Out of the mouth comes evil


 ある日神田が食堂に行くと、あの男(本人の心意気は女性らしい)がいつもの調子で、いつものとは違うものを出してきた。
 曰く、初物。
 遠く故郷から離れた地で、そもそも好物が食べられること自体が珍しいことだというのに、初物と来たらもっと珍しい。先程の気に食わない小僧との気に食わないやり取りは、全てこれによって帳消しにされるためだったのかと、眉間に深く深く縦皺を刻んでいた神田は、その秀麗な顔を少しだけ、和らげた。
 奮発しちゃったわ、と身をくねらせ添えられた天ぷらも揚げたて、芳ばしい香りと立ち上る湯気が食欲をそそる。無愛想な口調ながらも、礼を言って空いている席に腰掛けた。



 まろやかな甘みのあるツユに蕎麦を浸して啜る。
 コシのある麺は新蕎麦だけあって薫り高い。喉越しもよく、ツルリツルリといくらでも入っていきそうだ。もう一枚追加してもいいかもしれないと考えたところで、ふと脳裏を過ぎった大喰らいの白髪。
 途端に神田の眉間に皺が寄った。
 折角うまいものを食べているというのに、思い出してしまった。脳味噌から彼方に追いやり焼いて灰にし、蓋をして埋めて、思い出すつもりなど毛の一筋ほどもなかったというのに、思い出してしまった。
 畜生、胸糞悪い。
 神田が端正な顔を歪めつつ更に箸を伸ばしたところで、テーブルに影。
「ここ、お邪魔させてね」
 黒髪を二つに結った同僚エクソシスト、リナリーだった。
 トレイをテーブルに置き、神田の前に座る。カタンと小さな音がした。
「またお蕎麦?」
「悪いか」
「ううん、美味しそう」
 にっこり笑うと、自身はスプーンを取り上げ深皿を軽くかき混ぜる。見遣ればどうもそれはスープのようだった。トレイに乗っているものといえば、エメラルド色したそれと、後はチーズとバゲットだけだ。随分少ない。
「それだけなのか」
「さっきお菓子食べちゃったから、あまりお腹空いてないのよね」
 ジェリーさんが新作ケーキを作ったっていうから、アレンくんと味見したの。
 バゲットを千切ってスープに浸しながら、リナリーが眉を寄せて困ったように笑う。可憐な、蕾が綻んだような笑顔を前にしながらも、その瞬間、神田の消えかかっていた皺が、先程以上に深くなった。それはもう、小刀か何かで彫り上げた墨を流し込んだかのように、くっきりと深い皺だ。
「あら、どうかしたの?」
「…どうもしねえ」
 どうもしないというわりには、思いっきりどうかした顔よね、とリナリーは思う。神田が地を這うような低音で否定するときは大抵その反対で、つまり肯定なのだ。しかしもちろん、そう指摘したところで返答が覆される訳ではないし、例によってリナリーは、口には出さなかった。
 スープを一匙、掬って口に運びながら、頭の中の「後でアレンに聞くことリスト」に、一つ追加しておいた。神田、とだけ。



 リナリーが席に着くその前、更には神田が食堂で新蕎麦を口にするよりも前。
 神田はコムイに先の任務報告書を提出しに出向き、何かと絡む部屋の主を言葉の刃で切り捨て部屋を出た。無論、切り捨てたとは言え、他の人間よりはよほど手加減している。あの白髪モヤシに比較すれば、いっそ優しいくらいだ。
 今日は朝から理由もなく苛々しているのは、十分自覚していた。理由がわからないだけに一層苛々が募る。それを、神田くんはいつもそうじゃない、などと混ぜっ返された日には、いくら相手が司令官と言えど、冷たいを通り越して凍えさせるような一瞥をくれてやっても罰は当たるまい。
 丁寧にも刺々しい言葉を程よくブレンドしてやったそれを、あっさりかわされたのは業腹だったが、扉を思い切り叩きつけるように締めたら、少しだけ溜飲が下がった。
 部屋を出て、歩き出す。
 もう夕刻だからと、食堂に向かうつもりだった神田の背中に、ちっとも堪えてなどいない声で白衣の青年がのんびりと声を掛けた。
 ちょうどその時、リーバーの伝言を聞いたアレンが、まさに擦れ違おうとしていたのだ。神田と。
 二度の呼び掛けを無視した神田が、三度目にようやく、ぶち切れた勢いで振り返った瞬間、綺麗に結い上げた黒髪が、拳一つ分ほど低いアレンの顔に、振り返った勢いを更に加速した挙句、命中した。
「あいた!」
 そりゃあ痛いだろう。
 まさか擦れ違いざまに引っ叩かれるとは思ってもいなかったのだから、アレンだって無防備だった。
 コムイが部屋から上半身だけ出して、神田を呼んでいる。それを無視しちゃうのか、程度のことを意識するともなく見ていたのだ。それが、神田が振り返った途端殴られたのだ。もちろん殴ったわけではないが、それくらいのインパクトはあっただろう。
 互いに言葉もなく、その場に固まった。
 そして二人のそんな様子も意に介さない様子でコムイは、「神田クン、まだ出てない報告書があったと思うんだけど、それも早急によろしくー」などと、言いたいことだけ言うとさっさと引っ込んでしまった。


 謝るのにも、タイミングというものがある。タイミングを逸してしまうと謝りにくいものだ。ましてや、それが会うたび不愉快になる相手だったら、もっと謝りにくい。
 というわけで、硬直から復活した神田の一言目は、いつも通りのものだった。
「…んで、んな所に突っ立ってんだよモヤシ!」
 つまり、罵倒。それも漏れなく舌打ちつきである。
 ただ歩いていただけで引っ叩かれた挙句、罵倒されたアレンにしてみればたまったものではない。理不尽極まりない扱いだ。それがいつものことであっても。となれば、当然言い返すのが自然な流れだ。
「殴ってきたのはそっちでしょう!」
「てめえがふらふら歩いてるからそうなるんだろモヤシ、ちゃんと前見てろ!」
「ふらふらって何ですか、普通に歩いてましたよ!ていうか前見てました!神田こそ突然振り向くから、当たるんじゃないですかその髪!」
 確かにそれはそのとおりなので、言い返しにくい。
 しかし正論というものは、正論であるが故に言われると腹が立つのである。しかもアレンに言われると一層腹が立つ。
「んなとこ歩いてんのが…」
「そりゃ長くて綺麗だとは思いますけど、あの勢いじゃ十分凶器です!」
 アレンの言葉に神田の頭は一瞬真っ白になった。一気に流れるスピードで構成された2センテンスの、前半。

 このモヤシはさらりと真顔で何を言った?

 しかも、頭は真っ白だというのに、下がった血が逆流するかの勢いで上ってきて、何故だか耳が熱い。動悸もしてきて胸糞悪いぞこの野郎。
「……っ、なに言ってんだてめえ、頭腐ってんじゃねえのか!」
 だいたい、こいつとは相性が悪いのだ。コムイには以前から訴えているが、一向に耳を貸す様子がない。むしろ、こうやってわざと鉢合わせさせるように、細工をしている節がある。
 実のところ、それは単に偶然で、神田の一方的な思い込みに過ぎないのだが、この男の性格上、それが口に出されることはない。となれば当然、訂正されることもない。訂正されることもないから、偶然顔を合わせる度、苛々し、機嫌が悪くなり、それが全てアレンのせいにされ、その内また顔を合わせるから悪循環だ。
 しかも最近なにやらアレンに言われるたびに頭が白くなることが多い。
 一体なんなんだ、コイツ。
 そもそも神田にはアレンのことが、初対面からして気に入らなかった。その後の任務でだって、甘っちょろいことばかりほざく。それでいて、その言葉は神田を掻き乱すのだ。無性に落ち着かない気分になって、苛々して仕方がない。例えばそれは、自分が自分でなくなるような、そんな気分だ。幸いそれが表に出ないのは、ひとえに普段から鍛えられている精神力のおかげだ。
 と、神田は思っている。
 が、近い周囲はあんまりそう思っていない。
 ともかく、今日もここ最近と同じ症状が出るなんて、やはりこんなのと関わってると、ろくな事にならない。沸騰した頭でそう結論付けた神田は、ぐいと口を噤むと、くるりと踵を返した。団服の長い裾が勢いで翻る。そのまま一歩を踏み出そうとしたところで、ぐいと腕を引かれた。
「てめぇ…!」
「ちょっと待ってください、これ」
 たたらを踏まされた神田が振り向いたすぐ目の前に、アレンの白い髪。そのあまりの近さに思わず仰け反ったら、収まりかけた動悸がまたしても激しくなって、反射的に神田は思わず目の前の頭を乱暴に押し退けようとした。
「や、だからちょっと待ってくださいよ!」
「近いんだよ、モヤシ!」
「アレンですって何回いえば覚えるんですか、じゃなくて、だから髪!髪が!」
 つまり、アレンの顔面を直撃した神田の髪が、アレンの団服、肩の飾りボタンに絡んだということらしい。
 力任せに、それも利き腕でぐいぐい押し退けられながら、なんとかアレンはその理由を叫ぶように告げた。だからといってその馬鹿力が緩むこともない。ぐぐぐと、音でも聞こえそうなくらい、拮抗している。
 とにかく絡んだそれをさっさと取り去らないことには、このまま首をへし折られてしまいそうなほどだ。
「ホント、切れちゃいますよ」
「髪の一本や二本、知るか!」
「だって、折角こんなに綺麗なのに、勿体無いですってば!」

 ぶちり。

 切れた音がした。
 髪が絡んだという理由で、遠去かりたい意思に反してその場に留められている男の耳の奥で。切れたのは絡んだという髪ではなく、もっと別のなにか。例えば堪忍袋の緒とか、そういうもの。
 そうしてアレンには不幸なことに、神田という男は行動力が大層ある人間なのだ。
 ぶち切れた反動のまま神田は、拮抗する力のバランスを破る爆発的な瞬発力でもって、思い切り目の前の頭を向こうに押しやった。
 同時に頭皮に刺すような痛みがあったが、どうせ髪が数本抜けただけだ。アレンはというと、バランスを崩して数メートル先の壁に突っ込んだが、どうせモヤシだ。むしろ当然の報いだ。
 廊下がへこみそうなほど、足音も荒く大股に、神田はその場を立ち去った。
 自分の名を呼ばわる声を振り向きもしない頬が、やけに熱かった。



 思い出したくないことまで、思い出してしまった。
 苦々しい顔で、神田は箸を置き、手を合わせる。席を立とうかと思ったところで、じーっと見つめてくるリナリーと目が合った。
「なんだ?」
「うん。…神田の、綺麗よねえ」
「綺麗と言われて、嬉しがる男がいると思うのか」
 眉間の皺が一本増えたわ、とリナリーは感心した。やっぱりなにかあったのね、とも。アレンに聞くことリストの「神田」の文字が倍の大きさになる。しかし勿論、そんなことなどおくびにも出さない。
「あら、神田が、じゃないわよ。髪の毛のハナシ。長くて綺麗よね」
「…だからなんだ」
「アレンくんがね、髪がすごく綺麗ですよね、って言ったの、わたしに」
 リナリーの言葉に、何故か神田はむっとした。眉がぴくりと痙攣する。
 あのモヤシ、あちこちで言って回ってんのかクソったれめ。…っつかなんで俺がむっとしなきゃいけねぇんだ!
 わけのわからない不快感と動揺。世界がグラグラする気分など、血が足りないときだけで十分なのに。

 更に深くなったわね。これはカチンと来た顔かしら。
 何にカチンと来たのかわからないでもないが、でもまだ続きはあるのだ。ここで終えたら嫌な女みたいだ。ちゃんと最後まで言っておかないと、と思いつつリナリーは口を開く。無駄に終わりそうな予感はかなりしていたけれど。
「…そういうこと、さらっと言っちゃえるのがすごいと思ったんだけど、黒い髪って神秘的だって続くから、珍しいのかなと思ったの…」
 …でも、聞いてないみたいよね神田ったら。
 ぎりぎりと音がしそうなほど自分の考えに没頭する同僚を見遣って、両腕で頬杖を突きながらリナリーは溜息を吐いた。
 そうして、ついにアレンに聞くことリストの文字に二重の取り消し線が付けられた。なんだか聞くまでもないような気がしてきたのだ。
 だってそう言えば、あの白髪の少年。黒髪を誉めながらも多分違う人物を思い描いていたと思うのだ、今考えてみれば。
 それって失礼なハナシよね、悪気はないんだろうけれど。
 リナリーは行儀悪く、頬杖を吐いたまま最後のバゲットを口に入れる。ゆっくり噛んで、飲み下し、立ち上がる。声をかけようと思ったが、多分この調子じゃ聞こえないだろう。
 白髪の少年が本当は綺麗だと言いたかったのだろう黒髪の佳人を置いて、リナリーは食堂を出た。すぐ外でその当人と鉢合わせたが、いつもどおりの笑顔を交わすだけにしておいた。
 だって、女の子を怒らせると怖いってこと、知ったほうがいいと思うもの。
 笑顔の下で至極恐ろしいことを考えながら、アレンを見送った。この後の食堂で起きる大惨事を想像しながら。




別ジャンルでお世話になっている真生さんからアレ神小説頂いてしまいました…!
うおおんちょう可愛い有難う…!天然タラシのモヤシはいいよね、神田はドキドキの感情が上手く判らなくて乱暴になると
可愛いね、とか話し合ってたらこんなに素敵な小説をくれた…!ちょう嬉しい有難う…!
次も良かったら書いてくれると嬉しいなあなんて思いますよ!えへ!

頂いた真生さんのサイトはこちらです→