酸素供給

いちのこぶん

言うんじゃなかった、と少年は言葉を発した直後自分の行動に後悔した。


初めて出会った時にやらかしてからというもの暇を見つけては幾度の脳内シミュレーションと数度の実践(もちろん鏡相手ではある)を行ってきたのである。何度かチャンスは逃してしまったが、今日という今日こそは、と幼き少年は闘志を燃やした。小さくたってこの身に流れるはラテンの血、ここでくじけてしまっていては祖父や弟に合わせる顔がない。
そんな決意をまじめな輩が聞けば、その努力をもっと別のところに例えば産業や経済や政治に注げばいいのに、むしろしなさいお馬鹿さんがと罵られることは必至ではあるが、幸いなるかな彼の密かで熱いその想いに意見する者はいなかった。


そして、決戦当日である。

なぜかいつもより大荷物でやってきた彼女は一通り挨拶と雑談をすませると柱の陰から決死の覚悟で送られる視線に気がついたのか「なんでそないなところにおるの。元気しとった?」と目を細めた。今だ。今しかない。

それを合図にばっと駆けだした少年は彼女の目の前で急ブレーキをかけ、何十回と心の中で繰り返した言葉をついに口にした。
噛みながらのその台詞に、少し驚いたようにおお、と声を上げた彼女を見上げることもできない。一瞬の沈黙を長い長いものに感じ、恥ずかしさのあまり少年は自分をひっぱたきたくなった。
やっぱり、言うんじゃなかった。ちくしょう。
その瞬間、よしきた!という言葉とともに少年の体がふわりと浮いた。













にのこぶん

柱の陰からおそるおそるといった様子でのぞく小さな頭と巻き毛を目にして、かわいいのが出てきた出てきたと彼女は素直に喜んだ。初対面の時にしくじってしまったからか、この家に住む小さな少年は彼女が近寄ろうものなら顔を腫れたように真っ赤にして逃げ回る。えいやと捕まえてみれば何しにきたんだよこんなとこまで!わざわざきたんだからちゃんと飯食って帰れよな!となんとまあ大変かわいらしい子生意気な口を叩くのである。
あんまりいじめてもかわいそうだからと放置していればこそこそとどこからともなく現れて如何にも捕まえてくれと言わんばかりに見上げてくるのである。膝の上に乗ってやってもいいぞ、という大変尊大な態度の小さな姿をこの家の家主の青年と2人(時には彼女の兄も含め3人で)見守ってきたのであるが、そんな少年の様子が今日はなんだかおかしいということに彼女は全く気がつかなかった。今日も今日とて柱の陰には気がつかなかったふりをして土産として持ってきた菓子を皿の上にざらりと適当にひっくりかえし、大きなテーブルの自分の定位置につく。そこでふと柱の視線と目が合って思わず噴き出しそうになった。

なにしよん、あれはと笑いをかみ殺して目の前の青年に問えば、笑ったらあかんよ。あれで本人必死なんやからと言っている本人が笑いを堪えた返答が返ってくる。

お菓子食べたいなら我慢しなくてもいいだろうに。少年の決死の想いからは幾分ずれた思いやりを抱きながら彼女はいつものように膝を叩き少年を呼んだ。
















いちのおやぶん

ようやった!と青年は手をたたいて喜んだ。さすが親分の子分や大人の階段上ったんやなあと感慨深くうなずきながら、青年はここ数年の少年の特訓を思った。それはもう本人にとっては血の滲むような、周りの人間からすれば微笑ましさ満点の夜な夜な鏡に向かって練習している姿を思えばこれが喜ばずにはいられるか。
そんな少年の背中を素晴らしい笑顔で見守っていたのは青年一人だけではなく、たまたま遊びに来ていた彼の友人たちも「なにあれちょっと純情すぎじゃないの!」だとか「あなたいったいどういう教育をしているんですか全く」だとか「あれっくらいの年が一番かわいいんだよなー」だとかてんでばらばらの感想を述べていたがそれはそれ。
しばらく彼女がこの家に住むことになったことはもう少し黙っておこう、と青年は思った。
こんなにおもしろいことをどうしてすぐに教えてしまうなんてもったいないことができるだろうか!





「親分にも挨拶したって」

「さっきしたやんか」

「もっかい」

「あああ後でにしろよこのやろー!」

「おお言うようになったやんか。じゃあ親分はあとでもっとどぎついことしてもらお」

「しいひんよ」

「なにまでならしてくれるん?」

「ぐーパンチまでやな」

「お前なんか往復ビンタで十分だろ!」

















成長後も同じような扱いを受けていると面白い。