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京都から遠く離れた北の大地に花咲いた文化。それが平泉、奥州藤原氏の都。 黄金と名馬の産地、中央勢力におびやかされぬ強固で豊かな百年の栄華がそこにはありました。 そして九郎義経が青春時代を送り、またその生涯最期の地となった、因縁深い地でもあります。 |
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現在10名 奥州藤原ファミリー…藤原秀衡/泰衡/国衡/忠衡/ 佐藤元治/佐藤継信/佐藤忠信/佐藤兄弟の妻(若桜・楓)/金売吉次/ |
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ふじわらひでひら | ||||
義経のパトロン「北方の王者」 享年66(1122〜1187) 奥州藤原氏三代目当主 生母:安倍宗任の娘/正妻:前民部少輔藤原基成の娘 子息:国衡、泰衡、忠衡、高衡、通衡、頼衡 役職:鎮守府将軍 陸奥守 従五位上 血液型:AB?A?(中尊寺ミイラより) 体型:身長160センチ/肥満系/いかり肩(中尊寺ミイラより) 奥州藤原氏の絶頂期を築いた老練な政治家。平家にも朝廷にも、外部の勢力には一切屈さぬ構えを貫く。しかし京から逃れてきた源氏の孤児九郎義経のことは我が子さながらに可愛がった。やがて平家が滅び鎌倉が力をつけ朝廷すらおびやかすようになっても秀衡のみは中立の立場を崩さず、その不気味な沈黙は頼朝を苛立たせ恐れさせた。頼朝にしてみれば義経は奥州藤原氏のスパイのように見えたかも。ともあれ秀衡は義経に終始あたたかく、謀反人として追われるようになった彼を手元にかばい引渡しを求める鎌倉に一切応じなかった。しかしほどなく病に倒れ、息子らに義経を主君とし守り抜くよう言い残した。だがその遺言は守られず、奥州藤原氏は秀衡の死後数年で滅びることになる。 |
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ふじわらやすひら | ||||
窮鳥(義経)を殺して自滅したおバカさん 享年35(1155〜1189) 奥州藤原氏四代目当主/秀衡の次男・嫡子 生母:藤原基成の娘 血液型:B(中尊寺ミイラより) 秀衡の急な病死を受けて新当主となったが、優柔不断で政治に疎く先を見越す目がなかった。目先の安全のため父の遺言にそむき、鎌倉の意向に従って九郎義経を討った。しかし鎌倉勢は「いまさら討ったとていままで庇っていたのは逆心の証拠」とか何とかいいがかりをつけて間髪いれず奥州に攻め込んできた。圧倒的な戦力の差に泰衡は平泉館に火を放って逃亡、頼朝に命乞いの手紙を送るなどあれこれあがいた末、股肱の郎党河田次郎なる男に殺された。 |
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ふじわらくにひら | ||||
猛き蝦夷の血・秀衡の長男 享年?(?〜1189) 秀衡の長男/生母:蝦夷の女 通称:西木戸殿(平泉の西木戸に居住したため) 秀衡の長男で身の丈六尺あまりの頼もしい偉丈夫。母の身分が卑しいため家督を継ぐことができなかったが本人はそのことを別に気にしてはいなかったようで、父亡きあと、新当主泰衡の方針に素直に従っていた様子。九郎義経追討に関しても特に異をとなえたような気配はない。父秀衡の死後、遺言により父の後妻を譲り受けた。奥州討伐の鎌倉勢との緒戦にて、早々に無念の戦死を遂げることになる。勇敢な奥州の戦士ではあるが、如何せん実戦経験がないゆえ戦略戦術には疎かったのかも。 |
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ふじわらただひら | ||||
義経の理解者…ゆえ兄(泰衡)に殺される 享年23?(1167?〜1189) 秀衡の三男 通称:泉三郎(衣川のほとり泉ヶ城に住んでいたため) 子供の頃から九郎義経ととりわけ仲がよく、父の遺言を守ってどこまでも義経をかばうつもりでいたが、それがもとで兄泰衡に謀反を疑われ、義経が討たれたのち(前との説も)殺害されてしまう。 |
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さとうもとはる 基治とも | ||||
奥州の南を守るとりでの一族 享年?(?〜?) 秀郷流藤原氏・陸奥国信夫荘司・郡司 佐藤継信・忠信の父 妻:乙和(和泉十郎藤原清綱女/秀衡のいとこ) 代々奥州藤原氏に仕え、信達地方(福島市と伊達郡)から白河までを治めていた佐藤一族の長。湯野・飯坂を本拠としていたことから湯の庄司とも呼ばれていた。息子の継信・忠信は九郎義経の忠実な郎党として世に誉れ高い。また元治の娘のひとりが義経最初の妻として迎えられたとの説もある。息子たちは戦場に散りふたたび信夫の地に戻ってくることはなかったが、父の元治もまた最後の信夫庄司として奥州藤原氏への忠節を貫き、奥州に侵攻してきた頼朝軍と果敢に戦ったといわれる。 |
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さとうつぐのぶ | ||||
屋島に散った陸奥の武士 享年28(1158〜1185) 秀郷流藤原氏・陸奥国信夫荘司佐藤元治の子(藤原秀衡の弟忠継の子という説も?) 母:乙和(和泉十郎藤原清綱女/秀衝のいとこ) 通称:三郎兵衛尉 九郎義経とは少年期(義経が奥州に逃れてきた頃)からの仲良し。頼朝旗揚げに際し、藤原秀衡の命を受け弟忠信とともに義経の供として東国に赴いた。屋島合戦にて平教経の強弓から義経を盾となって守り落命した。義経は嘆き悲しみ戦を早々に切り上げて近くの寺で継信を厚く弔った。「平治物語」によると継信は豪放磊落な性分で、酒が入ると語気荒くなったという。…ちなみに切り絵の狸は、屋島合戦の一部始終を見ていた四国狸の御大将、屋島太三郎禿狸のつもり。 |
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さとうただのぶ | ||||
吉野を駆けるニセ義経 享年26(1161〜1186) 秀郷流藤原氏・陸奥国信夫荘司佐藤元治の子 母:乙和(和泉十郎藤原清綱女/秀衝のいとこ) 通称:四郎兵衛尉 兄継信とともに主義経に忠実に仕えた。兄と違い下戸で温厚な人柄だったらしい。都落ちののち、吉野山にて義経を逃がすため身代わりとなって追手の吉野大衆と戦った。奮戦の末生き長らえて都に入り独自に活動していたところを糟屋有季(北条時政との説も)に見つかって包囲され、壮絶な自害をとげた。切腹した上、太刀を口に突っ込んでガバーと前のめりに倒れて後頭部まで貫いたという。怖…!でもその武士らしい死に様は頼朝をも感嘆させたという(壇ノ浦後には「イタチにも劣る者」とへんなけなし方をしていたのに)。切り絵の狐は、義経千本桜の忠信狐のつもり。 |
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わかざくら と かえで | ||||
立派な兄弟に天晴な妻 享年?(?〜?) 佐藤兄弟の妻 九郎義経の忠臣・佐藤兄弟の妻たち(継信の妻が若桜、忠信の妻は楓)。兄弟が義経とともに奥州を去る際にはすでにどちらにも一子があった。奥州に戻ってきた義経は何はさておきまず信夫に赴き兄弟の霊を弔うと、彼らの遺児にそれぞれ三郎吉信(継信の子)、四郎義忠(継信の子)と名を授け烏帽子を着せた。また兄弟の妻たちは、息子たちの死を嘆き悲しむ母・乙和のため甲冑をまとって武将の姿になり、兄弟が凱旋するさまを演じてみせ、乙和をはげまし慰めた。血で血を洗う冷酷無比な争乱のさなかにあって、この一族のあたたかい絆はひときわ胸を打つ。 |
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かねうりきちじ
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