夜通しのライブを終えくたびれ果てた体を引きずってどうにかこうにか帰ってきた寮の扉を開けた途端、部屋中に漂う甘い香りで蘭丸の沈みかけていた意識が覚醒し閉じかけていた目蓋が強制的に開かれた。見れば三人部屋にしては広くもない部屋の真ん中これまた大きいとはいえないテーブルの上、圧倒的な存在感を放つなにかが鎮座ましましている。
おそらく、一般的に言えば、世界はそれをケーキと呼ぶ。
ご丁寧にも絞られたクリームで花を咲かせるそれを目の前にしてそれをにらみつけるように真剣な表情で見つめているのは後輩の一人、真面目馬鹿のほう。もはやトレードマークになりつつある染みひとつない割烹着を身にまとい、早朝の日光を浴びてきらりと光るケーキナイフを手にし微動だにしないその姿に青年は頭が痛くなった。なんだ、この光景。夢にしちゃ悪夢すぎるだろ。

しかしその悪夢の中心に陣取る後輩が真面目くさった表情を彼のほうに向け、お疲れ様ですと律儀に頭を下げたので、蘭丸にとっては大変残念なことながらこれがきっちり現実であることを思い知ることとなった。いや待てよ、ここで適当に返事を返すなり無視するなりして寝床に飛び込んでしまえばどうということもない。そこまで考えて、よし、じゃあ俺は寝るからとその場をあとにしようとしたところで背後からただいまランちゃんどうしたの、こんなところに立ち尽くして。と無駄にいい声をぶつけられ蘭丸は逃げ場がなくなったことに気がついた。同じく朝帰りだったらしい後輩の一人、不真面目馬鹿のほうはいつもどおりなれなれしく蘭丸の肩に手を置いてそういうと、その背中越しにテーブルの上の甘いにおいの発生源に気がついたらしい。デコレーションケーキを目にすると、ひゅうと口笛を吹き美味しそうだね、と続けた。


「それ、どうしたんだ聖川。お前にしちゃずいぶん洒落がきいているじゃないか」
「ん?ああ、渋谷と一十木がバラエティ番組で作って特別賞を貰ってな。沢山あるからとおすそ分けされたんだ」
「おや、それはめでたい」
「ちなみに飾りつけ指導は四ノ宮担当だそうだ」
「なかなかいいセンスしてるじゃないかシノミー」
「お前に褒められるとは四ノ宮も不本意だろうな」
「大喜びだと思うけどね」
「せっかくなので切り分けて冷蔵庫に入れておこうと思ったんだが…もしよければ黒崎さんも召し上がりますか?」


後輩の問いに、ああそういえばと蘭丸は思う。思えば昨日の夕方に軽食を食べたっきりで、あとは水分しかとっていない。そして早朝から甘ったるいものというのは多少いただけないが薦められたそれは食べ物には違いない。食べ物を粗末にしてはいけない。この程度で胃もたれするほど柔な内蔵は装備していないし、そして今は空腹。砂糖とバターの甘いにおい。後輩どもの料理の腕は聞いたことがないが食えないことはないだろう。普通に考えたら願ったりかなったりなのである。問題は何もないのである。


目の前のケーキと呼ばれるものの姿が、目にもまぶしい空色であることさえ除けば。


もはや寝不足と疲労とシチュエーションから朦朧とした状態でそれに肯いたのかどうなのかも分からず、気がつけば靴を脱ぎ荷物は部屋の隅に片付けられ上着はハンガーにかけられテーブルの所定の位置の席に腰掛けている自分がいた。どんよりとした視線を目の前の皿に送れば切った人間の性格がうかがい知れる一分の隙もなく真直ぐに載せられた抜けるような青い色。その横にはお代わりもありますからと大真面目な顔の後輩。正面にはどうしたのランちゃん、もっと欲しければ俺の分も食べてもいいよ?などと的外れなことを言ってくる後輩。視線を上げればカーテンが開けられているため遮られることのない眩しい日差し。ケーキに飾られた太陽のように赤い砂糖の花を眺めながら、ああ後輩と共同生活ってこんなにわけがわからねえもんなのかよ、と蘭丸はぼんやりと考え静かにフォークを手に取った。











「いかがですか」
「…無駄に美味いのがむかつく」



04. #00a7db





今回調べたこと:寒色は食欲を減退させます。赤は水色の補色。(自分用メモ)
シノミー料理に完全に慣れきっているAクラス出身と、結構な悪食スキルと結構なスルースキルを所持しているSクラス出身に囲まれた黒崎さん。

back