僕は自然が大好きだ。自然の中でゆったりと過ごすことは、時間に追われて窮屈になった体と心をゆっくりとほぐしてくれる。自然の中で過ごすといっても、山に登るとかキャンプに行くとか、そんな大それたものじゃない。芝生の上で寝転がってもいいし、並木道を散歩してもいい。そういうのだって、立派な「自然」だ。
そんな自然の中でも僕が一番好きなのが、空。透き通る蒼、果てしなく続く空に、自然の偉大さを感じる。だから、「空」という言葉が入っていたり、空をテーマにした本や映画、ゲームなんかには嫌がおうにも触手が動く。この小説「スカイワード」もそうだった。「空」ということば、そして、ジャケットイラストの背景にあった綺麗な空に惹かれたのだ。
はじめに確認しておきたい。「スカイワード」とは「Sky word(空の言葉)」ではない。正しくは「Skyward」。「空に向かって」という意味の言葉だ。空飛ぶ機械に乗って、空へ向かってどこまでも飛んでいこう、ということだ。とても明るい、ポジティブなタイトルだ。
主人公のアケル・暁は、廃都の地下の最下層、49階層で暮らす貧困層の住民。飛空リュージュの操縦技術には非凡なものがあるが、彼はめったに太陽の下に顔を出すことはない。それどころか、日々の食料を得るための仕事場すら、地下の35階層という薄暗さ。彼が地上に上がれないのは、決して貧困だからという理由だけではない。彼は「中性体」――――少年でも少女でもない、"中途半端"な存在なのだ。人々はそんなアケルを、良くは思わない。
首府城で暮らす"舞巫女姫"のナナ。史上初めての廃都出身の舞巫女姫。自分が廃都の出であることを誇りに思い、城内からの陰口にも耐えてきた。廃都で自由な生活をしてきた彼女は、首府城での窮屈な生活に耐えられずに脱走。廃都に降りた彼女は、カナリヤ通りでアケルに出会う。
全てを自分でこなしてきたアケルと、全てを他人がやってくれていたナナ。そのギャップは、想像以上のものだ。それでも、寝食を共にするうちにナナは廃都の生活に慣れ始め、アケルはナナと打ち解けあい、それでも、お互いを理解しあうには、1週間は短すぎた。
7年ぶりに、アケルは地上で飛空リュージュに乗る。年に一度の祭典「大滑空走祭」。アケルは、亡き母が残した相棒「スカイワード」とともに大空に駆け出そうとしていた。その矢先のこと。アケルを良く思わない者たちは、これ以上ない形で、アケルの心を傷つけた。母とアケルをつなぐもの。彼らにとっては、ただの機械でしかなかった。
本人にはどうしようもない理由で迫害を受け、孤立する。また、ただ「なんとなく」いじめる。強いものが弱いものを駆逐することはよくあることだが、強いものが弱いものを"いじめる"ことは、それ自体は何の利益も生まない。ただ、憎しみが連鎖していくだけ。悲しみが満ちていくだけ。
だが、それでも。
見守っていてくれる人は、必ずいる―――――
ナナはアケルの活躍を願う。アケルはそれに答えようとする。それが通じ合うとき、その先には、絶望があることなど決してありえない。あるのは、希望と喜びと。
人のこころ。人のいのち。人と人との友情。
かけがえのない、人生で一番大切なもの。 |