満月とジンジャーティー

満月とジンジャーティー


 教団の回廊を、靴音が響く。革靴の踵が、カツカツと一定のリズムを刻んでいる。
 回廊に限らず、この建物は壁も天井も全て硬い石だ。冬のどんよりした空に覆われたこの季節、この北の島国では石の建造物は冷たい空気を一層冷やす。冷えてよく澄んだ空気が響かせる音は堅く、余計に冷たく聞こえた。
 団服ではない黒い衣服を纏った白髪の少年は急ぐことなく、かといって特にゆっくりでもない、一定の足音を響かせながら回廊を歩いていた。その少し先を金色のゴーレムがふわふわと飛んでいる。

 少年は、昨日までは北の町にいた。城壁に囲まれた小さな街で、任務についていた。結局無駄足に終わって今朝教団に戻ったばかりだ。無駄足とは言っても、その街に潜んでいたアクマを殲滅することは出来たのだから、それなりに有益だったといえるだろう。
 町のぐるりを取り囲んだ堅牢な城壁は、数百年も昔、遠く南から征服にやってきた他の民族が建て、その後歴代の領主や町の人間の手によって補強されてきたのだという。そして町の中心には、荘厳な神の城。
 その神の城にアクマは潜んでいた。

 靴音だけが響いていた回廊に、他の音が混じりだす。人の生み出す喧騒は徐々に音量を増し、一定だった靴音がほんの一瞬だけ不定になった。その瞬間。
「あら!アレン」
 ざわめきに混じって、一際大きく男の声が少年の名を呼んだ。
「おつかれさま。そろそろ来るかと思って待ってたのよ」
「ありがとうございます、ジェリーさん」
 労いの言葉に笑顔を返しながら、アレンはカウンターに歩み寄った。
「聞いたわよ、がせねただったらしいわね」
 心配そうな表情を作りながら、忙しいはずの料理長が手を止めてカウンター越しにアレンと対峙した。ちゃっかり少年の頭上に座っているティムキャンピーに気付いて声をかける男は、まだ成長途上のアレンからしてみれば、見上げるほど大きい。なのにその彼が身をくねらせ品を作っても、何故か妙に似合う。
 その彼が心配そうにしたのも無理はなかった。
 最初の情報こそイノセンスの可能性ありというものだったが、そもそもその情報が誤りだった。信憑性が高いように思わせて、しかしそれは巧妙に作られた誤情報。詰まるところ黒の教団を欺くためのものだった。エクソシストを誘き寄せるための罠。
 もちろんアクマ十数体だけで、エクソシストを倒せるとは敵も思ってはいないだろう。しかしその目的がエクソシストを倒すことなのではなく、疲弊させ力を殺ぐものであるとすれば、生身の体である分、アレン達の方が不利だ。

 肌を切りそうなくらいに冷たい風の吹く町。その古い町での夜通しの戦闘を思い出しながら、アレンは心配する男にそれは不要だというように笑い返した。
「ええ、そうです。でも結局はうまくいきましたから」
 そうだ。だってこうしてちゃんとここに戻ってこれた。満身創痍ではあるけれど。
 笑みを作るには、右頬に貼られた大きなガーゼの下の傷が引き攣れて痛いし、右の鎖骨には軽いひびが入っていると先程医療室の人間に言われたばかりだ。だから右腕は固定されている。それ以外にも数え上げられないくらい、擦り傷切り傷だらけだ。男が心配するのも無理はないかもしれないなと、アレンは内心苦笑した。
「もう。ほんとあなたったら可愛い子ね!じゃあいっぱい食べて、早くそれを治さなくちゃね。なに食べる?何でも作っちゃうわよ」
「はい、お願いします」
 常人ならおよそ一日では食べきれないだろうほどの量を注文して、アレンはテーブルについた。
 口の中で唱える祈りの言葉もそこそこに、フォークを取り上げ、まずは目の前のチキンから取り掛かった。注文したメニューはアレンの腰掛けた席の前方を覆い尽くすほどの量で、それでもまだ頼んだ量の半分に過ぎない。だから後からくる残り半分の量を考えると、猛烈な勢いで食べたいところだが、右腕が固定されていてはそう上手くはいかない。もっとも、ジェリーの配慮だろうか、全て食べやすいサイズに分けられているから、悪戦苦闘というほどでもないのだけれど。

 半分ほどを食べたところで、ジェリーが現れた。両腕で絶妙のバランスを取りながら、残り半分、山ほどの皿を運んできてくれたらしい。
「はい、残りよ。それにしても相変わらずいい食べッぷりね」
 惚れ惚れしちゃうわあ、という言葉は失礼にならない程度に無視をしながら、焦ってアレンは口の中のものを飲み下した。
「…っ、すいません、ジェリーさん!」
「慌てなくてもいいわよ、ゆっくり食べて頂戴」
 ジェリーは運んできた皿を全てテーブルに乗せてから、反対に綺麗に平らげられ空になった皿を重ねてしまった。それから、まだ中身のある器をアレンの食べやすいように中央に寄せると、最後にティムちゃんにはこれね、と小さなケーキの欠片を机の端に置いてやって、アレンの前の席に腰掛けた。
 少年の真っ白な頭上にちょこんと収まっていた金色ゴーレムは、体を捻り両肘をテーブルに付いたジェリーの頭上をくるりと回ると、ケーキの前に降り立った。
 欠片に見えたそれは、よく見ると小さくてもきちんとクリームでデコレートされている。アレンがありがとうございますと言うと、これくらいいいのよ、と黒い色眼鏡の奥で男が目尻を下げて笑って見せた。
「それにしてもひどい傷ねえ」
「そう見えるだけで、そんなひどくはないですよ」
 これは、と続けて右肩を軽く動かす。突き刺すような痛みが、動かしたそこから首筋を辿って脳を刺激したものの、それには気付かない振りで先を続ける。
「医療室の人がうっかり動かさないようにって固定してくれたんです。でもすぐに治るって言ってました」
「あら、そうなの?それならいいけど」
「これでもまだましな方です」
「ましって、誰か他に重傷なの?」
「いえ、そういうわけではなくて…」
「まあね、無事ならいいんだけど。そう言えば誰と行ったの?一人?」
「えーと、あの、神田と一緒でした」
「カンダ!そう言えばあの子、見てないわね」
「コムイさんのところだと思います。多分報告書を出しに」
「ああ、報告書。そうね、その腕じゃあちょっと書けないものね。珍しく親切ね、あの子にしては。まあ、無事でよかったわ。…まだ食べたければ言ってね」
 いくらでも作るわよと、口角をきゅっと持ち上げ、軽く首を動かしジェリーは立ち上がった。視線が食堂の入り口を向いている。アレンも振り返ると数人の人間が入ってきたところだった。一様に白衣を羽織り青白い顔している。
「あらまあ、やばそう」
 スタミナが必要のようねと呟き、男はアレンにじゃあねと言いながら歩き去りかけたが、突然振り返ると、お皿はそのまま置いておいてね、と片目を軽く瞑る。既に口の中いっぱいに物を頬張っていたアレンは、首を縦に振って感謝の意を表したものの、既に男は見ていなかった。

 さっき動かしたせいで、また痛みが蘇って来た。
 あの男はこの教団でも格別大柄で、しかもきっちり鍛え上げられた体の上に黒の色付き眼鏡だ。そのせいで随分と見かけは恐ろしく感じてしまう。でも実際のところはそうではない。世話好きで、常に他人に気を配り、団の皆の栄養状態をよく把握しているし、特に一番の新入りであるアレンを気に掛けてくれている。
 そんなジェリーを安心させるためとは言え、馬鹿なことをしたと、アレンは少しだけ後悔した。ずきんずきんと、麻酔で忘れかけていた痛みがその存在を主張している。北の町から帰ってくる汽車の中でも、随分と悩まされたことを思い出した。
 そして同時に息詰まるように、緊迫したようなあの空気も。


◇◇◇◇◇◇


 神の家に巣食っていたアクマが、その正体を表したのは真夜中だった。気付けば囲まれていた。半ば予期していたものの、その数の多さは圧倒的で、戦闘が始まり暫くすると、アレンは神田と逸れたことを知った。
 とはいえ、彼に関してアレンが格別心配することなどない。その性格に難はあれど、戦闘に関してはずっと先達なのだ。アレンはただ目の前のアクマを一体また一体と屠るのに集中した。
 もともと大したレベルのアクマではなく、いわば烏合の衆にも等しい。厄介なのはとにかくその数なのだ。町の人間全てがアクマだったのかと疑うほどの数。
 いくらイノセンスをその左腕に宿すとはいえ、それ以外は生身だ。そうして敵の狙いが生身の疲弊だとアレンが悟ったときには、既に疲れが蓄積し切っていた。
 地を蹴る足が重い。左腕が鉛のようだ。集中が落ちる。
 やがて大聖堂の尖塔に追い詰められ、アレンを取り囲んだアクマ数体のどれか一体が繰り出した攻撃を躱そうとして、足を滑らせた。あっと思ったときにはもう空中に投げ出されていた。
 その刹那。
 地に背を向け落ちていくアレンの、視界いっぱいに広がった大きな満月。尖塔は満月にその冷たいシルエットを浮かび上がらせていた。頂上から少年に襲いかかろうとするアクマの影が、不意に大きく割れる。
 その先に映った、神田の姿。
 
 ひどくゆっくりと落ちていく中、月の光を浴びて尖塔に立つその姿がやけに綺麗だと思った。
 次の瞬間には彼の背後に、また別の一際大きなシルエットが現れたが、しかし神田はそれを一瞥すら与えぬまま、無造作に、振り向きざまに切り捨てた。
 月の光に、彼のイノセンスが一閃し、再び影が割れる。
 長い団服の裾を翻し、高く結った長い髪が、その動きに合わせて弧を描く。
 流れるようなその一連の動きは、優雅でさえあった。

 冷たい冴え冴えとした光と、同じく冷たい大聖堂の影。
 その影に落ちていく自分と、それを見下ろすかの人。
 落下の最中だというのにアレンは見惚れていた。それは場違いな感情ではあったけれど、月に立っているような彼が、確かにひどく綺麗だと思ったのだ。


 もちろんそのまま落ちれば、決して無事ではいられなかっただろう。しかし寸前でアレンは我に返った。他ならぬ佳人の悪態によって。
 その結果がひびというわけだ。ひびで済んだのはむしろ運がよかったというべきだろう。戦闘中になに呆けていたんだと、帰りの汽車の中でもひどく罵倒されたが、それは確かにそのとおりだったのでアレンは素直に謝罪した。結果として、助けてもらったことには変わりなかいのだから。
 あまりにもあっさり少年が非を認めたことに驚いたのか、更に言い募ろうとしていた神田は虚をつかれた様子でじっとアレンを見ていたが、やがて不機嫌そうに鼻を鳴らし、黙り込んだ。
 町を出る始発の汽車。そのコンパートメントに向かい合って座る。
 塔から落ちて以来、持ち上げようとすると激痛の走る腕を無造作にシートに投げ出し、アレンは窓枠に肘をついて外をぼんやり眺めていた。
 カタンカタタンと枕木を車輪が乗り越えるたび繰り返す単調なリズムは、一晩中戦いろくに休息も取らなかった身には子守唄も同様だ。車窓の風景も、牧草を刈り取り今や枯れた落ち葉の色が見渡す限り続くだけ。時折草を食む馬や羊の姿が見えるが、基本的には変わり映えのない景色となると、一層眠気を誘う。時折大きなガタン、という音と衝撃で、痛みが増すものの、それさえも睡魔に打ち勝つのは難しいらしい。石炭車から伝わる空気が小さな密室を暖め、アレンは終に目を閉じた。

 少年の脳裏に浮かび上がる、古代から続くという城壁の町。町を流れる川、古い砦。薔薇窓の大聖堂。冷えてよく澄んだ空に浮かぶ、大きな大きな白い月。
 闇に潜み襲い来たアクマの前に一閃した黒い刀。尖塔に立つ、黒髪。月ほどに冴え冴えとした目で、影に落ちていくアレンを見据えたかの人。
 あのほんのわずかな一瞬、確かに二人の視線は交錯した。そして少年は強く思ったのだ。触れたいと、強く。
 説明などできない、衝動的な感情。しかしそれは紛れもなく自分の意思だった。
 あの感情は何だったのだろう?

 ガタン。
 唐突に大きな音とともに、ひどく汽車が揺れ、アレンは目を開いた。
 木の床が目に入り、少しだけ視線を動かすと、先ほどと全く変わらない位置に神田のブーツの先が目に入った。
 アレンは、それほど時間が経っていないのかと、頭を動かし窓の外を見た。単調な繰り返しばかりの風景を覆い隠し、いつの間にか霧が出ている。流れる雲の中を走っているような、所々濃い霧の塊が遠くを動いていた。
 いつから降り出したのか、今はどのあたりを走っているのか。
 そういうことが疑問としてアレンの頭の中に浮かんできたが、尋ねたところで答えてくれる相手ではない。それは既に経験から知っている。それでも風景からは疑問の答えを読めないのも事実なので、窓の外を眺める顔だけはそのままに、アレンはそっと視線だけで目の前の人間を窺った。
 神田は、さっきまでのアレンと同じように頬杖をつき、窓の外を眺めていた。
 外を見るために顔をやや横に向けているせいで、町を出る前に一度結い直した髪が、肩から滑るようにして前方へ垂れ落ちている。いつもどおりの仏頂面で、引き結ばれた唇は少し突き出ているように見える。
「ねえ、神田」
 応えはない。
「今どのあたりなんですか」
 やはり応えは返らない。それでもアレンは言葉を継いだ。唇から出て行った言葉で、この狭い二人だけの空間を埋めるように。
「この雨、いつから降ってるんですか」
「外真っ白ですよ」
「雨で白く見えるなんて、面白いですね」
「まるで、」

 まるで閉じ込められたみたいだと思いませんか。
 このコンパートメントに、二人。

 最後に零れた、囁くように小さな呟きを拾い上げて、何も反応を返そうとしなかった彼が、ようやく視線を動かし、アレンを見た。言葉は一つも発しないまま。引き結んだ唇はそのままに、アレンを映した意志の強そうな目は黒々として、白い雨を反射してどこか湿っているようだった。
 知らず、唾を飲み込む。
 アレンの脳裏に昨夜の情景が蘇った。
 落ちる。落ちていく。影に、闇に、昏い底のない感情に。それを黙って見つめていた長い黒髪。そして触れたいと感じた強い衝動。

 雨はザアと窓を強く叩き、まるでコンパートメントの音も失われたようだ。じっと視線を絡ませたまま、無音の世界。
 カタンカタタン。ザアザア。
 単調な音だけが、言葉のない空気を取り囲んでいる。重く熱を孕んだ空気に囲まれ、息が詰まりそうだ。
 細くゆっくりと息を吐き出し、アレンは右手を握り締めた。ずきりと痛んだのは肩か、それとも他の何処かなのか、それはわからなかった。ただ、握り締めていないと勝手に動きだし、自分の意志とは関係なく触れてしまいそうだった。
 あの時見惚れた影と同じ、黒く真っ直ぐに光る目に。

「つぎ、」
 不意に、神田が口を開いた。睨みつけるような真っ直ぐな視線はそのまま、低い声。しかしそれはじっとりと重苦しかった空気を静かに切り裂いた。ふっと、コンパートメントから重さが消える。
「次に教会が見えたら駅だ」
「…降りるんですか」
「降りたくなけりゃ好きなだけ乗ってろ。俺は降りる」
「確認しただけじゃないですか」
 口を開いたら開いたで、どうしてこうも刺々しいのかと思いながら、アレンは握り締めていた拳から力を抜いた。
 気付けば汽車の速度が落ち始め、そして雨の音は小さくなっている。
 その存在をすっかり忘れていたゴーレムが蜂鳥に似た羽音を響かせアレンの頭の上に降り立ち、それと同時に汽車がガタンと一際大きな音をたて、停止した。


◇◇◇◇◇◇


 ふと気づけば、食堂の人影がやけに減っている。昼食の繁忙期を過ぎ、みなはそれぞれの仕事へと戻ったのだろう。物思いに耽りながらも、しっかり昼食を食べ尽くしたアレンは、座ったまま皿を重ね始めた。そこへまた影が落ち、顔を上げれば再びジェリーが目の前に立っている。
「片付けなくていいわよ、怪我してるんだから」
 そう言って、手にしたトレイから何かを取った。
 トン、と軽い音を立てて目の前に置かれたのは白磁のティーカップ。
「食後のお茶よ、どうぞ」
「ありがとうございます」
「いいのよ、これくらい。外で頑張って来てるんだから」
 そんな怪我しちゃうほどね、と付け加えられた一言にアレンは苦笑した。
 確かにほとんどは戦闘の負傷には違いないが、肩の傷についてはあまりおおっぴらに理由を言えるものでもないのだ。まさか、同僚に見惚れたせいです、だなどと。礼を言って、アレンはわざわざ訂正する必要はないだろうし、とジェリーの好意で出された紅茶に口をつけた。
 たっぷりのミルクを入れてもなお濃い味のそれは、たっぷりの砂糖とほんの少しのジンジャーも加えられていて、疲れた体をゆっくりと温めていく。甘く、温かく、ほんのちょっぴりピリリとするミルクティーは、何故だか雨に閉じ込められたコンパートメントの空気を思い出させた。
 そういえばお礼を言ってなかったっけ。
 尖塔から落下するアレンを追うアクマ達。それを薙ぎ払い助けてくれたのは、紛れもなく神田だ。おまえなど助けないなどと宣言し、いつまで経ってもアレンの名を呼ばず、突き放した態度でいるくせに、そのくせ見捨てることもない彼。
 アレンだけではない。誰からも距離をとり、容易には触れさせない。

 (…でも、)

 (でもそういうところが僕は、)

 昨夜の満月のように、ぽっかりと胸に浮かんだ言葉。アレンはそれを最後の一滴と共に飲み干して席を立った。






 コムイに長々と拘束されて、ようやく開放された神田は食堂に顔を出した。既に昼食の時間は過ぎ、気が早い人間ならば、そろそろ午後のお茶にしようかと思う頃合だ。
 普段からそれほど食に執着するわけではないが、それでも体調管理には一定の時間に食事を摂るのが望ましい。半ば義務感で神田が食堂のカウンター越しに厨房をのぞくと、大柄な料理長と目が合った。厳密に合ったかどうかは、その色のついた眼鏡越しではわかりにくいが、おそらくそうなのだろう。何故なら嬉しそうに、フライ返しを片手に男が近寄ってきたからだ。
「あら、カンダ!待ってたのよ」
「…蕎麦一つ」
「わかってるわよ、ちょっと待っててね!」
 神田の不機嫌そのもののような声にも動じず、軽く応じるとジェリーは再び厨房の中央へ戻った。それを視界の端に入れながら、カウンターに肘をついて神田は待った。
 既に食堂は人がまばらだ。そろそろお茶の時間とはいえ、ハイティーにはまだ早い。そういえばあの少年は来たのだろうかとふと考え、神田は頭を振った。
 あいつは関係ない。
 関わりたくないのに、こんな時にまで意識を向けさせる少年を脳裏から追いやろうと、小さく舌打ちをしたところで、カウンター越しに人の気配。神田が振り返るとそこにいたのは料理長だ。
「お待ちどうさま」
 トン、と軽い音を立てて目の前に置かれたのは白いティーカップ、クリーム色の液体。
「…なんだこれは」
「ミルクティーよ」
「見ればわかる。蕎麦を頼んだはずだ」
「あらあ、そんな怖い顔しないで」
 折角のかわいい顔が台無しじゃない。
 能天気な言葉に、紅茶を見た瞬間に刻まれた神田の眉間の皺が更に深くなった。目つきも相当厳しい。かろうじて刀を構えないのは、男の人徳か役割ゆえか。
「今日は雨が降って寒いじゃない、ジンジャーが入ってるわ」
 まあそれでも飲んで待っていて、いい鴨で温かいお蕎麦作ってるから。
 後で席まで運ぶといわれ、神田は渋々カップを手に適当な席に座る。温めたミルクなど、匂いがあまり好きではないと思いつつも、口を近づけてみれば生姜の香りが空腹感を刺激して、存外美味そうだった。カップもソーサーも温められた熱過ぎないミルクティーは、適度に甘く、疲れた体を癒すようだ。
 言われたとおり大人しく飲みながら待っていると、ようやくジェリーがトレイに蕎麦を載せて現れた。
「あら、飲んだのね」
「…飲めと言っただろ」
「そうだけど、意外。ミルクは好きじゃなかったわよね」
 肯定するのも癪なので、神田は特に反応はしないまま最後の一口を飲む。ふわり、生姜の香りの後に濃い紅茶の香りが立ち上って、ふと何かを思い出した。
 温かく湿った、甘い空気。
 それが何かを思い出そうとする前に、蕎麦の器が目の前に置かれた。代わりにジェリーの手がティーカップをトレイに載せる。
「それね、アレンが作ったのよ」
 貴方にありがとうって言ってたけれど。何もかもわかっているような笑みを見せ、大柄な料理長は鼻歌交じりに厨房へ戻って行った。
 その言葉の意味を反芻し、ようやく思い至る。
 鼻腔に残る、甘い香り。
 熱を孕んだ雨のコンパートメント。同時にじっと縋るように見つめてきた銀色の目を思い出す。そういえばあの目を、昨夜、美しいと感じたことも。丸く大きく花開いた月を映しこんで、闇に落ちていった銀色の目を。そう思ったことが我ながら忌々しく、直後に現れたアクマを腹立ち紛れに叩き切ったことさえ覚えている。
 人を惑わす目だ。人を苛つかせるほど真っ直ぐで、同時に人をはっとさせる。

 人。
 人とは言うけれど。
 本当は違うということを知っている。

 しかし神田はそれに背を向けた。それと向き合えば、彼の落ちていく闇に囚われてしまうから。




真生さんからまた小説を頂いてしまいましたよ…!おおおおおれのために有難う…!(感涙)
自覚する前の微妙な距離って本当にトキめくなあときゅんきゅんとしたお…!あ〜いいなあ…。