高松平家物語歴史館」へ向かいます。別名“日本最大のろう人形館”。入館料は大人\1200、中高生\800、小学生\600、営業時間は午前9時~午後5時30分、年中無休です。
 まず一階には四国の偉人たちのコーナーがございます。空海や板垣退助、菊池寛や正岡子規など各界の著名人(のろう人形)が勢揃い。こういう施設にしてはめずらしく写真撮影が自由にできるのがうれしいところ。坂本竜馬や秋山真之(←好き♡)などお気に入りの偉人とぜひ記念撮影を!

高松平家物語歴史館・一の谷の合戦
 二階の平家物語コーナーに入るといきなりこちらに向かって駆け下りてくる騎馬武者の群れが!「一の谷の合戦」です。われらが九郎義経はじめ皆さんものすごい形相。一体一体がとても精巧につくられていて、表情もすがたも皆生き生きと臨場感にあふれています。「でえりゃあぁ!」「どチクショーッ!」なんて怒号が聞こえてきそうな迫力。

高松平家物語歴史館・那須与一の扇の的
 一ノ谷合戦を含め、富士川合戦や俊寛の悲劇、平清盛の最期など十七景の「平家物語」名シーンが丁寧なつくりの舞台と効果的な音響・ライトアップで再現されています。小さい子にはちょっとしたオバケ屋敷よりコワイかも!? 髑髏(どくろ)の物の怪なんて大人の私が見てもウギャ~なおそろしさ。見ごたえありまくりです。
 写真は屋島~壇ノ浦の舞台。扇の的を見据える那須与一の凛々しいこと!
 コーナーの最後は、リアルな動きでしゃべり唄う琵琶法師ロボットが琵琶をつまびきつつ源平の栄枯盛衰を語ってくれます。
 源平ファンなら至福のときがすごせるはず、ぜひともいらしてみてください。

オミヤゲ情報
源平路 源平餅
吉岡源平餅本舗
源平路」は義経の兜を模したデザインのモナカ、「源平餅」は紅白の餅が入ったもの。写真は、「源平路」9個入り、「源平餅」15個入り。いずれもいろんなサイズが取り揃えてあります。屋島山上ドライブウェイ売店にて販売。

絵はがき\400 源平絵巻\500 ちょうちん\750
絵はがきは屋島寺にて、源平絵巻(屋島合戦の絵巻に名場面を解説した薄紙つき)は屋島山上ドライブウェイのおみやげ物屋さんで購入。オモチャちょうちん、こういうのふだんはバカにして絶対買わないんですがこの時ばかりは何も考えず大喜びで購入。かくもおそろしきマニア魂…

MAP LINK
自作マップ

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高松市HP



入館料割引特典つき!

 屋島ほど多くのエピソードに彩られた古戦場もそうそう他にないでしょう。名シーンのすべてが史跡として各所に残されており、なおかつそのひとつひとつに丁寧な案内板が添えられているので、史跡めぐりをする身にはとてもありがたい。また「高松平家物語歴史館」のろう人形の充実した内容は必見です。源平ファンなら必ず訪れるべし!と重ねて強調いたします。
 近年一躍ブームとなった「さぬきうどん」もいたるところで楽しめますし(私は屋島ふもとの「わら屋」で名物の釜あげうどんをいただきました)、ゆったり和める観光をお望みの方には、四国の旅はおすすめです。ちなみに私はこの屋島・高松を訪れたあと、愛媛の松山まで足をのばし、道後温泉でほっこり。もうひとつのマイブーム「坂の上の雲(司馬遼太郎)」の主役たち、正岡子規や秋山兄弟の史跡めぐりを楽しみました。