月と犬

生命の危機であった。未だかつてこんなに死と直面したことはないと彼は震えた。平和と退屈を押し固めたような故郷から何の考えもなしに飛び出してなんの疑いもなくのこのこと知らない人間について行ったあげくコートの襟元を飾るファーにされそうになったときすらここまで困ったことはなかったはずだ。そういえばあの時は無残に外身と中身をひっぺがされるとは助けられるまで理解していなかったのでちっとも危機感を感じていなかった。どうしようどうしよう、と彼は小さな体を限界まで丸めて大いに悩んだ。だからタンザーは嫌だと言ったのに。人間や妖魔やメカである同僚たちには分からないかもしれないが、モンスターのコミュニティではタンザーと言えば親から聞かされる御伽話の中でも最高位の恐怖を持って君臨するものである。お前のような聞き分けのない子はタンザーに食べられてしまうよと叱られれば幼い子供たちは即座に謝罪せずにはいられない、そのようなものなのである。なので本部の会議で「タンザー行き」が決定された時には力の限り抵抗を試みた。いくらリージョン界を股にかける大海賊が逃げ込んでいるとしても、駄目なものは駄目だ。タンザーに飲まれたら最後、一生外には出られない。そのまま薄暗く生臭い空間で一生を終えるか、その体内で一瞬で人生を終えるかのどちらかなのだから。賢明な主張を同僚の人間の一人に試みたものの「飲まれたら最後一人として戻ってこないのであれば誰も存在自体知らないと思うわ」と同僚にあまりに理路整然としたもっともな意見を言われ確かにそれもそうだなんて思ってしまったのが運の尽き。どんな技術を使ったのか知らないけれど首尾よくタンザーに飲み込まれ、女海賊ノーマッドとその一味を発見し、その女首領に首根っことひっつかまれている状況に至る。かの化け物女はおやティディじゃないかとそれはそれは邪悪な笑顔を浮かべた。目蓋を彩る青い色がなんと毒々しいことであろうか。(恐る恐る見上げたその顔は全面鮮やかな色に覆われ、最早人間ではないと彼は思った。どちらかといえば妖魔に近い。しかし妖魔は妖魔的に美しくなければ生きている価値がないそうなので、この女海賊は駄目かもしれない。色々な意味で)
にたにたと笑いながら女は言う。これは儲けたね、お前のおかげで新しい船が買えるよ。自分にそんなに価値があるとは思っていなかった彼は思わずなんですってと声を上げた。またコートの襟にされそうになるわけ!?というか僕はそんなに高級品なんだ!?思わず叫べば自分が人質に取られてしまったせいで武器を奪われてしまい、背中に銃を突きつけられた状態の同僚が「そんなとこを納得してるんじゃないよ」と呆れ果てたように言った。その手は敵の命令により後頭部に回されている。しかしそんな状態で彼はにやりと笑顔を浮かべた。配給品のブラスターさえ奪われ蹴り飛ばされ、あと一撃でこの世から去らねばならないこの状態でなぜ笑うのか。「しかしいいこと聞いたなこれは。今度金欠になったらお前にお願いするわ」などと軽口を叩きながら笑うだなんてついに壊れちゃったんですかヒューズさん。男は背中にあてられた凶器に目をやることもなく、女首領の後ろのほうを見やり「じゃ、あとよろしく」と言った。その随分余裕を見せる態度に女首領をはじめとするその一味は忌々しいパトロールの男を見るも無残な姿にしてやろうとその腰に差した獲物を次々と抜いたが、それは既に遅かった。
その瞬間、目の前が真っ白になるまでの眩しい光が一面を覆い尽くしたからである。







直後に聞こえる殴る音殴る音もいっちょ殴る音それにつけても殴る音。










壊れたシップの部品にまぎれ後ろに回り込んだ同僚の渾身の催眠フラッシュ攻撃と、もう一人の同僚の全力の拳攻撃で再び命をつなぐことができた彼は小さく小さくしていた体をようやく伸ばし息を吐いた。ああ、生きている。目の前が真っ白になった瞬間これは死んだと思ったのだがなんということだ生きている。毛皮をはがされ毒々しい紫色に染められ女首領の首を飾るところまで見えたというのに生きている!全身全霊で感謝の気持ちを伝えれば、人間とメカの頼もしき同僚は礼には及ばないと異口同音で返した。ああ、なんという素晴らしい友を持ったのだろうと小さな体を感動に打ち震わせていると、同僚たちは困ったように顔を見合わせた。な、なに。どうしたというの。一件落着でしょう?これ以上何か問題なんてありますか?
人間の同僚は答えた。「まあ一つの問題は片付いたよ」
機械の同僚は続けた。「そこで次の問題を解決しなくてはなりません」
一拍の時を置き、人間の同僚が問うた。「さて、どうやって帰る?」
















再び襲う今度はゆっくりとした速度の生命の危機に、だから、だからタンザーなんていやだったのに、と彼は天を(正確には暗く湿った天井を)見上げた。















きっとフェイオンがなんとかしてくれる!(はず)