1147(久安元年)から1199(正治元年)までをご紹介。
歴史的事件は赤字、人物の誕生は緑字、没は紫字で、
また九郎義経にまつわる事項はピンクで表示しています。

年号 頼朝 義経 できごと
1147(久安1) 1 4月(or10月) 源頼朝誕生
1153(仁平3) 7 1月 平忠盛(清盛の父)没(58歳)、清盛が平氏の棟梁となる
1154(久寿1) 8 11月 源為朝九州で乱行、ために父為義解官される
    源義朝、家督相続
? 
源義仲誕生
1155(久寿2) 9 7月 近衛天皇没(17歳)
7月 後白河天皇即位
? 
源義賢(義仲の父)、義平に殺害される 義仲、木曽に逃れる
1156(保元1) 10 7月18日 改元(久寿→保元)
7月20日 
鳥羽法皇没(54歳)
7月26日〜29日 
保元の乱(後白河天皇vs崇徳上皇)
           義朝・清盛がついた後白河サイドが勝利

8月10日 崇徳上皇、讃岐に配流
9月 源為朝(崇徳サイドについていた)逮捕、伊豆に流される
1157(保元2) 11 ? 北条政子誕生
1158(保元3) 12 2月 頼朝、皇后宮(統子内親王)権少進に任じられる
8月 二条天皇即位(後白河上皇院政開始)
1159(平治1) 13 1 1月 頼朝、右近将監を兼任、上西門院(統子内親王)の蔵人となる
3月1日 
頼朝の母(熱田神宮大宮司藤原季範の娘)病没
   改元(保元→平治)
12月27日(9日?) 
平治の乱(源義朝挙兵、平清盛に敗れる)
? 
源義経(牛若)誕生
1160(平治2) 14 2 1月4日(前年12月29日とも)
    源義朝、東国落ち→尾張で郎党の裏切りに遭い殺害される
(38歳)
    
※義朝の次男朝長、重傷のため敗走中に父義朝により殺害される(16歳)
1月10日 改元(平治→永暦)
1月13日 頼朝、近江国にて平頼盛の郎党に捕縛される
1月25日 義平、京の六条河原で斬首さる(20歳)
2月10日 
常盤御前(牛若の母)、牛若ら三人の子をつれて大和国龍門にのがれる
3月11日 頼朝、斬首を免れ伊豆に流される
    
常盤御前、平家に捕まり清盛に召される
8月 平清盛、初めての厳島神社参拝
1164(長寛2) 18 6 8月 崇徳上皇、配流地讃岐にて没(46歳)
9月 平清盛、厳島神社に「平家納経」を奉納する
12月 後白河上皇、蓮華王院(三十三間堂)を供養する
1165(永万1) 19 7 ? 延暦寺、興福寺と争う(2年前には園城寺の堂塔を焼く)
? 六条天皇即位(摂政・藤原基実)
? 
牛若、鞍馬へ(遮那王となる)
1167(仁安2) 21 9 2月11日 平清盛、太政大臣になる(5月に辞す)
? 佐々木盛綱元服、郎党として頼朝のもとへ
1168(仁安3) 22 10 2月 平清盛、出家
? 清盛、厳島神社社殿を修築
1169(嘉応1) 23 11 ? 後白河上皇、出家
? 
遮那王牛若、おのれの出自を知りグレはじめる
1170(嘉応2) 24 12 5月25日 奥州の藤原秀衡、鎮守府将軍になる
1171(承安1) 25 13 ? 頼朝、伊豆豪族伊東氏の姫(八重姫)とネンゴロになる
1172(承安2) 26 14 2月 清盛の娘徳子、中宮となる
1173(承安3) 27 15 5月 文覚、伊豆に流される(頼朝と接触?)
? 平清盛、摂津兵庫島を築く
? 頼朝と八重姫の子、
千鶴誕生
1174(承安4) 28 16 3月 伊東祐親、三年間のつとめを終えて京から帰ってくる
3月3日 
遮那王、鞍馬を脱出して元服 奥州にくだる
6月(9月?) 八重姫と頼朝の仲が祐親にバレる 
   
祐親激怒、千鶴を滝つぼに投げ入れて殺す
1175(安元1) 29 17 ? 九郎義経、奥州にたどりつく 藤原秀衡に歓待される
1177(治承1) 31 19 4月 京都大火(大極殿が消失)
5月 前天台座主明雲が伊豆に流される
6月 
鹿ケ谷の陰謀
? 北条政子、頼朝のもとに押しかけ結婚
1178(治承2) 32 20 11月12日 安徳天皇誕生
? 頼朝と政子の長女、
大姫誕生
1179(治承3) 33 21 7月 清盛の長男重盛病没(42歳)
11月 清盛、敵対する公卿らを解官、後白河法皇を幽閉(治承三年のクーデター)
1180(治承4) 34 22 2月 平清盛、摂津大和田泊を修築
2月21日 安徳天皇即位
4月9日 源氏の旗挙げを促す
以仁王の令旨が発せられる
4月27日 以仁王の令旨が伊豆の頼朝に届く 慎重な頼朝は去就を定かにせず
5月26日 
源頼政、以仁王、源氏の旗挙げに立つも敗死
6月2日 平清盛の独断で
福原(神戸)遷都
7月 
後鳥羽天皇誕生
8月17日 
伊豆にて頼朝挙兵
8月23日 頼朝、
石橋山の合戦で大敗を喫して敗走(のち安房に逃れる)
9月7日 木曽にて義仲挙兵
10月6日 頼朝、鎌倉に入る
10月20日 
富士川合戦 多勢の源氏軍にびびった平家軍、戦わずして撤収
同月21日 
黄瀬川宿にて奥州より駆けつけた義経と頼朝、涙の対面
11月 頼朝、侍所を設置
    頼朝、佐竹秀義を討伐し領地を没収
11月26日 福原より京都へふたたび遷都
12月 後白河法皇の院政復活
12月4日 藤原秀衡が頼朝追討の請文を提出したとの風説とぶ
12月28日 平重衡の軍勢が東大寺・興福寺を焼く
1181(養和1) 35 23 1月14日 高倉上皇没(21歳)
閏2月4日 
清盛熱病のため没(64歳)
3月10日 尾張国墨俣川の合戦
       平重衡、源行家軍を破る 
義経の同母兄義円は戦死(27歳)
3月17日 藤原秀衡が軍を率いて白河の関を越えたとの風説とぶ
7月14日 改元(治承→養和)
7月20日 
鶴岡八幡宮上棟式 頼朝、大工に与える馬をいやがる義経に引かせる
8月14日 木曽義仲追討使として平経正・通盛、京を発つ
8月15日 藤原秀衡、陸奥守に任じられる(頼朝討伐のため?とも)
11月5日 
義経、平氏勢迎撃のため遠江へ赴く…予定が延期される
この年、西日本大飢饉   
1182(寿永1) 36 24 2月25日 木曽義仲追討使として平教盛進発するも実現せず
4月5日 頼朝、江ノ島に弁才天を勧請、文覚に命じ藤原秀衡調伏の祈祷を行う
5月27日 改元(養和→寿永)
8月12日 頼朝の長男、
頼家誕生
8月(9月?)25日 
頼朝の同母弟希義、土佐にて討たれる
? 頼朝、亀の前との浮気発覚 政子怒って一時伊豆に帰ってしまう
1183(寿永2) 37 25 2月 頼朝、叔父の志田義広と対立
3月 頼朝、義仲討伐のため木曽へ進軍
   義仲、和平の証として嫡男義高を鎌倉へ人質として差し出す
4月 木曽義仲追討使として平維盛京を立つ
5月11日 
倶利伽羅峠の合戦(木曽勢、越中国にて平氏陣地を奇襲して大勝)
7月22日 義仲、延暦寺に入る
7月25日 平家一門、安徳天皇と三種の神器を奉じて西へと都落ち
7月28日 義仲入京
8月20日 後鳥羽天皇即位
9月19日 後白河法皇、義仲に平家追討を命じる
10月9日 頼朝、入京を促されるも奥州や佐竹氏が気になって動けず
閏10月1日 義仲、備中国水島で平家勢(重衝)に惨敗
閏10月14日 後白河法皇、頼朝に東国沙汰権を認める
閏10月17日 藤原秀衡が義仲と組んで鎌倉を襲う気だとの風説とぶ
閏10月17日 
義経、義仲牽制のためひそかに近畿に向け出陣
11月4日 義経勢、美濃国不破関にいたる
11月7日(10日?) 義経勢、近江国にいたる
      
義仲暴挙のため鎌倉軍の入京を希望する法皇の意向を頼朝に報告
11月17日 後白河法皇、ついに義仲に愛想をつかし京退去を命じる
11月18日 義経勢、伊勢神宮に到着
11月19日 逆ギレ義仲、
法住寺殿御所を焼討ちし後白河法皇を監禁
12月1日 義経勢、伊勢にて伊勢国と和泉守平信兼の協力を得る
12月10日 キレキレ義仲、法皇に頼朝追討の院宣を出させる
12月25日 
頼朝、義仲討伐のため軍勢を京に進発させる 
1184(元暦1) 38 26 1月8日 義仲、征夷大将軍になる(ムリヤリ)
1月20日 
宇治川合戦 鎌倉軍、木曽軍を破る
        
義仲、京都を出て敗走、粟津で討たれて死去(31歳)
1月26日 平家追討の宣旨くだる
1月27日 義仲追討戦の報告が鎌倉に届く
1月28日 
義経の郎党が何やら悪さをしたらしく小槻隆職なる人物に訴えられる
1月29日 
範頼・義経、平家追討のため西へ進発
2月1日 範頼、尾張国墨俣川で御家人と先陣争いのすえ乱闘 頼朝に怒られる
2月4日 頼朝、紀伊国湯浅宗重の追討を禁じ本領安堵するよう義経に書状を送る
2月5日 
三草山合戦 義経、三草山(兵庫県)の平家陣に夜襲をかけ駆逐
2月6日 夜、
義経、鵯越道をめざしてばく進
2月7日 
一ノ谷合戦 早暁、大手軍範頼が生田森で平家勢と戦闘開始
              
義経奇襲に成功、平家勢ことごとく海上に逃れて敗走
2月9日 
義経、京都に凱旋
2月11日 
義経・範頼、平氏の首級を獄門にかける件をしぶる朝廷に認めさせる
2月13日 
討ち取った平家の将の首を八条河原にさらす
      源氏軍(範頼ら)はいったん鎌倉に凱旋(
義経は京都に残留
2月15日 一ノ谷合戦の戦勝報告、鎌倉に届く
2月18日 
頼朝、義経に京都の警固を命じる旨、使者を通じて伝える
2月25日 
頼朝、義経に畿内近国の軍事統率権を与え平氏追討を命じる
2月29日 
義経の平氏追撃戦、ひとまず延期
3月 
義経、近江・丹波国等の武士の非法停止、
    高野山領阿弖川庄に対する寂楽寺所司の押領を停止、
    主殿領年預の諍いを裁くなど頼朝の代官として事務に追われる日々

3月2日 
一ノ谷合戦の捕虜・平重衡、義経邸に迎え入れられる
3月10日 平重衡、梶原景時に連れられ鎌倉へ出立
3月27日 頼朝、正四位下に叙せられる
3月28日 平重衡、頼朝と対面 重衝のきりっとした態度に頼朝好感を持つ
4月24日 
義仲の子義高処刑(12歳)
4月16日 改元(寿永→元暦)
4月22日 
頼朝、平氏に与していた源光行を免ずるよう義経に伝える
5月 
義経、石見国の御家人に押領使藤原兼高に従い平氏追討に加わるよう命じる
5月2日 
義経、高野山領阿弖川庄の件で書状を送る
5月24日 
義経、高野山伝法院領紀伊国七箇庄の兵糧米を停止する
5月27日 
頼朝、藤原兼高の地位を安堵するよう義経に命じる
6月5日 論功行賞 
義経なぜか功績認められず除外(範頼は三河守に推挙)
7月3日 頼朝、義経を平氏追討使として西海に派遣する旨、法皇に伝える
7月5日 伊勢平氏が反乱 伊賀守護大内惟義を襲撃
7月19日 佐々木氏、伊勢平氏討伐のため近江国で戦う 佐々木秀義戦死(73歳)
8月3日 
頼朝、京に潜伏中の平信兼の子らを討つよう義経に命じる
8月8日 範頼、平家追討の大将として西国に向け鎌倉を出立
8月6日 
義経、後白河法皇より左衛門尉検非違使に任命される
8月10日 
義経、平信兼の息子三人を誅する
8月12日 
義経、伊勢に赴き平信兼を討つ
8月17日 義経の無断任官の報、鎌倉に届く 
       頼朝むちゃくちゃ怒る 義経の平家追討任務は取り消しに
8月26日 
義経の平信兼ら討伐の旨を報告する飛脚、鎌倉に届く
8月27日 平家追討使の範頼軍、京都に到着

9月1日 範頼軍、平家追討のため京を出立(
義経は京にて謹慎処分
9月5日 頼朝、法皇に願い掃部頭安倍季弘を解官 その旨法皇より義経に伝わる
9月9日 
頼朝、平信兼の京都の没官地を義経に預ける
9月14日 頼朝のはからいにより
河越重頼の娘、義経の正妻として京に向かう
9月18日 
義経、従五位下となる
9月20日 
義経、摂津国垂水西牧萱野郷内の狼藉をやめさせる
10月6日 
頼朝、公文所(別当・大江広元)を設置
10月11日(15日?) 
義経、院の昇殿を許され拝賀の式を挙げる(頼朝いよいよ怒る)
10月25日 
義経、大嘗祭御祓に供奉する
10月26日(20日?) 
頼朝、問注所(執事・三善康信)を設置
11月 範頼軍、平家討伐に苦戦 兵糧米も底をつき御家人衆文句タラタラ
11月14日 
頼朝、西国に所領を持つ御家人の沙汰を義経に命じる
12月3日 
北条時政、頼朝の園城寺帰依を義経に伝える
12月20日 
義経の西国所領沙汰付の証文が鎌倉に届く
12月29日 
義経、高野山伝法院領の兵糧米・万雑公事の停止を命じる
1185(文治1) 39 27 1月6日 頼朝、平家討伐でグダグダになってる西国の範頼にアドバイスの書状送る
1月8日 
義経、ふたたび平家追討戦の大将に抜擢された旨、法皇に伝える
1月10日 
義経、平家追討戦のため京を進発
1月22日 
義経、和泉国春木庄内観音寺住僧の住房を安堵し武士らの狼藉を禁ず
1月26日 範頼軍、九州に上陸
2月13日 
義経に屋島攻撃の出陣命令がくだる
2月14日 範頼から泣き言の書状届く、頼朝「がんばれ」と懇切丁寧に激励の返書
2月16日 
義経、摂津国渡辺に到着
      
 院使高階泰経が義経を訪問、出陣を引きとめるも義経いうこと聞かず
      
 義経、船に逆櫓つけるか否かで梶原景時と大ゲンカ
2月17日 
義経、暴風雨のなかを強引に船五艘(兵数150)で出航
2月18日 
義経勢、阿波国椿浦(徳島勝浦)にどうにかこうにか無事到着
       桂浦で田口良遠を討ちすぐさま屋島をめざす

2月19日 
屋島合戦 義経、平家の陣を奇襲 平家は海上に逃れる
      エピソードいろいろ(那須与一の扇の的/
義経の弓流し継信討死28歳など)
2月21日 志度浦の戦い
       伊勢三郎の口車に乗せられた阿波教能の裏切りで平家彦島へ敗走
      河野通信と熊野湛増が源氏方につく
2月22日 梶原景時率いる源氏の主力勢、ようやく屋島に到着
3月8日 
義経から鎌倉に屋島の戦況報告が届く
3月14日 頼朝、平家追討に際して遠慮を促す旨、範頼に命じる
3月21日 
義経、壇ノ浦に向かう予定が雨で延期
      周防国が源氏に協力、兵船を出してくれる
3月22日 
義経、三浦義澄を先頭に瀬戸内や熊野の水軍を率いて周防を出発
3月23日 
義経勢、壇ノ浦奥津に到着
3月24日 
壇ノ浦合戦 源氏軍、平家軍に勝利
       
平家一族入水、安徳天皇没(8歳)
4月4日 壇ノ浦合戦の源氏勝利が京都に報じられる
4月5日 三種の神器奉還を命じる勅使が長門国に赴く
4月11日 壇ノ浦合戦の源氏勝利が鎌倉に報じられる
4月15日 頼朝、無断任官した家人ら24名を処罰
4月21日 義経のダメダメぶりをチクった梶原景時の報告が頼朝に届く
4月24日 
義経、京都に凱旋
4月26日 
平家の捕虜・宗盛、時忠ら、京都の義経邸へ迎えられる
4月27日 頼朝、従二位となる(宗盛逮捕の功績で)
      頼朝、公文所を政所と改称
      
義経、院御厩司に任命される
4月28日 徳子、京都吉田の律師・実憲の房に入る(5月1日落飾)
4月29日 頼朝、西国の御家人衆に、今後義経に従うことを禁じる
       (同様のことを5月4日景時に、5月5日範頼に伝える)
5月4日 
義経、頼朝に勘当される
5月5日 
義経、九州における独断的な沙汰について糾弾される
      頼朝、壇ノ浦に沈んだ宝剣の探索を範頼に命じる
5月7日 
逆心なき旨伝える義経の起請文鎌倉に届くも、頼朝許さず
     義経、平宗盛ら平家の捕虜をつれて鎌倉へ向かう
(一条能保も出発)
5月15日 
義経、相模国酒匂に到着 
       使者の北条時政、捕虜らのみを引き取り
義経には鎌倉入りを禁じる
5月16日 
伊勢三郎、一条能保の郎党と乱闘さわぎ 頼朝いよいよ怒る
5月20日 平時忠の能登配流が決定
5月24日 
義経、頼朝の許しを請うため書を送る(腰越状)も、効き目なし
6月7日 頼朝、平宗盛父子と御簾越しに対面
       見苦しく命乞いをする宗盛に頼朝は辟易
6月9日 
義経、平家の捕虜(宗盛、重衡)を畿内に連れ帰るよう命じられる
6月13日 
義経のものになっていた平家没官領が没収される
6月21日 
義経、近江国篠原にて平宗盛を処刑する(39歳)子の清宗も処刑(16歳)
      
義経京都に入る
6月22日(23日?) 
南都に引き渡された平重衡、処刑される(28歳)
6月23日 平宗盛父子の首、三条河原にさらされる
7月9日 京都に大地震 しかし
義経の六条堀川屋敷はビクともせず
7月12日 
義経、京都の警固(野盗討伐など)を法皇より命じられる
8月4日 頼朝、源行家追討令を近江の佐々木定綱にくだす
8月14日 改元(元暦→文治)
8月16日 小除目(こじもく=臨時の官職任命)により、
義経が伊予守に任じられる
        「なんで辞退しない」と頼朝怒る
8月27日 東大寺落慶供養のため
後白河法皇南都入り、義経もお供する
8月28日 
東大寺大仏の落慶供養
        後白河法皇、みずから大仏に入眼(聖武天皇使用の筆を用いて)
9月1日 源義朝の遺骨をたずさえた勅使・大江公朝が鎌倉入り、頼朝と対面
9月2日 梶原景時の息子景季、京に赴く(南御堂落慶法要の品々受領のため)
       入京ついでに義経を監視すべく命じられる
9月3日 源義朝の遺骨、南御堂(のち勝長寿院と号す)の敷地内に葬られる
9月4日 勅使大江公朝が頼朝からの伝言をたずさえて京に戻る
       先の大地震について、徳政と、崇徳院の鎮魂に尽力すべしとのこと
9月12日 
景季入京 義経と対面 義経は病みあがりでヨレヨレ(仮病?)
9月23日 平時忠が能登に向かう
9月27日 範頼、九州から京都に戻る
9月 徳子、寂光院に入る
10月6日 景季鎌倉に戻る 義経に叛意ありと報告する
10月9日 
頼朝、義経追討を発表 義経暗殺のため土佐坊昌俊を京に派遣
10月11日 
義経、法皇に行家の謀反をとめるよう命じられるも「ムリ…」と報告
10月13日 
義経、法皇に会う
       藤原秀衡が義経の謀反に協力するとの風説とぶ
10月15日(16日?) 
義経&行家、しぶる法皇に頼朝追討の院宣を請う
10月17日 
堀川夜討 土佐坊昌俊、義経の屋敷を襲うも失敗
       土佐坊が法皇の御所を襲ったとの風説とぶ
10月18日 
後白河法皇、ついに折れて義経・行家に頼朝追討を命じる
10月19日 頼朝、父遺愛の太刀「吠丸」を法皇に献じる(法皇護身の剣紛失を受けて)
       
義経が伊勢国の守護所を襲撃したとの風説とぶ
10月22日 義経暗殺失敗&頼朝追討院宣がくだったとの報告、鎌倉に届く
       
義経、反鎌倉の兵を募るが集まらない
10月23日 近江国の武士、義経への協力をしぶり引っ込む
       河越重房、勝長寿院の落慶供養のお供の役を外される
10月24日 鎌倉にて勝長寿院(頼朝が父義朝のため建立)落慶供養
       頼朝、御家人衆に義経追討を布告するも応じる者ほとんどおらず困る
10月25日(24日?) 小山朝政・結城朝光、義経討伐の先鋒隊として鎌倉を発つ
10月26日 
土佐坊昌俊、捕らえられて処刑される
10月29日 頼朝、義経追討のため鎌倉を進発
10月30日 摂津国太田頼基、義経に協力し船を提供した紀伊権守兼資を討つ
       
義経が北陸に向かったとの風説とぶ
11月1日 頼朝、黄瀬川宿にてしばらく逗留、様子見モード
      
義経西国行きを延期 北陸へ向かうか迷う?
11月2日 
義経らに西国平定の院宣がくだる 義経は九州、行家は四国の地頭に任命
      義経に船を提供しようとしていた藤原友実が庄四郎に討たれる
11月3日 
義経と行家、頼朝との戦いを避けるため京を出る(総勢200騎)
11月4日 
義経、摂津国河尻にて太田頼基・多田行綱・豊島冠者らに襲撃される
11月5日 鎌倉軍の先発隊1000騎、入京
      
義経、大物浦に到着 西国めざして乗船するも嵐…
11月6日 
義経、暴風雨のため遭難 天王寺のあたりに泊めてもらう
11月7日 頼朝率いる黄瀬川の陣に義経都落ちの報告が届く

      
義経の判官・伊予守の職、解任される
      義経が豊後武士に討たれたとの風説とぶ
11月8日 頼朝ホッと一安心、鎌倉に戻る
11月9日 
義経淡路島に上陸との風説とぶ
11月11日(12日?) 
義経・行家追討の院宣がくだる
11月12日 河越重頼、所領を没収される(謀反人義経の縁者ということで)
       
義経と静、吉野山で再会する?
11月13日 関東の御家人衆ぞくぞく入京
11月15日 親法皇派の大蔵卿高階泰経が鎌倉入り、弁明するも…
        頼朝、法皇に対して「日本一の大天狗」発言
11月17日 
義経の愛妾・静御前が吉野にて捕まる
11月20日 義経と同行していた平時実が捕縛される 義経生存の報、京都に伝わる
11月22日 
義経、多武峰の僧十字房のもとに身を寄せる
11月24日(17日?) 北条時政、入京
11月25日 義経捜索の宣旨くだる
11月29日 
頼朝、義経捕縛のため全国に守護・地頭を設置
       
義経、十字房のはからいで八人の僧を供につけてもらい十津川へ向かう
12月3日 義経の同母弟・一条能成が鎌倉入り
12月6日 頼朝、朝廷に義経の協力者らの解官を要求する
12月8日 
とらわれの静御前、吉野から京都の北条時政邸に移送される
12月14日 藤原秀衡、院に献物
12月15日 
北条時政が静御前を尋問したとの報告が鎌倉に届く
12月16日 頼朝、静御前を鎌倉に送るよう北条時政に命じる
12月17日 親義経派の高階泰経ら解官される
12月28日 親鎌倉派の九条兼実、頼朝の要請により内覧の宣下を受ける
? 頼朝の次女
乙姫誕生(この間に頼朝また浮気)
1186(文治2) 40 28 1月〜2月 義経畿内に潜伏
2月18日 
義経、多武峰潜伏との報あり
      鞍馬の東光坊と興福寺の聖弘、義経隠匿の咎で鎌倉に召喚されること決定
2月30日 義経捜索の宣旨くだる
3月1日 
静、母の磯禅師とともに鎌倉につれてこられる
3月6日 
頼朝、義経の行方について静を尋問 静ノラリクラリとかわす
3月15日 
義経、伊勢大神宮に黄金の太刀を奉納
3月22日 
静が義経の子を妊娠していることが発覚
4月 後白河法皇、寂光院の建礼門院徳子を訪問(「大原御幸」)
4月8日 
静、鶴岡八幡宮で義経を慕う舞を舞う
4月20日 
義経、比叡山に匿われているとの報あり
      頼朝、比叡山の僧が義経捕縛のジャマをしていると朝廷に訴える
4月21日 安田義定、遠江国で義経捜索
4月24日 頼朝、藤原秀衡に書を送ったところ請文が届く
4月25日 
義経&行家が洛中に潜伏中との報あり
5月 
義経、鞍馬または岩倉に潜伏中?
5月6日 京都にて義経捜索が開始
5月10日 
義経&行家を近衛基通・後白河法皇が匿っているとの風説とぶ
5月12日 
行家、和泉国で処刑される
5月13日 行家の子光家も討ち取られる
5月14日 
梶原景茂(景時の息子)、工藤祐経らが静の宿所に押しかけムリヤリ宴会
        景茂の無礼に静ブチ切れ、辛辣に叱責して追い払う

5月20日 行家の兄弟・興福寺僧大進君、鎌倉に召還される
5月25日 行家の首、鎌倉に届く
5月27日 
静、頼朝の娘・大姫の願いに応じて勝長寿院にて舞う
6月4日 義経に協力していた鞍馬寺の僧、召し取られる
6月7日 
義経、伊勢→奈良方面に潜伏との報、伊勢大神宮よりあり
      伊勢祭主大中臣能隆、義経のために祈祷してくれる
6月12日 
義経、大和国宇陀郡に潜伏との報あり
6月13日(6日?) 
義経の母・妹、捕らえられる 義経の行方について尋問される
           
 岩倉に滞在中との証言を得る→義経捜索、よりきびしさを増す
6月16日 源義経の娘婿・源有綱、大和国宇陀郡で襲われ自決
6月20日 
義経、比叡山に潜伏
6月22日 
義経が仁和寺・岩倉・比叡山に潜伏中との報あり
        
これらの地域を襲撃するももぬけのカラ…との報、鎌倉に届く
7月 
義経、義行と改名される
7月25日 義経の郎党伊勢三郎、伊勢国にて討死
7月30日 
義経、比叡山に潜伏との報あり
閏7月 
身の危険を感じた義経、南都に移動?
閏7月10日 
義経の侍童・五郎丸捕らえられて尋問される
         義経が6月20日頃比叡山にいたこと判明、その報鎌倉に届く

閏7月11日 比叡山の僧・中厳、逃亡する
閏7月12日 無動寺の僧・財修、逃亡する
閏7月17日 義経に協力する僧を捕縛するための宣旨が近江・北陸道にくだる
閏7月29日 静、
義経の子を出産 男児であったためすぐさま殺される
8月15日 西行法師、頼朝に乞われて面会
9月16日 
静、鎌倉を去る
9月20日(22日?) 京にて
義経の郎党佐藤忠信、討死する(26歳)
      
義経の郎党堀弥太郎捕縛、義経は興福寺に隠匿と自供(のち処刑)
9月21日 義経の協力者・興福寺の聖弘、捕らえられる 南都の衆徒激怒
      
義経は南都を逃れて伊賀方面へ?
10月17日 興福寺の聖弘、京都に移送される
11月5日 頼朝、義経捕縛がままならぬのは畿内に協力者が多いからだと怒りの抗議
11月18日 義経捕縛検討会議 さらなる捜査と諸寺への奉幣&祈祷を決定
11月24日 
義経、義顕(よしあき)と改名される
11月25日 頼朝怒りの抗議に朝廷うろたえ6回目の義経追討院宣を出し大いに祈祷
12月 義経追討の宣旨、近畿・北陸道に
    
このあと、義経の行方杳として知れず
1187(文治3) 41 29 1月〜2月 義経、奥州をめざして北陸道(or伊勢・美濃経由)をたどる
1月20日 頼朝、伊勢大神宮に奉幣、義経捕縛のための祈祷を依頼
2月10日 
義経、奥州平泉にたどりつく
3月5日 頼朝、義経捜索の件で京に書を送る
     一条能保、それに返書 秀衡は義経と組むつもりだと報告
3月6日 高野山に義経捕縛の祈祷すべしとの院宣くだる
3月8日 
頼朝、義経を匿っていた興福寺の聖弘得業を鎌倉に呼び寄せて詰問
       …も、逆に「兄弟仲良く」と諭される

4月 陸奥に配流された前山城守基兼が帰京しない件について頼朝、秀衡を責める
   頼朝、大仏再建のため秀衝に三万両出させるべく後白河法皇に依頼
4月4日 鶴岡若宮別当が上野国金剛寺で義経に会う夢を見る 頼朝、祈祷を命じる
4月30日 
義経、美作国山寺で没するとの風説とぶ(5月3日に京に伝わる)
9月4日 頼朝の使者が奥州より戻る・秀衡叛意ありと報告
9月4日 義経追討の院宣が奥州平泉に届く
9月22日 頼朝、鬼界ヶ島に中原信房・天野遠景らを遣わし義経残党を探索する
10月29日 
秀衡、没(66歳) 義経を守り抜くことを息子らに遺言する
       秀衡の次男(嫡子)泰衡、奥州領主の座を継ぐ
12月 頼朝、鎌倉⇔京都の飛脚行程を7日と決める
1188(文治4) 42 30 2月8日 義経、出羽国に派遣された法師昌尊と合戦との報あり
2月14日 泰衡に義経追討の宣旨がくだる
2月17日 頼朝、義経・泰衡をともに追討する意向を朝廷に伝える
       また
義経の名を「義顕」からもとの義経に戻すように要求
2月21日 泰衡に義経追討の宣旨がまたくだる
2月26日 泰衡に義経追討の宣旨、さらにくだる
3月29日 義経追討の宣旨伝達のため、使者が下向する
6月11日 泰衡の京への使者(馬や金など貢物を携えた)、大磯到着
        頼朝、これを逗留させず
8月9日 頼朝、比叡山や奥州藤原氏に対する対処が遅いとして朝廷に抗議
10月12日 泰衡に義経追討の宣旨、あらためてくだる
        従わぬ場合は泰衡ともども追討する等だんだん内容がきびしくなってくる
10月17日 頼朝、
義経の協力者・比叡山の僧俊章の捕縛を命じる
12月16日 頼朝、俊章を差し出すよう比叡山に要求
1189(文治5) 43 31 1月 義経の放った密使(京の公卿・西国の武士宛)捕われる
1月5日 頼朝、正二位に叙せられる
1月13日 
義経の協力者、比叡山の僧・千光房七郎が北条時定に捕われる
        義経が京に戻るつもりだとの情報を得る

2月15日 
泰衡、末弟錦戸頼衡(親義経派)を討つ
2月22日 頼朝、泰衡を追討し、義経に与する連中を罰するよう朝廷に要求
2月25日 頼朝、奥州に使者をやって動向を探る
3月9日 泰衡の「義経を討ちます」旨を記した請文が京都に届く
3月22日 頼朝、泰衡の請文はあてにならぬと判断
        僧昌寛を京に遣わし、泰衡追討の宣旨を請う
閏4月21日 頼朝、母の追善供養(6月9日)が済めば奥州征伐開始すると宣言
閏4月30日 
衣川合戦 泰衡、兵数100で義経の屋敷を攻撃
         
義経、自刃(31歳)
5月22日 義経自刃の報告、鎌倉に届く
5月29日 義経自刃の報告、京都に届く
6月6日(26日?) 
泰衡、弟の忠衡(親義経派)を討つ
6月13日 
義経の首級、腰越に届く(和田義盛・梶原景時らが実検)
6月24日 奥州征伐の準備を進める頼朝に、朝廷が中止を勧告する
6月25日 頼朝、泰衡追討の宣旨を請う
6月30日 大庭景能、頼朝に献言(軍は朝廷ではなく将軍の命に従うもの)
        頼朝、奥州征伐の意志を固める
7月17日 頼朝、奥州征伐の部署を定める(東海道・北陸道・中路)
7月19日 
頼朝、奥州征伐のため鎌倉を出発
7月29日 頼朝軍、難なく白河関を越える
8月7日 阿津賀志山合戦(国衝軍と対戦、鎌倉軍勝利)
       
泰衡の異母兄国衡、討死
       泰衡、敗戦の報にアセって北走
8月13日 頼朝、多賀国府に入る
8月22日 頼朝、平泉に入る→一週間ほど逗留
        泰衡、平泉に放火して逃走
8月26日 泰衡、投降or亡命するゆえ許してほしいと頼朝に書状で嘆願する
        頼朝、これを許さず
9月3日 
泰衡、郎党河田次郎に裏切られ殺される(35歳)
9月6日 頼朝のもとに泰衡の首級届く
        頼朝、不忠の輩として河田次郎を責め処刑する
9月7日 平泉の武将由利八郎捕われる、頼朝尋問する
9月9日 頼朝のもとに泰衡追討の宣旨(7月19日付)がようやく届く
9月9日 頼朝、高水寺に安堵状を与えて平泉寺塔を保護させる
9月10、11日 頼朝、中尊寺の寺領を安堵する
9月18日 泰衡の弟・高衡、投降する
9月20日 頼朝、平泉に帰着 論功行賞
9月28日 頼朝、平泉を進発
9月 静、死去(埼玉の伝承による)
10月1日 頼朝、多賀国府到着
10月24日 頼朝、鎌倉に戻る
12月9日 
頼朝、義経や奥州藤原氏の鎮魂のため永福寺(ようふくじ)の建立開始
12月23日 泰衡の遺臣が出羽国で挙兵
1190(建久1) 44 (32) 1月3日 後鳥羽天皇元服
1月11日 九条兼実の娘任子が入内、女御となる
2月16日 
西行法師、没(73歳)
7月15日 頼朝、勝長寿院で万灯会(まんどうえ)を行い平家一門を供養する
10月3日 頼朝、入洛のため鎌倉を進発
10月19日 東大寺大仏殿再建の上棟式 後白河法皇が臨幸
10月25日 頼朝、尾張国知多郡で父・義朝の墓参り
11月7日 頼朝入京 六波羅の新第(しんてい)に入る
11月9日 
頼朝参院・参内 権中納言に任ぜられる
11月24日 
頼朝、右近衛大将に任じられる
12月4日 頼朝、両職を辞す
12月14日 頼朝、京都を発つ(29日鎌倉に帰着)
1191(建久2) 45 (33) 1月15日 頼朝、公文所改め政所を設置
2月1日 源通親(検非違使別当)が更迭、後任に一条能保
2月中旬 
建礼門院徳子、大原寂光院で死去(別説ではもっと長生き)
3月4日 鎌倉大火、幕府の中枢一夜にして焼け落ちる
4月26日 延暦寺が近江の佐々木地頭領で強訴、佐々木定綱の処罰を求める
4月30日 佐々木定綱が薩摩国に、弟らは隠岐・対馬・土佐国に配流
7月 宋より帰国した栄西、臨済宗を広める
11月21日 鶴岡八幡宮の遷宮(先の大火のため)に頼朝臨席
閏12月29日 後白河法皇病に臥す
          崇徳院、安徳天皇らを祀って鎮魂する
1192(建久3) 46 (34) 1月21日 建設中の永福寺視察中の頼朝を狙った暗殺者(平忠光)、捕えられる
3月13日(16日?) 
後白河法皇、没(66歳)
7月12日(20日?) 
頼朝、征夷大将軍になる
8月9日 頼朝の次男、
実朝誕生
11月25日 永福寺の落慶供養
11月 熊谷直実、領地争いに敗れてキレ、「出家してやる」と言い残し出奔
12月 京都・鎌倉で疱瘡が流行
1193(建久4) 47 (35) 3月12日 佐々木定綱ら、法皇崩御一周忌の恩赦にて帰国
3月13日 鎌倉にて法皇崩御一周忌の千僧供養が行われる
4月2日 頼朝、下野国那須野で狩りに興じる
5月8日 頼朝、駿河国富士野の巻狩りに出発
5月28日 富士野の巻狩り宿営地にて曾我兄弟の仇討事件
8月17日 
範頼、謀反の疑いをかけられ伊豆に幽閉される(のち殺害?)
10月28日 頼朝、佐々木定綱と会見
        佐々木定綱近江国守護に復帰、長門・石見国守護も兼任
1194(建久5) 48 (36) 6月15日 頼朝、平維盛の子・六代を引見
7月5日 延暦寺の訴えにより、朝廷が栄西らの禅宗布教活動を禁止する
1195(建久6) 49 (37) 2月14日 頼朝、二度目の入洛のため政子ら家族とともに鎌倉出立
3月9日 頼朝、源氏の氏神石清水八幡宮に参籠
3月12日 頼朝、後鳥羽天皇とともに東大寺再建供養に臨む
3月29日 頼朝、後白河法皇の寵妃・丹後局と六波羅で対面
5月22日 頼朝参内 九条兼実と会談
7月8日 頼朝、鎌倉に帰着
8月10日 出家していた熊谷直実が頼朝と対面、仏道・兵法を語る
? 近江の佐々木四郎高綱、出家(高野山に入り西入と号す)
? 大姫と一条高能の婚姻、大姫がいやがったため取りやめに
1196(建久7) 50 (38) 11月 九条兼実、関白の座を追われ、一門失脚→源通親の台頭
1197(建久8) 51 (39) 7月 大姫、没(19歳)
10月 鎌倉幕府、保元以降の叛死者の冥福のため供養塔を建立
? 
一条能保・高能親子、急死
1198(建久9) 52 (40) 1月 後鳥羽天皇、譲位(院政はじまる)
12月 頼朝、橋供養の折に落馬
1199(建久10)
(正治1)
53 (41) 1月13日 頼朝、没(53歳)
6月 
乙姫、没(15歳)