2−19.とりあえずのまとめ

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 今までいろいろな情報を得て、考察をするべきことが増えるうち、私がこの『ブッコ学的恋愛感情論』で(一応)目指してきた方向、というのがよくわからなくなってきた――というか、結論をまとめもせずに当初の目標を越えたところに踏み込んでしまった、と言った方がいいかも知れない。
 そこで、とりあえず一旦ここでまとめてみようかと思う。
 まず、女性に対する私の気持ちについて。
 女性に対しては、まだまだ複雑な思いがある。メール友達にしても、この間の海外旅行の時に相談にのってくれた女性にしても、すごくいい人たちである。たぶん、よりプライベートなつきあいになったとしても、わがままを言い続けたり、一方的に私を非難したり、ひどい言い逃れをしたりはしないだろう。
 私は、おそらく女性には感謝とか恩義という感情は一切ないのだろう、と思っていた。おそらく何をやっても「男がそうするのは当たり前」といわんばかりにふんぞり返っているのではなかろうか、と思っていたのだ――今の家庭の父親に対するしうちを見ればわかるだろう。死ぬ気になって働いて稼いでいる父親のことを、専業主婦の母親は娘に「役立たず」と教えているではないか!共働きにしても、夫の稼ぎに対して敬意を払っている妻というのはどれほどいるだろうか?私の母親の世代ならいざ知らず、現代の女性は男の仕事に対する畏敬の念というものはカケラも持ち合わせてないだろう、と思っていた。サークルでの経験がそれを裏打ちしてくれた。
 しかしこれも、必ずしも正しいとは言えなかった。ちょっとしたことで喜んでくれ、感謝の気持ちを素直に言える女性はいる。そういう人に対してなら、自分のできることは何でもしよう、という風に思えるのである。
 かくして、私が抱いていた女性に対する嫌悪感、というものはだいぶ薄れてきている。誠実で素直な、信頼のおける女性はたくさんいるのである。
 しかしながら、10年熟成してきた女性不信は、そうそう簡単になくなってくれるものでもなかった。この人は信頼できる、とわかっていても、どうしても身構えてしまう。「女は敵だ」という気持ちは、なかなか消えてくれないのである。
 頭でわかっていることと自分自身の気持ちをどう整理していくか、問題はここにある。

 次に、自分自身のことについて。
 自分の魅力については、あまり考えないようにしよう、と言っておきながら、結局女性に尋ねてしまった。結果、どう言っても傲慢に聞こえて結論が下せない、という状態に陥り、やはりこんなこと追究するんじゃなかったか、と少し後悔している。
 とりあえず、「どんな女性からも嫌われる」という状況ではないことと、好かれるとしたらその原因は何かがわかったこと、そして何よりいい評価をしてもらえたことで、それほど卑屈になる必要もない、という結論が得られたのは、大きな収穫だろうと思う。
 しかし、ここでも結論と気持ちの上でギャップがある。私は自分で自分のことを「魅力ある男」だとはひとつも思わないし、そう思いたくもない。アンチ・ナルシズム派である。私を理解してくれる女性はいない――というより、理解してもらえたり評価してもらえたりするようなものは私の中には何もない、と思う。そんな私が何をしても女性には喜ばれるどころかむしろ嫌がられるだけだろう、と思って、女性に対してどうしても臆病になってしまうのである。
 私はとにかく懐の浅い奴だ、と自負している。自分のことだけでいっぱいいっぱいになっていることがしょっちゅうある。その上に何かを頼られたり期待されたりしても、やってあげられる自信がないのである。
 それに私は自分では変わっている、と思っている。嵐の夜、自分の部屋に一人で閉じこもっているのが好きだ、とかいうこともそうである。そんな性格を理解してくれる人など現れるのだろうか、と思う。最近、その個性も大したことないな、と思っているのだが、理解者という面では乏しいだろう、と思う。

 次に、恋愛そのものについて。
 6月以来、ああいう強い気持ちに突き動かされたことがない。つまり恋愛をするだけの相手がいないと言える。しかしこれも傲慢な言い方で、相手の気持ちがどうか、と言うことをまるで考えていないのだ。
 恋愛にはとにかくマメなことが重要だと言われる。マメに連絡を取り、マメに会って、マメに話題の収集に務め、マメにプレゼントを贈り……私はこれに自信がない。私はかなりの気分屋で、自分勝手な男である。気が向くとマメに何でもするくせに、気が向かないと何もしないで、「ゲームやろう」とかいうことになる。
 女性から告白された場合、私には彼女には何もしてあげられない。警戒心が強いし、めんどくさがりやだから、自分からデートに誘うようなことはしない。自分からは連絡もせず、相手が連絡してくれるのを待っている。これではそのうち脈がないと思われる。
 逆に自分が好きだと思った場合でも、嫌がられることを恐れて何もしない。そのうち精神的に疲れてきて「どーでもいーや」となる。
 こんな行動を取っていて、恋愛などしようがないのではないか。
 また、私は「一人の時間」を大切にするタイプである。特に精神的に疲れたときはそうで、女性と会った後には必ず一人で部屋にこもる。つまり、常に女性と一緒にいられるたちではないわけで、そんな奴が恋愛などできるのだろうか、と思うのだ。
 もっともこれについては、こんな私であっても、何年同じ部屋に監禁されても構わない、と思える女性が見つかれば、その人が恋人になる。それが恋人の定義である。今はただ単にそういう風に思える人が見つからないだけ、かもしれない。
 そして最も重要な点が一つ。そもそも恋愛をする必要があるのか、ということである。
 ただ単に女性と仲良くするのであれば、何も恋愛関係になる必要はない。一緒に映画に行ったり、どこかに遊びに行ったりするのに、恋愛感情は必要ないのだ。肉体関係を持つための「投資」のようなもんだとか、そういう考え方はあまりしたくない。お互いに深く理解し合って、愛し合って、という恋愛関係そのものを楽しむので無ければ、恋愛をする意味はあまりないのではないか、と思う。
 さて私は、健康な男なら誰でも考えるであろう、肉体関係への欲望、というものがないわけではないが、女性と普通に仲良くなれればそれだけで満足してしまう。一緒に映画を見に行ってくれたり、一緒に食事してくれたり、ちょっとした旅行やドライブについてきてくれたりしてもらえればいいわけで、この程度なら親友であれば充分だろう。つまり、私は恋愛をする必要がないのである。
 こう考えると、恋愛の必要がない私はこれ以上『恋愛感情論』を書く意味がない、ということになるかもしれない。しかし、私は恋愛を知っていて必要としないのではなく、知らないから求めるべきかどうかがわからないだけなのである。
 私としては「恋愛関係」になるとどういうことが起こるのかを知らなくてはならない。それが私にとって楽しいものであるかどうかを判断しなければいけない。そうでなければ恋愛が本当に必要でないかどうかを判断することはできないのである。

 今後の『ブッコ学的恋愛感情論』の論点は、このあたりにあるようだ。

(00/11/21)
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