薫風

 

いつかきっと、私は君のもとへ還る。
たとえ、魂だけの姿になったとしても……。

 

 それは、ベルベニアにその冬初めての雪が降った日のことだった。
 わたしの元へ一通の手紙が届いた。夫からだった。
『今度の任務が片付いたら、一度顔を出す』
 内容はたったこれだけ。でも、筆不精のあの人が手紙をくれた。それだけのことが、とても嬉しかった。あの人が聖都に行ってしまってから、もう何年経っただろうか? こんなことはこれまで一度もなかったのだ。
 短い文章を、何度も何度も読み返した。なんだかくすぐったい気分だった。
「こういう字を書くのよね……」
 そう独り言をつぶやきながら、どこか型にはまったような几帳面に整えられた文字を、じっと見つめた。
 妻宛の手紙を書くときくらい、もう少し崩して書いてもいいだろうに。そう思った。それに反して、書いてあるのはたった一行だけなのだ。『元気か?』なんて、気遣う言葉は一切なし。あの人らしいといえばそうなのだけれど、ちょっと素っ気なさ過ぎやしないだろうか?
「まったく、女心なんて全然わからない人なんだから」
 言いながらも、顔が自然にほころんでしまった。
「……帰ってくるんだ」
 そう、一時的にとはいえ、夫がここに帰ってくるのだ。
 いつとは知れない、けれどおそらくは近い将来のその日に心を馳せながら、わたしはそっと手紙を封筒に戻した。

 あの人の誕生日――また一緒に祝うことができなかった――が過ぎ、何度目かの雪が街を白く染めた。窓の外を眺めながら冬を過ごし、庭木の花に春の訪れを知る。
 そうして、気が付けばあの日から半年経っていた。
 何度も読み返した短い手紙は、折り目の所でちぎれかけて、今はもう触れるのさえも恐い状態になっている。
 今日かもしれない。明日かもしれない。そうして待ち続けるのは、そんなに辛いことではなかった。いつも、前触れもなくふらりと帰ってきては、また行ってしまう。そんな人だったから。
 けれど、なんだか嫌な予感がする。
 そういえば、あの人から手紙が来たこと自体がおかしかったのだ。とても、危険な任務だったのかもしれない。それで……。
「覚悟はできてるわ。騎士の、妻だもの……」
 そう口にしてから、酷く後悔した。帰ってこないかもしれないなんて、絶対に考えてはいけないことだったから。不安に押しつぶされそうになるのはわかっていた。
 いつか帰ってくる、そう思いながら待ち続けることはできても、独りで生きてゆくことは、わたしにはできない。
 家の中が、急に暗く――そして広くなったように感じた。南側の窓を通して、午後の日差しが明るく部屋の中を照らしているにもかかわらず、嵐の夜に眠れないでいる子供のように酷く心細かった。
 ――にゃーん。
 鳴き声にはっとして我に帰ると、子猫が一匹足元にまとわりついていた。
「なあに? どうしたの?」
 甘えるように身体を擦り付けている子猫に声をかけ、抱き上げる。小さなぬくもりに触れ、少し気持ちが和らいだのを感じた。
「……大丈夫。すぐに帰ってくるわよ」
 それは、自分に言い聞かせるための言葉だった。両てのひらに収まってしまいそうな小さな子猫は、あの人のことなんて知るはずもない。不思議そうに見つめる子猫に、わたしは「なんでもないわ」と微笑んで見せると、そっと床に下ろしてやった。
「大丈夫」
 もう一度つぶやいて、顔を上げる。
 大丈夫。わたしはあの人を信じている。
 あの人は必ずわたしの所へ帰ってきてくれる。
 わたしには、こうしてあの人の無事を祈り、待つことしかできない。
 今までずっとそうしてきたのだ。これからだってできないはずがない。
 けれど、一度芽生えてしまった不安は、なかなか消えてはくれなかった。

 洗濯物を取り込もうと、籠を持って庭に出た。見上げれば空はよく晴れていて、どこまでも青く澄み渡っていた。あの人の瞳の色だと思った。
 ふと、庭の隅の大きな木に目がいく。そういえば、あの人はよくあの木の根元に腰掛けて本を読んでいた。わたしは、家事をしながらそんな彼を見ているのが、とても好きだったのだ。
 気が付くと、わたしはその木の下に立っていた。木陰はひんやりとしていて、とても心地好かった。あの人がそうしていたように木の幹に背中を預け、そっと目を閉じた。
 何をしていても、あの人のことばかり思い出す。そして、少しでも気を抜けば泣き崩れてしまいそうな自分がそこにいた。
「早く、帰ってきて……」
 つぶやいて、今までそんなことを思いもしなかったことに気付く。寂しくなかったといえば嘘になる。けれど、ちゃんとやっているかしらと心配することはあっても、帰ってきて欲しいなんて、こんなに強く思ったことなどなかったのだ。いつからわたしは、こんなに弱くなってしまったんだろう。
「ダメね、こんなことじゃあ……」
 あの人に叱られてしまう。そう思ったときだった。
 風が吹いた。
 葉擦れの音が淋しげに響き、懐かしい匂いがわたしの元へ届いた。そして、危惧していたことが現実であったことを知った。
 それでも……。
「お帰りなさい。これからは、ずっといてくれるのでしょう?」
 不思議に穏やかな気持ちで、そう口にしていた。
 優しい風が、わたしを取り巻く。肯定の意に謝罪が加わり、わたしの心に直接響いた。
「いいのよ、もう。あなたはこうして、帰ってきてくれたのだから……」
 涙が頬を伝っていくのを感じた。でも、悲しいわけじゃない。彼のはにかんだ微笑みを見ることができないのは、少し寂しいけれど……。

 

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あとがき
ローファルの奥様視点でのウォドリングご夫妻でございました。 名前が出てきてません(^_^;) 言われなきゃ誰かわからないですね。 奥様はローファルのことを名前では呼ばないだろうし、 ローファルも奥様を名前では呼んでなさそう。 このご夫婦、絶対『あなた』と『おい』だ。そうに違いない!!
と、まあこんな感じで、妄想は尽きないのでした。
キリリクで執筆は2002年の春頃だったような……。

2007.01.15 神風華韻