「ヴァルゴの在り処がわかった」
冷ややかな男の声がそう告げた。行方のわからなかった聖石『ヴァルゴ』の所在がわかったのだと。
「オーボンヌ修道院だ。明日にでも発ってもらいたい。君の部隊と……そうだな。イズルードの部隊も就けようか」
どこかからかうような口調の男にウィーグラフが声をかける。
「参謀殿……」
「これはヴォルマルフ様のご命令だ。従ってくれるね?」
「はっ、しかし」
「イズルードのことかい? 確かに、辺境の修道院へ向かうには、少々物々しいが――わかるだろう?」
そう言った男の翡翠色の瞳は、その声音よりも冷ややかにウィーグラフを見下ろしていた。どこか蔑みを孕んでいるようにも感じられる。
「わからないか。ま、君がわからなくても私は困らないがね」
男がククッと喉で笑う。
「とにかく、頼んだよ」
言って身を翻した。
「参謀殿ッ!」
尚も言い募るウィーグラフに背を向けたまま、神殿騎士団参謀――クレティアン・ドロワは闇の中に消えていった。
「失敗は許されない。そのこと、よく肝に命じておくんだね」
そんな、言葉だけを残して……。
ウィーグラフは自室の寝台に腰かけ、先ほどのクレティアンの言葉を思い返していた。
『失敗は許されない』
冷たい声が頭の中でこだまする。信用されていないからだと思っていたが、それだけではなさそうだ。
「ヴァルゴ、か」
今までにも一度、聖石剥奪の任に就いたことがある。けれど、あのときは今回と似たような状況だったにもかかわらず、ウィーグラフの部隊、それも半数でその任に当たったのだ。
無抵抗な白魔道士たちから聖石を取り上げ、そして――。
思い出しただけで胸が悪くなる。
(あんな虐殺を正当化しなければならないのか。きっと、今回も……)
「やらねばならんのだろうな」
やり切れない思いでつぶやいた。そうまでして手に入れねばならないものなのか『聖石』というものは。ただの正義の象徴にすぎないのに。
(いや、違う。あの石には確かに不思議な力がある)
聖石『アリエス』
ここに身を寄せた際にヴォルマルフより渡されたこの蒼い石は、見つめているだけで時折、何かしらの情動を呼び起こす。いつだったか、部下の魔道士が強い魔力を感じると言っていたのを思い出した。
寝台の脇にある、卓の上に置いた聖石に目をやる。白羊の紋章が刻まれたその石は、ただ静かに蒼い輝きを放っていた。
(今日は何も感じない、か)
少しほっとしてため息をつく。今の重苦しい気持ちが増長されでもしたら、たまったものではない。
そのとき、遠慮がちに扉がたたかれた。続いて、聞き慣れた澄んだ声がウィーグラフの耳に届く。
「着替えを、持ってきたのだけど」
「ああ、ありがとう」
そう答えて、ウィーグラフは声の主を部屋へと迎え入れた。
「あの、これ」
亜麻色の髪の娘が差し出した法衣を受け取る。
何だか気まずい。娘は怯えるような、酷く思い詰めた表情をしていた。
すべての責任は自分にある。ウィーグラフはそう思っていた。彼女――メリアドールの想いを受け止めてやれない自分にあるのだと。
何か一言でもいい、声をかけてやらねばと思う。何か、彼女の心が軽くなるような、気の利いた台詞はないものか? 彼女が立ち去ってしまう前に、何か……。
そんなウィーグラフの想いを知ってか知らずか、メリアドールは何か言いたげな視線をウィーグラフに向けていた。
けれど、何かを言いかけてはすぐに口をつぐんでしまう。彼女もまた、言葉を選びあぐねているようであった。
琥珀色の瞳が、不安げに揺れていた。瞬きと同時にこぼれ落ちる滴。
頼りなげな少女のような、あまりにも無防備な涙。
「メリア……」
込み上げてくる想いに、ウィーグラフも言葉を詰まらせる。あの日から、芽生え始めていた想い。認めてしまったら、きっと決心が鈍る。
『妹の、死んでいった仲間たちの無念を晴らすために自分は今ここにいるのだ。失くすものは何もない。守らなければならない大切なものは何もないのだ』
そう言い聞かせて、ずっと気付かぬふりをしてきた。それももう、限界なのかもしれない。
はじめは妹のようなものだった。実の妹・ミルウーダにも似ていると思った。
気付いたら、彼女はいつも側にいた。熱を帯びた瞳で、こちらを見ていた。そして、視線を合わせると、はにかんだ笑顔を見せてこちらへ駆け寄ってくるのだ。
そんなときの彼女は随分と幼く見えた。
それでも、時折見せる寂しげな笑顔は、酷く大人びていてどきりとさせられる。
そして、先日想いを告げられたときの女の顔。
いとおしいと思った。
激しく抱き締めたい衝動に駆られた。
けれど、そうしてしまったら、今までの自分を裏切るような気がして。
だから、嘘をついた。「妹のように思っている」と。
そう思っていたこともあった。でも、今は……。
涙を拭ってやろうと伸ばした手が震えている。怖いのだ。触れることさえ怖い。今だって抱き締めたくて仕方ないのだ。心の奥底に抑え込んでいる想いを洗いざらい吐き出して、壊れるほど強く彼女を抱きたい。
そうできたら、どんなにいいだろう。彼女を苦しめることも、こんなに想い悩むこともない。彼女の柔らかな腕に抱かれて、幸福を貪っていられるはずだ。
(できるはずがない)
この胸に燻る、昏い炎――復讐の、黒き誓いがあるかぎり。
震える指が、ようやくメリアドールの頬にたどり着く。彼女が小さく息を飲むのが感じられた。
ウィーグラフの口もとに微かな笑みが浮かぶ。
「泣いてちゃ、わからないだろう」
その唇から発せられたのは、ウィーグラフ自身が信じられないほど冷ややかな声音。
娘の肩がビクリと震え、怯えるような眼差しで男を見上げる。
「ごめん、なさい」
震え、強張る唇からメリアドールはようやくそれだけの言葉を紡ぎ出した。不安げな瞳は、それでもまっすぐにウィーグラフを見つめている。
わからないとは言ったものの、彼女が何を言いたいのか大方見当はついていた。
「明日のことだね?」
ウィーグラフの問いに、メリアドールは小さくうなずく。その瞳には先ほどとは打って変わって、決意の色がうかがえた。
「私も、連れて行って」
予想できた言葉だった。半ば反射的にウィーグラフは答える。「それはできない」と。
断られることは彼女も覚悟の上だったのだろう。けれど、やはりショックは隠し切れないようだ。
「お願い。剣技には自信があるわ。足手まといにはならないはずよ。それはあなたも……ッ」
ウィーグラフの胸元にすがり付くようにして言い募る。ウィーグラフは苛立って、思わず怒鳴りつけていた。
「聞き分けのないことを言うんじゃない!」
メリアドールは酷く傷ついた表情をして、唇を噛み締めた。
苛立ちは、誰に向けられたものだったのか? それは、こんなにも健気に想ってくれる彼女を拒むことしかできない自分自身にだったのかもしれない。
「すまない、怒鳴ったりして。でも、連れて行くわけにはいかない。君には君のやるべきことがあるはずだ。わかるね?」
正論を並べ立て、どうにかメリアドールを納得させようとしている自分に腹が立つ。受け入れてやればいいではないか。本当は自分も彼女と同じ想いで――いや、多分それ以上に愛しいと思っているのだから。
けれど、いや、だからこそ受け入れることなどできないのだ。
きっと幸せにはしてやれない。
それに、あんな汚いことを彼女にさせるわけにはいかない。そして、それが自分たちの任務であることを、彼女に知らせるわけにもいかなかった。
「それに、君の父上が決められたこと、私の一存でどうにかなるものでもないだろう」
続けてそう言うと、メリアドールはウィーグラフの胸元を掴んだまま、うつむいてしまった。
また、沈黙が支配する。
ウィーグラフもまた、かける言葉を見つけられずに黙しているしかないのだから。
しばらくして、先に口を開いたのはメリアドールの方だった。「わかったわ」と、うつむいたままで言葉を紡ぐ。その声は微かに震えていた。
「心配要らない」そう言いかけたウィーグラフに、泣き出しそうな笑顔を向けてメリアドールは言葉を続ける。
「でも、必ず、帰ってきて、ウィーグラフ……兄さん」
胸が痛んだ。
あの沈黙は彼女の葛藤の時間。そして、苦悩の末に妹であることを選んだ。そう望んだのはウィーグラフだったはずだ。何故、傷つく必要があるのだろう。今までだって妹みたいに想ってきたのだ。これからだってそうすればいい。いつかは、こんな感情も消えてしまうはず……。
自分自身にそう言い聞かせて、ウィーグラフは胸の痛みをかき消した。そして、先ほど言いかけた言葉を口にする。
「心配いらないさ。そんなに危険な任務じゃない。イズルードも一緒だ」
できるだけ穏やかな表情を浮かべて言った。
「そう……ね。心配、しすぎよね」
答えて、メリアドールの表情も少しだけ緩む。
「さあ、もう遅い。君も休むんだ」
ウィーグラフの言葉にメリアドールがうなずく。互いに、まだしばらくは眠れそうにないだろうが。
「ごめんなさい。明日、早いのに。おやすみなさい」
ウィーグラフから手を離してメリアドールはそう言った。そして扉に向かって歩いていく。その背中は、酷く淋しげに見えた。
ウィーグラフは思わず呼び止めてしまいそうになり、出かかった言葉を慌てて飲み込む。
その時、メリアドールが振り返った。その瞳には涙がたたえられている。そして、微笑んだ。
たまらないほど繊細な笑みだった。
「信じてるから」
唇からこぼれた言葉。それでもまだ不安だと、瞳は言っている。ウィーグラフにはそう思えた。
(このまま、帰していいのか?)
そう思った瞬間、身体は動いていた。扉に押しつけるようにして、メリアドールを抱き締める。
「あ……」
突然の行為にメリアドールは身体を硬直させて、されるままに抱きすくめられていた。
「……すまない。君に、嘘をついた」
ウィーグラフは苦しげに、溢れ出した想いを言葉に換えていく。
「妹だなんて、思っていない」
『愛している』そんな言葉が浮かぶ。けれど口にするのは躊躇われた。
いとおしくてたまらない。ありふれた言葉では、きっとこの想いには足りない。どうすれば伝えることができるだろう? 狂おしいほどの、この想いは。
ウィーグラフは腕の中で茫然としているメリアドールの顔を上げさせ、その可憐な唇に自分のそれをそっと押し当てた。
触れるだけの、けれどもありったけの思いを込めた口づけが、娘の頬を染めさせる。
琥珀色の瞳がウィーグラフを映して揺れていた。責めるような眼差しがウィーグラフの胸を締めつける。苦しげにかすれた声が、さらに追い討ちをかけた。
「わたし……は……」
メリアドールの手がウィーグラフの頬に伸ばされる。少し節くれ立った、けれどもたおやかなてのひらが、引き締まった男の頬を優しく撫でた。
ただ言葉もなく、互いに触れ、見つめ合う。
吐息が互いの頬にかかるほど顔が近付いた。
口づけの予感。
けれども、唇が触れ合う寸前でメリアドールはそれを放棄して、ウィーグラフの首筋に顔を埋めていた。
「もう、妹でいなくていいの?」
幼い少女のような問いかけ。
「ああ。もう、君に嘘はつけない。愛してる」
言った瞬間、体が熱くなるのを感じた。
「メリア、君が欲しい」
ウィーグラフはそう言うとメリアドールを抱き上げた。そして半ば放り投げるようにして寝台の上に寝かせると、メリアドールの上に覆い被さる。
「ウィーグラフ……」
不安げに見つめる娘の唇を優しく奪い、その身体に手を伸ばした。
震えている。
彼女の身体も、そして自分の手もだ。
(まるで子供だな。女を知らぬわけでもあるまいに)
口もとに自嘲の笑みを浮かべると、衣服の上からそっと膨らみに触れてみる。さほど豊かとはいえない、けれど形の良い乳房は、ぴったりとウィーグラフの手の中に収まった。
温もりと、柔らかさと、鼓動が手のひらに伝わってくる。
恥ずかしさで泣き出しそうな表情で、メリアドールが顔をそむけた。
そっと撫でるように手を動かすと微かにうめいて目を伏せる。
震える身体をきつく抱き締め、耳元で愛の言葉をささやきながら、ウィーグラフはそっと耳たぶを食んだ。手の動きが大胆になる。
初めての感覚に身体を震わせながら、メリアドールはそれでも、逞しい男の身体に腕を回した。
「ウィーグラフ……」
甘くかすれた声で名を呼ばれ、それに応えるように唇を重ねる。深く口づけながら、ウィーグラフはメリアドールの衣服をゆっくりと剥いでいった。
月が、部屋の中を照らし出している。
今夜の月は嫌に明るい。
月明かりに浮かび上がる白く美しい裸体を前に、ウィーグラフはたぎっていた心が急速に冷えていくのを感じた。
(このまま、彼女を汚してしまっていいのか?)
罪の意識がウィーグラフを苛む。天使を堕としめる――罪。
「どうしたの?」
どこか戸惑った様子のウィーグラフにメリアドールが声をかけた。
ウィーグラフは震える己が手を見つめながら答える。
「震えてるんだ。怖いんだよ。天使を汚してしまうことがね」
メリアドールに初めて逢ったとき、その背に銀の翼を見た気がした。たとえそれが幻だったとしても、ウィーグラフにとって彼女は天使だった。
その強さに、優しさに、何度も救われた。それを……。
「私は、天使なんかじゃないわ」
少し怒ったようにそう言ったメリアドールは、身体を起こしてウィーグラフの首に腕を回した。そしてそっと額を合わせると言葉を続ける。「私は、天使じゃない。ただの女よ」と。
ウィーグラフには返す言葉がなかった。自分が勝手に彼女を神聖化しているだけにすぎないのは、よくわかっているのだ。
苦悩の表情を浮かべるウィーグラフを見て、メリアドールは彼の背中から腕を解くと、両方のてのひらでそっとウィーグラフの頬をはさむ。その手は、小刻みに震えていた。
「ほら、私だって震えてるわ。わかるでしょ? 本当は、すごく、怖いの。だけど、それ以上に……」
込み上げる情熱がメリアドールの言葉を詰まらせる。言葉では足りないと、そう言っているようにウィーグラフには思えた。
「あなたに、愛して欲しい」
そうして重ねられた唇は、温かく、とても柔らかで……。
「好きよ、ウィーグラフ」
天使の微笑みは淡く、どこまでも透明で美しい。
「本当に、いいんだな?」
メリアドールが小さくうなずきを返す。
それからはもう言葉もなく、互いを求め、深く溶け合った。
ウィーグラフが目覚めたとき、その身体は温もりに包まれていた。頬に触れているこの柔らかな感触はなんなのだろう? とても、懐かしく、心地よい。
「う……ん」
小さくうめいた瞬間、突き放された。
茫然としているウィーグラフの目に飛び込んできたのは、生まれたままの姿で恥ずかしげにこちらを見つめている亜麻色の髪の娘だった。その両手は毛布をしっかりと握りしめて胸元を隠している。
「メリア?」
「ごめんなさい。あの、私……」
メリアドールは頬を朱に染めて、瞳を潤ませていた。それに触発されたように、ウィーグラフの頬も赤く染まっていく。
「いや、その、うん。おはよう」
なんだか気恥しい。こんなことになるなんて。
「君とこんな風に朝を迎えるなんて、思いもしなかったよ」
そうだ、妹のように想っていたこの娘を昨夜は……。
少しの罪悪感。でも、それ以上に愛しいと思う。ウィーグラフは、その愛しい娘の名を呼んで抱き寄せた。
「私はずっと夢見ていたわ。夢じゃ、ないのよね」
メリアドールはそう言ってきつく抱き返してくる。
柔らかな亜麻色の髪を撫でながら、ウィーグラフはとても安らいだ気持ちになった。まるで日だまりの中でまどろんでいるかのような幸福感。
(ずっと、このままこうしていられたなら……)
けれど、時は無情にも流れていく。いつの間にか、東の空が白み始めていた。
出発の時が迫る。束の間となるはずの――けれど永遠の別れの時が。
ウィーグラフはもう一度メリアドールをきつく抱き締めると、ゆっくりと身体を離した。
「そろそろ行かないと。待っていてくれるね?」
その言葉に、メリアドールがうなずく。その表情からはもう、不安など感じられない。
微笑みを交わして、そっと唇を重ねた。これが最後の口づけとなることを、二人は知らない。