話をしてみると、女性はそれほど悪い人ばかりではない。むしろ拍子抜けするほどいい人が多く、楽しい会話のひとときを過ごすこともできる。変な人もいるにはいるが、その話を他の人に話すと「それは相手が悪かったんだよ」「あぁ、あそこの学校の人は……」という感想が帰ってくるので、やっぱり「変な人」と分類して差し支えないようだ。
そんなわけで、最近は女性にだんだんと心を開けるようになってきた。まだまだ世間話が出来るレベルのものではあるのだが、「変な人」と「すてきな人」の区別がつくようになった、というのは私にとっては大いなる第一歩なのだ。
私は女性に関しては、なんだかんだと注文の多い方だと思う。さして度量の大きな人間ではないし、性格も変わっているしトラウマも抱えているから、気の合う女性というのがかなり限られてくるのはしかたがない。だが、間違いなく気の合う女性はいる。
そういうタイプの女性が私を好きでいてくれるのかどうか、そんな女性と恋仲になれるかどうか、そして長い間つきあった結果気が合わなくなるかどうかも別として、0よりはずっとマシである。
よく、そういう先の話を持ち出して「似合わない相手を追いかけるのはやめな」と偉そうにのたまう方がいらっしゃる。今は私と気の合うすてきな女性が「いる」か「いない」かの話をしたいわけで、「お似合いの2人」かどうかは別問題である。とりあえず「似合わない相手を〜」と言っている以上、そういう女性が「いる」ことを認めているわけで、まずそこを素直に認めて欲しいし、論拠を提出して欲しい。私はそれすらも信じられなかったのだから……。私の理想の女性、というと――
まず「女性を武器にしないこと」。これは最低限必要である。都合のいいときばかり「女の子」を持ち出す、そういう人は心から軽蔑する。
私の経験から言えば、一部のフェミニストにこの傾向が強い。「虐げられる女性像」を武器にして、男に言うことを聞かせようとしている――自分の言い分が通らないと、論理性を無視して「女性差別だ!」と叫び出すのだ。これでは「男社会」の既成事実を武器にして女性を家庭に押し込めようとした、と非難される男たちと全く同じである。お互いの長所を生かして最も効率的な社会運営をするのが理想であるべきで、これでは単なる男女の利権争いである。
フェミニズム批判はともかくとして、私は「ぶりっ子」「小悪魔系」「過激派フェミニスト」といったタイプは、とことんまで苦手である。素直に自分を表現できる人、表現できる自分を持っている人が好きなのだ。
次に、誠実でまじめ、素直なこと。そういう人でないとなかなか信用できない。今までひどい言い逃れや詭弁で手を焼かされてきたからかもしれないが、私自身、誠実さが人間にとって一番大事だと思っている。 それと、自分の片腕になってくれるような人。困ったときに話を聞いて助言をしてくれるような、そういう人がいい。
私を頼りにしてくれる人、というのもそれはそれでかわいい人かもしれないのだが、私はよく自分のことでいっぱいいっぱいになるタイプなので、あまり頼られても期待に応えられない。
と言っても自分が頼りっぱなしではいけない。相互に補完できるタイプの人がいい。
最後に、趣味や価値観、性格が合う人。これが一番大変なのだが、話してみて気が合えばだいたい大丈夫だろうし、つきあっていくうちにわかってくるだろうと思う。ちなみに私は慎重派で、マスコミにあおられるスターが嫌いで、スポーツにしても地味で情けないのを「がんばれっ!」と応援するのが好きなタイプである。外見については――自分ではかなりの面食いじゃないか、と思っている。
私は美人はあまり好きではなくて、かわいい感じの人が好みである。やせているよりは少しふっくらしているほうがいい。目はつり目よりたれ目が好きで、にっこり笑うと糸目になる人なんか、かなり好みだったりするから、一重まぶたの女性の方が好きかも知れない。背は小柄な方がいい。
一方で大柄な人も好きだったりする。スポーティでさばさばした性格で、行動がきびきびしている人。でもこういう人は逆に女性らしい所があって、時折見せるかわいらしい一面、というのにぐっと来るものがある。
かわいいけれど、芯に一本筋の通ったものがあって、しっかりしている女性――こんな女性が、私にとっての最高の女性、と言えるだろう。もっとも、実際つきあってみて本当に気の合う女性がどんな人か、というのはよくわからないところがあって、「理想の女性論」はだいたいムダに終わる、と私は思っている。
つきあってみて、気が合って、心から好きだと思えて、そして相手も興味を持って接してくれる人。それが本当の意味での「理想の女性像」なのだろう。
そして気の合う女性がいる以上、「理想の女性探し」は全くの無駄ではない。出会う確率はとことんまで低くても、試してみる価値はありそうである。
(00/10/3)