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氷河上の花火 1986年夏

この紀行文は1986年、初めての海外登山でモンブラン山群を訪れた際の心象を記し、岳人662号の「応募紀行」に採用されたものです。


「おかしい、遅すぎる。」
 シャモニの街外れの小奇麗なレストランに入った私と相棒は首をかしげた。

ウェイターに声をかけてみるのだが、ちょっと待っていろといったそぶりを見せる
ばかりで、一時間近く待ってもメニューすら持ってきてくれなかった。私と相棒
は山の帰りに、たまには少し贅沢をと思って通り道のレストランに入り込んだの
だが、山を降りたばかりの格好で入るような店ではなかったようだ。そういえば
店に入るときに何か声を掛けられたのだが、フランス語が全く聞き取れない我々
は、構わずに席についてしまったのだが、マナー知らずの汚い客、としか扱われな
かったようだ。あるいは予約が必要な店であったのかもしれない。


「出よう。」
相棒に声を掛けて店を出た。キャンプ場に帰る道のスーパーでいつものように買
い物をし、ロジェールキャンプ場のテントに戻った。飽きが来ていたパスタを茹
でながら、何かひどく疎外されたようで気分が晴れなかった。

 私と相棒の二人は、初めての海外登山で、アルプスにやってきていた。私はハ
イキングや縦走が中心の山岳会に所属していたものの、岩場や未知の沢への憧れ
を捨てきれないでいた。後から入会してきたWが
「岩登りをしたい」
というので、二人で近くのゲレンデに行き、トレーニングを開始した。地元の山
岳会が主催する講習に参加したり、前夜から岩場に泊り込み、出勤する前に何本
かのルートを登攀してその足で勤め先に出勤、というようなことを繰り返した。
週末に岩場に出かけると、いままで憧れでしかなかったルートを次々と自分の手
中に収めることができた。

 海外の岩場が登りたくなり、勤め先の上司を拝み倒して三週間の休暇をもらっ
た。身近にアルプス経験者がいるわけでもなく、何のつてもないまま市販のガイ
ドブックだけを頼りにシャモニまでやってきた。シャモニ在住の、スネルスポー
ツの神田氏に教えてもらって、ロジェールキャンプ場の通称日本人村にたどり着
き、ベースを構えた。とてもガイドを依頼する経済的余裕はなかったので自分達
だけで何とかしようと思っていたのだが、海外旅行すら初めての我々には少々背伸
びだったようだ。山登りそのものは何とかなったが、海外の生活を楽しむ、とい
うことが全くできなかったのだ。

 シャモニの街の裏にそびえる赤い針峰群などで何本かのルートを登攀した。岩
場はとても快適で、モンブランを背にしながらの堅い岩の登攀は楽しかった。に
もかかわらず私は、街の中や小屋での疎外感がどうしても晴れず、今一つ萎縮し
てしまっていた。言葉も通じず、マナーもわきまえない日本人登山者が街の中に
たむろしていることを、地元シャモニの人々は快く思っていないのではないか、
そんな気持ちでいたところに、追い討ちをかけるようにレストランで無視されて
しまい、シャモニに滞在していることがあまり楽しくなくなってしまった。岩場
でも、実力をわきまえない無茶なルートに取り付いているのでは、という思いが
強く、1ランク難しく感じるのだ。山の中で出会う日本人の多くはガイドを同伴
し、スムーズに乗り物を乗り継ぎ、下山後はホテルやレストランで優雅な休暇を
過ごしていた。正直なところ、さっさと適当な山登って早く日本に帰りたいな、
という気分でいた。

☆ ☆ ☆

 話の種に、くらいのつもりで気楽にとりついたモンブランは、なめてかかった
我々に最高峰の威厳を示した。グーテ針峰の小屋は大変な混雑で、要領を得ない
我々は結局食堂のテーブル下で寝ることになった。さして眠れないまま深夜二時
に出発すると左手のシャモニの谷が熾火のように輝いていた。初めて経験する高
度のためなのだろうか、いつもは登行でスピードの落ちない相棒がピークでは
「頭が痛い」
といって座り込んでしまった。二人とも下山してしばらくは体調が悪かった。

 次はどこか気楽な岩稜でも行きたいな、と相談し、ミディ針峰からプラン針峰へ
の縦走に行くことにした。シャモニからロープウェイでミディ針峰まであがると、
後はまぶしい景観の中を行く易しい岩場と雪稜のミックスになる。周囲には、ま
さに針峰と呼ぶにふさわしいピークが立ち並び、感激しながらルートを辿ってい
た。ロニヨンの岩場では、数人が懸垂下降の順番待ちをしていた。すぐ前にいた
フランス人と思われる二人連れのカップルの女性が、我々を見ると、
「日本人か」
というような事を聞き、ちょっとうんざりしたような顔をして見せた。疎外され
ることは慣れてきていたので、またか、という気分であったが少々悲しかった。
順番待ちを終え、懸垂下降を始めると、先に下降した先ほどの二人連れが、何か
叫んでいる。
「ピオレ…」
という言葉が聞き取れたので、周囲を見まわすと、二人連れの一人が持っていた
はずのピッケルが岩陰におき忘れてあった。私はすでに下降し始めていたのだが
少し登り返し、そのピッケルを自分のハーネスに着けると下降し、下で待ってい
た二人連れに手渡した。二人は随分と感謝して礼を述べていたが、礼を言ってい
る事しか判らなかった。
 そこからは氷河をルカン小屋に向かってくだる。日本ではとても山を歩かない
と思うような婆さんや子供が、歓声を上げて氷河のクレバスをひょいひょい飛び
越えていくのにはびっくりした。
 ルカン小屋に着くと、モンブランのグーテ小屋の大混雑とは全く違い、清潔な
ベッドが割り当てられた。小さい小屋だが、眼下に氷河を見下ろす快適な小屋だ
った。夕食の時は食堂が狭いので混んでいて席が見つからなかった。立って待っ
ていると、昼間ピッケルをとってやった二人連れが手招きしている。席を空けてくれ、
「ビールがいいか、コーヒーがいいか。」
という。アルコールが苦手な私はコーヒーにしてくれというと、おごってくれた。
しばらく隣で話をしたが、向こうも英語は判らないようで、込み入った話になる
と、通じなくなった。今日はピッケルをとってくれてありがとう、ということを
何度も言っていたが、それ以上の、意志疎通ができないことが悔しかった。周囲
のクライマーも、
「どこから来たのか、どこを登ったか?」
と盛んに話し掛けてきた。アルプスに来て地元の登山者と話をしたのはこれが初
めてだったので緊張してしどろもどろだ
ったが、嬉しかった。
 翌日はドリュを正面に見ながらメール・ド・グラス氷河を下った。途中、左
岸のスラブで件の二人連れはクライミングをしており、岩場の上から我々を見つ
けると、大声で手を振っていた、われわれも手を振って別れた。
 私の心の中で引っ掛かっていた疎外感はシャモニに下山すると無くなっていた。

 二日後、今回の山行でもっとも気になっていたミディ針峰の岩場に向かった。
バレブランシュから見上げたバットレスは反り返って見え、威圧的であったが、
収集した情報では私達にも登れる内容である。天候も味方してくれ、乾いた花崗
岩を攀じるのは楽しかった。いつも登攀中は心のどこかに居座っている不安が頭
をもたげることもなく、私と相棒は自信を持って岩を攀じ、登攀は三時間ほどで
あっけないくらいにすんなりと終わった。

 いつの間にか明日、帰国しなければならない日になった。夕食後テントに入っ
て帰り支度をしているとやけに外が賑やかだ。外に出て見るとなんとボソン氷河
の上で花火が上がっているではないか。
情報不足でシャモニを訪れていた我々は、この年がモンブラン登頂二〇〇年祭とい
うアルプスにとって特別な年であったことを初めて知った。目にしてきた混雑や
イベントはいつものことではなくて、特別なことであったのだ。終盤にきて、こ
の街は我々をほんの少し歓迎してくれているようだった。もう少しいてもいいか
な、そう思う自分と、帰り支度の済んだザックを不思議な思いで見つめていた。


1986年8月

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