「いじめ」の特集を見て思うこと……編集室ファイル#3

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 近頃「いじめ」というのが、夕方や夜のニュースっぽい番組の特集として組まれることが多い。いじめが原因で暴力行為に走ったり、自殺に追い込まれたりする人たちが、ここ数年多いからである。コメンテーターがまたお得意の”大人の論理”でもって理由づけをする度に「あーぁまたかい」と落胆してしまう。遙か昔からずーっと言われ続けてきた”いじめ発生の原因”で、それだけわかってるならもっといじめに対処出来る体制が十分出来ていてしかるべきなのに、むしろたちの悪いいじめが増えてきている。いい加減、昔ながらの”原因”を考え直してみたほうがいい。もしその”原因”が正しいことだとしても、結局問題解決につながらなかったのなら、いじめの現場に直面する我々には意味がない。なんだか学者が実験対象を見て高みから物を言っているだけのように感じられて、腹が立つ。

 こうした特集ででてくる「いじめ」は、話だけ聞いていると私が受けたのと似たようなもの、としか感じられないことが多い。
 私も小学校では、一時期ではあったが女子全員から無視され汚いと言って避けられたし、男子の間でも仲間とつるむようなタイプではなかった。女子びいきの先生たちは私をキレる問題児としてしか見なかったから、私がいじめをうけていることなど信じなかったに違いない。そして中学では何かとからかわれ、自分のクラスと隣のクラス全員(合わせて100人になる)に囲まれてゴミを投げつけられたことすらある。
 もっとも、事件にまでなるのは、恐喝や暴行といったシャレにならない状態にまで発展しているから、「俺でさえこうしてピンピンしてるのに」と偉そうなことは言えない。
 今日の、どこのテレビ局かは忘れたが、いじめの特集を見るまで、彼らには友達が全くいなかったのだろうと思っていた。全くの孤軍奮闘ではなすすべも無かろう、と思っていたのである。
 ところが、その特集では、告別式の時、自殺した少年の親友という人物が、いじめをしていた少年につかみかかり、「こいつが殺したんだ!」と叫んでいるではないか!ここまでしてくれそうな親友などいないのでは、と思う人たちもたくさんいるというのに(えてしてこの手の人たちは、顔もよく覚えてない”お友達”がたくさんいたりするのだが)、彼はそんなすばらしい友達を持っていたのである。この告別式の後に、記者がその親友にインタビューをしているが、「自分が何もしてやれなかったのが残念でならない」と悔しそうに語っている。他にも、自殺した少年の親友で、学校や教師たちの対応に憤っている人も登場した。彼らは顔を出していなかったが、自分の身の安全を考えれば当然のことである。うかつにこんな事言ったとバレたら、いじめグループに殺されかねない。
 彼らは少ないながらに、心から親友と呼べる友達を持っていた。私もそうだと思う。いじめがもし、最初からカツアゲや暴行で始まるならそれは立派な「傷害・恐喝事件」としてすぐに目に付いただろうから、当然彼らの受けたいじめはエスカレートしていったものであり、私が受けたようないじめの段階もあったはずである。特に中2の私が置かれた状態と彼らが置かれた状態は、似たようなものだった時期があったはずである。
 彼らがエスカレートしてゆくいじめに巻き込まれ、私が助かった理由はどこにあるのだろうか?

 これは少し恐ろしいことだが、小学校で記憶は、楽しかった小2までは比較的鮮明なのだが、転校していじめを受けた小3以降、小6までの記憶はほとんどない。たまに面白いことがあったり、アルバムに残ってたりするイベントについては覚えているのだが、教室で何があったとか、授業をどんな風に受けてたとか、そういう記憶がほとんどない。
 そして、代わりに覚えているのは、塾での出来事である。某大手進学塾Yでの初めての授業、毎週日曜日のテスト。地元の小さな塾に通い始めてからは、教室でおにごっこをしたこと、黒板と手袋でダーツをやって遊んだこと、口癖が面白かった先生のこと、問題が解けなくていつまでも居残ったこと、素行が悪くて先生にこっぴどく叱られたこと……すごくよく覚えている。
 面白いのは、小3の2学期からしばらく記憶が乏しい時期が続き、小4の3学期になると急に記憶がはっきりすることである。私がYに入ったのが、小4の3学期である。
 つまり私は、女子に迫害を受けて以来、小学校での生活に全く重点を置いていなかった。私は「○○小学校の子供」ではなく、中学受験を目指す受験生だった。私の住む世界は小学校にはなく、塾にあったのである。幸い塾ではいじめはなく、成績を競い合うライバル心だけだった。私は塾という空間に逃げ込んだのである。小学校であったことは全く別次元の話だった。

 一方、中2の時には、私は先生を頼りにした。1年の頃から何かと騒ぎが起こっていて、先生方も私や、他に数人いじめがあったことは承知だった。先生たちは直接的に何かをしてくれていたわけではない。しかし、近頃の先生のように、一緒になって楽しんでしまうことは無かったし、自分たちの目の前でのいじめは絶対に許していなかった。だから私は職員室を駆け込み寺にできた。毎朝汚される机を、わざと遅刻して先生に見せて状況を訴えることもできた。靴がいたずらされるからと下足室を使わないことも認めてもらえたし、体育の時には荷物も預かってもらえた。友達もいじめの現場では何もしてくれなかった(それどころか野次馬に混じるバカもいた)が、仲間だけでいるときは楽しい時間を提供してくれた。心から友達と言える奴らで、それが「ブッコ学会」のメンバーである。
 私には常に、いじめから開放されるとっておきの世界があって、頼るべき人たちもいた。だからいじめに対抗できたのだ。小学校の女子は学校ごと無視すれば、彼女たちは別世界の、いわば道行く人たちと同じだから、いくら無視しようと汚いと言おうと関係なかった。中学でも、いざとなれば職員室に飛び込めば助かる、とわかっていたから、”野戦”に持ち込んでケンカを挑んでも平気だった。特に中学で先生の助力を頼めたのは大きかった。
 私自身がそこそこ強い人間だったこともある。体格はそんなに悪い方じゃなかったし、とりあえずナイフを振り回せば半径1メートルぐらいの”安全地帯”を作れた。
 それに自分で何とかしてやると思っていたが、必ずしも自分の力だけとは思わず、先生の力を頼みにすることもいとわなかった。そうやって周囲の力を借りる能力も「自分の力」の一つだと思っていたし、1人で100人と戦うのに、武装もなしに勝てるとは思わなかったから、ナイフと先生は必要不可欠な武器だ、と感じていた。
 そしてなにより、自分の家・自分の部屋は一番いい逃避空間だった。親は「中学からは大人なんだから自分で考えて行動しろ」と言って余計な干渉はしてこなかったし、私があまりに反抗するので愛想を尽かしていたところもある。私も外で出歩く方ではなく、かといって引きこもりもしなかったから(学校はいじめはあっても、友達がいたからそれなりに面白いところではあった)、家族との関係も良好だった。中学の時の逃避空間はもっぱら自室で少女マンガを読みふけるのが、一番の現実逃避になった。

 私がなんだかんだ言っていじめから脱出できてしまったのは、こんなところにあるのかもしれない。

(00/8/1)
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