出家チーム

弓矢を捨て、権謀うずまく俗世を捨て、おのが境地を追求した名僧、怪僧たち。
源平動乱のさなかにあって、いわば外野席に陣取っていた彼ら。
その目は、一番鋭く曇りなく、時代を見据えていたのではないでしょうか。

現在3名
西行慈円文覚

西行さいぎょう
西行
乱世を旅した孤高の歌僧
享年73(1118〜1190)
左衛門尉康清の子

俗名:佐藤義清(さとうのりきよ)

武士の家に生まれ、はじめ徳大寺家に仕え、のち北面の武士(侍として究極のエリート職)に就いて鳥羽上皇のお気に入りとなった。しかし二十三歳の時に突如謎の出家。引き止める妻を振りきり幼い娘をけとばし漂泊の生活に入る。出家したのちは優れた歌をたくさん詠んで有名人になった。もと武士だけに武術にも長け、旅の途中で鎌倉に立ち寄った際には頼朝に請われて流鏑馬などの武芸を伝えた。その時に褒美として与えられた金づくりの猫をすぐさまそのへんの子供にやってしまった。そのあと奥州平泉まで旅をした(奥州藤原氏とはゆかりが深かったらしい)。「ねがわくは 花のもとにて春死なむ そのきさらぎの 望月のころ」の歌のとおり、春の満月の日に入滅。

慈円じえん
「愚管抄」著者・延暦寺座主
享年71(1155〜1225)
関白藤原忠通の子
/兄・九条兼実
諡:慈鎮

すぐれた歌人であり史論家でもある。「愚管抄」を著した。十一歳の時に延暦寺に入り出家、天台宗の僧となった。兄である九条兼実が鎌倉に重用されたことで、慈円も延暦寺の座主の地位に就くことができた。

文覚もんがく
文覚
いつだって反勢力・アナーキスト怪僧
享年65(1139〜1203)
真言宗の僧

俗名:遠藤盛遠(えんどうもりとお)

もとは鳥羽天皇皇女上西門院に仕えていたエリート武士。十九歳の時、同僚の源渡の妻・袈裟御前に横恋慕、思い余って渡を殺そうとしたが、誤って袈裟御前を殺してしまった。そのショックで出家、紀州熊野にて荒行を重ねる。その結果、破天荒なずぶとい男になって都に帰ってきて、こともあろうに御所で無礼をはたらいて伊豆に流された。そこで同じく流人の頼朝と出会い、わざわざ探してきたという源義朝の頭蓋骨(ぜったいウソ)をつきつけ、源氏挙兵を促した。のち晴れて源氏の世となり平家が追われる身となると、今度は平家の嫡流六代(平維盛の子)を助命し身柄を引き取った。さらにのちは後鳥羽天皇に逆らいまた流罪に処され、佐渡、ついで対馬に流される途で没した。生涯通して反勢力思想を抱き続けたヒネクレ豪傑男であった。