*九州最強の河童王*
東に関八州・利根川の「祢々子河童」(ねねこかっぱ)があるならば、西の河童の横綱は九州有数の大河・筑後川に居を構える「九千坊河童」(くせんぼうかっぱ)こそが相応しかろう。
「九千坊河童」は元は中国の生まれだと言われ、仁徳天皇の治世の頃に一族郎党を引き連れて海を大遠泳の末に熊本・八代の浜辺に辿り着き、其処から九州一帯に勢力を広げて行ったと伝説では語られている(それ故、熊本では八代の地を“河童渡来の地”と定め、記念の碑が建てられている)。「九千坊」の名は、彼の一族が九千匹も存在した事に因む命名である。
海を大遠泳した末の繁栄振りからも彼等の膂力の強さが伺えようモノだが、日本に腰を据えてからの彼等の傍若無人振りもなかなかのモノだった。向かう所敵無し、常勝不敗の「九千坊」だったが、そんな彼も生涯に2度だけ大敗を喫した事が有る。一度目は、前述の「祢々子河童」の一族と、利根川の所有権を巡って争いになった時。この時の事は河童同士の事とて、記録には詳しく記されていないが、兎に角「祢々子河童」が「九千坊」を打ち負かした事だけは明らかになっている。そしてもうひとつの黒星が、猛将・加藤清正(かとう きよまさ)との争いだった。
各地に散らばった「九千坊」の手下の狼藉に業を煮やした清正は、あるとき、自分の小姓が河童に殺された事を理由に全軍を挙げて河童を攻め立て、遂には河童が最も苦手とする猿の大群を用いて「九千坊」を捕らえようとした。度重なる清正の猛攻に為す術も無く敗走を続け、「九千坊」が逃げ込んだ先は、有馬公が統治する福岡の筑後川であった。
有馬公は寛大にも「今後人畜に悪さをせぬと誓うなら、以後、我が領土にて暮らす事を許してつかわす」と「九千坊」に申し渡した。「九千坊」は有馬公に感謝し、以後、水天宮(水の神様)の眷属として領民を水害から守る事を誓ったと言う。
「九千坊」にまつわる伝説の背景には、戦国時代に九州各地で猛威を振るっていた、渡来民を先祖に持つ海賊の存在があったと伝えられ、有馬公が「九千坊」を調服したと言うエピソードには、そうした海賊を自身の配下に加え、戦力の強化を狙ったと言う真実が隠されていると言う説がある。「九千坊」を始め、九州の河童に多分に任侠じみたイメージが付き纏うのも、恐らくその所為だろう。