*蝦夷の海の化け物鯨*
嘗て、紀州や下関などで鯨猟が盛んに行われていたに関わらず、本州以南には鯨がモティーフの妖怪や化け物の話と言うものはあまり多くは無く、寧ろ海の神として崇めていた事例が多い。
これに対し、自然と密接に関わりあいながら暮らし、人と神の関係について少々特殊な信仰を保持していた北海道のアイヌの人達の口碑の中には、日本の妖怪の中でも屈指の猛者と呼べそうな巨大な化け物鯨が登場する。その名を「ショキナ」と言う。
「ショキナ」は、アイヌコタンの東側にある大海を根城にしていた巨大な海の魔物で、その顎を開けば鼻面が天に届き、下顎の先が海底を削ると言う程の大きさだった。普通の鯨など、まるでイワシを食べるかの如く丸呑みにするし、腹が空けば海中の魚は元より、海に漁に出たアイヌの人々や本州から交易の為にやって来るペンチャイ(アイヌ語で弁財船、即ち北前船を意味する)までひと呑みにしてしまう。
その被害たるや真に甚大なもので、このままでは人間が滅んでしまうと困りあぐねた神々は、天の神々の中でも最も武勇に優れた川獺(カワウソ)の神にこの化け物を退治するように命じた。
ところが、川獺の神は武勇に優れる一方で酷く物忘れをする神でもあった。
天から刀を引っさげて、意気揚揚と「ショキナ」の前に立ったまでは良かったものの、腰に刀を差しているのを忘れてしまい、悪口雑言を「ショキナ」に浴びせるばかり。あべこべに猛り狂った「ショキナ」から追い立てられて西に東に逃れる羽目に陥ってしまった。その様を見た登別の守り神が川獺の神に言った―。「忘れっぽい奴だ、何故にお前は腰に差した刀を使わないのだ」。
「何てこった!」川獺の神はいきり立つと腰の刀に手を掛け、今まさに川獺の神を食い殺そうと迫る「ショキナ」に向かってスラリと抜き放つ。忘れっぽい性分である川獺神の事、今まで追いまくられていた事も疲れ果てていた事もすっかり忘れて勇み立ち、遂に「ショキナ」を一刀両断にしてしまった。
こうして「ショキナ」は退治されたが、この時切り落とされた「ショキナ」の頭は、後に川獺の神から登別の神へ、刀の事を思い出させてくれた礼として献上された。登別の神は、これを後世の見せしめとして、山に変えて登別川のほとりに晒し者にしたと言う。これが今も登別に残る「フンぺ・サパ」(アイヌ語で鯨の頭と言う意味)と言う山で、時折登別川の鮭の遡上が全く絶えてしまうのは、この「ショキナ」の頭が未だに死にきれず、空腹のあまりに鮭を根こそぎ食べてしまうからだ、と伝えられている。