夕闇

 

あれから、どれだけの時が流れただろう?
君を永遠に失ってから。
いや、私の時間は流れてなどいない。
きみが、この腕の中で呼吸を止めた瞬間から、私のすべては止まってしまった。
ただ、陽が昇り、陽が沈む。
日々など、その繰り返しに過ぎぬ。
今日もまた、大地に陽が没し、空に闇が染み渡る。
陽光の名残が、すべての輪郭だけを浮かび上がらせる。
黄昏――誰そ彼と人は問う。
誰だって構わない。
夕闇に響くは、獣の慟哭。

 

  雨上がり、妻の墓前にて

 墓標が立ち並んでいる。夕立の過ぎ去った後らしく、皆一様に濡れ、雲間から零れる夕日を浴びて輝いていた。
 ここにあるのは、先の戦争で死んだ者たちの墓である。整然と立ち並ぶ墓標は、地の果てまでも続いているのではないかと錯覚を覚えるほどだ。
 その中を壮年の男が一人歩いていた。鈍く光る甲冑を身に付け、その上に紫紺の外套を纏っている。腰には手入れの行き届いた長剣――それも銘の入った高品質のものだ。胸元には聖印が光っていた。
 神殿騎士だ。外套の色と携えられた剣の質からして、かなり高位の者だろう。
 手には白い花束。甘い香りを漂わせるその花は、男が足を進めるごとに揺れ、雨に濡れたその白い花弁から涙のように水滴を零していた。まるで、志半ばで散っていった勇士たちの死を悼むように……。
 不意に、男の足が一つの墓標の前で止まる。三年前に死んだ彼の妻の墓だ。周りのものと比べると、わずかばかり立派に見えるのは供えられた花の多さからだろうか?
「相変わらずだな……」
 墓石を彩る花々を見下ろして、男はため息をついた。
 手向けられた花の多さは、生前の彼女の人望の成せる技だ。人望――というと、少し語弊があるのかもしれない。確かに、高位の司祭として多くの人から慕われていた。けれど男にとっていくらか歳の離れた妻は、何をするにも危なっかしくて放っておけない存在だったのだ。
 そう言うと、妻はよく拗ねていた。
『子供扱いしないでください』
 と。
 そういうところが子供なのだと言うと、さらにむくれてしまう。
 愛していた。何ものにも代え難く……。
 男は手にしていた花束に目を落とした。甘い香りのする純白の花。妻の好きだった花だ。
「ヴォルマルフ様、奥方様の墓参りですか? 随分と久し振りですなぁ」
 男の背後で老人の声がした。振り返ると、墓守の男が箒を片手に立っていた。
「ああ、この所忙しくてな。やっと来られたよ」
 ヴォルマルフと呼ばれた騎士は、苦笑しながらそう答えた。
「神殿騎士団の団長様も大変だ。……いや、これは失礼。あ、掃除の方はしっかりやらせていただいとりますんで、ご心配なく。お嬢さまも、時々お見えになっているようですしな。それじゃ、あっしはこれで」
 男はペコリとお辞儀をすると、手にしていた箒をかついで行ってしまった。
 ヴォルマルフは横目でチラリと男の背中を見ると、自嘲気味に微笑った。
「忙しかった……か」
 あながち嘘ではない。しかし、本当の理由は他にある。
 ヴォルマルフは妻の墓前に跪くと花束を置き、墓碑銘を指でたどる。そこには三年前のあの日の日付が刻まれていた。
「早いものだな……」
 そう呟いたヴォルマルフの顔に浮かぶのは苦悩の表情。
 時だけが流れた。
 妻を失くした痛みは少しも変わらない。傷口は未だ生々しく鮮血を溢れさせている。
 ここに来られなかった本当の理由。ここに来ると、否応なしに妻を失ったあの日のことが思い出されるからだ。愛しい人を、もう二度とこの腕に抱くことはできないのだと、思い知らされる。
 毎夜くり返される悪夢。目を閉じると、あの日のことがまぶたの裏に浮かび上がるのだ。
 何故、守ってやれなかったのか。
 自責の念が、安らかに眠ることを許さない。あの夢を見る度、あの日のことを思い出す度に、己の中に潜む闇が膨れ上がるのを感じる。
 いつか、その闇に意識が支配され、衝動のままに殺戮を始めてしまうのではないかと、不安でたまらなくなる。大きすぎる不安。それは恐怖だった。
 せめて一瞬でも忘れていたいと思うのは、許されぬことなのだろうか?
 忘れられるはずがない。けれど、封じ込めておくことはできる。神殿騎士団長としての責務に忙殺されていれば、思い出すこともない。
 ここにさえ、来なければ……。

 


  決して、癒えることのない傷

 けれど、今ヴォルマルフはここにいる。
 寂しさに耐え切れず、ついに来てしまった。ここに来れば、逢える気がした。何か矛盾しているようにも思う。それでも、確かに彼女はここにいる。ヴォルマルフの足下で眠っているのだ。
「すまなかったな……」
 ヴォルマルフは永遠に眠る妻に向かって語りかける。
「長い間、逢いに来られなくてすまなかった」
 と。
 思ったよりも平静でいられた。もっと心が乱れるのではないかと案じていたのだが。
(三年、経ったのだったな)
 やはり、時間の流れというのは心の傷を癒してくれるのだ。それは、ほんの僅かずつではあるけれど……。
 こうして少しずつ痛みが薄れていき、いつか、とても穏やかな気持ちで彼女を懐かしむことができるのだろうか。
 あの頃には、考えられなかったことだ。
 ただ、絶望だけがあった。そして、忌まわしき闇との契約。まだ、押さえ込んでいられる闇の意志。けれど、そろそろ限界なのかもしれない。
 その時、ヴォルマルフの眉根が寄せられた。不意にあの日の記憶が蘇ってきたのだ。

 怒号と粉塵、そしてむせ返るような血の匂い。
 そこは、戦場のただ中だった。
 妻の美しい顔が、苦痛にゆがんでいた。それでも、ヴォルマルフの無事を見て取ると、ほっとしたような表情を見せて言ったのだ。
『良かった』
 と。
 そして彼女を襲った凶刃の持ち主を屠ったばかりのヴォルマルフの腕の中に倒れ込んだ。
 その時になってようやく、ヴォルマルフは自分がかばわれていたことに気が付いたのだ。
『何故だ……』
 呻くようにつぶいたヴォルマルフに、たおやかな手が伸ばされる。ヴォルマルフはその手をしっかりと握りしめ、妻の顔を覗き込むようにして見た。妻の顔には死相が浮かんでいる。
 やりきれない思いがヴォルマルフの顔に表れた。
 その表情を受けて、妻の顔が悲しげに歪む。そして、最後の呼吸とともに吐き出された言葉。
『私……幸せでしたわ……』
 それが、別れの言葉となった。包み込むように握りしめていた妻の白く美しい掌から、急速に温もりが失われていく。

 何故、あんな風に彼女を失わねばならなかったのだろうか? あの感覚が、あの時のやるせなさが、三年経った今でさえ、生々しく思い出される。
(やはり、連れていくべきではなかった。あの時、無理にでも追い返していれば……)
 癒え始めていたはずの心の傷がぱっくりと口を開け、鮮血が噴き出した。
 それは、物理的な痛みとなってヴォルマルフの胸を苛んだ。今尚残る後悔の思いが押さえ込んでいた負の感情を呼び起こす。
<何故? 何故何故何故?――――――――――――――――――――何故ッ!>
 すべてを呪う問いかけが、解き放たれようとしていた。
――――――絶叫。
 それに呼応するように、腰に下げた小さな皮袋から微かな光が漏れた。それと同時に、ヴォルマルフの意識が闇の意思に塗り替えられていく。
 震える手が携えられていた剣に掛かった。一気に引き抜くと、獣じみた叫び声を上げながら大上段に振りかぶる。その刀身が、夕日に赤く染め上げられた。まるで、血に塗れているように見える。
 狂気が、ヴォルマルフの意識を飲み込もうとしていた。僅かに残ったヴォルマルフの意識がそれを必死に拒む。
「……ソ……フィア」
 妻の名を唇に乗せ、ヴォルマルフは破壊の衝動を押し込めようとした。
「ぐ……ウゥ……ッ」
 手にした剣を地面に突き立て、それにすがるようにして膝を付く。
 噛み締めた唇の端が破れ、血が滴った。痛みが、僅かだが狂気を押さえ込む。
(駄目だ、こんな程度では……)
 もう、何度目だろうか。
 今は甲冑に隠されて見えないが、ヴォルマルフの腕には無数の切り傷がある。すべて自分自身で付けたものだ。闇の意識から、自分を取り戻すために。
「がアぁぁァッ!」
 ヴォルマルフ吠えた。吠えて地に突き立てた剣を引き抜き、甲冑に覆われていない部位――大腿部へとその切っ先を向ける。そしてそのまま突き立てた。
 ……かに思えた。が、しかし、実際は表皮を削っただけでその切っ先は再び地に没している。
『委ねよ……』
 ヴォルマルフの頭の中で暗い声が響いた。
『お前はあの時、我と契約したはずだ。委ねよ。これ以上苦しむことはない。さあ、委ねよ……」
 いつになく、闇が形を取っている。
 地に突き立てた剣に身体を預けたまま、ヴォルマルフの内面の戦いは続いていた。

 


  誰そ彼と問いし時

「父さん!」
 その時、少年の声がヴォルマルフの耳に届いた。駆け寄ってくる足音。続いて、少女の声。
「どうしたの……大丈夫?」
 肩に触れようとした少女の手を、ヴォルマルフは乱暴に払いのけた。顔は背けたまま、少しも二人の方を見ようとしない。
 いや、見られないのだ。二人の子供の顔を見てしまったら、その中に妻の面影を見てしまったら、また――。
(そうだ、このままあれに身体を渡すわけにはいかない。子供たちをこの手にかけるわけにはいかない……)
 そう思ったとき、ヴォルマルフの頭の中で再び魔の声が響いた。
『殺しはせぬよ』
(なんだと……?)
 殺しはしない。その言葉にヴォルマルフの意志の力が僅かに弱まった。それを見逃す悪魔ではない。
『お前の大切な子供らだ。殺しはしない』
 悪魔の統制者・獅子王ハシュマリム。その絶対的な意志の力に人間が勝てるはずもなく、一気に押し切られる形でヴォルマルフの意識は闇に飲み込まれ、消えた。
『殺したりはせぬ。こやつらには、まだ利用価値がある。我らの眷属に、相応しくない肉体でもな……』
 消え行くヴォルマルフの意識にハシュマリムはそう言うと、ヴォルマルフの身体の具合を確かめるようにして立ち上がった。
「父……さん?」
 先ほど払いのけられた手を押さえながら、娘が不安げに声をかける。息子は少し怯えた様子で父と姉とを交互に見ていた。
「すまなかったな。もう、大丈夫だ。メリアドール、イズルード」
 ヴォルマルフ――ハシュマリムはそう言って両手を広げて見せた。それぞれの名を呼ばれた二人の子らは、一様にほっとした表情を浮かべる。それを見つめる父の瞳が、酷く冷酷な光をたたえていることに、二人はまだ気付いていない。

 

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あとがき
2000年8月発行の同人誌に掲載したものです。構想から三日で書き上げた作品(だったはず)。

2007.01.15 神風華韻