源氏ファミリー

源九郎義経の家族・親戚たちをご紹介します。
さすがは悪名高い「共食い」源氏…みなさんろくな死に方してません。


現在17名
義経
義経の兄たち…頼朝義平朝長義門希義源範頼阿野全成義円
義経の父母…源義朝常盤御前
義経の叔父たち…義広源為朝源行家
源頼政ファミリー…源頼政仲綱有綱

源義経みなもとのよしつね
源義経
源平合戦のアイドルヒーロー
享年31(1159〜1189)
清和源氏・義朝の九男
(八男との説も)/生母:常盤御前(九条院の雑仕女)
通称:九郎大夫判官/幼名:牛若、遮那王(しゃなおう)
役職:検非違使判官 伊予守
生まれてまもなく平治の乱で父義朝を失い幼少の身を鞍馬寺に預けられる。しかし十五歳の時に都を抜け出し奥州にのがれた。その地で領主・藤原秀衡の庇護を受け武芸の鍛錬に励んだ。二十二歳の時東国にて兄頼朝が旗揚げすると勇んで駆け参じ、搦手(からめて)軍大将として木曾・平家追討に参戦、連戦連勝の大活躍をとげ稀代の戦上手の誉れをほしいままにした。しかし戦以外のことにはまったく疎い無邪気なおとぼけサンだったため、周囲の各勢力によってたかって利用され、ほどなく兄頼朝に追われる身となり、逃げ込んだ奥州においても新領主・泰衡に裏切られ、ついに自害して果てた。とても可哀想なその末路ゆえ民衆に愛され惜しまれ、数多の伝説・芸能文学作品をどしどしつくってもらえた、実はとっても幸せ者な日本一の愛されヒーロー。

 ※九郎義経の兄たち※
源頼朝みなもとのよりとも
源頼朝
幕府を創った偉大な兄さん
享年53(1147〜1199)
清和源氏・義朝の嫡子(三男)
/生母:熱田神宮藤原季範の娘
通称:佐殿(すけどの) 鎌倉殿 武衛 二品(にほん)/幼名:鬼武者
役職:右兵衛権佐 征夷大将軍 正二位

十三歳で平治の乱に初陣するも敗れ、敗走中に平家勢に捕まり、伊豆に流されて二十年余の流人生活を送る。のち坂東武士団をまとめ、源氏の棟梁として平氏追討の旗を揚げた。戦はもっぱら弟や御家人衆に任せ、みずからは拠点とした鎌倉を離れず政治の基盤を固め、日本で初めての武家社会を築いた。武勲ある弟義経を殺したり目障りな身内・部下を消したり奥州藤原氏を滅ぼしたり後白河法皇と火花を散らしたりいろいろやって征夷大将軍の位を得、ゆるぎなき地位を確立した。だがその死後は妻政子の実家・北条氏が台頭し、血なまぐさい策謀の結果源氏は三代(頼朝、頼朝の長男・次男)で絶えてしまう。生前に身内をことごとく滅ぼしてしまった頼朝の自業自得とも言えるが、実は北条氏(坂東武士団)の言いなりにしか動けない傀儡だったという見方もできる。だとすれば、彼の人生はあまりに孤独で不本意なものだっただろう。

義平よしひら
勇猛に散った源家の長男
享年20(1141〜1160)
清和源氏・義朝の長男

生母:相模豪族三浦義明の娘、または遠江国橋本の遊女、ほか異説さまざま
通称:鎌倉悪源太
役職:左衛門少尉

源義朝の長男。叔父義賢(義仲の父)を討ったり、平治の乱ではわずか十五騎で平重盛率いる五百騎を蹴散らすなど数々の武勇を馳せた、武門の子として申し分ない勇猛な若者。でも母親が正室じゃなかったので嫡男ではない。平治の乱ののち父義朝や弟らとともに東国めざして敗走するも、追捕をまくため美濃国青墓から飛騨方面へ向かう。やがて父義朝の死を知ると単独京へ戻り、清盛か重盛の首を取ろうと目論むも捕らえられ、六条河原で処刑された。その折、執行役の難波三郎恒房に「100日以内に雷となってお前を殺す」などとぶっそうな遺言を残し、その言葉どおり、彼はほどなく落雷で亡くなってしまった(「平治物語」)。おそるべし怨念!

朝長ともなが
父に殺された無念の次男
享年16、8?(1143、5〜1160)
清和源氏・義朝の次男

生母:典膳大夫中原久経の娘
通称:中宮大夫進

源義朝は東国での源氏の勢力拡大のため相模国の領主を縁者に持つ中原久経(ちなみに彼の縁者にはのち頼朝のもとで活躍する中原親能大江広元もいる)の娘と婚姻関係を持っており、その間に生まれたのが朝長。義朝の次男として生まれた彼は平治の乱に敗れ父とともに東国に落ちゆく際負傷したため同行がむずかしくなり、自害を試みるも死に切れずついには父の手によって首を打たれてしまった。

義門よしかど?
いるのかいないのか?四男
享年?(?〜?)
清和源氏・義朝の四男

通称:宮内丞

早逝のため実在が疑問視される義朝の四男。でも彼が居ないことには九郎義経が八郎義経になってしまうので、とりあえず居てください。

希義まれよし
頼朝唯一の同母弟・五男
享年33(1150〜1182)
清和源氏・義朝の五男
/生母:頼朝と同じ
通称:土佐冠者

平治の乱後、土佐に配流。頼朝旗揚げに同調しその地で叛乱を企てるも平家方に捕まり処刑された。どうも弟らに対して冷たい頼朝だけど、この同腹の弟の死にはひどく悲しんだそうな。

源範頼みなもとののりより
源範頼
不運な凡才・目立たぬ六男
享年42、3?(1152、3?〜1193?)
清和源氏・義朝の六男
/生母:遠江国池田宿の遊女
通称:蒲冠者
役職:三河守

平家追討に大手の大将として参戦。しかしとくに目立った活躍はしておらず、堅実なのか凡庸なのか評価が分かれる。つねに頼朝の顔色をうかがって気に障らぬようビクビク生きており、そのわりに手柄を部下と競い合ったり弟義経よりいい官位をもらえたことをことのほか喜んだりと功名心は存外強かったようで、謀反人となった義経を討つのを拒んだのも弟への愛というよりは恐れだろう…。曽我兄弟の仇討事件の際、政子に「(頼朝が死んでも)自分がいるから安心して」と励ましたことから謀反の疑いをかけられて伊豆に配流されてしまった。そののち誅殺されたか逃げ延びたか末路はハッキリしていない。義経のように派手ではないけれど、彼だって立派(?)なお気の毒人生。

阿野全成あのぜんじょう
いちばん長生きした頼朝の弟・七男
享年51(1153〜1203)
清和源氏・義朝の七男
/生母:常盤御前
通称:阿野法橋(禅師) 悪禅師 /幼名:今若

平治の乱ののち同母弟の乙若・牛若とともに母常盤に連れられて雪の中を逃げ惑った。捕らえられてのちは醍醐寺に入れられ出家の身となるが、頼朝挙兵を知って東国に駆け参じた。北条政子の妹(のち実朝の乳母となる)を娶り駿河国阿野荘を与えられ、頼朝の弟の中では唯一安泰な立場にあった。しかし実朝の代になると謀反の疑いをかけられ誅殺されてしまう。やっぱり頼朝の弟は誰ひとりとしてまともな死に方はできないのね…

義円ぎえん
早々と姿を消したウッカリ八男
享年27(1155〜1181)
清和源氏・義朝の八男
/生母:常盤御前
通称:卿公(きょうのきみ)/幼名:乙若、円成(えんじょう)

九郎義経のすぐ上の同母兄。平治の乱ののち出家を強いられ八条宮円恵法親王の坊官として祗候。頼朝の挙兵にほかの弟らよりやや遅れて参じるも、ほどなく叔父行家とともに参戦した尾張国墨俣川での戦いで平家(重衡)に敗れて討死してしまった。

※九郎義経の父母※
源義朝みなもとのよしとも
風呂場で斬られてクヤシイ敗将(義経の父)
享年38(1123〜1160)
清和源氏・嫡流為義の長男
/生母:正五位下・刑部少輔藤原忠清の娘
役職:下野守、左馬頭

源氏の嫡男として鎌倉に居住し東国の勢力拡大につとめた。やがて上洛し久寿元年(1154年)に家督を継いだ。保元の乱では勝利をおさめるも、敵方についていた父や弟らをみずからの手で処刑させられ、またともに戦った平清盛のほうが恩賞が多かったり何かと優遇されたりしていたことに不満を抱き、平家を討つべく挙兵した(平治の乱)。しかし敗れ、東国に落ちる際家人長田忠致の裏切りに遭い、入浴中に首を落とされてしまう。「せめて木刀一振りさえあればこうもたやすく討たれないのに!」と無念の叫びを残して。

常盤御前ときわごぜん
常盤御前 まさに明眸禍・流転の美女(義経の母)
享年?(1137、8〜?)
源義朝の妾
/全成、義円、義経の母
九条院(近衛天皇の中宮)の雑仕女…白拍子との説も

久安六年(1150年)に都の美女コンテストで千人のなかからみごとグランプリに選ばれた絶世の美女。義朝に愛され三人の子を生むが、平治の乱で源氏が滅びると、その美貌のため敵将平清盛に召され、一女を生んだ。のち、さえない貴族藤原長成と再婚、ここでも一子(能成)をもうけた。すなわち源・平・藤、三氏に嫁ぎ、それぞれ子孫を残したことになる。運命にもてあそばれながらも乱世をしなやかにたくましく生き抜いた女性。

※九郎義経の叔父たち※
義広よしひろ
叔父のメンツ!打倒頼朝(義経の叔父)
享年?(?〜1183?)
清和源氏・為義の三男

役職:検非違使 右衛門少尉 信濃守

常陸に居住し志田三郎と称した。源氏の棟梁として旗揚げした甥・頼朝に従わず足利忠綱と組んで反旗をひるがえした。しかし形勢不利となり、同じく甥の義仲を頼って木曽勢に加わる。しかし頼みの木曽が鎌倉勢に敗れたのち敗走し、逃げ延びた先の伊勢国で反抗の烽火をあげるもののぱっとせず、やがて行方不明になってしまった。

源為朝みなもとのためとも
伝説となった強弓の大男(義経の叔父)
享年33?(1138、9〜1170)
清和源氏・為義の八男

生母:江口(現大阪市淀川区)の遊女/同母弟:九郎為仲
通称:鎮西八郎 筑紫八郎

幼いころから尋常ならぬ暴れん坊で、十三歳にして鎮西に追放されてしまった。だがその地でも数々の蛮行を働きその名をあまねく世に知られた。保元の乱では父の敵方につき大活躍するが捕縛され、伊豆に流された。そこでもやっぱり悪行を重ね、とうとう朝廷の軍に討ち取られた。その体躯は丈2メートル30センチ余、左手は右手より12センチ長かった。ウソつけ!でもそう噂されるだけの抜きん出た弓の天才であったことに間違いない。また、伊豆で殺されず、沖縄に渡って王となったという伝説もある。

源行家みなもとのゆきいえ
破滅を呼ぶ寄生虫アジテーター(義経の叔父)
享年?(?〜1186)
清和源氏・為義の十男
(義朝の末弟?)
通称:新宮十郎 陸奥十郎 十郎蔵人行家 /本名:義盛(以仁王挙兵以前まで)

平治の乱ののち紀州は新宮にひそんでいたが、以仁王挙兵に際し王の令旨を各地の源氏に届ける役目を担って源氏旗揚げに一役買った。のち鎌倉における待遇の悪さを不服に思い義仲につくが、義仲とも敵対する。義仲亡き後は義経に近づき頼朝への謀反を執拗に促した。しかし義経都落ちの折に義経一行とはぐれ、和泉国に潜伏していたところを北条時政の勢に捕らえられ、とうとう処刑された。尻も軽いし口も軽い(秘密をべらべらしゃべってしまう。それで以仁王の乱も失敗した)、迷惑千万な男。なのにどこか憎めないのは、策士としてはなかなかの才知の持ち主なのに、どっかツメが甘くて、戦さをさせれば全戦全敗、結局ちっともイイ思いのできないコミカルな悪役のイメージがあるからかも。

※源頼政ファミリー※
源頼政みなもとのよりまさ
平家に与した苦悶の武人
享年77(1104〜1180)
清和源氏・頼光の玄孫

通称:源三位入道 頼円 真蓮

妖怪鵺(ヌエ)退治で有名な、また歌人としても一流の文武に長けた源氏の武人。保元の乱では義朝・清盛の側について戦った。だが次の平治の乱では清盛側に寝返り、血族である義朝を倒す。それ以来清盛に優遇され、平家全盛の世を生き延びた。しかし内心平家への憤懣がつのっていたのか、老齢になって突如打倒平家の企てに加担し、以仁王を旗頭に挙兵する。しかしまだ源氏再興には機が熟しておらず、ほどなく形勢不利となり、宇治平等院での合戦で以仁王とともに命を落とすことになる。

仲綱なかつな
きっかけは馬の取り合い?
享年55?(?〜1180)
清和源氏・頼政の嫡子

役職:伊豆守 隠岐守

父頼政とともに平家の世を生き延びていたが、平宗盛に愛馬「木の下」をムリヤリ奪われてしまい(しかもその馬は「仲綱」と焼印されてびしばし鞭打たれているありさま)、大いに屈辱を味わう。この一件が頼政の謀反の一因になったともいわれている。「以仁王の乱」では父頼政とともに奮戦するものの形勢不利となり、自害した父のあとをみずから追った。

有綱ありつな
九郎義経の娘ムコ…???
享年?(?〜1186)
清和源氏・仲綱の子/頼政の孫

通称:伊豆冠者
役職:検非違使、右衛門尉

九郎義経とよく行動をともにしていた青年。義経の娘婿という立場らしいが肝心の義経の娘の実在は明らかでない。いたとしても嫁ぐには幼すぎたのでは…?有綱は祖父頼政の謀反の際、一時奥州に逃れていたことがあるので、その折に義経と出会って意気投合して何らかの盟約を交わしたというのが実状かも。平家滅亡後、頼朝に追われる義経とともに都落ちするが、吉野に入ったあたりで別行動を取る。やがて大和国宇陀郡で、鎌倉勢に捕捉され自害した。