2−14.キャッチャー

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 先日、くだんの恋愛に詳しい友人Yとドライブに行った帰り、恋愛のことで話した。私も友人も野球が好きで、たとえ話も野球が引き合いに出された。

Y「言ってみれば、BUKKOはキャッチャーだよな。女の子が球を投げてくれるのを待ってる、っていう。」
B「そうだろうな。」
Y「だったら、どんな球でも受けられる?ワンバウンドでも?」
B「ムリだろうな(苦笑)。ぽろぽろ落としたり後ろにそらしたりで、ど真ん中のゆるいボールしか取れません、みたいな。」
Y「それじゃどうしようもないじゃないか。ちゃんと取らなきゃ。」
B「でも、投げてくれるかどうかすらわからないじゃないか。投げてくれないとゲームがはじまらない。」
Y「でも、BUKKOは定位置に座ってるの?」
B「いいや。だって、投げてくれるかどうかわからない。座ったら投げてくれるのか?」
Y「とにかくキャッチャーが定位置に座ってくれないと投げられないじゃないか。」
B「それはそうだけど、投げてもらえないのに座ったって――そもそもマウンドに立ったからって投げてくれるとは限らないじゃない。ホントに投げてくれるかどうか、それが確認できるまでは座らない。」
Y「座って投げてもらえなかった、っていう経験はあるの?」
B「知り合いがそういう目に遭った。」
Y「でもBUKKOは経験してないだろ。わからないじゃないか。」
B「投げないかどうかもわからないけど、投げるかどうかもわからないよ。」
Y「だったら、ピッチャーはどうすればいいんだ?キャッチャーはどこにいる?」
B「その辺に立ってる(笑)それを見つけて投げてくれれば。」
Y「そんな無茶な(笑)結局、ピッチャーとキャッチャーで、お互い早く位置につけって言い合ってる、ってことだよな。」
B「ま、そういうことになる。」
……
 とまぁ、話はだいたい、こんな感じだった。

 このように、私は”キャッチャー”でありながら(人間関係全般において、私はどちらかというとキャッチャー型である)、球を受ける体勢がまるでできていない。言ってみれば、出番のくせにベンチに座って「がんばれー」と叫んでいるような、そんな感じである。たとえ「さっさと出てこんかいっ!」とボールを投げつけられたとしても、「怖っ!」と叫んでベンチ裏に引っ込んでしまうだろう。
 さらにキャッチャーになぞらえて話を進めてしまうが(野球に興味のない人には不親切で、とても申し訳ない)、私が定位置につかないのには、こんな理由がある。
・そもそも球を投げてくれるのか。
 私が定位置についた途端、キャッチャーがアイツだと調子悪いとか言ってマウンドを降りてしまわないか。マウンドに上がって、さっさと定位置につけと言ってくれるピッチャーであっても、けんせい球ばっかり投げていっこうにホームに投げてこないとか。
 つまり、たとえ女性に友好的に接したとしても、友好的に接してくれる女性が現れたとしても、恋愛対象としては私は誰も相手にされまい、という思いがある。
・どんな球を投げてくるのか。
 あまり強烈なスピードボールだと取り落とすし、変化球やワンバウンドだとそもそも取れない。顔面受けなどしようものなら最悪である。どうせこちらの出すサインなど無視するんだろう。その上ちょっとでもミスしようものなら、ピッチャーはここぞとばかりにこっぴどい罵声を浴びせるに違いない。
 つまり、女性が”その意志”をもって接してくれたとしても、その意図がまったくわからないし、その出方もわからない。受け取り方をミスるととんでもない目に遭う。かといって自分がリードしようとしても、こっぴどく反抗されて従ってくれなどしないだろう。たとえ従ったとしても、ささいなミスをあげつらってひどいこと言うに違いない。ということでマトモに受け答えできない。定位置にいてもしょうがないのだ。
 かくして、私はいつまでもベンチをあっためているわけである。

 こんな風に思うのは、まず、自分の女性の行動に対する認識に自信がないことがある。
「嫌よ嫌よも好きのうち」といったセクハラオヤジ的な解釈は、私の信条からいってもどうしても避けたいところである。女性の真意がわからずに暴走しては嫌がられるだけである。
 私がどの女性からも嫌われるわけではないこと、むしろ女性と仲良くなる機会は結構ある、ということはわかっているのだが、目の前にいる女性が私に気があるかどうか、という点にはどうも自信がない。『好意を持たれた事例の分析』に記したように、思い違いによる暴走と、それによって起こる恐るべき事態――女性による集中攻撃はなんとしてでも避けたいものがある。建前上は「暴走によって女性に迷惑をかけたくない」ということになっているが、実のところ女性側のダメージなどほとんど考えてなくて、本音は自分が傷つきたくないだけなのだ。
 例によって、思い違いをしないためには、そもそも女性が自分に気があるなどと思わなければいい。嫌われないためには女性に近づかない、という考え方と一緒であるが、思い違いによる危険の回避率は100%。興味を持ってくれた奇特な女性をすべて排除することになるわけだが、それは「奇特」なだけに確率はずっと低い(はずだ)。危険を避けた分の”代償”として、致し方ない。
 しかし、これでは女子嫌いだった昔と行動パターンは全く一緒で、女性から嫌われるわけではない、という事実が全く反映されていない。
 さらに、”代償”という考え方をするなら、女性による集中攻撃を食らうことを”代償”に、興味を持ってくれた女性と仲良くできるようにする、という考え方もある。最近身近に、この方法で彼女の出来た知り合いもいる。この辺は「恋人ができない」危険と「女性による集中攻撃」という危険のどちらを重視するか、どっちを避けようと考えるかで変わってくるだろう。私が
「女性から責められるぐらいなら、恋人なんていなくてもいいや」
と考えている間は、
「あの子は俺に気がある、なんて余計なことは考えるのはやめておこう」
ということになるのだろう。

 それに、未だに私は、女性を信じ切れていない。
 前出『女性のイメージ』では、必ずしも、あの11項目に当てはまるような質の悪い、というか私に合わない女性が全てではない、としている。実際にもあの項目にさほど当てはまらない女性は結構いるし、大人になればなるほど”ヤバい人”の割合は少なくなるように思える。
 しかし、恋愛という親密な関係にあってこの11項目がどうなるか、は全くわからない。ある程度の距離をおいた関係なら、成長した結果として自制されるだろうが、恋愛という関係においても自制されるものなのか、むしろこの11項目が増幅されて襲ってくるのではなかろうか、と気が気ではない。この恐れは恋愛以前の、友達という段階でも十分にあるので、私が女性に心を開くスピードはとにかく遅い。
 そして何より、女性が私に興味を持っている、ということを一切信じていない。仲良くされても「立場上やむを得ないからだ」と考えたり、遊びに行こう、と水を向けられても、「じゃあ行こう、と言ったら嫌がるくせに」と思っている自分がいる。まずは、どんなに強引なこじつけでもいいから、「私に興味を持ったわけではない」という理由を見つけだそうとする。それも絶対に友好的ではない理由で、友達づきあいさえ出来ないような間柄を想定して、そういう理由でなんとかこじつけられないかと考えるのだ。
 これも、女性の巧妙な言い逃れを防ぎ、退路を断つためである。これまでそれでどれだけ悪い立場に追い込まれたかわからない。「あれはその気じゃなかった」と絶対に言えないような状況を確認しないと、安心できないのだ。
 しかし、私が好きになるような女性が、ひどいことをするだろうか?くだんの11項目にせよひどい言い逃れにせよ、そういうことをしそうなタイプの人とは基本的に合わない性格である。女子にひどい目に遭わされてきただけに、ヤバい人かどうかの判断にはそれなりの自信がある。多少でもヤバい「におい」をかぎ取った途端、トラウマでもってその女性に幻滅し、二度と近づこうとは思わない、そういう仕組みになっているのだ。
 従って、「この人はすてきだなぁ」と思った人に出くわしたのなら、その人の言動は素直に信じてしまっても、いっこうに差し支えないのである。相手は素直に物事を考え、思いやりを持ちつつ素直な表現のできる人なんだから。
 そうわかってはいるのだが、なかなか心を開けない。この辺に難しいところがある。

 恋愛話の最後に、友人はこう言ってしめくくった。
「なんだかんだ言ったって、好きな人ができたら何でもするもんだよ。」
 結局はそうなのかもしれない。『分析不能の思い』でも実証済みである。
「結婚は男女関係を破壊する」と標榜し、結婚の束縛から女性を解放しようと叫んでいた女性ですら、66歳にして結婚してしまい、「こんなに幸せだとは信じられない」と発言しているほどだ。
 この話を聞いて「ほれみたことか、ざまぁみろ」と思ったが、きっと自分に好きな人ができ、結婚でもしたら、同じことを言われるんだろう。あれだけ女の子を疑ってたくせに、カミさんとなると何でも信じて何でもしてやるんだから、と言われるようになるのだろう。

(00/9/13)
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