制作 2000.1.7
演奏時間 約 24分
初演 2001.3.10
手書き
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どんな時も、人生には、意味があります。 この人生のどこかに、あなたを必要とする「何か」があり、「誰か」がいます。 そしてその「何か」や「誰か」は、あなたに発見されるのを待っている。 ですから、たとえ今がどんなに苦しくとも、 あなたは全てを投げ出す必要はありません。 あなたが全てを投げ出しさえしなければ、 いつか自分の人生に Yes と答えることのできる日が必ずやってきます。 いや、たとえあなたが人生に Yes といえなくても、 人生の方からあなたに光をさしこんでくる時が、いつか、必ずやってくるはずです。 ─ V.E.フランクル 著 「 夜 と 霧 」 より ─ |
[解 説]
この合唱曲は、マーラーの交響曲第7番「夜の歌」第1楽章に、歌詞をつけ歌えるように編曲したものです。また、原曲を基にピアノ伴奏をつけました。はじめに詩を掲げます。
1.詩 |
街の灯 消えて ( ゲットー 未来の闇と祈り ) |
G.マーラー作曲 交響曲第7番第1楽章より 平 井 文 和 詩/編曲 © Fumikazu Hirai,2000
街の灯 | 宵の内に消えて | |
人は息をひそめ | 音に怯え寄り添う | |
土煙に霞む中より | ||
列なす者達が | 押し出でて 辺りを窺う | |
風が吹き宙に舞う | ||
不穏を告げる | 読み捨てられた新聞 | |
灯が消え | 固く四方閉ざされた街よ | |
何の咎が | 我等にありや …… 何の咎が | |
街は | 闇の淵に沈んで | |
今日もまた | まんじりともせずに | |
一夜が更ける |
風の渦が我等を呑み込んで | 風の渦が運ぶ 運ぶ | |
運ぶ 我等を | 有無をいわせず 狂おしく | |
聞け! | 囚われし者の呻く | |
やり場のない声を | ||
聞け! | 絹裂く | |
すくみあがる幼子の叫びを | ||
見よ! | 腕に巻く | |
絞まる科せの印を | ||
なぜに ここに | 留め置かれるか | |
示せ 根拠を | 我等は望んではいぬ | |
今朝もまた | 住みなれた家を焼け出された | |
幾百の同胞が | 移住させられた |
静まりて傍らを見よ | ||
小さき己れを後に | ||
心の旅路は導く | 不思議な遠き湖へと | |
この世に起こるは | 水面の騒めき 影の作る波 | |
怖れも嫉みも悔いも | 怒りも 恨みも |
されど | 堪え難き日々のつづく | |
昼にも街の | 人多きそこここで | |
非道な仕打ちが | 繰り返された | |
粗末な食後 | 子の手をひくリュックの夫婦が | |
瞬時にうち倒された | 返事をしないという事だけで | |
聞け! | みなし子の とりすがる嗚咽を | |
嗚咽を聞け! | ||
なぜに 生まれ | 責め苦を受けるのか | |
教えてほしい | その意味を | |
大いなる知恵で | うごめく民に知らしめよ |
追われし 男が | 潜んだ物陰 | |
捨てられた猫の | 琥珀の瞳に映る | |
人の世の曲面のさまよ | ||
散り散りに | 逃げまどう恐怖 | |
追いかける | 険しき形相 | |
外の世界と関わり | 叛く者は | |
許されはしない | ||
階段を駈け登り | ドアを破り | |
追いつめて | 追いつめる | |
すさまじく追いつめる | どこまでも追いつめる | |
容赦ない追撃だ | ||
ああ なぜに | 生きてここにいるのか | |
分からぬ | ||
諭したまえ | み旨の内を | |
苦を抜き | 過去をひもとき |
静めよ水面を | ||
思いあれ | 思いあれ | |
思いを深めよ | ||
思念は汝をあらしめん | ||
時の翼がはばたき | ||
我が扉は開かれん | ||
思いあれ | ||
思いを深めよ | ||
心の旅路 | ||
来たれ |
心の旅路を歩め | ||
滅びる者よ | ||
滅びる者のため | 白き花に 人は生まる | |
されば | ||
来たれ さあ | 透き通る湖へ | |
心の水底に | 秘められしもの | |
いにしえよりこの方 | 埋もれ輝き | |
諸人に授かる | ||
汝等に | 仇なす者にさえも | |
等しく分かたる | ||
愛は | 生きてある全てを | |
とこしえに輝かす力 |
仮にも | 門を出たなら | |
駅に向かい | 貨車に積まれる 牛のごとく | |
蒸気と車輪の音が | 遠く伝わり | |
地の底から響くように | 勢いませば 戻れぬ旅に出る |
苦楽を分かちし人よ | 今は どこに? | |
共に築きし幾年かの | かけがえのなさよ | |
その透き通る心を | 我と念ずれば | |
あなたと同じ時が | 共に流る 眼前に! | |
暗き小屋の奥 | 隅の棚に | |
あなたは髪も抜け落ち | 横たわりやつれきった体で | |
ただ 呼ばれるを待つ | ||
与えられし幸いの | ことごとく奪われるものか | |
それが | この世の定めか | |
見よ! | 火柱が街に立ちぬ | |
闇裂き 砲声が轟く | ||
戦火が迫る | ||
逃げまどう | 人の群れに | |
瓦礫が崩れ | 降りそそぐ | |
戦火が迫る | ||
見よ! | その眼に焼きつけよ | |
けっして夢にも忘れるな | ||
累々と折り重なる | 酷たらしきを |
いつの代にか 平和な日々が来たなら |
再び生まれ あなたと出会い 共に暮らそう |
時が 彼方に それを約する故に |
人を信じつづけよう |
人を信じつづけるために 我等はここに 使わされた |
来るべきものが ついに来たのだ |
その罪を 我等は背負い その害を 浄めんがため |
今 最後の祈りを捧げよう |
邪な風が この燭台の八本の灯りを消すならば |
法は枯れ果て 砕け散り |
地を 闇と霧が覆う 世の 欲よりも深く |
我等が帰るは 光の園 |
命つきせぬ 讃えあれ |
讃えあれ 命つきせぬ つきせぬ |
グローリア (Gloria)! |
グローリア (Gloria)! |
2.この合唱曲について |
(1) はじめに
このような試みを始めた理由として、次の三点が考えられます。
@ マーラーの作品には難解なものが多い。
A マーラーの交響曲が、歌の性質(歌謡性)を含んでいる。
B 第7交響曲の価値を、一人でも多くの方に知っていただきたい。
要するに私は、@の解決策としてAに着目し、器楽曲を合唱化し、Bに向かおうとしているのです。
(2) 古典的な交響曲との違い
さて、第1楽章が難解とされる訳を一言で述べれば、次のようになります。
※ 全体の構成がはっきりしない上に、長大である。
この交響曲の第1楽章を理解するには、古典的な交響曲との違いを知ることがどうしても必要です。それぞれの特徴を要約することは、とてもむずかしいことですが、あえて端的に述べるとすれば次のようになります。
◎ 古典的な交響曲の第1楽章 … ソナタ形式で作られる。対称的な変化を通して起承転結を形成する。(対称とは、共通の土台に立ながらも、各部分が個性的なこと。)
◎ この第7交響曲の第1楽章 … 拡張されたソナタ形式で作られる。対立する各要素が葛藤をくりかえし、質的に変化して昇華する。これを複合性の変容という。
複合性とは、対立する(相反する)要素が共に存在することを意味します。哲学では弁証法がこれにあたります。心理学では、ユングの心理学に、こうした考え方が打ち出されています。美術では、ピカソに代表されるキュービズムが近いといえます。
この曲について、ある人は絶望的諦観といい、別の人は生命の讃歌といいます。 評価が大きく分かれる本当の理由は、複合性にあります。複合性の表現は、本来、言語や視覚によるべきものかもしれません。複合性の変容を、即ち絶望と讃歌を共存させ、なおかつ、その葛藤(相克)と止揚(昇華)を純器楽的な音で表現しようとすれば、長大な曲にならざるをえないでしょう。その複雑な構成の意味が、どこまで聞く者の耳に届くか、はなはだ疑問です。この表現はマーラーほどの作曲家をもってしても、なお至難の技といえるでしょう。しかし、第7交響曲はユダヤの人々の精神文化そのものなのです。灼熱の昼と静寂の夜が激しく交差する砂漠を放浪する中で育ったユダヤの文化は、歴史の変遷を経て、ボヘミアの大地に根づきます。そこには、混迷する現代文明を生きる我々にとって、学ぶべき多くの価値が内包されているのです。
(3) 対立する要素
─ ここから先は、この合唱曲の詩にそって述べていきます。ここから先は、必ずしも学問的ではありません。
ここで、対立する要素を列挙してみます。この合唱曲に関連するものとしては、およそ次のとおりです。
光と闇 | 祈りと迷い | 天の上と地の底 | 楽と苦 |
平和と戦争 | 希望と絶望 | 正法と邪悪 | 未来と過去 |
聖と俗 | 静寂と喧騒 | 心の奥と世の相 | |
灯と風 | 清と濁 | 水(平安)と火(戦火) | |
博愛と迫害 | 生と滅 | 自由と拘束 |
対立するそれぞれの要素は、「正(陽)」と「反(陰)」に大別できます。「正」と「反」は、葛藤の末「合(合一)」に向かいます。これを「変容」といいます。「正」の要素は、「光−平和」、「聖−博愛」 …
のように関連しあっています。「反」の要素についても同じことがいえます。
(4) 要素群
また、各要素はまとまりを成して<群>を作ります。これを<要素群>といいます。古典音楽でいえば、形式を作る各部分がこれに該当します。<群>は音楽上の組織であり、「正」や「反」の力を一層強く発揮します。
この曲の全体を「群」の視点から図示すれば、次のようになります。
[第一図]
第1群 | 「反」 | 詩 (街の灯 宵の内に消えて)〜(移住させられた) | |
↓ | 第2群 | 「正」 | 詩 (静まりて 傍らを見よ)〜(怒りも 恨みも) |
↓ | 第3群 | 「反」 | 詩 (されど堪え難き日々のつづく)〜(過去をひもとき) |
↓ | 第4群 | 「正」 | 詩 (静めよ水面を 思いあれ)〜(とこしえに輝かす力) |
↓ | 第5群 | 「反」 | 詩 (仮にも 門を出たなら)〜(酷たらしきを) |
第6群 | 「合」 | 詩 (いつの代にか 平和な日々が)〜(グローリア) |
長い曲ですので、演奏に際しこれを意識しておくことが大切です。
(5) 各要素の相関図
また、この曲の全体を「要素」の視点から図形的に示せば、たとえば次のようになります。
[第二図]
(6) 詩の時代設定
第二図では、「未来と過去」が中央に置かれています。その理由は、「未来と過去」がこの合唱曲の誕生に決定的な影響を与えたからです。私は最初、題材をいつの年代に設定しようかと迷いました。たとえば、ローマ帝国時代のマサダの戦いのような過去に求めるか、それとも、マーラーが作曲していた当時の社会事象に求めるか、それとも、マーラーから見て未来の事象に求めるか、あれこれ考えたのです。結論として私は、マーラーから見て未来に題材の年代を設定したのです。その理由は次のとおりです。
@ 複合性はこの音楽の本質であり、過去と未来は共存しうる。過去でもよく、未来でもよい。
A 未来は抽象的予感である。それをことばで具象化することは、その方法によっては意味や価値を持つ。
B 音のイメージによる。
上記のBは直感です。第1楽章の冒頭に刻まれる低音が、私には夜の静けさの中、遠くから伝わる汽車の音に聞こえてならなかったのです。マーラーの時代にも汽車は走っていました。しかしそれは今でいうファーストクラスの乗り物でした。冒頭に聞こえるのはそのような汽車の音でなく、何か地の底から響くような不気味なものでした。
マーラーから見て未来の事象で、ユダヤの人々にとって不気味な汽車とは何か。私にとって、その答えはただ一つしかありませんでした。ナチスの時代、ゲットー(ユダヤ人居留区)から出発した汽車がそれです。ここまで来たとき題材は決定したのです。題名の「街」はゲットーを意味します。ナチスがマーラーの音楽を演奏禁止にしたことは、結果的に当たっていたのです。
もう一つ私が着目したのは、第4群(展開部)で奏されるコラールでした。このコラールに対し、マーラーの妻アルマは「つまらない」とコメントしたそうです。ウィーンで高い教育を受けたこの才媛の短評は、実は当を得ていたのです。緊張度の高い楽句がつづいた後にコラールを置こうとするのが、作曲者の意図です。このねらいを理解し、意識が拡散しないようこの部分をいかに演奏するかは、オーケストラの指揮者の腕の見せどころなのです。
マーラーは子供時代、イーフラブァという町の教会の少年合唱団に所属していました。そこでは、キリスト教の音楽もユダヤ教の音楽もはたまたボヘミア民謡もまぜこぜに歌われていたそうです。それがボヘミア地方の特徴でもありました。マーラーのコラールに対する理解は、バッハのそれとは大分違っていたわけです。私は、マーラーのコラールを合唱で歌わせたかったのです、文字どおり祈りの音楽として。
従って私は、ただ単にゲットーを描こうとしたのではありません。また、ここに描かれたのはどこか特定のゲットーではなく、あくまで私の想像の中の話です。私は、救いと絶望、人間の善と悪を表したかったのです。何が善で何が悪か、法規に定めがあるにもかかわらず、この答えは決して簡単ではありません。しかし、ユダヤの人々に対するナチスの残虐な行為を悪としないならば、悪という言葉自体が意味を失うでしょう。それは悪なのです。人類史上類例のない悪なのです。そして、ユングの理論が正しいならば、悪のあるところどこかに善があったはずなのです。それを私は主人公の祈りの中に求めたのです。
(7) まとめ
この合唱曲で、対立と葛藤の最も際立った表現がなされるのは、次の箇所でしょう。第4群の後半から第5群の冒頭(第2主題の再現から序奏の再現)へ向かう部分です。詩でいえば、「心の水底に秘められしもの」から「仮にも門を出たなら」へ向かう部分です。この第2主題の再現する美しさは圧倒的です。世に、立派な音楽や崇高な音楽はまだあることでしょう。しかし私は、この第2主題の再現ほど美しい音楽を他に知らないのです。しかしそれさえ、「仮にも門を出たなら」と否定されてしまうのです。私はここに、ユダヤの人々の底知れぬ悲劇を見るのです。
日本人の私がなぜ……と、今更不思議な気もします。私は人間として、この悲劇を忘れることができません。この歴史の教訓はあまりにも痛烈に心を射抜きます。その癒しがたさのゆえに、私たちはつい歴史の事実から目をそらそうとします。それはそれでやむをえないことかもしれません。しかし今日の平和や人権が、彼らの尊い犠牲の上に成り立っていることを忘れてはならないのです。人類の歴史がつづくかぎり、このことを伝えつづけ、二度とこのような惨劇をくりかえしてはならないのです。この合唱曲を歌いあげ、人の心の善なることを訴える者は、永遠の語りべとなることでしょう。
2000年6月24日 |
平 井 文 和 |
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