約束 -呪縛-

 

 風が吹いている。ラーナー海峡から吹き込む強い北風だ。
 ここフォボハム平原には、その風の力を利用するため、無数の風車小屋が点在している。そのうちの一つ、おそらくは最も古く、そして最も小さいであろう風車小屋の中に、ゴラグロスたちは居た。
 ダイスダーグ・ベオルブの暗殺は、失敗に終わった。捕らえた少女を盾に、どうにかここまで逃げてくることはできたのだが、これからどうしたものかと途方にくれている。
 おそらく、追っ手が差し向けられているだろう。もしかしたら、すぐそこまで迫っているのかもしれない。捕まれば、すぐにでも処刑台に送られる。これまでに捕らえられた同胞たちと同じように。
 不安と苛立ちが、あまり広くない小屋の中を支配している。言葉を発する者は、誰一人としていない。吹き付ける風の音と、風車の回る音だけが不気味に響いて、彼らの緊張を煽っていた。
「あの……ゴラグロスさん、これからどうするんスか?」
 木箱に腰掛けていた男が遠慮がちに口を開いた。声がかすかに震えている。
 ゴラグロスは「ああ」と気のない返事をすると、彼らに囲まれて震えている少女に目をやった。
 俯いた顔を長い髪が隠してしまっているため、表情はわからない。だが、酷く怯えた顔をしているであろう事は、容易に想像がついた。当然だろう。豪奢な館でぬくぬくと育った貴族の御令嬢が、この状態で平然としていられるわけがない。
 この少女を人質とすることで、彼らはあの場から逃れてくることができたが、本当にこれからどうしたものか。潔癖な彼らの指導者は、人質をとったことを快く思わないだろう。生真面目な指導者の顔を思い出すと、ゴラグロスは苦笑して天井を仰いだ。
 視線の先では、軋む音を立てて歯車が回っている。半ば腐りかけたそれは、時折酷く耳障りな音を立てながらも、どうにか役目を果たしていた。
 まるで自分たちのようだ――と、ゴラグロスは思った。
 必要がないから、こうして手入れもされずに捨て置かれている。同じだ。戦争が終わり、用済みになって切り捨てられた自分たちと。
 ただ一つ違うのは、自分たちは人間だということだ。意思がある。人間としての誇りがある。道具のように扱われ――いや、不要になった道具として捨て置かれるだけなら、まだましなのかもしれない。貴族たちは、彼らから生きる権利すら奪っていく。
 だから彼らは、奪われたものを取り戻すために剣を手にした。
 けれど、もうここで終わりなのかもしれない。今、生き残っている仲間はどれだけいるだろう。
 ふと、ゴラグロスの脳裏にミルウーダの顔が浮かんだ。
 泣いている。いや、あれは笑顔だ。気丈な彼女が堪えきれずに涙をこぼしながら、懸命に微笑んでいた。彼がこの任務に赴く日の朝のことだ。
『約束よ』
 かすかに濡れた声が、耳の奥に残っている。
(約束だった。俺は死なない。どんな手を使っても、必ず生き残る)
 ゴラグロスは少女に目を戻した――その時、背後から風が吹いた。その風はすぐに止み、蝶番の軋む音に続いて足音が耳に入る。
 何者かが入ってきた気配に、自然と身体が強張った。
 剣の柄に手をかけて振り返る。そこには彼らの指導者、騎士ウィーグラフ・フォルズの姿があった。
 安堵のため息をついて、剣から手を放す。
「お前たちだけか?」
 と、問うウィーグラフに、ゴラグロスは「ああ」とだけ答えて、目をそらした。
 襲撃に参加したメンバーの半数は、ここにはいない。ゴラグロスの目の前で斬り殺された者が一人。あとはわからない。うまく逃げていればいいと思うものの、その可能性は無いに等しい。捕らえられたのだとしても、もう殺されているだろう。
 暗殺は失敗した。傷を負わせることはできたようだが、あの程度で死ぬことはあるまい。
 とはいえ、あの襲撃が無駄だったとは、ゴラグロスは思わない。彼らなど簡単にひねりつぶせると思っている奴らに、一泡吹かせてやることはできたはずだ。それに、この少女がいる。名のある貴族の令嬢だ。それも、あの北天騎士団の中核をなす、ベオルブ家の娘なのだ。利用できる、とゴラグロスは思っている。
 しかし、ウィーグラフは後ろ手に縛られた少女を見て、眉をひそめた。
「ゴラグロス、これはどういうことだ。何故、娘を誘拐した?」
 やはりな――とゴラグロスは思った。
「我々が逃げるためには、人質を取らざるをえなかったんだ」
 ウィーグラフから目をそらしたまま、ゴラグロスが答える。逃げるだけならば途中で解放することもできたはずだと、ウィーグラフは詰め寄った。
「ゴラグロス、まさかお前まで……」
 ウィーグラフの褐色の瞳が、侮蔑の色を含んでゴラグロスを射抜く。
「ギュスタヴと一緒にするのか!」
 ゴラグロスは、先ごろウィーグラフ自らの手によって粛清された男の名を口にした。
 ギュスタヴ・マルゲリフ。骸騎士団時代に、副団長だった男だ。貴族の出だが、かなりあくどいことをしたらしく、その身分を剥奪されて彼らのところに来た。
 もともとの思想の違いからか、ゴラグロスたちとは折り合いが悪かった。よく勝手な行動をとり、ウィーグラフと口論になっていた。その最たるものが、粛清のきっかけにもなったエルムドア侯爵の誘拐だ。
 ただの身代金目的の誘拐ならばまだ良かった。その話を持ちかけてきたのは、北天騎士団の軍師だというのだ。もしかしたら、ギュスタヴははじめから北天騎士団と通じ、情報を流していたのかもしれない。
 そんな奴と一緒にされてたまるかと、ゴラグロスは思った。
(俺はあんたを尊敬してる。だからこそ、ここまで一緒に戦ってきた)
 ずっと思ってきたことだ。口に出して言ったことはないし、これからも言うつもりはないが。
 ウィーグラフには、まだやらなくてはならないことがある。ゴラグロスにもだ。だからまだ、死ぬわけにはいかない。
「よく考えてみろ、ウィーグラフ。我々は仲間の大半を失い、今も北天騎士団に包囲されている。この窮地を乗り切るためにはまたとない切り札となるぞ。この娘はベオルブ家の令嬢だからな!」
「逃げてどうする?」
 そう言って、ウィーグラフはまた理想を口にする。はじめはそれに惹かれた。けれど、今は甘いと思う。地に足がついていない。現実が、見えていない。
「我々に『死ね』と命ずるのか?」
「ただでは死なぬ。一人でも多くの貴族を道連れに!」
 それで、何が変わるというのだろう? 死んでしまったら、そこで終わりだ。
「バカな! 犬死にするだけだ!」
 ゴラグロスがそう言うと、ウィーグラフは一つため息をついて、首を横に振った。
「いや、ジークデン砦には生き残った仲間がまだいるはずだ。合流すれば 一矢報いることはできよう」
「すでに、殺られているかも……」
 生き残った仲間の中にまだ内通者がいるのだとしたら、その可能性もある。そう思ったとき、また風が吹いた。
 ウィーグラフが見張りに立たせておいた女戦士が、血相を変えて走り込んできたのだ。彼女の報告に、ウィーグラフの顔色が変わった。
 ここに向かっていた小隊が、レナリア台地で北天騎士団の攻撃を受け、全滅したというのだ。その隊を率いていたのは、ミルウーダだった。
(嘘だろ……)
 信じられない。いや、信じたくなかった。けれど、思い出したことがある。あの時の、ミルウーダの涙の理由だ。

『もし、私が先に死んでも、あなたは生きて』
 そう言って、彼女は淋しげに微笑った。危険な任務に赴くのは、ゴラグロスの方だというのに、彼女は自分が先に死ぬのだと言った。
 彼女は、このことを予感していたのだろうか。
 その時ゴラグロスは『馬鹿なことを言うな』と言って、相手にしなかったが。
『馬鹿なことじゃないわ。この先、どうなるかなんてわからないじゃない』
 ゴラグロスの胸に頬を押し付けて、彼女は泣いた。あんな風に涙を見せたのは、ずいぶんと久しぶりだったように思う。
『わかった。俺は死なない。だから、お前も死ぬな』
 半分気休めのつもりでそう言って、ゴラグロスはミルウーダの肩を抱いた。そうして、自分自身の中で膨れ上がっていく不安を、押さえつけようとしたのだ。もう二度と、彼女を抱きしめることがないなんて、考えたくなかった。
『約束よ』
 泣き顔を無理やり微笑みに変えて、彼女はそう言った。
『ああ、約束だ』
 彼女の頬を伝う涙をそっとぬぐってやりながら、ゴラグロスはその唇にそっと口付けた。それが、最後の口付けになった。
 ミルウーダはもういない。けれど――
(俺はまだ、生きている)

「ここを撤退する。ジークデン砦へ向かうぞ。娘はここへ置いていけ!」
 女戦士からの報告を、怒りと悲しみを抑えつつ聞いていたウィーグラフが、決断した。自失しかけているゴラグロスにその言葉は届いていなかったが、ウィーグラフはそれに気付かない。
 指示を受け、皆が動き出そうとしたその時、見張りの敵襲を告げる声が響いた。小屋の中に緊張が走る。ウィーグラフは舌打ちすると、剣を抜き放った。
「ここは私がくい止める! ゴラグロス、お前は他の仲間と共にジークデン砦を目指せ!」
 小屋を出て行くウィーグラフの背中を、ゴラグロスは呆然と見ている。その口から、かすれた声がこぼれた。
「俺は逃げてやる……」
(逃げてやる。そして、生き延びてやるんだ。俺は、むざむざと殺されたりはしない)
 胸のうちに芽生えた、昏く熱いものが肥大していくのをゴラグロスは自覚した。
「死んでたまるか!」
 吐き捨てるように言って、ゴラグロスが振り返る。囚われの少女がおそるおそる顔を上げた。
 視線が交わる。
 その瞳に浮かぶのは、自分はここで解放されるのだという期待。しかし、そんな彼女に放たれたのは……。
「悪いな。もう少し付き合ってもらおうか」
 少女の瞳が、絶望の色に沈んだ。ゴラグロスの唇が、満足げに歪む。
 哄笑が、空虚に響いた。

 

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