2−16.卑屈な男

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 先日、恋愛経験豊富な同年代の女性と、恋愛について多くの話をする機会があった。私の持論を彼女はよく聞いてくれて、示唆に富む話をしてくれた。
 自分の恋愛観を披露したことで勇気が出て、私は試しに女性から見て私が魅力ある男かどうか、どんなところがいいのか思い切って聞いてみた。もっとも、まだ知り合ってから日も浅いから、ある程度偏見があることはしかたないだろう。
 さて、彼女の評価によると、外見は決して悪い方ではなく、むしろ恵まれているようだ。そして何よりも話がしやすく、そしてやさしいこと、これが一番の魅力であり、最大の武器なのだという。男女に関わらず友達は多く、誰にでも慕われるタイプで、今まで恋人がいなかったという方が不思議だという。
 このところ、こんないい評価をしてもらうことが多い。メール友達からも前向きな姿勢が評価されていたし、就職活動の時も似たようなことを人事の人から言われた。とある心理テストでも、彼女に言われたことと全く同じ結果が出た。

 それだけ評価されていながら、またいままで何度も「いい目」を見てきていながら、自分の魅力というものについては卑屈なまでに懐疑的である。およそ自分が女性に好かれるような点は持ち合わせているとは思えないし、だから告白しても絶対受け入れられないと思っている。
 いろいろ理由はあるのだが、一番大きいのはナルシシズムに対する嫌悪感である。
 とある心理分析番組では、ナルシシズムは自分の魅力を磨くためには有効であると言っていたが、私にとってナルシズムとは傲慢さのシンボルで、そのイメージは小学校の女子に結びつく。自分が最も美しく偉いと勘違いして秩序を乱す悪者、それが私のイメージするナルシシズムなのである。
 私はそういう傲慢な人間にはなりたくないし、ともするとそういう傲慢に陥りやすい性格だということも自覚している。だからこそ常に「謙虚さ」をモットーにしているのだ。私にとってナルシシズムはとても危険で、相容れない思想なのである。
 私は「いやよいやよも好きのうち」というエロオヤジ丸出しの思想も、ナルシズムの極致だと思っている。結局それだけ自分に自信があるわけで、ちょっと甘い言葉を言ってやれば女はなびいてくる、などと考えているからだ。そんなくだらない人間にはなりたくない。

 外見については、私は強いコンプレックスを持っている。
 幼稚園の頃から私はハーフだと誤解され続けてきた。母方の家系に彫りの深い人がやたらと多いことから、実はロシア人の血がどこかで混じってるんじゃないかとか言われているが、東北人の民族的なものかもしれないのでわからない。
 周囲の人はいい意味で使ってくれていたのかも知れないが、誤解されることが何よりも嫌な私は、外見だけで「ハーフ」と言われることが何よりも苦痛だった。この「えせハーフ」な顔は、純粋な日本人としては規格外だし、ハーフとしてもやっぱり規格外なのである――本物のハーフはもっと整った顔をしている。この世で一番嫌いな顔は、規格外で欠陥品な自分の顔なのである。だから今でも、鏡を見るのはあまり好きではないし、中学の頃は髪をとかすのに鏡を見るのも嫌だったから、何もせずに学校に行っていた。
 だからといって自分を恨んだり親を恨んだり、ということはない。とにかく自分はまずいご面相だというだけのことで、外見がさほど問題にならない友達関係やビジネスならともかく、恋愛ともなるとムリがある、と思ったのだ。
 そんなコンプレックスに輪をかけたのが、'80年代末期に起こった「しょうゆ顔」ブームである。私はどこをどう解釈しても「ソース顔」であって、当時人気の「しょうゆ顔」ではなかった。つまり「あなたは顔でまず嫌われますね」と言われたようなものである。
 '90年代後半になって、「しょうゆ顔」「ソース顔」という言葉はもはや書いてて懐かしい言葉となり果てた。しかし私は自分の顔がまずいことだけは信じて疑わなかったのである。

 自省と謙虚さ、というのは人間にとってもっとも重要な美徳だと思う。これがなければ人間としての進歩が無くなる。
 しかし、あまり極端すぎるのも問題である。自省はいきすぎれば自己嫌悪となり、謙虚さはいきすぎれば卑屈になる。私個人としては傲慢不遜な行き過ぎナルシズムよりずっとマシだとは思うが、冷静で客観的な評価ができているとはとても言えない。それに、せっかく友達からいい評価をもらったのだ。これを信じないのはもっと良くない気がする。
 もう少し、自分の顔にも性格にも、自信を持った方がいいかも知れない。
 でも、謙虚さは絶対に忘れずに――

(00/10/13)
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