日記:思いつくままに

2011年1月6日(木)
2011年

 裏日本などでは大雪で大分被害もあったようだが、東京は暮れから続く穏やかな晴天で良いお正月だった.。久しぶりに息子達も来て一緒に初詣もし、明るい気分ですごすことが出来た。
 アトリエには130号のキャンバスが地塗りを終えてスタンバイしているが、なかなか手が出ない。明るいお正月気分がそのまま反映した年になってほしいのだが、何か底の方にもやもやとしたものがある。その中途半端な気分のせいか、イメージが定まらないのだ。色彩一つとっても今是非塗りたいと思うものが浮かんでこない。常々明るくて鮮やかな、見て気持ちが高揚するような作品を描きたいと思っているのだが、たいてい何らかのマイナス因子が心中にわだかまっていて作品に陰が生じる。制作途中から暗いイメージがかぶさるように現れて出てくることもある。で結局私の作品は明暗混交の中途半端な作品になる.。もっともそれが現代という物だと思えば、それを正直に表せばこうなると開き直ることも出来るのだが。
 年を越しても、昨秋からの都美術館との確執の問題が引き続いてある。行政不服審査請求の再提出の行方が気になっている。どうにも納得いかないもやもやをなんとか晴らしたいとするのだが、なかなか解決の道が見つからない。
 身近なところでは家内の健康に不安があるし、だいたい、わが身自身の老化の進行が気を滅入らせる、息子どもが40過ぎても独身でいることも気になっている。
 社会に目を向ければ不況下の生活苦に呻吟する人々が増えていることや、近隣諸国に対する外交問題があって、.外交問題の背景として軍事力を増強しようとか憲法9条を変えようとか言う動きも活発化しているようで、不安材料には事欠かない。
 環境問題と少子化の流れに頭を抑えられているいるのだから、誰が総理になっても景気を回復させることはできないのではないか。一時的に上向きにしたとしても、やりすぎればバブルになるし、長続きはしないのではないか。国の財政は消費税を増やした所でむしろ消費をさらに冷え込ませてしまうくらいが落ちではないのか。民主でダメだからといって自民に戻した所でどうにもならないだろう。この国はこれまで教育水準の高さと民族的な真面目さとそこからもたらされる技術力の高さで国際的な地位を維持してきたのだが、中国をはじめとする新勢力の上昇に押され、少子化や個人主義の蔓延からから来る覇気の低下からも、その地位を維持しきれなくなって来ているようだ。
 こんな中で強力なリーダーシップの出現を期待する人が多いようだが、そこには他人に依存しようとする弱さが透けて見える。民主主義なのだから各自一人一人が言うべきことは言って、果たすべき責任を果たしていく心構えが何より必要ということだろう。でないと下手すれば、同じような不況と混乱の中から生まれてきた、過去の独裁者たちのような亡霊を呼び覚ましかねない。情けないように見えるが、日々そのときそのときの対応に右往左往している政治家たちの方が、安全なのかもしれない。結局限られたパイを如何に分割していくかがこれからの政治の課題になるだろう。
 そんなこんなでどうもこの国の将来については、つい悲観的な気分になってしまう。眼を世界に向けても飢餓や貧困や政争や宗教対立や異民族対立や自然災害の増加に悩む人々の姿が目につく。こんな中で何を描くべきなのか。無理に明るい絵を描こうとすれば、リアリティが失われて空虚な作品しか作れない。やはり正直に自分の描きたいように描いていくしかないと思う。とすれば今年も薄暗いような中地お半端な作品しか描けないということか。

2010年10月12日(火)
秋・尾瀬

 目下悩まされているのは、都美術館の改修後利用団体募集における汎美の不当な扱いの問題。これについては、前回書いたしその後の進展はヤフーの掲示板の「芸術と人文」の「全般」で「都美術館よお前もか」のトピに書いているからそちらを見て欲しい。じっとしているとついそのことを考えて、腹が立ち苛立ってってくると言うこともあって、忙しい間だったが、7日の朝にとびだして尾瀬に行ってきた。電車とバスを乗り継いで(予定の電車に乗り遅れたり、往復乗車券の往券を紛失したりではらはらしながら)鳩待峠に着いたのがちょうど正午ころ。売店でトン汁買って持参のおにぎり食べて歩き出す。
 山の鼻まではゆるい降りで約1時間弱。まだ時期が早いかと思っていたのだが、意外に紅葉が美しかった。黄緑、黄、ダイダイ、赤と色とりどり。はれたり曇ったりの陽光の変化にぱっと輝いたり翳ったり。山の鼻からは正面にスッキリした燧岳を見ながらの、尾瀬ヶ原の木道歩き。もう盛りは過ぎていたらしいが、一面の草紅葉の広大な原に白樺などの縁取りがあり、そこには点点と黄葉紅葉。草紅葉は赤と言うよりオレンジ色でところにより黄ばみあるいは赤ばむ。さすがにやや黒ずんでしまっている部分もあるが、とにかくこれだけの広い面積が一面に色づいている光景は見ものだ。ふと見るとオレンジの草の中に鮮やかなリンドウの青紫。
 原の横断はこれでもう何度目になるだろう。いつもながらそののびのびとした広がりと空や雲やそれらを写す池溏を含めての色彩の豊かさに、ここは別天地、非日常の世界と心が弾む。多くの人が木道を伝い歩いているが、この情景も楽しい。はるか彼方からだんだん近づいてきて行き過ぎる。多くの場合挨拶が交わされる。原に岬のように首を伸ばしている牛首をすぎてまもなく、木道の脇にしつらえられた休憩所に腰を下ろして、燧岳を遠景にした原の広がりをスケッチする。雲が行き来し、原も山も次々と表情を変える。そよ風に草の穂が揺れる。写真も撮るが、風景と一体となれるスケッチは一段と楽しい。まもなく三叉路をすぎて、はるかに見える拠水林の中の竜宮小屋を目指す。
 午後3時半ころ小屋に着く。小屋の前でスケッチしている団体があり、他にもツアーの団体が入っていたらしいが、幸い私の部屋には単独行の4人だけ。ゆったりと寝場所をとれた。夕暮れ拠水林の林を抜けて燧岳を仰ぐ東側に出てみる。戻って西側に暫く歩いている内に、日没が迫って至仏の右上の雲の裂け目から漏れた陽光が、雲の一部を赤く染める。
夕食後又外に出て空を仰ぐと雲の切れ目から星空が覗いていた。
 8日の朝は5時に起きて、林の東側に出てみる。だんだん明るみを増す原の拠水林の辺りは、霧が流れたゆたっている。西側に出てみれば、至仏山はすっきり見えるがその上から雲が広がっていて、いささか天候に不安を残す。
 6時40分頃に小屋を出て至仏に向かって昨日来た道を歩き出すと、だんだん空は明るくなっていく。牛首をすぎる頃には晴れ上がり、山の鼻の登山口では快晴。午前8時。しょっぱなから急な梯子段を登らされる。
 このコースはただひたすら登る。標高差は約800m。それも蛇紋岩とやらのゴロゴロデコボコの岩道で歩きづらい。しばらく林間の道だが森林限界を過ぎると後方に原から燧の展望が広がる。登るにしたがって視界が開け、南には日光白根山など、北には会津駒ケ岳なども見えてくる。道には木の階段が増えて来て、中間点の標識以後は殆ど階段を登ることになる。お陰でずっと歩きやすくなりスピードも上がる。
 しかし期待の山頂は霧の中。大勢の人が休んでいた。私も暫く休み、小至仏に至る稜線を伝う。岩道にところどころ梯子があって登り下りが多く、思ったより時間を食う。小至仏の岩峰を過ぎて暫く下り、霧の中でお山沢の田代をすぎる。ここも草紅葉。すぐ下の水場で水を一口。冷たくて美味い。ここから道の様相が変わる。岩は殆ど無くなり傾斜もゆるく木道が多くなり、歩きやすい。雲の下に出て見渡せば紅葉がみごとだ。その斜面の彼方の霧の下に原が明るい。2時過ぎに鳩待峠に下りつき、そばを食べてバスに乗り込む。

2010年10月1日(金)
東京都美術館よお前もか

 国立新美術館の5年毎見直し問題でうっとうしい日々を送らされ、それが片付いたと思ったら、今度は都美術館から困った通知が来た。都美術館は目下改修工事中で2年後の平成24年度から再開する。その際の使用団体を募集するに当たって、新美術館のわだちを踏むまいと言うことか、なかなか立派な使用資格や審査基準を説明会で発表し、それにしたがって都美術館の使命に合った団体に会場を貸しますと言ったから、我々の汎美展などは全くその内容からして資格にぴったりだと自認して、気楽に構えていた。ところが、第一次資格審査は無事通過したが、第2次審査の結果の通知に驚かされたのだ。
 提出した書類による審査の結果V−Aという最下位のグループに入れられて、「上位グループの抽選が終わってから残りくじを引きなさい。2室以上の要求はできません」ときた。汎美は春3月に新美術館で汎美展を開催しており、これからも7年間の使用権を得ている。だとすれば都美術館で開催する展覧会は秋の9月前後で無ければ困る。しかし9月10月は人気の高い期間であるから残りくじに残るとは思えないし、8月はますます温暖化の進むであろうこれからを思うと、避けたいところだ。また、汎美展は年々出品者が増えてきており会場が手狭になって来ているので、都美術館で2室使えるなら、都美術館のほうをメインの展覧会にしたいと考えて期待していた。そうすれば更に会を成長させることが出来る。
 そこでこれでは困ると、都美術館リニュウアル準備室とやらに代表や事務局長など4人で出向いて、苦情処理係長と話をしてみたのだが、全くお話にならなかった。「どうみても汎美は審査基準にあった優良団体であるはずなのに、なぜこんなに低い評価なのか」と聞けば「提出された書類を審査して各項目ごとに評価をつけて合計したらこうなった」と言う。「その審査の基準や審査した人や審査の結果どんな団体が上位の団体に選ばれたのか」、などなど聞いたら全て「部内秘だから言えない」という。「それでは恣意的な審査が行われたと思われても仕方がないじゃないか」と言えば、「それでも良い、しかし恣意的な審査は無かった」と胸を張る。結局何の収穫も無く引き上げてきて、期待が大きかっただけに裏切られた気持ちになり暗澹たる気分を味わっている。せめて情報開示でも迫ってみようかと思うが、どうせ何も見せてはくれはしないだろう。
 汎美は徹底した民主化を公募団体に持ち込んでいるため、旧態依然の審査と封建的会内階級制に依存する大団体や、それに寄生する評論家やマスコミから睨まれていて、これまでも意地悪を何度か受けて、それをなんとか切り抜けてきている。今度も汎美つぶしのチャンスとして利用されたのではないかと勘ぐるのは僻目だろうか。私がした新美術館の姿勢を突く新聞投稿が影響しているのかもしれない。
 これから11月の抽選日まで不安な日が続くことになる。もっと怖いのは更に5年後に両美術館が約している、5年毎見直しが同時に来ること。黙っていると、その機会に汎美はどちらにも会場を獲得できないと言うことになりかねない。

2010年8月29日(日)
山登り

 今回はきつかった。昨夏仙丈岳に登っていて、同じ北沢峠から登る甲斐駒は標高も若干低いし、ベースの小屋もやや高いから、いくらか容易に登れるのではないかと思っていた。8年ほど前に一度登っていたのだが、残されていた記憶にはそれほどきついと言うような感覚は無かった。ところがあにはからんやで、体力の低下や体の柔軟さが失われていることをまざまざと見せ付けられて、幾たびか途中で引き返したいと思うざまだった。それでもとにかく登頂を果たして帰ってきてから思い返しても、何とかかんとか切り抜けた難場の記憶ばかりが蘇ってきて、爽快感や達成感といったものがあまり感じられないのだ。これでは山に登った甲斐が無いのではないか。一体何のために登ったのか。山の上は非日常の空間であるから、それに接することを期待して行くのだが、それよりも意志力や肉体の能力の限界を試されるために行っているのではないかと思うようなことになっている。
 25日に泊まった仙水小屋は定員制(予約制)だったから、安心して泊まれた。時間があったから仙水峠の少し上まで往復してトレーニングもした。峠からは甲斐駒とその一画に突き上げている摩利支天峰を眼前に見上げることができる。小屋の夕食は4時半で7時には寝てしまって朝食は3時半。4時過ぎには、まだ暗い道をライト頼りに登りだす。丁度満月に日であったが林間の道は暗かった。40分ほどで着く峠で雲海上の黎明を見て、駒津峰への急登に入る。これが2時間あまり。途中から視界が開けてきて背後に朝日を半面に浴びた早川尾根方面の峰々がそそり立ってくる。この登りは急ではあるが、ただ耐えて登るだけで特に問題は無い。7時頃に駒津嶺に着いて四方の展望が開ける。目の前に二等辺三角形に近い姿の巨大な花崗岩の塊の駒ケ岳の山容があり、白く輝く雲海をはさんで東には早川の連峰から連なる鳳凰三山とその向こうの富士山。更に眼を南に転じれば尖った北岳から相の岳、その南に延々の続く南アルプスの山並みが赤石や聖辺りまではるかに連なる。殆ど真南の位置には穏やかな山容の仙丈岳が大きく根を張っておりその右側には木曾駒などの中央アルプスの連峰が雲海上に長く連なって見える。全てがみずみずしい朝の青の濃淡に彩られてあった。ただなぜか雲も無いのに、北アルプスが見えなかった。
 さてここまでは良かった。ここからが問題。駒津から駒ケ岳の山腹につながる尾根がやせた岩尾根でアップダウンと言うよりギャップとでも言うべき部分が繰り返されるのだ。左右の斜面には這い松などが茂っているから滑落などの不安はそれほど無いが、ギャップのたびに足場や手がかりを探し、岩や木の根などにしがみついたりして上り下りしなければならない。登りもきついが下りのほうが怖い。どうやって越したらよいのかわからないようなところも、何箇所かあった。ここまできて引き返すわけにも行かないし他の登山者の手前もあって、なんとか館とか工夫して一つ一つ切り抜けた。若い人たちは容易に通り過ぎていく。「私はゆっくり行きますから」と何度も道を譲ってゆっくりゆっくり足場や手がかりを探したしかめて行く。お陰でガイドブックの標準時間の倍以上かけて甲斐駒ケ岳の本体に取り付く。たどり着いて間もなく、大分前に私を追い抜いた青年の下ってくるのに出会う。ここからはざらざらの花崗岩砂の斜面である。一歩一歩踏みしめながら、ところどころにある道標とあまり判然としない踏跡を確かめながら辿っていく。急斜面だがジグザグだから険しいと言うことは無い。ただ長くて苦しい。そろそろ軽い高山病の気があらわれて息切れがして立ち止まる回数が増えていく。背後から照りつける陽光にのどか干乾びる。上部に来て岩の間を縫うときに一度道を間違えてヒヤッとさせられた。
 山頂には人が多かった。ここも白い花崗岩と花崗岩砂のなだらかな小丘で、中央に小さな祠がありワラジなどが供えられている。既に10時近く、雲海からあちこちに白い雲が立ち上っていて視界が狭くなってきていた。暫く休み周囲を眺め、下山に入る。あの道を又戻るのかと言う不安があったが、これまでの経験で最初に通るときほど二度目はきつくないはずと心を励まし、とにかくゆっくり丁寧に下るしかないなと足を進める。少し降りかけた所であとから下ってきた人の声が背後から逸れていくのに気付いて振り向いたら道標があらぬ方にある。慌てて10数メートルを登り返す。足元ばかり見ていて道標の確認を怠っていたのだ。そろそろ霧が捲いてくる。目の前の摩利支天がかすむ。ずるずる滑る足を踏みしめながら下る。下部の樹林に入ったところで、丁度私の背丈ほどのギャップに出会う。登ってきたときどうやってここを下ったのかと思うが、手がかり足がかりを探して途方にくれかけていた所へ後から来たおっさんが「こちらの方が良さそうです」といって軽く越していく。私もそれに習ったら確かに手がかり足がかりがわずかにあって、なんとか登れた。その後も幾つかの難場をなんとか切り抜ける。一箇所、やはり背丈くらいのギャップの登りで足がかりを探していたら、脇から若い人が登って「手を貸しましょうか」と言って私の手を掴んで引っ張りあげてくれた。おかげさまで
来るときに悩まされた難場も思ったほどのことはなく、なんとか越えることができ、駒津嶺まで戻ってほっとした。あとは落差500mをただひたすら下って仙水峠に至る。下山の途中に追い抜かれた時以来、なんとなくお互い軽い挨拶を交わすようになっていた、若い女性の3人組が休んでいて、声をかけてきた。駒津嶺からは北沢峠に直通する下山路があったのだが、新しい道を歩くときの気分的な疲労を考えて、比較的気楽なはずの既に踏んだ道を選んで降りてきたのだ。もう一つ既に水筒の水が殆どなくなっており、仙水小屋前に勢い良く流れている冷たくて美味い水を飲みたかったこともある。摩利支天の岸壁も見えなかったからそのまま峠は通り過ぎた。小屋まで来て水を飲み休んでいたら、小屋の主が出てきて「おいくつですか」と聞く「74歳」と言うと「私と同じだ」と言い「昨年84歳の男性が一人で泊まって翌朝出かけたきり行方不明」「捜査の人が一度聞きに来たっきりで、家族は来ない」。暗に老人の一人歩きは困るということらしい。その間に追い抜いて行った3人組に、下の小屋の前で追いついてちょっと立ち話をする。更に15分ほど歩いて峠のバス停に着く。
 帰宅した時は疲労感に幾分落ち込んだ気分だったが、日が経つにつれて達成感のようなものが勝ってきて、また山に行きたくなってくるのです。

2010年8月10日(火)

 74歳になってから2週間が過ぎました。早いものです。時間はどんどん過ぎ去ってゆく。このくらいのトシになれば、誕生日なんてものはそれこそ冥土への旅の一里塚であって、ここまで無事生きてこられたことを感謝はすれど、めでたいなどとは思えなくなって来ている。先の短いことを思えば一時たりともおろそかにできないはずの貴重な時間のはずが、どんどん無為に流れていく。せいぜい絵を描いているときだけは充実した時間だと思えるのだが、暇つぶしに困るような時間のなんと多いことよ。もったいないことだと思う。
 それにしても又8月。この月になると6日、9日、15日といった日付が私の記憶を揺さぶる。それ以前の7月9日夜から10日未明が仙台大空襲の日であり、焼夷弾の降る中を兄弟3人で逃げ惑った記憶が未だに新しい。そしてその後まもなくから終戦までの間の集団学童疎開。そして終戦後の欠乏と被占領下の時代。幼かったから何も分らずただ言われるままに右往左往して過ごした期間だが、2度と経験したくない期間であり、今後再びあってはならない日々であったと思う。
 広島と長崎、それから東京などを襲った大空襲や、沖縄や南方や大陸の戦場や戦後の抑留や復員などの只中に置かれた人々のことを思うと、戦争はこの世に地獄を生み出し、積み上げてきた文化を根こそぎ破壊する人類最悪の愚行だと思う。もういかに多くの人々がそのように叫び、無数の繰り返される報道が、文学が映画が演劇がそのことを伝えようとしてきたことかと思うのに、未だに戦争は跡を絶たない。なぜかと思う。結局、人の本性の中に戦争を好む要素があるからではないか。誰でもが持っている自己顕示欲や専制的な欲望や優越感に差別意識や物欲や闘争心や復讐心などという、本能とか感情とかいわれる部分があいまって、戦争を生み出しているのではないのか。
それらの内なる魔をいかにコントロールして行くかが、現代に生きる人々の課題ではないか。
 広島 長崎 チェルノブイリ、核の傘かなんか知らないが、地上を何回も繰りかえし死で覆いうるだけの核弾頭が未だに幾つかの国に保有されていることが、どんなに我々の未来へのイメージを重い蓋の下に封じ込めてしまっていることか。原発だって、事故の可能性もあれば、排出する廃棄物の処理方法も見出せずにいる以上、未来を暗くさせるものに違いない。
 今人類は二つの滅亡への恐怖を負わされている。普段は忘れがちなその一つの「核」の存在に向かい合わされるのが8月6日と9日。核廃絶の夢は実現できるのか。オバマが言ったのは核を減らそうということであって、核抑止力を捨てようということではなかったのではないか。多数の核弾頭を抱えて、そのメンテナンスや保管に使う金や人的物質的なエネルギーの限界を考えての、発言ではなかったのか。原発に至っては、CO2を排出しないクリーンエネルギーとか言って、ますます増設の勢いだ。
 もう一つの滅亡への図式はCO2に象徴される環境問題。今年の夏は新記録尽くめの猛暑。偏西風の蛇行のせいで、その元を辿ればエルニーニョとかラニーニャだろうとか説明されてはいるが、そんなことはこれまでも幾たびかあったに違いないと思えば、地球の温暖化は確実に進んでいると思わざるを得ない。
 この次同様な状況の年には、もっとひどいことになるに違いなく、その行き着く先は金星並の超高温無生命惑星だ。。その上国の内外を問わず頻発する気象災害や地殻変動。温暖化が進めばそれらの災害の頻度と強さが、加速度的に増幅されるらしい。それなのに人々は今なお欲望にまかせて、ますますエネルギーの消費を進めている。例えばリニアモーターカーは大量の電力を消費し、リニア新幹線を維持するには、原発を3基増設する必要があるとか聞いたと思うが、そのプロジェクトが推進されつつある。
 核も温暖化も、その対策の国際会議は先進国と途上国の軋轢の中に、具体的な方策を決められずに過ぎていく。我々の少年期がそうだったように、次世代の人々にも生きづらい世界が待っているようだ。結婚もせず子も産まない若者が増えてきたいるということは、そのような先の見えない未来への正当な反応のようにも思えてくる。

2010年8月6日(金)
近頃

 体力や抵抗力かが弱っているようだ。風邪を良く引くようになった。春からこれまで、しつこいのに3回かかっている。お陰で葛根湯の消耗が激しい。前回とその前は熱と咳に悩まされた。今回は左半分だけののどの痛み。先週木曜から始まって、早速葛根湯を続けて呑んで、日耀には痛みが殆どなくなったから、油断して外出し運動し、夜は日耀会に出てクーラーのかかった部屋で3時間デッサンで過ごしたらすっかりぶり返して、今日の金曜まで続いた。今日はまた痛みが殆ど消えているが、又ぶり返しては困るからできるだけおとなしくしている。葛根湯のお陰か診療所でもらった薬のお陰か、結局熱は出なかったから良かったが、いつ出るかと思って後半は外出も避けておとなしくしていた。 今日になって久しぶりに診療所まで出かけてみたら、往復10分そこそこの自転車のペダルが妙に重く感じられ、体力が落ちてるなと思った。体力については6月に登った奥武蔵の伊豆が岳から子の権現のコースが、これまで何回も歩いている道なのに疲れがひどかったことで、その低下を感じていた。7月の八甲田山はなだらかな山だったから気楽に歩けたが、今年はもうあまり高い山には登れないのかもしれない。単純に歳のせいなのか、それともどこかに故障でもあるのか、気になる。
 故障といえばもう一つ奥歯が一本欠けてしまったために、物が良く噛めないということも起きている。そこへもって来てこのところの猛烈な暑さだ。まだまだ続くと言うことだが、持ちこたえられるのだろうか。

2010年7月4日(日)
風のガーデンなど

 TVドラマの風のガーデンに夢中の家内の希望に沿って、北海道富良野にある風のガーデン訪問を目玉にしたツアーに参加してきた。風のガーデン自体は小さな庭園だから、与えられた30分で十分見て回れて家内はいたく満足。その後は定番の富田ファームで咲き始めのラベンダー畑や満開のはまなすなど色とりどりの花畑を雄大な十勝連峰を背景に見、その十勝岳の中腹に登って望岳台からの夕日に染まる山頂を間近に見上げてから、一日目の宿、美瑛白金温泉に入る。
 二日目は美瑛の丘巡りがメインだったが、その前に白金温泉近くの青い池を見る。砂防ダムによってできた池だが、地下水に溶け込んだ金属成分により湖面がコバルト色に発色している。枯れた立ち木がその中に立ち不思議な景観を作っていた。最近遊歩道などが整備されて間もないと言うことであった。次いで寄った後藤純雄美術館もゆっくり見れた。
 美瑛の丘陵地帯を訪れるのは2回目だが、今回のバスは要所要所を丁寧に回ってくれた。ジェットコースターの道を通ってクリスマスツリーの木から始まって哲学の木、美馬牛小学校、拓真館などのパノラマロードを訊ね回り、四季彩の丘の広大な花のガーデンで昼食、一旦丘を下りて立派な町役場に付設された四季の塔に登って景観を楽しみ、再びパッチワークの道に登り、ケンとメリーの木や親子の木、セブンスターの木を巡ったのだが、この間バスの窓から見るなだらかな丘の起伏にジャガイモやビートやとうもろこしや麦などの作物ごとに変わる色と模様の、走るにしたがって次々と変わっていく景観に見とれっぱなしであった。晴れて暑かったが、次に暫く林間を走って訪れた旭岳源水
では強いにわか雨に遭った。我々夫婦は傘を持っていたから良かったのだが、バスに残っていた添乗員と運転手が人数分の傘を抱えて走ってきてそれを配った。あやふいところで皆さんびしょ濡れにはならずに済んだ。
 旭岳ロープウエーに着くころには雨はやみ、上の駅についたときには赤茶けた荒々しい山肌の旭岳が全貌を現しており、間もなく日が差してきた。姿見の池までの散策路を一周する予定だったが、数箇所に残雪が残っており歩きにくいと言うことで、夫婦池の第三展望台辺りまでということで添乗員について歩いた。腰が痛いと言う葉子は第一展望台でダウン。私は第三展望台で皆さんと別れて一人で姿見の池の脇の第5展望台までの周遊路を歩いた。目の前に大きな台形でそそり立つ旭岳への登り口で、池は殆ど残雪に埋もれ、その向こうのこちらに向いた割れ目の地獄谷からは数条の噴煙が勢い良く噴出していた。道は登りも下りもなだらかだった。道の脇にチングルマやエゾコザクラなどの花が点々と咲いていた。少し急いだが乗車予定のロープウエーには十分間に合った。小柄でころころした可愛らしい添乗員がほっとしたように迎えてくれた。その夜の宿はすぐ下の旭岳温泉のまだ新しいホテルだった。
 三日目の朝も良い天気。早く目覚めた私は朝食までの時間を散歩に出かけた。ロープウエーの方に登っていくと右に脇道があり、クロスカントリーコースと表示されていた。雑草に覆われた道であったが木道もところどころに敷設されているから、熊に襲われないように声を出したりしながら進むと水芭蕉がぽつんと咲いていた。更に進むと池がありそこで木道が水中に没していたが、水芭蕉は数多く点々と咲いていた。しかしそこはまた薮蚊の巣窟でもあって、私はほうほうの体で逃げ下った。その途中蚊に気をとられながら歩いていて木道の上で足を滑らせ転倒し、頭を木道に打ち付けてくらくらっとなってしまった。その後数日軽い頭痛と頸回りの筋肉痛が残った。
 三日目のバスはまず天人峡に入り、柱状摂理の岸壁の下の温泉街から緑豊かな林間の道を10数分歩いて羽衣の滝を見る。何段かに別れた滝だがそれぞれが傾斜に沿った広がりを見せて優雅な滝だ。高さもある。下から見上げてから滝つぼを見下ろす所まで登ってみて戻る。
 旭川は暑かった。旭山動物園は2回目でそれほど興味は無かった。動物たちも殆どが暑さでぐったりして巣穴にもぐりこんだりしていた。出口のレストランで昼食を取り、早々にバスに戻る。バスは郊外に出て優佳良織工芸館に至る。北欧風の外観の立派な建物だ。暫くロビーで待たされてから係員の誘導で教室風の部屋に入る。機織機が並んでいて、各人が手ほどきを受けながら簡単な平織りを試作する。初めちょっと戸惑ったがすぐ慣れて、配色を工夫しながら17センチほど織り進む。切り外してもらい持ち帰る。なかなか楽しい経験だ。
 後は一路札幌へと高速道を走る。左右に豊かな田園が広がり、ここでも北海道の広さを感じる。札幌のホテルで半数を下ろして小樽へ。ホテルに入って一休みしてすぐ町に出る。ガイドさんたちのお勧めの店が幾つかあって迷ったが、結局運河の手前のすし屋に入って夕食。やはり具が新鮮で美味い。食後は夜の運河沿いを散策。同行グループのの夫婦と出会うが、この後この夫婦は人力車を乗り回して8000円払ったとか。
 最後の日は隣の市、余市へ向かう。まず郊外の果樹農場でさくらんぼとイチゴの食べ放題。少し時期が早いとのことだったが、どちらも選んで食べれば熟して甘いものがあった。おなかの調子を気遣ってほどほどに食べる。次いで市内に入りニッカの工場を見学。若いガイドが説明しながら案内してくれるが、広い敷地にやはり北欧風の石造りに赤い屋根の工場や倉庫が数多く並ぶ。見学を終わって試飲会場で、私は普段滅多にウイスキーは飲まないのだが、オンザロックで少量をゆっくり味わう。なかなか美味い。
 小樽に戻って鰊御殿への誘いもあったが断って、、葉子の発案で吹きガラスの体験をする。添乗員の勧める店に行き葉子は小鉢を私はタンブラーを作る。若いお兄ちゃんが手取り足取りの感じで指導してくれる。あまり自分で作ったと言う実感は無かったが、とにかく無事に仕上げる。
 葉子のお好みの昆布屋に寄りラーメンを食べ、ガラスの展示館などを見物してバスに戻る。雨が降っていた。最後に流行りのお菓子屋の大きなテーマパーク風の建物に寄り、お土産を若干買って後は新千歳の空港へ。空港では待ち時間が2時間もあり、おみやげ物売り場などをぶらついて過ごす。
行きも帰りも窓際の席だった、が雲の上であまり眺望は無い。一瞬夕日に染まった雲峰が眼を惹きつけた。20時過ぎに羽田着。
 今回も添乗員とバスガイド及びドライバーがそれぞれの持ち味を発揮してくれて、安心して任せられたし楽しめたしで、良かった。  

2010年5月20日(木)
犬吠

 もともとは公民館で指導している火曜会の写生会のはずが、今では汎美の会員のMさんなどのグループが主になってしまって、総勢九人で楽しく行ってきました。ローカル調たっぷりの銚子電鉄の犬吠駅のすぐ前の犬吠館という民宿で、先の土曜から2泊。9人で一杯の小さな民宿でしたが、家庭的なサービスは至れり尽くせり。料理ももちろん海鮮が殆どで,刺身はもちろん煮魚焼魚、から揚げなどなどバライエティーに富み、食べきれないほど。格安のお値段なのに、ホテルや旅館の気詰まりさが無いだけにおおいにもうけもの。三日間晴天続きで10号の油絵2点とスケッチ2点の収穫。海岸に突き出した岩の上で潮騒の音と海風に包まれながら、海と岩と灯台をとことん観察しそれをキャンバス上に定着するための工夫を凝らして過ごす時間の充実感がたまらない。私は殆ど同じ位置で描いていたが、他のメンバーは外川の漁港に行ったり、灯台見物したり、それぞれに楽しんでいました。夕食後にお互いの作品を見ながらの雑談会も楽しいものでした。朝4時に起き出して見に行った太平洋の水平線上の日の出も良かったです。作品は近日中にホームページ上にアップサイトします。

2010年4月28日(水)
発達障害

 犯罪者の性格の問題とかアインシュタインもそうだったらしいとかで、広汎性発達障害とか言う精神障害が新聞に出ていて、気になっている。対人関係を円滑に構築できないということらしいから、私もそうだったのではないかと考えるのである。
 ただし後天性というべきか。私は母親を失うまでは甘えん坊ではあったが結構活発におしゃべりもしていたようだし兄弟や近所の子供たちとも抵抗無く遊んでいたはずだ。それが8歳で母を失ってからのちだんだんと、他人との付き合いを苦痛に感じるようになって行ったと思う。
 異常に無口の少年と思われていたらしいのは、中学校の美術科教師が私の大学の一年上の先輩に「吉田はまだ黙っているか」と聞いたと言う話に象徴される。未だにそうだが私は他人に接した時によほどの用事要件がはっきりしているとき以外は、こちらから話しかけると言うことができ無い。話しかけたいと思っても何を言ったら良いのかさっぱり頭に浮かんでこないのである。日常的な挨拶や世間話的な会話が出来ないのである。今でも気軽になんと言うことない雑談や世間話にふけっている人たちを見るとうらやましく思う。そのために誰かに物事を頼んだり依頼したりすることも困難で、人脈を造ったりそれを辿って出世していくようなことは全く考えられないで来た。損な性分と言わねばなるまいし、自分から言い出せないということから自然、常に受身であると言う立場に立たされてきて、周囲に突き動かされるままに生きてきた部分が多い。
 
このような気詰まりな性格には常に悩まされてきたが、それから脱却しようとする意思も常に持ち合わせてきたと思う。例えば大学に入学した時におよそスポーツや集団生活に自信の無かった自分をヨット部に入部させたこともそうだし、大学卒業後親元を離れて上京し、それも選りに選って円滑な人間関係を最も必要とするはずの教師の職に自分を追い込んだのも、その意思のなせる業だったと言える。だから教師としての数十年間は絶えず苦痛を感じていた。その苦痛を乗り越えてきたお陰で今このトシになって、なんとか自分の意見をまとめて物言えるまでになっているし、最低限の挨拶や他人に対する心配りが出来るようになっていると思う。
 それでも未だにこちらから話しかけたり意見を言ったりするのは苦手で、よほど親しい人とでも二人だけになることを避ける傾向は残っている。当然孤独感に悩まされることが多いのだが、幸いにして良い配偶者を得たことで救われている。一方孤独を楽しむ傾向も強い。山歩きは常に単独行であるし、なんでも一人で解決しようとする傾向があって、人を頼んで仕事を手伝ってもらうなどは苦手である。。

2010年4月4日(日)
近況

 久しぶりに熱を出して寝込んでしまった。現役時代はよく熱を出して寝込んだものだが退職後はほとんどそのようなことがなかった。風邪っけにはしばしばなるのだが葛根湯を何回か服用すればおさまってしまって熱などこの15年間殆どでなかった。私は体が弱くて、胃腸障害に悩まされる一方、子供の頃から突然高熱と激しい頭痛に悩まされる経験はしばしばあったのだが、それは主に鼻の奥に炎症ができる副鼻腔炎であった。風邪が引き金になるようではあったが、強いストレスを受ける期間の後に襲われることが多かったと思う。今回のもそれに近かったから、昨年末からの汎美や日耀会にまつわるごたごたのストレスが表面化したものではないかと思っている。恒例の3月の汎美展ももうそろそろ私の体と神経には重荷になって来ている。それが終わって片付いて一息入れて絵も描き始めた所での発熱である。幸い8度3分くらいの発熱で終わり(もっとも私の平熱は今では6度2分くらいのもの)、頭痛も軽くて済んだ。寝こんだのは4日くらい。1週間くらいでほぼ平熱に戻ったがまだ疲れやすく本調子ではない。昨日のデッサン教室はくたびれがひどかった。
 ところでなかなか出て来なかった新美術館の通達が来て、4月15日に見直し会場使用権の抽選会が行われることになった。どうにも納得のいくことではないが、今更どうにも成らないから抽選は受ける。私と汎美の代表のO氏と二人で出席する。その結果次第での対応の協議が必要だと思うから何人か会場外で待機してもらうことになるだろう。落選の場合そのまま引き下がるのは癪であるから、会の顧問弁護士に相談せねばならないと思うが、裁判などは正直言ってしんどいなと思う。かりに選に入ったとしてもそれで良いということにしてしまうことも問題なのだが、体調が弱っているせいか闘争心が沸いてこない。15日の成り行きに任せるしかないのかなという気分である。
 ところで足踏みしていた春が来ている。花が咲いている。この数年間我が家の玄関前の桜を2階の窓から油で描いてきた。今年は天候がはっきりしないし日程的にも都合が悪くて、描けるかどうかあやふやである。だいたい、花そのものの咲き方がおかしい。昨年もそう思ったが、年々花がまばらになってきているようだ。50年を過ぎて寿命が近づいて樹勢が衰えてきているようだ。庭で大きく育ってしまった椿の羽衣の白はいつものように花を沢山付けはしたが、純白の花はほとんどなかった。みな茶色の虫食い穴のようなきずついていて美しくない。これもこの春の気象の変動の荒さによるものだろう。妙に寒い日が続いていて時々異様な陽気の日が来ていた。その他の花たちも咲き方がまちまちである。ソメイヨシノのが終わってから咲くはずの、水道道路沿いの山桜がもう満開に近い。そのくせ朝夕は妙な底寒さが続いている。春らしい春が失われてしまったような気がする。

2010年2月6日(土)
国立新美術館

 御無沙汰してました。この間、昨秋提示された国立新美術館の5年毎見直しの方針に振り回されていました。
 私の所属する汎美展は、3年前に会場を上野の東京都美術館から六本木に新設の国立新美術館に移しました。大きくて明るくて展示室も広くて喜んで2回の展覧会を行い、目下3回目の準備中です。
 昨秋11月末に開館5年めに当たる2013年度からの利用についての説明会があるというので仲間と一緒に出席したのですが、思いもかけない通達を受けて驚かされました。2室以上使用している団体はそのまま継続使用が認められるが、1室だけの使用団体はあらためて他の利用希望団体と共に抽選を受けなさいと言うものでした。なぜ一室使用団体だけを差別扱いするのかと聞きましたら、小さな団体なら他に会場を求めやすいだろうからだとの返事。なぜ大団体はそのままで良いのかの問いには、大団体に影響を及ぼすと混乱が大きくなるからということで、これは評議員会の決定だから従いなさいと言うものでした。
 驚いたし腹が立ったしで、書いて投稿した文章が朝日新聞に1月8日になって掲載されましたので、詳しくはそちらを見ていただければと思います。その後一室使用団体(22あります)のうち10団体が集まり連絡協議会を作って、2回に亙って館側と話し合いを持ち、大団体も含めての対応策なども出してみましたが館側の態度は変わらず、ただ都内の公立施設に会場を得ている団体の抽選への参加は認めないなどの、抽選倍率抑制策を引き出しただけでした。結局何度か集まって話し合いましたが
、連絡協議会に参加している殆どの団体が以前は都美術館の抽選団体(毎回抽選で会場を獲得する団体)であったことから、その妥協案を受け入れることになってしまいました。今さらそこを離れて一匹狼で騒いでも仕方ないという判断で、汎美もそれを受け入れざるを得ませんでした。
 今年度中には抽選を行うと言っています。選外になったらどうしようかと不安でなりません。汎美展は戦前からの歴史を持つ、都美術館での恒常的な利用団体でしたから、それが新美術館に移ったばかりに会場を失いかねない立場の落ち込んでしまったわけで、まるでわなに懸けられたようで悪夢を見ている感じがします。来週の10日にも又連絡協議会の会合があります。一昨日は、かつて30数年前に都美術館の会場使用権を巡って裁判に訴えた際にお世話になった弁護士さんの息子さんに会って、御意見を伺ってきましたが、いまのところこれと言った対応策は無い様でした。おかげでこの数ヶ月間はまことに気の重い日々でして、制作も思うようにいかず、2月の行動TOKYO展と3月の汎美展の出品作品にも困っています。

2009年11月30日(月)

 家内と5日間のツアーに参加して台湾に行って来た。天気には恵まれたし、台湾を一周する欲張りなツアーで、ガイドさんも一生懸命ホローしてくれたが、今一印象の弱い旅になってしまったのは残念だ。実は直前に汎美の命運に関わる美術館側のあまりにも一方的で乱暴な判断が下されて、その対応への苦慮が頭を離れず付きまとっていたのだ。もしかしたら汎美展そのものが3年後には消えてしまうかもしれないということで、もしそうなったらこれまで汎美のために費やしてきた苦労は何のためだったのかというなんともいえない苦い気分が、押さえ込んでも振り払っても頭から離れてくれなかったのだ。その上その他の雑用も意地悪くこの直前の期間に集中してきて、お陰で旅の途中から軽いがなんとも不安定な胃痛がはじまって未だに消えない。そんなわけで折角の旅行の印象が薄くなってしまった。もともとは家内との海外旅行の試行として手近なところからと思ったのであり、家内が喜んでくれればそれはそれで良いのだが、家内も途中で腹を壊したりして疲れてしまったようで、この先の海外旅行の可能性に不安を残す結果になってしまった。
 出発が遅かったので(15:30成田発)一日目は夕食は機内食だったから、台北の桃園空港からまっすぐ台中のホテルに向かっただけで終わり、2日目は台中市内の宝覚寺で巨大な金色の阿弥陀様
と日本人の遺骨の碑を見て、山に囲まれた湖水日月潭へ、湖畔にある玄奘寺と巨大な一対の狛犬があって色彩や装飾が絢爛豪華な文武廟を見てから台南に向かうが、途中で飲茶の昼食。天気が良かったから湖水が青々としてきれいだったし文武廟の瓦のオレンジ色が良く映えていた。小さな商店が雑然と軒を並べた台南の町並みが面白いと思ったが、ここではオランダ統治期に建てられ鄭成功によって建て直された赤かん楼を見学。次いで高雄に向かう。バスで走る道すがら細い幹をまっすぐ伸ばすビンロー椰子行儀よく並んで独特の景観を作っていた。高雄に着いたのは夕刻。まず蓮池潭で7重の塔が二つ並んで、それぞれに張りぼてみたいな竜と虎の出入口を持つ竜虎塔を見て、寿山公園に登り忠烈祠を見る。市内が展望できたが霞が強かった。丁度西の丘の上に夕日が沈む所だった。民芸品店で特産のカラスミなどのみやげ物を買い、夕食は海鮮料理とあったが、泊まるホテルとは別のホテルのレストラン。同じツアーグループの一人と紹興酒一本を別けて飲んだ。食後市内の夜市を散策、釈迦頭という果物を買ってみたが、熟していて崩れて果汁を出し翌日慌ててバス内で食べたが、あふれた果汁の始末に困った。
 三日目は高雄から南に墾丁海岸沿いに走り、最南端のガランピ岬へ。公園入り口から灯台まで草地のココ椰子の間の道を歩いたが強烈な日差しで暑かった。景観は期待したほどではなかった。バスは暫く来た道を戻って山越えの道に入る。峠の辺りは曲折が多くゆっくり走る。東海岸に出てしばらく北に走り台東の辺りで昼食。ここからひたすら海岸沿いに走る。長い。三仙台で海岸に出てみるが、岸から八段の太鼓橋でつながった島があるだけで、それほどの景勝地とは思えない。数年前の地震と最近の台風の影響で道路が崩れたところがあったり、川があふれて民家が壊されたりした跡がああちこちにあった。河口近くの海岸には流木の山。
 一般に東海岸は開発が遅れていてひなびた感じが強い。左に海岸山脈が延々と見えているがだんだん雲が低くなる。北回帰線の位置にある塔に寄った時はまだ晴れていたがもう日没後。暗い道を走っているうちに雨が降り出す。7時過ぎに花蓮のホテルについてすぐ夕食。私はこの日の午後辺りからなんとなく体中にしびれるような感じがあり、熱でもあるかと心配になる。葉子はこの夜中に嘔吐。
 4日目はまず大理石工場の見学。巨大な大理石の角石や建築用の薄板が山済みされた中で、カッターで薄板を作る実演。この辺りの山が殆ど大理石だとのことで、その中にはメノウやヒスイも含まれるとのこと。タロコ渓谷は今回の旅で一番の見ものだった。幸い好天。渓谷の奥で車を降り暫く歩く。両岸切り立った絶壁で壁や底に多様な姿の白くて独特の模様を持つ大理石、青緑の流水と木々の緑とマッチして千変万化、見飽きない。見上げ見下ろす岩壁の高さに驚く。この間バスに高砂族の女性が乗り込んでいて歌を歌ったりして愛嬌を振りまいていたが、結局細かいアクセサリーの類を売る。なかなかの美人であったが、既に子供も二人とか。花蓮に一旦戻り、駅で特急列車に乗り込み一路台北へ。台北ではまず故宮博物院の見学。ガイドが人気の高い巧妙な超絶技巧をこらした工芸品を主に案内してくれたが、それで殆んど時間が費やされ、あとは僅かに陶磁器の一部を見ただけ。民芸品店でショッピング。夕食は台湾料理と言うことであったが、葉子は見るだけでもむかつくとかで、別室でショッピングの際に近くのコンビニで買ってきたおにぎりなどをたべた。泊まったホテルがグランドホテルで宋美麗が106歳まで生きてオーナーを務めたというところ。馬鹿でかくてそれが全体中国式の宮殿様式をかたどっている。部屋もざっと24畳を超えると思われる広さ。高台にあって窓を開けベランダに出れば台北市内が見渡せる。
 最後の日はまず免税店でショッピングののち、だだっ広い敷地に建つ馬鹿でかい中正(ショウカイセキ)祈念堂を見学。そして一路空港へ。帰りのフライトは行きよりも1時間も短い。偏西風に乗るせいだろう。12時45分の出発で成田には4時頃着陸した。リムジンバスの立川行きで終点の玉川上水駅まで来て、西武線で8時頃帰宅した。

2009年11月11日(水)
性犯罪

 イギリス人の女性に対する猟奇的な殺人事件の容疑者が2年余の逃走の末逮捕されて、マスコミは騒がしい。被害者と加害者の両親が登場してきたりすると、もし私が同じ立場に立たされたらとの思いでやりきれなくなる。
 とにかく事件が解決に近づいたことは結構なことだ、と思いながら私に心境は何か複雑な部分が残る。今回に限らず、性犯罪に対しては私の中で加害者へのある種の同情が動くのである。性的欲求、なかでも青年期におけるその激しさを経験している者なら、それは誰もが感じることではないのだろうかと思うのだが、あるいは私が特異な少数者の一人だったと言うことなのだろうか。私がごくごく小心で、特に女性に対して強い警戒心なしには付き合えない性格の者だからだったのかもしれないと。
 私は末っ子で母親に甘やかされて育った。その母親が8歳のときに世を去って、取り残された私は強い母性への希求を持ち続けることになり、その強さが逆に働いて女性をして忌避すべき恐怖や不安の対象にしてしまったのだろうと思っている。成長するに伴い性欲と母性への憧れが絡み合って内攻し、私の性的欲求を強めもしまたゆがめたのかもしれない。もしも、今のような性情報があふれ、ミニスカートや臍だしルックなどが当たり前の時代に私が青春期を迎えていたら、私も性犯罪に走ったかもしれないなとの思いがある。
 幸い私はある段階で良縁に恵まれて救われたが、この情報過多で確固とした規範の無い時代に青春期を過ごす内気な男の子たちについては、あやふやな綱渡りの不安を感じざるを得ない。何か打ち込めることのあるものはまだ良いかも知れぬとは思うが、そう言えば今回の容疑者の青年はなかなかうまく似顔絵が描けたらしい。そのような才能を伸ばす良い指導者に出会えてでもいれば、あんなことにはならなかったのではないかなどとも考える。
 性犯罪に限らず、このところ次々とマスコミを騒がせる異常な犯罪行動の多くについても、ただ他人事と見て興味本位に騒ぐ気にはなれない。
わが身の中にも悪魔は棲んでいて、ことあるごとに表に出たがっていることを忘れるべきではないとの実感がある。トシのせいかつまらぬことに腹が立って、無駄なことばかばかしいことと考えてみてもそれがなかなか消えなくて、更には何らかの解決えの行動を求めてきて処理に困ることがしばしばあったりして、それらを押さえ込むには、想像力や判断力に基づいた強い理性の力を維持しなければならないなと思う。

2009年11月3日(火)
汎美 自然に親しむ会

 妙義山でのスケッチはこれで5回目くらいですが、描くにはまことに良いところです。そそり立つ岩峰群に映える紅葉、黄葉、適度に杉などの緑が混じって変化に富んだ景観を作っています。
 初日の31日は昼に宿舎の国民宿舎に着いて、午後は妙義湖のほとりで三々五々スケッチ。はじめ対岸を明るく輝かしていた陽光は残念ながら間もなく薄れてしまいましたが、静かな湖畔の岩と木々と水の調和を堪能しました。参加者は11人。男5人と女6人。夕食は一杯機嫌もあって雑談賑やか、その後は一室に集まってお互いの作品を見せ合い語り合い、楽しく過ごして、9時前には早々に就寝。
 翌日は快晴。私は日の出の頃に起き出して朝食の時間まで、宿舎近くの沢から突き上げる岩峰の一つをスケッチ。午前中は皆でMさんとTさんの車に分乗して表妙義側に回り、ふるさと美術館の前庭が展望台になっているので、そこで2時間ほどスケッチ。眼前西側に午前の陽光を全身に浴びて白雲山と相馬山の岩峰が高々と聳え立ち、左手に尾根筋を辿ればぎざぎざの王冠のような金銅山があり、更にその続きで目を左(つまり南)に転じれば巨大な鯨のような金鶏山の岸壁が立ちはだかる絶好のロケーションで、広い前庭は目下コスモスの花盛り。折角来たのだからと、それこそ岩の殿堂と言うべき巨岩が林立する金銅山直下の中岳駐車場に回って見物、私はちょっとの間の短時間にボールペンののスケッチ一枚。引き返して妙義神社下の道の駅でそばの昼食。一旦宿に引き返し一泊組みとお別れのセレモニーもあって、2泊組みは昨日描いた続きを描きに湖畔へ。私もついて行ったが、曇って来ていて淋しい雰囲気に、宿近くに戻って今朝の描きかけのスケッチを続けようと準備をして、描き始めたとたんに手の甲がひやりとしたなと思ったら、大粒の雨が降り出して慌てて片付けた。後は宿に戻って入浴などで過ごした。
 予報は雨の三日目朝。起きてみれば雨は止んでいてちらほら青空も見えるから、又昨朝の続きを描きに出かける。朝食後は宿の車を頼んで前日のふるさと美術館前庭に行けば、一とき陽光が漏れて岩峰群を照らし、前日よりいくらか赤味を増したかと思われる紅葉を照らし、早速支度をして今度は金鶏山を淡彩でスケッチ。他の女性連もMさんの車で来て前日の続きの油絵を描いたりしていたがすっかり曇ってしまい気温も下がり、岩峰の頂上付近も雲の中に入るようになって、私は美術館に入って展望台など見物。昼前には小雨も降りだして、早々に昨日と同じ道の駅で昼食。食べ終わって車で帰る皆さんと別れてタクシーで松井田駅に出た。
 例年なら油絵を2枚描いていたのですが、今回は前前日の29日にぎっくり腰を患い、一旦はやめようかと言う状態を、企画者でありリーダー役でもある立場もあって、なんとか歩けるのだからとスケッチブックに水彩に切り替えての参加でした。行ってみれば実の楽しく充実した三日間でした。

2009年10月23日(金)
秋ですね

 一昨日奥多摩の山を歩いていたら、稜線では結構色付いた紅葉黄葉が道すがら点点と明るい日差しに輝いていました。しばらくこの日記ともご無沙汰してましたら、そのうちに季節が変わっていましたね。9月から10月は展覧会続きで忙しいのですよ。行動展、汎美秋季展、それに今やっている写真展まであって、息つく暇もない。お陰でこの間絵を描くことも絶えていた。絵を描くと頭がぼんやりなってしまって付き合いもギクシャクしてしまうから、他人に会う日には描けないのです。
 やっと一段落してそろそろ描き始めねばと思うのだが、長い中断のせいかなかなかエンジンがかからない。しばらくキャンバスとのにらめっこが続いていて、昨日はちょっと無理して絵筆を取ってみたが、やはり気が乗らない。無理に絵の具をぬたくっているようでつまらなかった。スランプというべきか、もしかしてもう私には絵が描けないということではないのか。いろいろな面で老化が進んできているという実感があって、不安になる。
 例えば私はどうやら嗅覚を失ってしまったらしい。左目の緑内障に耳鳴りと一部音域の難聴などもあるから、いわゆる五感のうち無傷なのは味覚と触覚だけと言うことになる。昨年の秋に、金木犀の花の香りが感じられないのに気が付いたのが始まりだ。それだけでなく、一定の変なにおいが鼻にまとわりついてはなれない日があったりする。嗅覚異常は老化によっても起こるが、高熱や外傷や脳腫瘍などによっても起こるとか。どれも覚えのないことだが一度病院で検査したもらわねばならないかな。物忘れやボケミスもますます増えてきていて、しばしば自分のやってることにうんざりする。、昨夜は、昨秋旅先で買って来て愛用していた萩焼きの湯飲みを、ちょっとしたはずみで割ってしまった。
 ところで、鳩山民主党政権は今のところ一生懸命これまでの自民政治との違いを際立たせようとして頑張っているようで、その点では好感が持てる.。首相の書生っぽさが今のところ良い面に出ているように見える。長年培われた
旧来の体制を覆さねばならないから、あちこちでひずみや矛盾が出てきているが、これをどう乗り切るかで評価が分かれることになる。今のところはマニフェストを金科玉条としてそれを押し通そうとしているが、どこまで実現できるだろうか。財源問題が鍵になるかと思うが、とにかく今までは当たり前になっていたような矛盾点にも、打開の可能性を感じさせている点は気分的に先行きの明るさを感じさせて、評価できる。官僚と財界とのしがらみと壁を少しでも破れればと思うし、沖縄の基地問題とか給油活動とか、これまでべったりだったアメリカにもきちんと物言えるようになれればよいのだが。
 CO2、25%減の宣言は立派だが、実現できるだろうか。本当はこれでも地球温暖化を食い止めることは出来ないのだが、財界の言う「7%も難しい」などよりはずっとましだ.。もっともそれでは我が家で25%のエネルギー削減ができるかと言うことになると、なかなか難問。我が家はもともと車を持っていないし、電気やガスや水道もできるだけ無駄使いしないように心がけているから、さらなる4分の一の省エネはどうすればよいのだろうか。

2009年8月27日(木)
選挙

 今日の朝日新聞では民主圧勝の予想と出ていたが、どうもあの党には好感が持てない。顔も声も書生っぽい鳩山や、策士で陰の実力者といわれていたりしてなんとなくインチキくさい小沢が好きになれないとうこともあるが、大連立なんて戦前の翼賛体制を思いださせるようなことになる危険性も残っているし憲法問題では旧社会党系もいるにはいるが改正派が多数を占めるといわれるし、都立高校の卒業式に来て君が代の際に大声で起立を呼びかけたりする都会議員があの党の党員だということなどなど。もともと右も左も抱え込んだ寄り合い所帯で、党内の足並みをそろえることも難しいのではないかと思われるうえに、政治経験の少ない新人議員が増えるだろうし、そんな党が単独過半数をとって参院も含めて独走が許されるようになることが良いことなのかどうか。もっと2大政党が競り合うような状態の方が健全なのではないか。
 実は私はこのところ選挙では共産党に投票することが多い。憲法や平和問題、環境問題、教育問題、対米姿勢などの政策に共鳴する部分が多いこともあるが、財界と完全に切れていて政党助成費も受け入れてないという清廉潔白さを評価してのことだ。この政党に対する拒否反応のような風潮に対する反撥もある。この党や社民党辺りが2大政党の競り合いの間で、その去就次第で政治が動くような状態になるのが最も良い状況なのではないかと思う。
 社会主義や共産主義の、スターリニズムの失敗のために受けたダメージから強い拒否反応を生み出したことは理解できるが、資本主義も末期症状に瀕していると言われている今、生き残る道は社会主義的な政策を大きく取り入れる以外には無いだろうと思う。その意味で、もう少しこれらの性格のわかりやすい小政党に力を持たせた方が良いのではないかと思うのだ。
 断っておくが残り少ない余生を、私はどこまでも自由人として生きたいと願っており、イデオロギーや既成宗教のようなものに縛られることはないように心掛けている者である。共産党へのてこ入れもその範囲で考えていることである。

2009年8月17日(月)
問題児

 教員であった間、いろいろな形の問題児に悩まされて、それに対する対応に苦慮して眠れぬ夜をしばしば経験したものだが、このトシになってまた問題児に出合ったようである。
 私は週一回、近くの公園のゴミ拾いをしている。雑木林の姿をそのままに残した小さな公園で、緑濃い良い場所なのだが、ゴミを捨てるにはもってこいの場所であるにちがいないと考えてのことである。案の定毎週かなりの量の収穫を得ている。その公園の中ごろのベンチの裏のヤブに、週に何本かの同じ赤いジュースの空き缶が捨てられる。犯人は分っていたが現行犯ではないので黙って見過ごしてきていた。年頃は我々とほぼ同じくらいの爺さんである。この公園に朝に来て運動をしているらしい。終わっての一休みで、好きなじジュースを飲んでポイと後ろに放り投げるのが習慣化しているらしい。
 先の金曜日の朝ゴミ拾いをしていた私は、たまたま彼がジュースを飲んでいる所に出合った。ついはらたちまぎれに声高に「空き缶は持ち帰ってくださいね、投げ捨てられるのは迷惑だ。」と言い、散らばっている缶を彼の脇に置き「持って帰れないなら、ちょっと行ったところにあるゴミの集積所まで持って行ってください」と言った。その後しばらくその場を離れて戻ってみると彼は居なくなっており、、まあ予想通りではあったのだが、赤い空き缶はまたもとの草の中に投げ捨てられてあった。その缶はまとめて集積所の運んでおいたが、翌土曜の夕方たまたま通った脇の道から、新たな缶が転がっているのが見えた。私に対する面当てかと思い嫌な気分になってしまった。
 いい年をしてしようのない爺さんだと思いつつ、さて困ったな今後この缶とその爺さんに対する対応をどうしたものか、考えると頭の痛いことではある。これまで出合ったことは何回もあり、口を利いたことも2回目になるが、およそ無愛想無表情なじい様だ。もっとソフトに言えばよかったのかなとも思ったりもするが、それでも良い効果は得られなかっただろうなと思う。もともと私は口が重く口下手なのだ。それに、困るのは私自身が忍耐力や柔軟さなどの、問題児指導に必要な精神力を既に失っているらしいということだ。今でも絶えず頭がこの問題に向いてしまい、腹が立っていらいらとした気分に落ち込んでしまうばかりなのだ。

2009年8月10日(月)
6年ぶりの金峰山

 7日(金)と8日(土)久しぶりに奥秩父の金峰山(標高2599m)に行って来た。予報が悪かったから覚悟して出たが、山頂近くの小屋にたどり着く直前に降られてあせらされただけで、八ヶ岳に沈む日没も見れたし、朝日に輝く五丈岩も見れた。
 気になったのは登りも下りも思ったよりきつく感じたこと。2千メートルを超える辺りからしばしば出る高山病の気配が今回もあったようで、登りの終わりごろにはは2〜30歩も歩くと息が切れるようになっていたし、降りの中ごろからは思うように足が動かなくなってきた。もっとも二日目は時間の余裕があったしお天気が良かったから、のんびり歩けて良かったとも言えるのだが。帰ってきてからの足腰の痛み様も、昨夏の表銀座の後よりもひどい。過去3回の記憶から、比較的楽に行けそうと思った山だったのだが。天候不順で7月にどこにも登れなかったのが、トレーニング不足として響いていたようだ。
 6年前の記憶で、小屋に水がなくて困ったことがあったため多めに用意して行ったが、今回は麦茶が自由に飲めたし、小屋のサービスが格段によくなっていた。宿泊者が20人くらいと言うことでゆとりがあったので良かったと言うこともあるが、物干しロープが用意されていてハンガーの貸し出しがあって、汗と雨でぬれた衣服は全て着替えて翌朝までに乾かすことが出来たし、夕食がナイフとフォークの洋食で肉がたっぷりついた上に、8人テーブルに一本のワインがついていたりした。小屋番のお兄さんが気さくに何くれと面倒を見てくれるのも気持ちよかった。6年前のときは小屋番は若い女性だったのだが、彼女が結婚し、目下妊娠中で旦那さんに任せて里帰りしていると聞いている。真っ黒で大きなレトリバーがいたが、誰に撫でられてもおとなしくしていた。同じバスで来た60台のおじさんとしばしば顔をあわせ山の経験など交換し、くだりの道も同じ方向だったのでしばしば出会い、声を掛け合った。
 印象に残った風景はまず、夕食中に気付いた小屋番に促されて外に出て見た夕景がある。つい先ほどまで覆っていた濃い霧がすっかりはれて、澄んだ空気を通して八ヶ岳をはじめとする南アルプスから中央や北のアルプス、浅間山辺りまでの山並みが縁を朱に染めた暗い雲の下に濃いシルエットで並んでいた。
 夜中に起きたときは霧に包まれていたが、4時少し前に起きだしたときはすっかり晴れていた。5時少し前に頂上に立ったときには薄い霧が流れていて、五丈岩が青白く神秘的に見えていた。地平線上の雲のために日出は遅れたが、陽光が射してくるとたちまち霧は退散し、雲海上の富士を左に、北岳や甲斐駒を右に配した五丈岩が、黄みを帯びた日差しを受けて青い背景の前に大きく立ちはだかるようにあった。頂上から下る稜線を見下ろせば、幾つかの岩峰を朝日にきらめかせながら続き、明るい緑と濃い青の陰影の中に瑞垣山の岩峰群が際立っていた。
 6時半頃に小屋を出たときも高曇りで視界はよかった。道は稜線に出ると幾つかの岩峰に伴うアップダウンを繰り返しながら眼下にひときわ目立つ大日岩を目指して下っていく。右の信州側が緑に覆われた緩やかな斜面なのに対して左の甲州側は切り立った断崖で、そのへりにのこの刃のように岩の塔を並べている。その塔の隙間から見る富士の端麗な姿が良い。急な岩の下りが続いて何度か行き悩む。
 砂払いから樹林に潜り更に下っていくが、先ほどまで眼下に間近に見えていたのに、大日岩にはなかなかたどり着かない。巨大なその岩ノ下を回って更に少し下ると、懐かしい思い出のある大日小屋を左下に見る。30年近くの以前、高校生と中学生の息子と家内を連れてここまで登って来てみたら、小屋番は既に山を下っており、当てにしていた食事が出ないことを知り、慌てて単身往路を戻って登山口の土産物屋でほうとうを買い紙コップにしょうゆをもらって、また小屋まで戻った記憶。小屋の上でキャンプをしていた人たちが米を少し別けてくれたこともあって、小屋に置かれていた鉄なべで煮てなんとか夜を過ごし、翌日霧の山頂を踏むことができたのだった。このあと富士見小屋までの道は結構急坂が続き、よくこんな道を半ば駆け足で往復できたものだなと思った。若かったからできたことだ。
 富士見小屋前後の道はカンバやブナの森で明るく気持ちが良く、好きな所だ。予定していたバスまで時間があったからゆっくり下ったが、登山口には予定のとは違うバスの時間表があり、そのバスにも十分間に合うことが分かって、元の売店変じてのしゃれたレストランでそばを食べてバスに乗った。韮崎まで直通のバスで一気に下り、空はよく晴れていたが振り返る山上には入道雲が湧いていた。土曜とあって下山中多くの登山者に出合ったのだが、雷雨などに出会っていなければ良いがと心配になった。

2009年7月20日(月)

 北海道に行ってきた。13日(月)からのJTBの格安ツアーで、泊まりは層雲峡温泉と阿寒湖温泉と札幌郊外の定山渓温泉の3泊。広い北海道、新千歳空港が出入り口で、これだけグルッと回って4日間でバスは1400km以上を走ったから、乗っている時間が長くて休憩や見物の時間は限られていたという印象のツアー。ただしバスの車窓の風景が本州の関東辺りとは違う広大さや自然の豊かさと厳しさを思わせていて、それが一番の収穫だったとは言える。おかげで私のイメージの世界が広々と広がった気がして、制作にも大いに影響が出そうである。
 一日目羽田の出発が午後1時だったから、層雲峡に着いたのはもう夕暮れで曇天の薄暮の中、渓谷の岸壁や滝を見てから7時頃に宿に入った。2日目はバスで走り出すと間もなく晴れてきて路傍の緑がまことに鮮やかだった。しばらく樹林の山を抜けて行くうちには、ちらっと残雪の光る東大雪の稜線も見えて、谷筋の平地に出てみればここでは黄金色の麦畑やとうもろこしや花咲く馬鈴薯の畑がひろがり、牧場もありサイロも見えていた。
 網走では刑務所の壁は車窓に見て海岸で休憩、又少し走って小清水原生花園。小雨の中だったがハマナスの赤、オレンジ色のスカシユリ、黄色のキスゲなどなどの花盛りを楽しめた。広い原野には放し飼いの馬の群も見えた。どんより曇った空の下、オホーツク海を車窓に見て走り、オシンコシンの滝やウトロ港は一旦通り過ぎて知床に入り岸壁上の道を辿って知床5湖。このみちすがら鹿の姿をしばしば見る。1湖から2湖へと30分くらいの軽いハイキング、幸い雨は止んでいたが羅臼岳などの山並みは望むべきも無かった。
 それまで欠航を続けていた観光船が出ることになってウトロ港に戻り、オーロラ丸に乗船。ただし予定の90分コースの途中で戻る45分コース。右に洞穴や滝などなどさまざまに姿を変える岸壁、左には果ても無いオホーツク海を見ながら船が進むうちに青空も見えてきた。
オシンコシンの滝で集合の写真を撮られたが高いから買わず、釧網本線の鉄路沿いに屈斜路湖と摩周岳の間を抜け硫黄山の噴気なども車窓に見てバスは進み、阿寒湖温泉に夕方6時半に着いた。
 ここの夜は松明行進とアイヌコタンの古典舞踊の見学。8時に集合と言うことで若い衆の案内で集合所まで行くと400人くらい集まっており、アイヌの衣装をまとった人の挨拶と合図で松明が一本ずつ配られ点火し、それをささげて長い隊列になってアイヌコタンまで歩く。ここでもちょっとした儀式があって松明を返し、大きな木造わらぶきの小屋の中に入って古典舞踊を見た。約30分間短い踊りが幾つか続く。素朴なものだがユーモラスな表現や厳粛な気分のものもあり楽しめた。
 3日目は朝は雨降りで4時半頃から起きて準備していたが、ドロ火山のボッケを見る散策は中止。雄阿寒岳も雌阿寒岳も裾野しか見えない。7時半に出て小湖オンネトーに寄ったが小雨の中。暫く走って足寄の休憩所でちょっと買い物をし、狩勝峠へ向かう。峠は濃い霧の中だったが下ればすぐ霧は薄れる。山間の道から富良野の平野に下る。ファーム富田に着いたころは雨も止んで、十勝連峰が頂上辺りは雲の中だが山容はくっきり見えた。ラベンダーをはじめとする色取りどりの花畑が斜面に広がっており、麓の小広い平地とその向こうに居並ぶ十勝連山が独特の景観を造っている。次いで美瑛の四季彩の丘とか言う花園にも寄ったがここは小雨の中。美瑛では3年前に見たパッチワークの丘なども見たいと思っていたが、バスは谷沿いに走って丘の上の景色は見れなかった。
 旭川に出て郊外の旭山動物園に着いたのは3時頃。4時半まで園内見物。ウータンの木登りと綱渡りやクルクル動くレッサーパンダのかわいらしさ、狼や豹や虎やライオン、ぐったり寝そべった白熊にガラスの円筒の中を潜り抜けて泳ぐアザラシなどなど。ここのトイレでうっかり傘を置き忘れてしまったが、幸いこの後は必要にならなかった。旭川北で高速に乗り、札幌郊外の定山渓温泉に着いたのは午後7時40分ころ。腰掛けっぱなしでは、いい加減腰が痛くなる。
 最終日は札幌路の中央卸売り市場の場外販売店に寄り、一部の人を大通り公園で下ろしてオプショナルの小樽見物に回る。ここも3年前にきているが時間が短かったので結局前見たところをもう一度見る形になり、運河で二人で短時間のスケッチの後はガラス工芸の店で見物と買い物。12時半にはバスに乗って新千歳空港へ。この頃この辺りは晴れて日差しがあったのだが、トムラウシや美瑛岳では猛烈な風のなかでの急激な体温の降下で、10人が疲労凍死に向かっていたことになる。
 ツアーグループ中の最高齢ということで添乗員が気を使ってくれたのか、帰りのANA機の座席は窓際で天候も良かったから下界が良く見れて、家内は大喜び。羽田からはリムジンバスで所沢へ。自宅帰着は午後7時頃。
 運転免許を持たない身にはバスツアーが一番安直なのでしばしば利用しているが、二人で9万前後でこれだけの旅が出来たのだから、文句は言えない。天候も予報ほどには悪くはなく、傘をさして見た場所は意外に少なくて済んだし、青空や陽光に彩られた場所も結構あった。小麦畑の黄金色が特に印象に残るが緩やかな起伏の広い畑の中、あるいは新鮮な緑の山間の道など、バスの車窓の景色も捨てたものではない。いつも我々の前か後ろの座席にいた二人組みのばあさん、と言っても我々よりは年下だが、これが窓外の景色にも目をくれずのべつしゃべっていて、バスガイドのマイクの声に負けまいとするから、うるさくて参ったぐらいが難点だが、これも終わってみればユーモラスな点景に見える。休憩所などでは必ずソフトクリームなど、何かを買ってきて食べていた。一方はでっぷりと太ったばあさんだった。いやはや。

2009年7月9日(木)
想像力

 素直とは!素直と名付けられた子供が、素直でいられるわけが無いじゃないか。こんなのは自分に対して素直であって欲しいという、親のエゴだけが表れた命名法ではないのかなと思う。子供の身になって考えるという想像力が、この親には欠けていたのではないかと思う。親父を殺した13歳の次男も父親にしばしば殴られていたらしい。ここでも、殴れば親の気は済むかもしれないが、子供の気は済まないだろうという簡単な想像力の問題が、わかっていなかった。本来子供は親にとっては専ら想像力の対象であろう。的確な表現のできない子供の気持ちは、親の愛情と想像力によってしか、理解できないはずだ。それなのに、ささいなことでがみがみ子供をしかりつけている親をしばしば見かける。
 今想像力の貧困が、多くの問題を生み出しているのではないかと考える。誰でも良いから殺したくなったとか、人を殺せば自分も殺してもらえるとか、あるいは収監されれば食うに困らなくなるとか、ちょっと気分がまぎれるとか。全く自分の都合ばかりにしか頭が回らず、殺される側の人の気持ちやその周囲の人たちの気持ちへの想像力が全く働いていない。想像力を育てる教育やて手だてを工夫していかないと、今という時代の病弊は救われそうに無いと思う。
 四川省の暴動の成り行きにも同様の病弊が見て取れる。世界中の紛争の多くに見られる原因である、民族対立と宗教対立。生活習慣や容貌や宗教のちがいから人を弁別し、相手を蔑視することで自分を優位に立てようとする低劣な心理。第2次大戦以前においては我々多くの日本人にも朝鮮の人たちや中国人に対して持っていた意識。それがこの国の人々を植民地支配や日中の泥沼戦争へと駆り立てた。今でも表向きは抑えられてはいても、内実はどうなのかあやふやなのだが。
 人間は威張ってみたいものなのだ。自分より低い位置に他を貶めることを喜ぶものなのだ。同じ人間じゃないか。同じように家族を持ち愛したり愛されたり、悲しみも喜びもある人間じゃないかというごく簡単な想像力の発現が見えない人々、によって民族間や宗教間の紛争がおきる。多くの人が殺されたり傷つけられたりし、その恨みがますますその対立の根を深いものにしていく。
 愛という言葉は漠然としていて、しかも性愛と絡み合っている。それよりわずかばかりの思いやりとか想像力とかが大切なのではないかと誰かさんも言っていた。それも口先だけのものではなく広く具体的なイメージを伴った想像力を育成することが望ましい。美術教育にはそのような面で寄与できる部分が大いにあると思う。

2009年5月23日(土)
近況

 昨日また思いがけない人の訃報を聞いた。なんてことだ。3月から今までに、仙台に居た長兄をはじめとして汎美の仲間二人や隣家のご主人と今回のカメラ仲間まで、5人の身近な人の死があった。この外にもつい二日前には家内の友人の孤独死が発見されている。鎌倉の姉の主人のお兄さんも3月のはじめに亡くなられている。温暖化の影響と思われる振幅の激しい気象の変化、季節の急激な変動のせいかなと言うにしても、あまりに多い。明日はわが身かとの思いも付きまとい、トキに無常感に襲われる。かくてはならじとの思いもあって、絵を描き、山に登ったりしている。死に照らされた自分の生のあやふやさに、少しでも抗いたいと思うのか。
 今描いているのは秋の出品作の200号。今のところ、少しどぎついまでの赤系統の色彩が上半を占めていて、大きな有機的な動きの構図だから、生命への執着の表現なのかなと思いながら描き続けている。ただし死を赤で表現した画家は結構多いのであってみれば、やはりこれは死に照らされた生の姿なのかもしれない。まだまだ制作の途中なので、これからどのように変化るかも知れないのだが。
 昨日は奥武蔵の方の山に登ってきた。雑木林の緑が鮮やかで、歩きながらふと見る足元の雑草の形にも、人間の手では作りえない精妙な造形の美を見出したりしながら歩いてきた。山頂の一群の満開のつつじの周辺には青い筋の入った黒いアゲハ蝶がいくつも旋回していて、これもまたなんともいえぬ美の世界であった。ただし登りの道には険しさはなかったものの長くて結構くたびれたし、降りも緩やかでは合ったが長い道のりで、下りついてから駅までの道も長かった。
 こうして毎月一回は山歩きをしているのだが、何が面白くてこんなこと繰り返しているのかとも思うのだ。今回は天候も良く風も程よく吹いて暑からず寒からずだったから気楽だったが、ときには寒さや暑さに閉口したり、険しい道に辟易したりしたこともしばしばだし、なんといっても一歩一歩重い足を延々と上方に向かって進める苦労は並大抵のことではない。もちろん時には素晴らしい視界が開けたりして感動の一瞬を経験することもあるが、そんなことはまれであり、せいぜい道すがらの風物や日光が演出する小さな喜びを味わうなどのご褒美を得るくらいなものである。それでもなお月一回を目標にして出かけるには、なにかわが身に鞭打つの気持ちが働くかららしい。老化への抵抗もあるだろうが、安易な日常から脱してストレスに身をさらしたいと言う気持ちもあるようだ。山道を歩くときにはたいていそこばくの不安が付きまとうものだ。先の道の成り行きや天候の変化などがわからないからだが、急な下り坂などでは高所恐怖症らしきものも顔を出したりして強い緊張感を強いられるから山歩きにはストレスはつき物なのだ。いまや足腰が硬くなってきていてギクシャクしている実感があるから尚のことだ。山歩きはけっして家内も言うような、楽しみだけの行事ではないのだと思う。

2009年4月20日(月)
また腹が立ってきた

 一昨日(土)近くの集会所で市長の出るタウンミーティングがあったので、出席してみた。7月に改定になる公民館の使用料の問題で、疑義があったからだ。
 我らが住む東村山市では3年ほど前から公民館が全面的に有料になっている。これは全国的に見ても珍しいのではないか。公民館の機能を十全に働かすためには市民に対しては無料で利用できるようにするのが普通である。これを有料にすればサークル活動などは一々会費を集金し会計を明確にせねばならなくなり、それだけでサークル活動は大きな制約を受けることになる。国の社会教育法のなかの公民館の条項には明文化はされてないが、どこの自治体でも、社会教育団体として登録しさえすれば使用料は免除するなどの形でで、実質市民は無料で利用できるようになっている。
 私は有料化が決まったときには突然の発表を受けて驚き、その説明会にも出、市長へのメールなどにも投稿してその非を申し上げた。直接的には私の参加している、二つの公民館利用サークルに大きな負荷がかかると感じたからだが、一般的に市民の文化活動が制約を受け萎縮するとも考えたからだった。しかし市側からは既に議会の審議を経たこととして、我々の抗議には一顧も与えられなかった。
 私はむしょうに腹が立ち市長へのメールで数回にわたって当り散らしたりしたが納まらず、ストレスが内攻して体調もおかしくなり、作品にも影響がでた。その後公民館の利用者連絡会などが対市交渉をしていたらしいが、私はあのときのストレスに嫌気がさしていて参加せずに来た。交渉の結果が実ったのかして、7月からの利用料金の大幅減額が決まったと言う話。
 ところが中身を開いてみて驚いた。肝心の我々が利用している萩山公民館だけがなぜか殆ど減額されていないのだ。他の施設では40%も減額されているものも含めて平均30%近く減額されているのに、我々の日燿会や火曜会が利用している萩山公民館の第4集会室は5%に達しない減額率で、5つの公民館の集会室の中でも最高の額になっている。そこでまた早速その理由を市長へのメールで質問したが返事が来ずにいて、一昨日のミーティングへの出席となったわけ。
 はじめて出た会で勝手が分らず発言の機会を失したと思っていた矢先に、他の発言がこれに関してあったので、それに対する市長の説明に納得できないとして発言をさせてもらった。
 市長の説明では前回の利用料はそれぞれの公民館の背負っている負荷額から算定したため、新しいほど高くなっており中央とか萩山などの古いところは安くなっていた。今回のは部屋の広さを基準に光熱などの費用なども含めて計算したので、逆に古い中央と萩山が高くなり一部は現行より高額になったため全体を一律30%減額して現行以下に抑えたのだという。
 私は中央公民館のもっと広い部屋よりも減額率が小さいなど具体的な例も挙げて到底納得いかないと話し、更に他の自治体ではどこでもやっていない、この周辺をみても公民館は無料が常識で、社会教育法の精神にも反しているのだから、このよな矛盾を生み出す有料化そのものを白紙に戻すべきだと話した。市がその理由としてあげている受益者負担の原理からして、無料であることで市民全体が受益者になっているべきものだから、たまたま現在利用しているものだけを受益者とする論理は成り立たないとも言った。しかし市長の回答は変わらず、受益者負担についての議論は見解の相違として片付けられた。

2009年4月6日(月)
二題

 私は必ずしも抽象絵画を描いているとは思っていなくて、描いているときには結構具体的なイメージを思い描きながら描いているのですが、あまりはっきりした具体的な形を描いてしまうと自由に空間を構成することが出来なくなるのでそれは避けていると言うことで、結局抽象的な表現になっているのです。
 それでも抽象表現の良いものに出会うと、我が意を得たりの感動に大いに浸ることになります。
 私はこの2日に千葉県の佐倉にある川村美術館に行ってきました。第日本印刷社長の3代に亘るコレクションを展示しているので、古典的な日本画などや、レンブラントの肖像画の傑作などもあり、モネやルノアールも良いものがあるのですが、ポロックやステラなどの20世紀後半のアメリカの抽象表現主義(アクションペインティング)以後のコレクションが大変充実していて、最大の見ものになっている美術館です。
 目下その中に大きな一室をとって特陳されているのが、マーク・ロスコのシリーズ連作20点あまり。その部屋に入って四周を彼の作品に囲まれると強いインパクトを受け、抽象表現の可能性の大きさを感じさせられました。抽象の時代は終わったとか、抽象表現には限界があるなどという人が居るようですが、具象だってこれほどの感動を伝えられる作品がどれだけあるのかと思います。彼の作品と私の作品や制作態度は全く異なりますが、大きな自信を与えてもらえました。
 話は変わりますが、北朝鮮という時代錯誤的専制独裁国家が、その独裁者をたたえるために飢えに苦しむ自国民をないがしろにして、大きな打ち上げ花火を打ち上げて騒いでいます。それがわが国の上空を無断で通過する軌道を通ったということは、まことに失礼千万な話で大いに抗議しようと言うのはわかりますが、ちょっと騒ぎすぎではなかったかな。迎撃態勢をこれ見よがしに取ったりしたけれども、もっとそっとこじんまりと済まされなかったのかな。上空を通過されたとしても領海や領空を侵犯されたわけではないので、国際法上ではどうにも対応できないはず、それも正常な国交の回復されていない国が相手では。それに派手に宣伝された迎撃態勢には、相当の国費が無駄に消費されたに違いありません。
 政府をはじめ保守陣営には一生懸命こぶしを振り上げて見せて、これを機会に再軍備への傾斜を深めようとする意図があるのではないかと心配します。平和外交には限界がある。軍事力を背景にものを言ってみたいという気分が、この事件で助長されねば良いがと危惧します。力を背景にした外交が結局泥沼にその国を追い込んだ歴史はどこにでもごろごろ転がっているのに、またそのわだちを踏もうという愚行に走ることにならぬようにご用心ご用心。問題児はどこにでもいて迷惑な存在ですが、子供相手に喧嘩などしない大人の態度を保持したいものです。

2009年3月23日(月)
私の履歴書

 このところ暇をなときには自分史「私の履歴書」の校正をしている。と言っても出版するつもりなどは無くて、十数年前に書院のワープロで書いたものをプリントしたものから読み取りソフトでワード化したものがあって、それが読み取りのときにところどころ誤記をしているので、校正していると言うだけのことだ。
 書いた当時、60歳を迎えるころで既に私の記憶のどんどん薄れていくのに気付いて、過去の記憶を少しでも文章にとどめておくべきだと思い立ち、幼少時からの記憶を辿りつつ、残っている記憶のイメージをできるだけ多く書き出してみたのが、40字40行で170枚を超えていた。
 久しぶりに読み返してみると、既にこの間に又多くの記憶の消え去っていることが分り、ひとつひとつの場面を懐かしく思い出す。書いておいて良かったなと思う。
しかし残念ながら大学卒業して上京し中学教員になった辺りまでで終わっている。
 しばらくしてから続きを書こうとしてみたがすでに記憶が薄れていて、又文章を書く力も落ちているのがわかって、やめてしまった。近頃もふと過去の記憶が蘇ってくることがあると書きとめておこうと思うのだが、わずかなイメージだけでその周辺の具体的なことがぼやけていて支離滅裂になってしまうので文章にならない。
 家内をはじめ兄や姉や友人たちと話していると、過去のことをよく覚えているのに驚く。私の記憶だけがこんなに早く消滅しているのかと思うと、ボケの進行が人並みはずれて早いのではないかと不安になる。実際近頃固有名詞の類を代表として、ちょっとしたことでも思い出すのに一々苦労し無ければならなくなっている。困ったことだ。
 それにしても「履歴書」のお陰で忘れていた自分の青少年期の記憶が蘇ると、何かまぶしいような感じがする。そのころの自分が何も分らずに右往左往していた様子を思いかえして、いとおしむ気持ちが湧く。空気や陽光や空や草木などの自然の色彩も、今より鮮やかだったように思える。

2009年3月12日(木)
続けざまに

 汎美展の展示の翌々日5日には、汎美の古い仲間の告別式があり列席した。見慣れた顔の写真が祭壇の上で笑っていた。
 翌6日には親しい隣人の御主人が脳梗塞で倒れられた。そしてその夜郷里の仙台から長兄が倒れて、救急車で病院に送られたという電話を受けた。
 一昨日隣人を病院に見舞った。奥さんが付いていて声をかけるとうなり声で反応するが、眼は開かない。脳の半ばが壊死しているそうだ。
 昨日は仙台の病院に兄を見舞ったが、こちらは口や鼻にパイプをつながれて呼吸はしているが呼びかけても一切反応は無い。だんだんと足や腰が弱って来ていて、ボケも進んできていたそうだが、この一月の間に急激に体が弱り6日の夕方に突然心肺停止に陥ったとか。青年期に患った肺結核が再発して肺機能を低下させたのが主な原因ではないかと言われているそうだが、今は植物人間状態で徐々に全身的な衰弱が進んでいるとのこと。

 それぞれの人の思い出も交叉するがまた、このようなことが続くと生から死への移り変わりと自分自身の末路をも考えざるを得ず、深く気がめいる。意識を失ってもなお続く眠りの中でどのような夢を見るのか。そしてそれらの夢も記憶されること無く、無に帰してしまうにちがいない。そしてその先に大きく口を開く虚無。
 付き添っていた姪の夫が、車で郊外の私たちの旧居の辺りまで回ってくれた。ご多分に漏れずその辺りもすっかり変わっていた。テレビも無い青春期、無為のうちにさ迷い歩いた田舎はもうすっかり都会に侵食されていた。
 仙台駅から旧友の一人に電話をしてみたが、奥さんが出て、彼も重い病で臥せっていて、声を出せないと言うことだった。

2009年2月24日(火)
結構なことです

 ノーベル賞の物理、化学4人の受賞に続いてのアカデミー賞のダブル受賞。明るいニュースはスポーツだけと言われてきた暗い時世に、文化面でも国際的な高い評価をこの国が続けて受けると言うことは結構なことだ。経済大国ではあっても、文化に金を使わない国、教育面でも文化教育が軽視されている国と思ってきたが、結構才能は豊かでそれぞれのところで育っているのに違いない。先日たまたま芸大の卒展とムサビの院生の卒展を覗いたが、有能な若い人たちがひしめき合っているような印象を受けた。これが順調に育ってくれればと思う。
 ところで今回の授賞映画、いずれも見ていないので内容的なことに関してはまだ言えないが、二つとも死とか終末とかに関わる作品と言うのが気になる。それだけ今の時代が終末観に満たされていると言うことなのだろうか。報道で垣間見たアニメ作品の一場面には孤老の孤独な営為が描かれいるようで、いつかわが身と思うと身につまされるものがある。「おくりびと」のそれらからも身近になりつつあるわが身の死
に思いを馳せさせられてしゅんとなる。
 無から生じたものが無に帰するのはごく当たり前のことと割り切って考えようとするが、なかなか簡単には行かない。そのように考えようとするとたちまち、慣れ親しんだ有の世界が恐ろしく魅力に富んだものとして立ち表れて、何か別の解釈は無いものかとの方向へ思考を導いてしまう。眠りと同じと考えても、再び目覚めぬことを思うとそこにはどうしょうも無い悲哀とも不安とも恐怖ともつかない空虚感が生じて気持ちを萎えさせる。
 そのような虚無感からの救いを求めて各種の宗教が生じたのだろうと思う。あの世とか天国と地獄とか極楽とか、あるいは輪廻転生とか。つまりは生命不滅の神話である。信仰者は神によって救われる生命のあることを信じることができるということで、確かに幸せであるにちがいない。
 しかし考えてみれば宇宙そのものが無から生じた有である。無限に広がると言うことの可能性を考えるだけで色即是空、空即是色。物質を構成する根源的な素粒子の実像は結局エネルギーとか重力とかの渦でしかないのではないか。つまりは無であろう。となればこの宇宙もいつかは無に帰るに違いない。その巨大な宇宙のごくごく片隅の一辺の地球にごく短時間の間生じる生命などは全くたまたまの有であって、もとの無に帰ること、至極簡単でささいななことであるに違いない。
 そのような死についての思いが生じると、ますます有の世界つまり生に対するいとおしさが募る。苦労も多いが喜びも多い生である。その気になって探せば世界は美に満ちているし愛し愛されることもあるだろう。そのような生を故なく断ち切られる人たちの悲しみが身にしみる。戦争や犯罪などの暴力や事故や災害などで、今このときにでも多くの命が失われていく。絶望や病苦からの自殺も後を絶たない。
 折角たまたま生じた生の世界だから十分に味わうべきである。地獄の脅しが無くても、自らの生をいとおしむ気持ちを思えば他人の不幸を喜んだり傷つけたりするような言動は取れないはずであり、そこに自ずとモラルが生じるはずである。。

2009年1月8日(木)
お正月

 今朝門松や鏡餅を片付けた。昨夜は七草粥も食べた。お正月が終わったと言うことだ。明日は久しぶりに雨の予報だが、暮れから続いた好天続き。お陰で異常乾燥から火災が多発し、焼死者も多いとのことだが、身の回りはおよそ穏やかなお正月だった。庭の水道も凍らず、寒さもたいしたことは無い。息子達も来て、1日には家族そろって高幡不動で初参り。2日は上の息子の車で三浦岬までドライブ。3日には一人で地元の神社にも参り、5日は久米の水天宮で達磨を買ってきた。ほぼ例年通り平穏無事に年の瀬は過ぎ去ったと言うことだ。
 しかし新聞やテレビでは、ガザの市民の悲惨な状況が伝えられている。我々には地理的にも遠くて、対岸の火事に違いないのだが、一般市民を巻き添えにするイスラエルの攻撃には怒りを覚えるし、多数の子供達が犠牲になっているような状況を思うと胸が痛む。パレスチナとイスラエルの確執の根は深く、長い歴史の中で積み重ね増幅されてきた憎悪の応酬があるから、根本的な解決は相当な時間をかけても難しいのではないかと思うから、なおさら救われない気持ちになる。イスラムとユダヤ教との対立はユダヤに同情的なアメリカをはじめとする西欧諸国と中近東をはじめとして世界中の広がっているイスラム教徒との対立の火元となっており、テロやアルカイダやタリバーンなどなどの言葉に表される世界的な確執を引き起こして、21世紀を20世紀以上の血塗られた世紀にしてしまいかねない状況だ。
 お正月には初詣もして御神籤に一喜一憂するような私だが、宗教と言うものには基本的に懐疑的な気持ちでいる。神が人間を創造したなんてことは嘘で、神は人間による創造物ないし想像物であろうと思っている。宗教と言うものはもとは死の恐怖と底知れない宇宙の神秘から逃れるためのアヘンの役を担って生まれたものではないかと思うし、権力を絶対視させモラルを強制するために利用されてきたものだろうと思う。天上に絶対者を置くことで真善美の判断の基準を設けることができるのだから。
 人間の創造物だから人間集団ごとに神が異なることになり、集団と集団の確執は神と神の確執という大義名分をもつことになる。イスラム文化圏とユダヤ及びキリスト文化圏の対立や、イスラムとヒンズーなどなどの対立が、これまでの歴史の上でどれだけ多数の死者を生じさせてきたことか。
 幸い日本人は宗教に関してはあまり固執しない人種のようで、近現代においてはその辺の確執が表面化することが少ないのはありがたい。私などはそのような日本人の典型かもしれなくて、お正月は神道の習慣に従って過し、平常でも神社の前を通りかかればとりあえず拍手打って参拝したりするのだが、葬式となると仏式であろうとキリスト式であろうとかまわず参列してお経を聞いたり賛美歌を歌ったりしていて、クリスマスにはお隣の教会のミサにお付き合いで参加もしている。
 宗教行事やそれに伴う伝来の習慣は、多くの場合古人の得た知恵の表現になっていて、その背景には自然への畏怖があると思うし、それぞれのモラルのバックボーンにもなっていると思うから尊重する。がしかし一定の神や仏を絶対者として崇めるような気にはなれない。そんなことになると精神の自由と言う貴重なものが失われる。私は自由人として生きてきたし、これからも生きて行きたいと思う。
 クリスチャンもイスラム教徒もユダヤ教徒もモラルのよりどころとすることに留めて、他の宗教に対してもその習慣を尊重するようになれば良いのだが。同様に、 宗教と共に確執の元になる民族対立についても、大方はちょっとした生活習慣の違いが元であるのに過ぎないのだから、お互いを尊重し思いやる気持ちさえ大事にすれば無くなることだと思う。

2008年12月31日(水)
年の暮れ

 良いお天気の日が続いていて、明日からの三が日も続くらしい。もっとも昨日までは穏やかで暖かかったが、今日からは北風の圏内に入るとのことだが。
 私は28日に家の窓と網戸全部を清掃し、昨日は全室の掃除をした。庭の餌台には雀やシジュウガラやメジロが訪れ、今夜は息子どもも来て久しぶりに家族が揃う。明日は昨年同様そろってどこか初詣にでも行こうか。と言うことで表向き我が家の年の瀬は、例年と殆ど変わることなく、無事平穏に過ぎて行こうとしている。
 しかしテレビや新聞はこの今においても、ガザでイスラエルの攻撃により多くの死傷者が出ており、イラクやアフガンでの自爆テロなどの血なまぐさい報道に世界は満ちていると伝えている。ジンバブエでは億倍に達する猛烈なインフレが進行しており、アフリカを初めとして貧困と飢餓が世界各地で猛威を振るっている。温暖化の影響で起きる異常気象による旱魃や洪水などの報道も後を絶たない。 国内に目を向ければ、突然のように降りかかってきた不況の嵐の中に巻き込まれて呻吟する人たちの姿がある。この寒風下の年の瀬に職を失い、住む家も失うような人たちの気持ちを想像するだに慄然とする。家族を抱えて路頭に迷いかねない状況に追い込まれたらどんな気持ちだろう。私は公立校の教師と言う固い職業と年金のお陰で、幸いこれまで食うに困るというような経験をしたことが無い。受け持ったクラスの生徒たちと合わずに、一年間苦い眠れぬ夜夜を過した経験くらいが関の山であった。
 どうにかならないものかと思う。どうして職を奪わねばならないのかと思う。ワークシェアリングとか言う方法もあるだろうし、だいたいこれまで多大の利潤を上げてきたはずの企業なら、相当のたくわえもあるのではないのか。経営者たちは必要以上の富を持っているだろう。それなのに平気で従業員を路頭に迷わせ、明日からの暮らしを奪ってしまうようなことがなぜできるのか。血も涙も無い冷酷な態度を良く取れるものだなと思う。
 労働組合は何をしているのかと思うし、政府、政治が一体何をしているのかと思うともどかしい。国中にゴマンといるはずに経済学者たちも全く無力で手をこまねいているようだ。経済学とは何のためにあるのかと思う。もっとも根は資本主義そのものの矛盾にあるらしい。その弱点が最もあらわな形で表れてきたのが、今回のような大きな不況と言うものらしい。数回前にこの日記に書いた不安が現実化したようだ。根に資本主義自由主義経済の暴走があり、自己の利益のみを追う人々によって原油高や円高や各種の投機などが行われていて、何か不自然なアガキのようなものが感じられていたのだが結局破綻が起きた。もともと景気の持続に無理があったのに違いない。資本主義そのものの体質に問題があるのに違いない。一方に環境問題があって無制限な消費の高揚などはもう望めっこないのに幻想を振り撒いて、無理に景気の高揚を追い求めた結果がこれだったのだろうと思う。
 何かもっと上手い経済運用の方法は無いのか。リーマンブラザースの経営者や管理職や職員は過大の金額の退職金と年金を得て退職したと聞いている。まだまだ食うに困らないだけでは満足せずにただひたすら利益を追求してきた億万長者たちも、多数この世にはいるはずだ。富を平均化する努力が少しでも行われれば、とりあえず路頭に迷う人々はいなくなるはずである。環境問題の改善と平和の希求を目標にする限り、消費は制約され、今後だんだんと経済は縮小の方向に向かわざるを得ないだろう。その流れの中で、今日食うにも困るような人たちを作らないための方策を考えるべきではないのか。
 すでにわずかな金額を得るために、人を殺すような犯罪の多発の兆候がある。社会そのものに暗黒化の気配がある。派遣であれ、非正規であれ、冷酷に明日の暮らしが立たないような人を作り出せば、それにも増して冷酷な感覚に追い込まれる人間をも作り出しかねない。企業は安易に首切りを行うべきではない。その対社会的な責任を考えるべきだ。

2008年12月2日(火)
山陽・山陰

 司馬遼太郎の「世に棲む日々」のお陰で山口の辺りには以前から関心があったし、私の旅の経験においては山陽も山陰もまだ空白地帯であったということで、4日間でぐるっと周ってくるツアーに家内と参加してきた。あまり欲張った内容であることから心配していたとおりで、それぞれの見所での時間が短くせわしない感じではあったが、それらとは別の収穫が幾つかあって結構楽しい旅になった。
 一つはちょうど時期が良くて、中国山地一帯が紅葉の盛りであったこと。これは道すがらのバスの車窓からたっぷり楽しめた。関東の山と異なり人工の針葉樹林が少なく、雑木林の樹種も大分異なるのではないかと思われるのだが、実に明るい鮮やかな黄とオレンジ色で山々が覆われ、見るものの気持ちを浮き立たせてくれる。また、この4日間の天気予報は降雨率は100%近い日ばかりで最悪かと思われたのだが、山陰は天候がめまぐるしく変化する地域とのことで、今降っていたかと思えば晴れ上がり、晴れていても突然降りだすと言う具合で、要所要所では晴れて、むしろ雲の動きや虹などが面白い景観を作ってくれていた。そして、最悪の予報だった二日目には低気圧が接近していたのだが、そのお陰で車窓からの日本海の荒海を堪能することが出来た。その上にもう一つこのバス旅を彩ったのは、バスガイドのおばさんの大活躍であった。よくまあ次から次へと話が続けられるものと思われ、その記憶力にも驚かされたが、その上アドリブのギャグあり歌あり怪談などの物語あり、もう50前後かと思われる歳なのに疲れを知らずに4日間しゃべり通して、一刻も乗客を退屈させまいとするさまは見事であった。

 一日目はお昼ごろに羽田を発って広島空港に降り立ち、まずフェリーで宮島に渡って厳島神社。雨もよいでうすぐらいなか一通り見学して、次の岩国に向かった頃には既に夕暮れが迫り、錦帯橋は雨中で真っ暗。ライトアップはされていたが簡単なもので、足元のおぼつかない中を家内と二人でとにかく向こう岸まで渡ってみた。萩の温泉ホテルに着いたのは8時過ぎで、荷物を部屋に入れるとすぐ夕食。早々にベッドにもぐりこんだ。翌朝6時に起きてみると荒れた雲の動きなのだが青空も点点と見えて朝食後にすぐ裏の海岸に出てみれば、日の出の前後で内海の光景と紅葉の山と陰影の強い雲の動きが面白い風景を創っていた。
 二日目のコースはまず萩焼きの工房、次いで武家屋敷街の見学。穏やかな町並みで、ここで維新の志士たちが育ち、またいろいろと奔走したりしたかとの思いは、次の松下村塾と松蔭神社で更に強められる。松蔭も晋作も30歳にいたらずに世を去っている。にもかかわらず回天の大事業の基礎を築くのである。それに引き換えてわれ等が時代は無駄に歳ばかり食って何もなさずに終わる人ばかり、政治の世界も経済界も人材不足の、老人の時代らしい。村塾は実に小さくみすぼらしくて、松蔭という人の人格は如何なものだったのか、こんなところで3年くらいの僅かな期間に、多くの人に影響を残して新時代へを迎えさせるのである。思想家と言うよりも彼の教育者としての、豊かな人格を思わずにはいられない。次に向かった津和野は濠の中の鯉と、ちょっと覗いた教会の中の情景くらいしか印象に残らなかった。昼食はここでとったのだが、はてどのような店で何を食べたのやら。ここからは長いバスドライブで、途中浜田で一休みした以外は車窓の景色を楽しみながら一気に出雲まで。ここまでは降ったり止んだりで日もしばしば射してくれていたが、出雲大社は雨の中で、期待していた本殿の大きさも拝殿の向こうに屋根が見えるだけでは実感できず、印象の薄いものになった。玉造温泉の国際ホテルは宍道湖畔にあったが部屋のトイレが旧式だったりしたせいか、あまり良い印象はない。朝、雨の中を裏の湖岸に出たときに、宿の人がまくパンくずに鳶を初めとする鳥どもが渦巻くようにして一斉に飛び掛ってくる光景だけが印象に残った。
 三日目は宍道湖沿いの道から松江市内に入り松江城を車窓に見、次いで中海に浮かぶ大根島の由志園の庭園の見学。この島は朝鮮人参が特産、本家の韓国にも輸出しているとのことでそれ関連の品を売る売店があるが、広い回遊式庭園が見事で、丁度晴れ上がった日差しを受けての楓紅葉が盛り。もう一つ牡丹園が見ものとのことだったが、牡丹の館とか言う一室に入ってびっくり、季節外れのはずなのに牡丹の花が白赤黄見事に色鮮やかに咲き誇っていた。湖畔から山間に入って足立美術館。ここは美術館としてよりも巨大な日本庭園の美しさで知られる。手入れの行き届いた岩組みや松やつつじなどの植え込みの彼方に中国山地の紅葉の山並みが重なりなかなか見事であった。展示作品は大観を初めとする日本画家のもので、院展系の人が多いと思われたが球子さんのものは無く、穏健な作品が多かった。むしろ陶芸館の魯山人の作品群のモダーンさが楽しかった。幸いここでは快晴で紅葉もきらきらと美しかった。昼食はこの脇の店で薬膳料理と言うことだった。ここからまた長いバスドライブで鳥取砂丘に向かう。途中ガイドさんが奇声を発したのは「大山が見えるー」。この時期滅多に姿を見せないはずの山が、ほとんど頂上までの姿を見せていたのだった。高曇りでところどころに明るい部分もあったが空は暗かった。その空を藍色の山が突き上げていた。鳥取砂丘では風が出てきてその雲が動いていて、時たまこぼれる日差しに砂丘の陰影の変幻が面白かったし、青黒い雲とオーカー色の明るい砂の色とのコントラストも美しかった。足腰を心配していた家内も頑張って馬の背まで登り、広大な日本海を見渡すことが出来た。風が出たため浦富海岸での遊覧船は取りやめになり、そのかわりバスが予定コースを外れて近頃人気の山陰本線余目鉄橋の下をくぐってくれた。一見頼りなく細い鉄骨で組まれた高い鉄橋は見る人に一種の悲壮感を感じさせるらしい。その夜の宿泊は城崎温泉。温泉街から少し外れたホテルで部屋が広くて感じが良かった。夕食後私一人で外湯巡りに出かけてみた。七つのうち三つだけで時間切れになったが、温泉街の雰囲気も良く、結構面白かった。
 四日目は朝から強い雨だったが、南下するにつれて晴れて、出石ではときどき小雨。最初に入らされた蕎麦屋で名物のそばの講釈などを聞かされたお陰で時間が少なくなり、失政の責めで腹を切ったという家老の屋敷を覗き城跡をちょっと見ただけ。次に回った天橋立ははじめ明るい曇り空で、リフトで展望台まで登った時には見晴らしも良かったが、間もなく降り始めて観覧車に逃げ込んでも寒くて困った。ロープウエーは混んでいてなかなか乗れそうに無かったから、またリフトで下った。傘を差していたが膝から下は大分濡れた。少し橋立の方へ歩いてみたが時間になり、戻って昼食。高速道路をバスが南下するにつれて天気は回復。紅葉の中国山地を横切って姫路へ。白鷺城の白壁は陽光を受けて輝いていた。二の丸から入り長い廊下を本丸へ辿り、六階建ての天守閣の頂上まで家内ともども辿りついた。階段が急で登りにくかった。下るころには夕日で、バス停に戻ったときには白壁はばら色に染まっていた。広島空港でラーメンを食べて8時45分発、羽田着は10時、リムジンバスで所沢まで来てタクシーで我が家に帰り着いた時は夜半を回っていた。

2008年11月14日(金)
今気になっていることから

 一体2兆円と言うお金がどこから出てきたのだろうか。それだけのお金があったら、もっと使い道がいくらでもあるだろうにと思う。一時金で渡されてもたちまち消えるか貯金に回すかくらいで、庶民の生活の向上には一向に役に立ちそうもないし、景気回復にも、ほんの一時的な影響がわずかにあるかどうかというくらいのものだろう。本当に暮らしに困っていて食うや食わずの人たちはその時はちょっと助かるだろうけれども、それもつかの間のことだ。また年収1800万円以上は辞退してもらうとか言ってるけど、これも庶民感情とはかけ離れた数値。今年収1000万を超える人は何パーセントいるやら。とにかく世論調査でも65%も反対していると言うように、これは絵に描いたような愚策に見えるのだが、与党の二つはすっかりその気になって政策として進めていくらしい。配布方法などもイキアタリばったりの無責任さで、当事者の地方自治体の現場は大迷惑だと憤っている。こんなことで日本の庶民はだまされるのだろうか。選挙対策としても最低ではないかと思うのだが。
 もう一つ今の気になる話題。空幕僚長とか言う自衛隊のトップの一人がとんでもない識見の持ち主だったことが分っての騒ぎ。この問題の根が結構深そうで、自衛隊全体にあのような歴史を勝手に良いとこ取りで解釈しての、国の方向を過たせかねないような偏向思想がはびこっているらしいと言うことは考えてみれば結構怖い話である。とにかく彼らは強力な暴力機械を保持している武装集団であり、文民統制とか言っていてもへたするとそれでは押さえきれないで暴走をしかねない集団だと言うこと。それがあのような危険思想に凝り固まられたら、オウム真理教などよりももっともっと大きくて怖い集団が出来上がる。武力を背景にした軍部の暴走が、この国を破滅させた第二次大戦の教訓を忘れてはいけない。
 話は変わるが、和田義彦という名前を覚えている方はいるだろうか。たかだか二年前にイタリアの画家の作品をそっくり真似した作品で、芸術選奨まで獲得していた絵描きである。あの時は散々弾劾されたのに、一昨日の夕刊を見てこの名前が堂々と出ているのに気づいて驚いた。近日中に大規模な個展をすると言う広告である。銀座きっての大きな画廊(セントラル美術館)を借り切ってやるのだからたいしたものだ。大新聞に広告を出すのも含めて、よほどの金がかかっているに違いない。画商かパトロンか、よほど大きなバックアップがあるのではないかと思う。もうほとぼりが冷めたとでも言うことなのか。それより、このような手先だけ器用な絵描きをバックアップする日本の画壇と言うものの底の浅さにうんざりさせられる。彼は確かに技術的には上手い。しかしオリジナリティー(自分独自の表現世界)を持ち得なかったがゆえに、剽窃に走らざるを得なかった手先だけの職人である。そのような絵描きは今この国には確かに五万といて、結構画壇でもてはやされているものも多い。
 ときあたかも大規模ピカソ展開催中。ものすごいデッサンの技術を身につけていながら、それを誇示せず、絶えず新たなオリジナリティーを求め続けたがゆえに、20世紀最大の画家といわれたひとの仕事に比べて考えてみて欲しい。

2008年11月9日(日)
横浜トリエンナーレを見てきた

 ウラウラと晴れ上がって、豊かな日差しの中で弱いかすみのベールをまとった港の景色は、そのまま印象派の絵の如しでよい気分であった。
 しかしトリエンナーレのメインの3会場をぐるっと周っての感想は、曰く言いがたし。最後に見た中西夏之の作品だけが唯一の絵画の展示で、あとはインスタレーションや映像。大方意味ありげな作品群でグロテスクなものやユーモラスなものもあったが、何を言わんとしているのか一目ではわかりにくいものも多かった。なんだか面白いなくらいか、性的本能的な興味だけしか感じなかったものなど、とにかく困ったことに、どうにも内面的な感動が希薄なのだ。セザンヌの一点に感じるほどの感動をどこにも見出せなかったのだ。強いて言えば中西の白と紫のキャンバスくらいか。
 そこで思うのは、私が追求しているアートとこの展覧会に出品している作家やキューレターたちの追及しているアートとが全く別物なのではないのかということだ。今後のアートの流れは、私の制作とは全く異なる方向に流れていってしまうのではないかと言う不安だ。見物しながら(鑑賞とは違う?)アートとは何なのかという疑問が絶えず付きまとった。一つここらでそれについての考えをまとめておかねばならないかと思う。

 どのような角度から考えるべきか。古典的な業(わざ)や術の巧みさはもう考えの外だと思うが、私が描くとき考える創造性や造形性や表現性ももう埒外なのだろうか。私は新たな空間の創造を狙い、そのために与えられた空間を造形的に充実したものに作り変えることと、そこに込めるべきものとしての自らの内面的な感動や衝動などの表現を制作の基本に置いている。わずかにこの表現への衝動を出発点にしているらしいと言う点では横トリの作品群も私の制作態度と接しているのかもしれないとは思うのだが。
オブジェやインスタレーションにおいては空間的な造形性への配慮はあまり感じられなかった。映像作品についても既成の映画や芸術写真の一場面ほどの造形性を感じさせられるものはなかった。確かにグロテスクな映像のいくつかなどは衝撃的で強いインパクトを与えてきて、私の内面にもなんらかの傷跡を残してはいるが。
 言葉を並べた作品もあり、言葉で説明している作品もあり、しかし美術ならやはり色彩とフォルムだけで表現して欲しいなと思う。説明されてあるいは必要以上の深読みの結果ヤットその表現意図にたどり着けるようでは美術作品ではないのではないかなと私は思う。それでは現代アートは理解できないよと言われればそれまでだが。
 大学で美学の授業で、芸術作品は人の手によって作られた美的なもの、と定義されていたのではなかったかな。ただしその「美的な」の意味がいまや途方もなく拡大してしまっているのかもしれないが、何らかの意味で見る者に美的な感動を呼び覚ますと言うことはやはり大事なことではないのかな。

2008年10月27日(月)
円高・株安

 我々素人には何の事だかさっぱりわからないが、何かとても不安な状況が起こっているらしい。前々回書いたようなジリ貧経済のはずが、どこかで箍が外れたらしく一気に落ち込んでしまったと言うことか。きっとここまでにすでに無理が積み重なっていたのでしょうね。いろいろ矛盾を抱え込みながら誤魔化し誤魔化し景気を維持してきたのがもう誤魔化しが効かなくなったのでしょうか。
 アメリカと言うところは日本に比べたら国土が広いし農業などの基礎産業もしっかりしてるし、世界の警察を自認しているくらいで、それを支える軍需産業という巨大産業があるから世界的な不況でもびくともしないのかと思っていたら、サブプライムとやらをきっかけに経済がガラガラと崩れ始めた。それが世界中に影響を及ぼしてきて、日本なんて食料をはじめ原材料の大半を輸入に頼っている小国なんかは、大波を食らった小船のような頼りなさだ。
 私自身は、もともと賭け事には弱いと自分で決めていたから、わずかばかりの投信だけで株には手を出していなかったから今のところは被害が少なくて済んでいるが、銀行が破産するような恐慌にでもなったらどうしましょうか。
 投機マネーのお陰で起きた石油の値上がり辺りからその欠陥が見え見えに成っていたのだが、株やドルを売りまくるのも目先の利潤を追い求めるのも人間。
資本主義経済とはかくも不安定なものですか。
 もともと資本主義は度重なる戦争のお陰でその体制を維持してきたようなものらしい。戦争ほどの大量消費は無く、地球上のどこかで起きている戦争のお陰で金が回転して利潤を生み更なる消費を生み、地球の他のどこかで好景気を生み出すのが常だった。今のようにだらだらと細く長く続く対テロ戦争では人的な資源を浪費するばかりで、大規模な空襲も海戦も無く、一気苛性の大消費は起きない。そこへもってきて環境問題が重くのしかかってきて消費を冷え込ませている。そんななかで景気を維持しようとすること自体に矛盾があり、無理を重ねることになったのじゃないかなと思う。
 だれか資本主義に代わる経済制度を発明してくれませんか。

2008年10月24日(金)
ピカソ展

 一昨日新美術館とサントリー美術館の両方、見てきました。感想はブログ「抽象絵画のすすめ」(http://dantuku.blog59.fc2.com/)に書きました。

2008年9月30日(火)
景気?

 良くなるわけがないだろう。環境問題で消費は頭打ちどころか低下が目に見えているし、資源のない国のことだし、少子化で人資源も低下の一方で、技術立国も中国やインドにどんどんお株を奪われていっているし。この国の景気は基本的にジリ貧傾向を続けるしかないのではないかと思う。地球温暖化の差し迫った脅威を思えば、世界経済も限界が見えている。まさか一発大戦争でも起こして一気に大量消費を回復させるというわけにも行くまい。
 それなのに政権を手にしようとする政治家どもも言い立て、人々も、世論調査もこぞって景気の回復を訴えている。
 しかし、不況の波の中で、自分の命を食い物にするようなひどい労働条件で働きながら、その日の暮らしにも困るようなワーキングプアや、疲弊する農漁業者が増えている一方では、労せずして巨額の富を動かしているような人種もまだまだいて、数百億の資金で建てられた高層ビルの建ち並ぶ都会の不夜城が存在している。景気回復を望んで無駄な努力をする前に、富の公平化を考えるべきではないのか。
 無理して景気を押し上げようとすれば、えてして、上部ばかりに眼が行って、底辺がますます見捨てられる結果になるのではないか。小泉改革とかの流れがそうだった。限られたパイの中でどこかを持ち上げようとすればどこかがへこむ。このところの長期好景気とか言われた状況も、格差の拡大によって支えられていたとしか思えない。裾野が疲弊すればいつかは頂点が崩れる。アメリカの経済混乱の元がそうではなかったのか。
 限られたパイの中では富を平等に配るのが一番良いはずだ。
それは資本主義の社会では難しい、社会主義の理想ではないかと言われるかもしれない。社会主義は人間の本能や欲望に眼をつぶって失敗した。プロレタリア独裁は独裁者も弱い人間でしかなかっため、非人間的な社会を現出してしまった。確かにそうだが、もう一度社会主義の夢に目を向けても良いのではないか。
 パイをこれ以上膨らまそうと言う夢はもう不可能と判断すれば、同じ大きさのパイを上手く配分する方が今となっては、可能性としては高いはずだ。そういう発言をする政治や経済の専門家が出てきても良いではないか。
 以上、このところの政権交代の空騒ぎを見ながらの、門外漢の勝手な思い付きである。

2008年9月2日(火)
やっぱ

 安倍が投げ出した昨年の9月に、この日記に書いた、そのまま同じことを書きたい気分。そのときは、こんな状況で後継者が出るのかねと思ったが、奇特なことに福田が火中の栗を拾って内閣を組織した。しかし結局火中の栗はやはり火中の栗には違いなく、行き詰って投げ出したということだ。こんなことを繰り返すようでは、自民党政権はすでに末期症状にあり、誰が出ても救いようは無いのではないかなと見える。
 いっそ、さっさと解散総選挙で、政権を野党に渡してしまえばよい。自民党もしばらく野党を経験してみたほうが、立ち直れるかもよ。もっとも野党第一党の民主党ももともと寄り合い所帯だから、あまり期待はできない。小沢と言う人も、
言うことがはっきりしない人のようで、好きになれない。政界どちらを見ても頼りない人ばかりだ。さすがは、民主主義の総本家のアメリカで、オバマやマケインなどやる気漫漫の人がいるのが、うらやましく見える。

って、
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