九郎党
と九郎のカノジョたち

九郎義経の郎党・カノジョ等をご紹介。
僧兵くずれや盗賊あがり、猟師、商人、陰陽師に白拍子、もののみごとにウロンな奴らがそろいました。

現在22名
(郎党50音順/カノジョ50音順)
郎党たち

伊勢三郎義盛江田源三弘基片岡次郎(太郎)常春片岡八郎為春(弘経)金売吉次
鎌田盛政亀井六郎重清鬼一法眼喜三太佐藤忠信佐藤継信
鈴木三郎重家駿河次郎清重備前平四郎常陸坊海尊堀弥太郎景光増尾十郎兼房
武蔵坊弁慶鷲尾三郎経春

カノジョたち
静御前河越太郎重頼の娘平時忠の娘久我大臣の娘皆鶴姫浄瑠璃姫

伊勢三郎義盛いせさぶろうよしもり
伊勢三郎義盛
しゃべくり名人鈴鹿の山賊
享年?(?〜1186?)
伊勢国or上野国出身(伊勢神宮神官家の出とも)

伊勢国のもとは素性確かな身分だったが、罪を犯して鈴鹿の山賊になった。(上野国にくだって土着したとの説も)遮那王義経の一番最初の郎党で、源平合戦でも何かと活躍した。敵陣と舌戦を交わしたり、平家方の豪族を言葉巧みに篭絡して味方に引き入れたりと、口のうまさでは右に出る者なし。壇ノ浦では平宗盛を生け捕りにした。しかし粗暴な一面もあり、腰越では一条能保と悶着を起こした。都落ちののち、吉野で義経らと別行動をとり、伊勢国守護を襲って鈴鹿山に逃れたのち自害を遂げた。「玉葉」によれば文治二年(1186年)七月二十五日のこと。「義経記」などでは、平泉まで同行して衣川合戦で皆とともに討死したことになっている。

江田源三弘基えだげんぞうひろもと
命をかけて名誉挽回
享年25?(1161?〜1185)
信濃国または武蔵国出身(源通政の子孫)
「義経記」などに登場する九郎義経の郎党。刺客・土佐坊昌俊らの一行をうかうかと見過ごしたことで義経に叱られたためその罪滅ぼしにと堀河夜討ちで奮戦、敵首二つを取った。しかし土佐坊の矢を首に受け倒れ、義経に看取られながら絶命した。

片岡次郎(太郎)常春かたおかじろう(たろう)つねはる

忠誠と処世にゆれた坂東武者
享年?(?〜?)
両総平氏(平忠常の子孫)

常陸国鹿島郡片岡を苗字とする(本来の所領は下総国三崎庄)

弟八郎為春とともに九郎義経に従い壇ノ浦にて神璽を見つけるなど手柄を立てたが、当時鎌倉と敵対していた佐竹氏と姻戚関係にあった上、義経と頼朝の折り合いが悪くなったため、文治元年(1185年)十月に所領を没収されてしまった。しかし文治五年(1189年)三月に返還されたところをみると、どうやら鎌倉に帰順して許してもらったもよう。代わりに弟八郎が、最後まで義経につき従って忠節を尽くした。


片岡八郎為春(弘経)かたおかはちろうためはる(ひろつね)
弁慶とは名コンビ
享年?(?〜1189)
両総平氏(平忠常の子孫)

常陸国鹿島郡片岡を苗字とする(本来の所領は下総国三崎庄)

兄常春とともに九郎義経に従った。「義経記」などでは力自慢同士ゆえか弁慶とからむことが多く、何かと競り合っては漫才チックなしゃべくりを展開してくれる。主従最後の衣川合戦でも弁慶とともに最後まで生き残り、主を守って奮戦した。しかし負傷し、これ以上戦えぬとわかるといさぎよく切腹して果てた。

金売吉次かねうりきちじ奥州藤原チームの頁にて紹介

鎌田盛政かまたもりまさ
由緒正しき源氏の郎党
享年?(?〜1184)
相模国出身・源義朝の乳兄弟鎌田次郎正清の子

兄弟:正近(鞍馬の牛若に真の出自を知らせた)、光政
通称:藤太

弟光政、佐藤兄弟とともに義経四天王と呼ばれた(…が、別説も)。一ノ谷合戦にて、早々と討死してしまう。

亀井六郎重清かめいろくろうしげきよ

兄弟ともども主のために命張ります
享年23(1167〜1189)
紀州熊野の社家出身
 鈴木党(紀伊国熊野三党のひとつ。東北に勢力を持っていた)
九郎義経の郎党。つねに義経の身辺にいた。壇ノ浦後には義経の使者として異心なき旨を伝えるため鎌倉に赴いた。主従最後の衣川合戦では、はるばる紀州から助っ人に駆けつけてきた兄・鈴木三郎重家とともに主を守って奮戦し、三人を討ち六人を負傷させたのち、力尽きて切腹した。


鬼一法眼きいちほうげん おにいちほうげん、とも
してやられた!陰陽師
享年?(?〜?)
京都在住の陰陽師

「義経記」に登場する、京都一条堀川に住んでいた陰陽師。兵法にくわしく、軍法、弓馬、剣術の知識を人々に教授していた。しかし秘蔵の兵法書「六韜」だけは門外不出にしていた。それに目をつけた九郎義経は、法眼の娘皆鶴を口説いて屋敷にこっそり住み込んだ。気づいた法眼は刺客を差し向けたが、あっさり返り討ちにされる。そうこうするうちに義経はまんまと「六韜」を書写し終えてしまった。こうして得た貴重な兵法の知識はやがて合戦において活用されることになった、と思われる。鬼一法眼というつかみどころのないこのキャラクターは後世の物語やドラマでは義経の敵になったりよき師となったりと、そのスタンスは多様にアレンジされている。

喜三太きさんた
名もなき猟師のひとり大舞台
享年27?(1163?〜1189)
熊野出身の猟師

「義経記」に登場する弓矢の得意な下男。堀河夜討の時、弁慶ら歴戦の郎党が皆出払っていた中、唯一館に残っていたため、味方が到着するまでたったひとりで主を守って得意の弓で奮戦、活躍した。そののちも忠実に義経につき従い、衣川合戦でも屋根裏から弓を射て防戦に尽くしていたが、首を射られて絶命した。

佐藤忠信さとうただのぶ奥州藤原チームの頁にて紹介

佐藤継信さとうつぐのぶ奥州藤原チームの頁にて紹介

鈴木三郎重家すずきさぶろうしげいえ  重綱(しげつな)とも
妻子も所領も捨てて奥州へ
享年?(?〜1189)
紀州熊野の社家出身
 鈴木党(紀伊国熊野三党のひとつ。東北に勢力を持っていた)
「義経記」「源平盛衰記」などに登場する。九郎義経の叔父行家にゆかり深い新宮出身ゆえか、弟亀井六郎重清とともに義経につき従った。平家滅亡後は頼朝から所領を賜り安泰を得ていたが、寝てもさめても義経のことが気にかかり、ついに所領を捨て妻子すら置き去りに、義経主従のいる奥州へ駆けつけた。衣川合戦では弟とともに奮戦、泰衝の郎党照井太郎高治を斬り負かし、ほかにも大勢の敵を斬ったが、力尽き自刃して果てた。

駿河次郎清重するがじろうきよしげ
ツライ斬首役をよくまかされました…
享年?(?〜1189)
駿河国出身
「義経記」「源平盛衰記」に登場する九郎義経の雑色。もともと竹之下次郎の名で猟師を生業としていたが、義経が黄瀬川宿にて兄頼朝と対面の頃より義経の家人となる。「義経記」では捕らえた刺客・土佐坊昌俊を六条河原で処刑したとされる。「源平盛衰記」では平宗盛の末子(八歳)を同じく六条河原で斬る役を担った。義経の都落ちにも同行し、雪の吉野をともにさまよった。のち、秀衡の子の謀叛の旨を報せに筑紫へくだる途中、六波羅探題に捕らえられてしまう。

備前平四郎びぜんへいしろう
最後まで残った立派な郎党(たとえ出番は少なくとも)
享年?(?〜1189)
「義経記」「源平盛衰記」に登場する九郎義経の郎党。一ノ谷の戦いに参加している。名前が出ているだけでさしたる逸話はないが、堀川夜討ちでは敵勢を二人討ち主従最後の衣川合戦では主を守る八人の郎党衆のひとりとして奮戦するも負傷し、最後には自害して果てた。

常陸坊海尊ひたちぼうかいそん
常陸坊海尊
雲隠れにし謎の僧かな
享年?(?〜?)
園城寺(三井寺)の僧兵

義経の家臣。しかし弁慶以上に実在の疑われる伝説的キャラクターゆえその人物像は一定していない。弁慶に劣らぬ薙刀の上手として戦場でめざましい活躍をする一方、危機に及んで誰よりも先に逃げる、来て・見て・逃げて常陸坊海尊といった面も。主従最後の衣川合戦当日も近くの山寺に参拝したまま戻らず、そのまま逃れて生き延びたとされる。そんな彼には、のち山にこもって不老不死の仙人になったという生存伝説がまことしやかに語り継がれた(陸奥国会津の僧・残夢、越後の僧・残月など)。

堀弥太郎景光ほりやたろうかげみつ
奥州金商人?頼朝の部下?義経の郎党?…いったい何者
享年?(?〜1186)
奥州商人?

「平治物語」には金商人と紹介されており、遮那王の鞍馬脱出・奥州下りの手引きをした謎の商人・吉次なる男の後身と言われている。ところが「義経記」では頼朝の従者として登場。奥州よりかけつけた九郎義経を頼朝のもとに案内している。またのちには佐藤忠信の首を由比ガ浜に懸ける役を担っている。逆に「玉葉」「吾妻鏡」では義経の郎党とされている。義経都落ちののち主と別行動を取り、佐藤忠信とともに京に潜伏、木工頭藤原範季に通じるなど工作をしていたところを鎌倉勢に生け捕られ、拷問の末、義経が南都興福寺に匿われていることを自供してしまった。

増尾十郎兼房ましおじゅうろうかねふさ
妻の「じいや」は忠義者
享年65?(1125?〜1189)
「義経記」に登場する九郎義経の妻(久我大臣の姫)の幼少よりの世話係だった老人。姫のために老体に鞭打って奥州くだりに同行した。衣川合戦では一番最後まで生き残り、義経と姫の死を見届けたあと、持仏堂に火を放ち、寄せてきた敵将・長崎太郎兄弟らを道づれにみずから炎の中に身を投じて果てた。

武蔵坊弁慶むさしぼうべんけい
武蔵坊弁慶

無法の僧兵・泣きドコロは義経?
享年39?41?(1149?51〜1189)
比叡山の僧兵
和歌山出身
/父:熊野別当湛増(別説もあり)
生まれた時から髪も歯も生えそろったとんでもない巨体の赤ん坊だったため、不気味がられて幼少の身を比叡に預けられた。ところがそこで大いに暴れて放逐され、諸国をさすらうはめに。しかしやはり何かと悪さをはたらき、結局ふらふら戻ってきた。そして京の五条の橋の上、太刀の千本狩りをしていたところを牛若丸にとっちめられ、以降、彼の忠実なボディーガードとなる。腕が立ち、知略に優れ、それでいてどこかユーモラスな愛すべきキャラクター。めっぽう強いのに女にはからっきし。義経への忠愛はたいへんに強く、衣川合戦、主従最期の折も敵勢の前にひとり立ちはだかり、無数の矢を受けても倒れず、死してなお義経を守り続けた。


鷲尾三郎経春わしおさぶろうつねはる  鷲尾三郎義久(よしひさ) とも
鷲尾三郎経春
猟師のせがれが武者デビュー
享年23(1167〜1189)
丹波国多紀郡鷲尾(篠山)or摂津国山田庄
/父:鷲尾庄司武久or鷲尾惟綱
通称:三郎、十郎、熊王丸

「平家物語」「義経記」「源平盛衰記」などに登場する九郎義経の郎党。一ノ谷合戦の折、鵯越にて平家の本陣一ノ谷への抜け道を案内した猟師の少年。その功績により義経の名から一字取った「経春」(「源平盛衰記」の場合。「平家物語」では“義久”)の元服名を与えられた。その後義経の郎党となってつねにそばにつき従い、主従最後の衣川合戦でも皆とともに戦い、主に殉じた。

※以下・九郎義経のカノジョたち※

モテモテだった九郎義経、カノジョの数もそれはそれは多かったようにいわれます。
「平家物語」では12人、「義経記」では24人。なぜにダース単位。
が、実在が明らかなのは静御前と河越氏の娘、平時忠の娘の三人だけ。あとはすべて創作上の相手です。
静御前しずかごぜん
静御前 カノジョは使える白拍子
享年20?(1168〜1187?)※別説25歳(1165〜1189)
淡路志賀津or丹後国磯村の出身

母:磯禅師は讃岐国大川郡小磯の出の白拍子創始者とも

九郎義経最愛の愛妾、白拍子。堀河夜討では事前に敵宅に密偵を放ったり、義経と絶妙のコンビネーションで戦さ支度をととのえたりと、きびきびした有能な女性だったことがうかがえる。都落ちにもついてゆくが、女人禁制の吉野山でやむなく別れる。そののち鎌倉方に捕まり尋問を受けるが何も答えず、舞の奉納を乞われれば抜け抜けと恋心を詠って、義経への愛慕とみずからの矜持をどこまでもつらぬいた。しかし、その時身ごもっていた義経の子を生み落とすなり殺されてしまい、失意のうちに京に戻り、のちに死去したとも、義経を追って奥州を目指したともいわれる。

河越太郎重頼の娘かわごえたろうしげよりのむすめ
押しつけ妻でも愛はホンモノ
享年22(1168〜1189)※吾妻鏡より
鎌倉御家人・坂東武士河越太郎重頼の娘
/九郎義経の正妻
名:京御前とか郷(さと)御前とか…

一ノ谷合戦ののち頼朝のはからいで九郎義経の正妻となった河越氏の姫。しかしその実情は、義経が勝手に公家の姫などと結ばれるのを防ぐため、また義経の不穏な動きを見張るための、政略結婚以外の何ものでもなかった。しかしそういった周囲の思惑とは別に夫婦仲は睦まじかったようで、追われる身となった義経が平泉に逃げ延びると、姫は危険を承知でこれを追いかけ、衣川合戦ではふたりの間に生まれた幼子らとともにみずからすすんで夫に殉じた。

平時忠の娘たいらのときただのむすめ
箱入り姫のまさかの縁談
享年?(1162?64〜?)
貴族平氏・平時忠(関白)の娘

名:蕨(わらび)御前とも
政界を牛耳る権大納言・平時忠の愛娘。大事にされすぎて婚期をすぎてもどこへも嫁がされずにいた。しかし平家が壇ノ浦に滅び世が源氏のものとなった際、保身をはかりたい父時忠の思惑で、九郎義経のもとへ贈られてしまう。この時姫は二十三歳(二十一歳とも)。だがやがて時忠は能登に配流、おそらく姫も父につきそって能登に行ったと思われる。しかし義経自害に殉じたとされる正妻は河越の娘ではなくこの時忠の娘ではなかったかとの見方もある。

久我大臣の娘こがのおおいのむすめ
静亡きあとトップヒロインの座をゲット
享年?(?〜1189)
「義経記」に登場する九郎義経の愛妾。九歳で父を、十三歳で母を亡くしてからは爺やの十郎兼房が面倒を見ていた。義経の奥州くだりに同行するべく稚児姿に身をやつすなど、なかなか一途で度胸のある姫。逃避行の途でも義経と歌を詠み合ったりとラブラブだった。のち、衣川合戦で義経とふたりの子らとともに自害した。でもこれはあくまで「義経記」内の世界、現実のキャストは河越氏の娘だろう…。

みなづるひめ
恋しいひとは父の敵!悲しい初恋の末路
享年16(1159?〜1174?)

京都在住の陰陽師・鬼一法眼の末娘

「義経記」に出てくる九郎義経初恋の相手。十七歳のころ奥州から一時的に京都に戻っていた義経は陰陽師鬼一法眼の所有する「六韜」をマスターすべくこっそり彼の家に住み込み、まずは下女と親しくなり、ついで法眼の娘・皆鶴姫との仲を取り持ってもらった。姫を篭絡して兵法書を盗み出させた義経はこれをまるまる暗記。気づいた法眼は怒りくるって刺客を差し向けるが義経はこれを返り討ちにし、都を去ってゆく。残された皆鶴姫は義経恋しさのあまり死んでしまう。または奥州へ去った義経を追ってその途中(会津あたり)で没したとも。どっちにしても女を利用するだけ利用して捨てるなんて!と女性団体から苦情がきそう。責めてくれるな、男には女を振り切っても進まねばならぬ道があるのさ…。

じょうるりひめ
琴と笛とのラブラブコラボレーション
享年24(?〜?)
三河国矢矧(やはぎ)宿の長者の娘

父:三河国司源中納言兼高
母:矢矧宿の女主人・東海道一の遊女
室町時代の御伽草子「浄瑠璃十二段草紙」で描かれたラブストーリー。元服して奥州に向かう九郎義経は三河国矢矧宿にて琴を奏でる絶世の美女・浄瑠璃姫に出会い、姫の琴の音に合わせて笛を吹き意気投合するが、思いを残しつつ再び旅路に着く。しかしそのあと駿河国で奇病にかかり瀕死におちいる。それを察した浄瑠璃姫は義経のもとに駆けつけ、すでに息絶えていた義経を蘇生させる。愛を確かめ合ったふたりは再会を誓って別れるが、その三年後に義経が矢矧宿を訪ねるとすでに姫は没していた。義経恋しさのあまり焦がれ死にしたのだとか、義経が奥州で結婚したことにショックを受け入水自殺したのだとか、姫に横恋慕していた長者の甥・藤太に殺されてしまったのだとか、その死因にはいろいろな説がある。