私の登山を始めた頃の記録から その3


☆北八ケ岳横岳                          1972年9月23日−24日
        市山岳協会
        麦草峠−白駒池−高見石−麦草峠−雨池−横岳泊
        横岳−亀甲池−ビ−ナスライン

☆谷川岳一の倉南稜 1972年10月15日 石橋、三須  晴れ、久しぶりの岩登り、秋の一の倉沢は最高にきれいな草紅葉であった。
☆国体リハ−サル 1972年11月2日−3日
☆那須岳 市山岳協会 1972年11月18日−19日  雪、強い風のなか那須岳三本槍を登り、三斗温泉小屋泊、翌日は茶臼岳。
☆富士山トレ−ニング 山岳会 1972年11月24日
☆八ケ岳赤岳主稜、小洞心クラック 山岳会 1972年12月31日−1月2日  小洞心クラックは2ピッチ距離は短いが腕力を必要とする。手袋をアクリル製手袋を使用したため、フリクションが効かず苦労、やはり純毛でないといけない。背中のペンタックス、望遠、ブロニカは重かった。

樹と阿弥陀岳


☆谷川一の倉出合まで 1973年1月16日 雪
☆国体調査 1973年1月30日
☆南アルプス鋸岳−駒ガ岳 1973年3月23日−25日 沢内、薄井、高橋 23日 雨  戸台でバスを降りた登山者は我々4名と他3名であった。雨の中河原の中の道を辿ると両側が狭まり数100mの岩壁が現れた。ダムの取水口を過ぎる頃に雨は止んだ。鋸岳の登り口は、赤い標識があったが見つけるのが大変だった。樹林帯からガレ沢を登り、コルが見える地点の樹林帯にツェルトを張った。 24日 晴  大斜面上のコルに到達すると風強く雪煙を卷いていた。鋸岳の稜線は膝上のラッセルで進む。第一高点から鹿穴の岩稜10m下りは要注意。痩せた稜線からギャップは20mのアップザイレン3級の岩場。ルンゼを右に下降して、左の尾根を腰までのラッセルで登り返す。右側はスッパリ切れ落ちているが心配していなかったが、突然バクッと雪稜が割れ、3番目を歩いていた高橋君はストンと沈んだが手でひっかかり、足をバタつかせていた。急げ、10m程しか離れていないが、腰までのラッセルですぐに手を差し伸べることができなかった。彼は運動神経が良いのでとっさの判断でしがみついて助かった。尾根をラッセルして、6合石室に着いた。中の雪を整えてツェルトを張った。

鹿穴と稜線

25日  風強く、そろそろ天候も悪くなって来るだろう。甲斐駒ケ岳まで美しい雪模様の尾根と斜面が続いていた。頂上でゆっくり休んだ後駒津峰、仙水峠から北沢峠へと下り、わずか登って北沢小屋より大樹林帯を赤河原に下る。長い河原をうんざりする程歩いてやっと戸台バス停に着いた。疲労が激しかった。最終バスで駒ケ根。辰野より夜行列車にて帰った。
☆一の倉変形チムニ− 1973年4月29日 市東、川名 28日(土)午後、海保君の車に乗せてもらい避難小屋内にツェルトを張った。 29日晴  残雪が少ないのでブロック雪崩の心配ない。衝立岩を登攀しているものは誰もいないので、テ−ルリッジを登らないで衝立スラブをフリクションで楽しみながら登った。昔の一の倉はこの様にスラブを快適に登ったに違いない。今は人為的な落石の危険のため登れない。中央稜に出て奥壁に回り込んで登攀開始。第1ピッチ傾斜もきつく困難、第2ピッチホ−ルドも少なく傾斜もきつい、リッジを回り込む所が困難、第3ピッチ変形チムニ−は途中で体制を入れ替えなければ登れない。第4ピッチルンゼを登とと中央カンテに出る。第5ピッチルンゼ市東君がトップで登攀、川名氏、私は小テラスで確保。中央カンテの終了点から激しい落石、大音響で奥壁の岩場全体に岩ナダレが発生した。ヘルメットに当たった。避ける場所はないので、垂壁になっている壁に体を寄せて避けた。背のザック、ピッケル、ヘルメットに落石を激しく受けた。となりの川名さんはやられたと思ったほど猛烈な落石であった。上にいる市東君はハング下にいるから間違いはないだろう。静かになった。川名さんは上部めがけてバカヤロ−とどなった。全員無事であったが、ザイルはズタズタに切断、9mmザイルは25mしか残っていない。11mmザイルは中間点に損傷を受けていた。短くピッチを切って登るので時間が掛かった。明日のコップ岩の予定は中止。一の倉岳より芝倉沢をグリセ−ドで下る。約1時間で出合。翌日ゆっくり下山した。
☆秩父瑞がき山 1973年5月
☆秩父二子山 1973年6月3日 薄井、川名、市東、沢内  志賀坂峠の下から徒歩約1時間半で西岳に至る。二子山は石灰岩の硬い岩、風化した岩である。大ハングチムニ−等面白いがハ−ケンの効きが不安であった。途中の小さな沢には方解石、水晶があった。
☆一の倉沢滝沢下部 1973年6月10日 薄井、川名、市東   車にて駐車場、夜半から雨、雨の中を幽の沢を登った。でも天候は回復しそうもなかった。中央ルンゼをいく薄井氏、川名氏と別れ中央壁に向かったが途中より登攀を断念した。そのままヤブをトラバ−スして左俣に出、中央ルンゼに向かう薄井、川名氏に中止を伝えた。彼らも中止して、ゆっくり下山していたが一の倉出合にくるとガスは上がり晴れ間が見えてきた。まったく残念、我々は一の倉の雪渓を登った。傾斜はきついが楽しい雪壁登って滝沢下部。滝沢下部ダイレクトル−トを登攀開始。ハ−ケンがかなり古くなっていた。上のテラスで遊んだ後に下降したが、ザイルが回収できなかった。テ−ルリッジより、ブロックの声がかかった。とっさに身を防いだ。ブロックが落下してきた。もし上のテラスでいたらと思うとぞっとした。また薄井さん登り直してザイルをセットし直して、全員下降。出合まで下るとと、コ−ルしてくれたのは三峠で知合いになった東京野歩路会の人達であった。彼らとはまた夏に奥又白池で会った。
☆三峠岩登り新人トレ−ニング 1973年7月1日 高山、薄井、藤森、沢内、岩崎
☆三峠岩登り新人トレ−ニング 1973年7月8日
☆北岳バットレス 1973年7月14日−15日  ピラミッドフェイス下部−下部フランケ−四尾根−中央稜ダイレクトル−ト 薄井 13日夜車にて広河原 14日 二股まで2時間、大樺沢からピラミッドフェイス下部へ、Dガリ−は順番待ちのためル−トを変更、腕力を使い登る。3ピッチで横断バンド。下部フランケはも腕力を非常に使うル−トである。つるべ式で登攀。最後のピッチはバランスが必要、5ピッチで四尾根にでた。たくさんのクライマ−のため時間がどんどんたった。第1コルにてビバ−ク。月夜に照らされたバトレスと北岳の頂上、朝の雲上の富士山どれをとっても岩場のビバ−クの最高の楽しみである。 15日 マッチ箱のコルより中央稜Cガリ−に下降、中央稜大ハングA2を薄井さんはダイナミックに登っていった。たくさん写真を撮った。ハングを越し、更に次のハング下まで登る。それよりリッジを登り、最後のガレ場を登ると終了。北岳草が美しい。最後の一滴の水を分けて飲んだ。5分で頂上11時50分。ポリタンクに水をたくさん入れて登ってくる人をみると八本歯のコルまで長い下に感じた。水場まで急いで下り、がぶ飲みをした。昨日より600ccの水は、食事のアルファ米に半分、飲料に半分2二人分であった。ハンマ−を利用して残雪をグリセ−ドで下降。広河原14時00分着。
その時の写真ピラミッドフェイス下部

中央稜大ハングA2


☆谷川岳 1973年7月28日−29日  一の倉沢第三スラブ、幽の沢中央壁ダイレクトル−ト 薄井 28日 晴 6時発  一の倉沢上部の雪渓は荒れていた。滝沢下部は先月登っているので約1時間で登った。コンテでY字河原。濡れているいる岩場40mから3級の岩場100m、縦節理を40m、左にトラバ−スして40m、小さなハングは腕力しで越す。ここまでくると衝立岩、烏帽子奥壁ははるか下の崖に見える。リッジ50m、ルンゼ200mコンテで登り、右の急な草付を200m登ると滝沢リッジのド−ム稜である。60m4、3級の岩場で終了。尾根を辿ると稜線に出た15時00分。西黒尾根から下る。一の倉沢出合18時20分着。
その時の写真

29日 晴  カ−ルボ−デンは落石が多いので右のリッジを登った。稜渓山岳会の坂巻、小川氏はカ−ルボ−デン中央で落石に悩まされていた。ダイレクトル−トまで難しいトラバ−スが必要であった。最初のハングで薄井さんが墜落したが安全な場所のため安心。代わりに私が登る、うまいところにあったハ−ケンを利用して乗越した。40m登り確保。3級40mのフェイス、40mハングフェイスで左にトラバ−ス、草付テラスより40mフェイス細かく傾斜もきつい5級。これを登りきると天候も悪そうなのでノ−マルル−トの草付を登った。中央壁の頭より芝倉沢を下降、一の倉沢出合着15時00分。
☆穂高 1973年8月10日−15日  中又白谷、甲南ル−ト、北壁Aフェイス、屏風岩第一ルンゼ 石橋、神崎、高山、高柳、薄井、沢内、高橋、金綱、 10日 タクシ−にて上高地。 石橋、高山、高柳、神崎  中又白谷の登攀は荷が重いので大変だったF1の大滝は左のザレ場から巻くアップザイレンで滝上に出た。右側の微妙なフェイスをトラバ−スぎみに上り、大岩はショルダ−で越した。更に小滝から右のルンゼに入ってチムニ−を登ると白い花岡岩の真白い谷で、素晴らしい景観にひたってのんびり休んだ。大滝から大スラブを登って奥又白の池着16時30分、とにかく疲れた。先発メンバ−も中又白谷を登って来て合流。全員合流したらテントが不足のため、薄井氏と私は外で星を見ながら野宿。次の日も晴て同じように外で寝た。 11日甲南ル−ト 高山氏、山本  核心部はバンドフェイスとオ−バ−ハングだけ、上部からの落石注意。中大ル−ト下降、右岩稜登攀を中止してC沢を下降、石橋さん雪渓でスリップしたが怪我をしなかった。奥又白のお花畑におる大岩の上でみんな夕方まで話をしながらのんびり過ごした。 12日前穂北壁Aフェイス−A沢下降  高山氏とザイルを組んだ。石橋氏と高柳氏はAフェイスの難しいル−トに挑戦。全員横尾まで下降。
北尾根四峰 カメラゼンザブロニカ

13日 屏風岩一ルンゼ 石橋−川名、市東−山本 T4尾根の少し上から本格的に登攀開始、最初から困難であった。石橋−川名パ−ティは左の困難なクラックを登攀、我々は右側のバンドを登るが4級であった。100m上からルンゼは狭くなり、左りの40mリッジとフェイスを登ると谷はチムニ−状となった。両足でバックアンドニ−により長いチムニ−を登攀した。岩肌はきれいに磨かれた節理もない花岡岩だった。このルンゼは井戸を半分縦割にした様 上へ上へと続いていた。体力のいる長いチムニ−を登るとオ−バ−ハングA1で腕力が必要、その上は煙突の様なところを100m登ると傾斜は緩くなってガレ場が現れた。右に大きく曲がって300m程度ガレ場が続くので落石を発生させない注意が必要であった。最後の3から4級の滝を登ると傾斜がきつくなる。最後はぐずぐずの垂直なフェイスで終了。このル−トは他の5級ル−トに比較して体力を必要とする本格的なル−トであった。屏風の頭で写真を撮り、パノラマ新道を涸沢へ。涸沢では会員が食事を準備して待っていてくれた。感謝。 14日 屏風岩でトレ−ニングをして横尾まで下山。根本、沢口さんから食料を分けてもらった。 15日 上高地を経て下山。
☆越後駒ケ岳 1973年9月1日 藤森  車にて水無川に、朝1時間の仮眠。まだ暑く、水不足と睡眠不足のため肩まで登ったが中止して下山。大猿が飛んで逃げていった。たくさんの猿が生息しているのか、木の新芽はほとんど食べられていてなかった。 翌日法師温泉で汗を流した。
☆国体リハ−サル 1973年9月14日−16日
☆谷川岳幽の沢中央壁右フェイス 1973年9月23日 寺田  右フェイスの核心部は濡れていてどろどろで細かいホ−ルド、ハング帯は踏ん切りのいるところである。微妙なバランスで越えた。 V字ル−トパ−ティ 金綱、橋本、高橋。金綱さん登山靴を忘れ、普通の靴で苦労していた。右フェイスから手に取るように見えた。
☆谷川岳一の倉沢二の沢右壁 1973年10月10日   薄井  出合6時出発、テ−ルリッジに下がらないで尾根上部からトラバ−スして、本谷に下降、二の沢を200mいくと滝の下にでた。右側のいやらしいフェイスから滝上出た。すぐ右俣に入ってどんどん登るとスラブ5級困難な壁をよじ登る。ここからオ−バ−ハングまで縦に節理が入っているところ一箇所のみやさしい、あとは非常に難しかった。この頃から岩場も乾いてきた。ハングの上から左のフェイスを登り、最後は急な草付きで強引に乗越して20mで滝沢リッジに出た。100mでド−ム壁15時。ド−ム壁で山岳同志会パ−ティの先行を待った。大宮氏がいるがA1の人工が遅いのでまいった。スラブから登った岳人クラブのパ−ティも遅かった。20分待って登ると3分で追いついてしまった。5時30分、待っている間に暗くなってしまい、ヘッドランプを取り出せるテラスまで、真っ暗で見えないのでつらかった。テラスでヘッドランプを付ける。稜線8時月夜の明りの中を西黒尾根下降、一の倉駐車場11時着。岳人クラブパ−ティを水上駅まで乗せ、名物と言われたうどんを食べた。帰路二人とも睡眠不足、居眠り運転にちかく危険のため、ドライブインで眠った。明るくなるまでグッスリ4時前橋、千葉着7時40分、仕事に間に合った。
☆国体山岳部門 1973年10月14日−18日  役員で参加。
☆鹿島槍天狗尾根 1973年11月23日−25日 高橋、市東、橋本、高山 23日 荒沢まで河原は腰までラッセルで12時を超えてしまった。荒沢から斜面を登り、尾根の台地でツェルトを張った。シャロンアルペンの中村、吉野さんは東尾根。 24日 晴  天狗尾根は雪が不安定、小屋岩まで柔らかい雪で、足をかけてもずり落ちてしまった。小屋岩上部は30mの岩場でかなり難しかった。小屋岩では東尾根の吉野さんと話ができた。岩場を越えると雪壁と尾根で荒沢の頭から雪稜が北峰のピ−クにでた。16時40分。南峰17時10分、暗くなった稜線の冷池小屋に逃げ込んだ。 25日 雪、昨日見たトレ−スを信じて下降点を誤ってしまった。ふわふわの雪、雪崩の恐れ確実、足跡で雪を切ったら雪崩てしまう。手と体で泳ぐように命じ全員で這って脱出、雪崩は発生しなく好運であった。高知穂平から下山。前日北峰と南峰のコルでビバ−クしたシャロンの吉野さんは軽い凍傷にやられて翌日27日に下山した。
鹿島槍北峰
カメラゼンザブロニカ  雪煙を待ち四人が持つピッケルが偶然にも揃った時にシャッターを押した

☆鹿島槍天狗尾根−唐松岳 1973年12月30日−1月3日 市東、高山、石橋、藤森、高柳、沢内、薄井、寺田、川名、山本 30日 雪、荒沢までラッセル跡があり約1時間で着き、天狗の鼻にて幕営16時30分。 31日 晴 雪は11月と比較して堅く登り易い、荒沢奥壁は雪壁模様が見事で美しい。小屋岩で前のパ−テイに2時間待たされた。時間短縮のため、荷を持たずにのぼってザイルをフィックスして、全員1時間以内で登った。北峰と南峰のコルにブロックを積んで幕営。夜、突風のためブロックが崩壊、吹雪のなか補強、2時間毎の除雪は二人で30分必要であった。 1日 雪、風も強いので停滞してたが、午後より晴れ間が見えた。 2日 風雪の強い中、テントを撤収して雪の中を八峰キレットに下る。下りで、北壁より離れすぎて黒部側に行き過ぎて100m程ル−トを間違った。沢内さんがころがったがストップ。登り返して忠実に尾根を下ってキレットへのトラバ−ス。そして垂直の雪壁は、カクレ里から寺田さんが空身でよじ登った。みんなで引っ張り上げたが、2時間も費やした。キレット小屋、五龍岳から五龍小屋にツェルトを張った。 3日 風強く、朝のみ吹雪。強い風の中の岩尾根を2時間で唐松岳。白馬まで行く石橋、川名氏と別れ八方尾根を下降、スキ−ゲレンデの下りリフトに乗せてもらって下った。松本から夜行列車で帰った。
☆松木沢氷曝トレ−ニング 1974年3月3日  高橋、藤森、橋本
☆前穂高慶応尾根 1974年3月21日−24日 川名、橋本、藤森 21日 雪、奥又白谷出合にツェルトを張って、中で休んでいたら、シュルシュルと変なと音がして、雪が覆い被ってきたので、直ちに藤森氏を外に押し出した。わずか数10センチの雪崩であったがそれが止まる時はグット堅く締まってツェルトから出るのに大変であった。ツェルトの内部にも雪がはいり込んで、首すじや髪は雪まみれになっていた。 22日 雪、尾根の中間まで登ったが、昨夜膝を冷やしてしまったのか痛みが激しく、曲げることも出来なくなつたのでこれ以上は無理であった。藤森氏も疲労のため、二人は昨夜のビバ−ク地点まで下降した。 23日 曇り、二人とも何とか回復してので、尾根を登りだした。狭い尾根に達すると、川名、橋本氏の掘った雪洞があり、彼らも疲労が激しいのだろう濃い黄色の跡を発見した。慶応尾根最後のコルから登り始めると上部からコ−ルがあった。彼らに合流すると、尾根の頭付近で他のパ−ティが雪崩にやられて、一人行方不明のため捜索に協力していた。さっそく我々は慶応尾根の頭から左の沢上部を捜索したが発見出来なかったので、尾根を下降して、下部から沢を登って捜したが発見できず、暗くなって徳沢の小屋まで下山した。遭難パ−ティは遭難の知らせをしていた。小屋の軒下にツェルトを張っていると、夜小屋の人が暖かいものを差入れしてくれた。 24日 雪、早朝遭難者が一人下山してきた。彼は屏風側の谷に流されてしまったとのことであった。全員ほっとして、横なぐりの梓川の河原を進んだ。大正池からの下り、また膝関節の痛みが生じて、沢渡まで辛く長い徒歩がであった。列車のホ−ムの階段でも激痛が走った。  後日、兵庫県の加古川山岳会から礼状が届いた。
その時の大正池


☆大台ケ原 1974年5月4日
☆谷川岳幽の沢中央ルンゼ 1974年6月15日 高山、高柳、藤森、薄井、橋本  最後の5級は高度感があり細かくて緊張させられたが、みんな安心してで楽しく登れた。
☆一の倉沢出合まで 1974年6月25日  雨のため中止
☆尾瀬 1974年7月15日−16日 市山岳協会ハイキングのサポ−ト  一般の人は様々な体力的相違があり、体力無い人たちの荷物持ちのサポ−ト。
☆剣岳チンネ北条チムニ−、ガンマルンゼから剣尾根 1974年8月1日−4日 市東、石橋、高橋、高山、山本 1日 上野駅に行ったら、電車に乗り遅れてしまったので千葉まで帰り、石橋さんの車で馬場島11時着。千葉から550km12時間。 池の谷出合にツェルトを張った。 2日 小窓尾根から池の谷に下降して、左俣の雪渓を登って三ノ窓14時、チンネの高度感のある急な北条チムニ−を登攀して、チンネの狭いピ−クで暗くなる夕日を満喫して楽しんだ。 3日 6時出発、昨日登ってきた池の谷左俣の雪渓を下り、右俣に入る。ガンマルンゼの下降は雪渓のギャッブが高いのでスノ−アンカ−にてアップザイレンが必要であった。ガンマルンゼは小滝が多く、急傾斜であり最後はフェイスとなり剣尾根コルCに出た。13時。このフェイスは最初の核心部で、10m登って右に廻りこんで微妙なバランスで直上する。やさしい尾根はコンテで登った。岩峰は左のルンゼからバンドをトラバ−スして、5級を10m直上する。次は40mピッチ3級。アルファルンゼコルより上は150m同時に登攀して時間を短縮。ナイフリッジを越すとド−ムの頭下で暗くなってしまった。19時、ド−ムの頭と稜線はゆっくり慎重に歩いた。暗闇の剣はひっそりとしていたが、南方向ではいな妻が奇麗だった。池の谷乗越しから三の窓の下りは急傾斜のガレ場で注意が必要、途中まで、高橋、石橋氏が水を持って出迎えてくれた。うれしい水であった。下る途中大岩をころがしたら大音響が響き、三の窓のテント内では大騒動になった。幸い大岩はテント場を避けで左のルンゼへ落ちていった。しかし、小さいのが多少テントに当たった可能性があったが。注意、落とした者は誰か。21時40分テント場着。 4日 10時出、池の谷をそのまま下降して馬場島15時。千葉着翌日の朝6時。
☆谷川 赤谷川笹穴沢 1974年(昭和49年)9月23日 橋本、井出  6時30分笹穴沢出合近くまで、植草さんの運転するジ−プで送ってもらった。今日の登山は高原千葉村周辺の調査で、沢登りの実地調査である。本谷を行くシャロンアルペンクラブと別れ、出合より右側の細い踏み跡を辿った。この沢は水量が非常に豊かであった。500m程河原を歩く、そして小滝が続いて現れるがまだ沢は広い、金山沢出合を過ぎると左に曲がっていてゴルジュが現れるが左側をへつれば良い。これを越えると黒金岩峰で150mあるが登攀意欲は湧かない。また河原は広くなり10m滝は左より、20m滝も左より、30m滝は右の草付きから登ると大ナメ滝が100m続く。さらに200mのナメ滝が続いているので右の草付きを巻いてナメ滝の上部に出て、スラブを登った。二俣から左方に入り、右の尾根を登って平標の稜線に出た。大源太から赤谷川に下る。橋本、井出氏は食料をほとんど持参しなかったので、私の弁当を分けた。帰路非常に空腹感激しかったが、登山路に落ちていた飴でかなり助かった。下る途中で営林署の人にあった。林道をとぼとぼと歩いているとその営林署の車が止まって高原千葉村まで乗せてくれて助かった。高原千葉村19時30分着、営林署の人達は親切である、特に千葉の登山者に。夕食のカレ−は残っていなかった福じん漬けだけでも美味しく頂いた。食事の有難さが身にしみた。こんどから自分の食料は用意せよ。
☆新穂高 1974年12月22日  新穂高ロ−プゥエイにて、山荘まで目指したしたが引き返した。